小林美香のエッセイ「写真のバックストーリー」第25回ウィン・バロック
ウィン・バロック "Navigation Without Numbers"
(図1)
Wynn BULLOCK
「Navigation Without Numbers」
1957年
ゼラチンシルバープリント
17.8x23.0cm signed
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(図2)
「Navigation Without Numbers」本の表紙
画面中央に置かれたベッドの上に、腹ばいになる赤ん坊。画面左側には、ベッドの端に腕をかけてうつ伏せにもたれかかる女性。部屋の壁は、表面の漆喰が剥がれたり染みがついたりしており、調度品と相まって室内全体に古びた雰囲気が漂っています。窓から外光が差し込むほの暗い部屋の中で、ベッドの敷布を背景に裸体の女性と赤ん坊の体が白くくっきりと浮かびあがっています。
作品のタイトル「Navigation Without Numbers」とは、窓敷居の上に置かれた本(Joseph B. Breed著の数学と科学に関する論文をまとめた本だそうです)の題名に由来します。(図2)私は数学や科学の研究分野に疎いので、この本の内容に則した正確な邦題に飜訳することはできませんが、作品のタイトルを日本語に直訳すると「無数の航行」という意味になります。この写真の中に描き出されている情景に照らし合わせて見ると、ベッドの上に腹ばいになっている赤ん坊の姿は、海原の水面に漂い、どこかに向かってもがきながら進もうとしているかのようにも映ります。ベッドの端にいる女性は、赤ん坊に向き合うような位置にいるのにもかかわらず、赤ん坊に視線を向けることなく敷布に顔を埋めています。そのことによって、人の間の距離が強調されています。赤ん坊だけではなく、この女性もまた手がかりのない状態でお互いに行く先を探し求めている、というふうに解釈することもできるかもしれません。

(図3)エリオット・アーウィット「母と子、ニューヨーク」(1953)
赤ん坊をベッドの上で撮影した写真といえば、エリオット・アーウィット(1928-)が、自分の妻と子どもをとらえた「母と子、ニューヨーク」(1953)(図3)のように、赤ん坊を慈しみ愛おしそうに見つめる情景をとらえ、親子の親密な関係を印象づけるような作品が思い浮かべられることが多いのではないでしょうか。しかし、この作品においてウィン・バロック(Wynn Bullock 1902-1975)は、赤ん坊と女性の存在やその関係を、謎めいて、ミステリアスな要素を含み持つものとして描き出そうとしており、そのことによって見る者をとらえるような印象深い情景が作り出されています。撮影に際してこのような演出を施した背景には、撮影当時の事情が色濃く反映されています。
当時ウィン・バロックは、家族とともにカリフォルニア州モントレーで生活しており、バロックはモントレー近郊のビッグサーで牧場を管理していたサンディという人物と懇意になり、牧場の中で写真を撮影していました。サンディは困窮する人々を助けるような心優しい人物で、モントレーの町で路頭に迷っていたホームレスの妊婦マリリンと偶然出会い、彼女を匿って牧場で数年間生活させました。この写真に写っているのは、マリリンと彼女が牧場に滞在している間に産んだ息子です。妊娠、出産に至る彼女が経験してきた苦境や、彼女がこの牧場で生活をするに至った経緯に想像を巡らせながらこの写真を見ると、「Navigation Without Numbers」という題名に込められた意味合いが、より厚みと奥行きを増してきます。


(図4)「マリリンと彼女の赤ちゃん」(1957)
(図5)「森の道を歩く子供」(1958)
バロックは、この写真のほかにも、彼女と息子をモデルに、「マリリンと彼女の赤ちゃん」(1957)(図4)や「森の道を歩く子供」(1958)(図5)という作品を撮影しています。マリリンと彼女の息子、バロックが共に森を散策する中で撮影された(図5)には、ようやくよちよちと歩きだしたばかりぐらいの小さな男の子が、高い木立に囲まれて、木漏れ日が差し込んでくるのを見上げている情景がとらえられています。(図1)では、古びた部屋の空間のなかにいる乳児の、明暗、テクスチャーのコントラストが際立たされていましたが、(図5)では、森の空間と男の子のスケールのコントラストが際立たされています。このようなコントラストの描き出し方に、バロックの作品に通底する生命や自然、光に対する考え方が反映されているのです。
(こばやしみか)
◆ときの忘れものでは下記の皆さんのエッセイを連載しています。
土渕信彦さんのエッセイ「瀧口修造の箱舟」は毎月5日の更新です。
植田実さんのエッセイ「美術展のおこぼれ」は、毎月数回、更新は随時行います。
同じく植田実さんの新連載「生きているTATEMONO 松本竣介を読む」は毎月15日の更新です。
「本との関係」などのエッセイのバックナンバーはコチラです。
小林美香さんのエッセイ「写真のバックストーリー」は毎月10日と25日の更新です。
飯沢耕太郎さんのエッセイ「日本の写真家たち」は、更新は随時行います。
荒井由泰さんのエッセイ「マイコレクション物語」は、毎月11日に更新します。
井桁裕子さんのエッセイ「私の人形制作」は毎月20日の更新です。
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ウィン・バロック "Navigation Without Numbers"
(図1)Wynn BULLOCK
「Navigation Without Numbers」
1957年
ゼラチンシルバープリント
17.8x23.0cm signed
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(図2)「Navigation Without Numbers」本の表紙
画面中央に置かれたベッドの上に、腹ばいになる赤ん坊。画面左側には、ベッドの端に腕をかけてうつ伏せにもたれかかる女性。部屋の壁は、表面の漆喰が剥がれたり染みがついたりしており、調度品と相まって室内全体に古びた雰囲気が漂っています。窓から外光が差し込むほの暗い部屋の中で、ベッドの敷布を背景に裸体の女性と赤ん坊の体が白くくっきりと浮かびあがっています。
作品のタイトル「Navigation Without Numbers」とは、窓敷居の上に置かれた本(Joseph B. Breed著の数学と科学に関する論文をまとめた本だそうです)の題名に由来します。(図2)私は数学や科学の研究分野に疎いので、この本の内容に則した正確な邦題に飜訳することはできませんが、作品のタイトルを日本語に直訳すると「無数の航行」という意味になります。この写真の中に描き出されている情景に照らし合わせて見ると、ベッドの上に腹ばいになっている赤ん坊の姿は、海原の水面に漂い、どこかに向かってもがきながら進もうとしているかのようにも映ります。ベッドの端にいる女性は、赤ん坊に向き合うような位置にいるのにもかかわらず、赤ん坊に視線を向けることなく敷布に顔を埋めています。そのことによって、人の間の距離が強調されています。赤ん坊だけではなく、この女性もまた手がかりのない状態でお互いに行く先を探し求めている、というふうに解釈することもできるかもしれません。

(図3)エリオット・アーウィット「母と子、ニューヨーク」(1953)
赤ん坊をベッドの上で撮影した写真といえば、エリオット・アーウィット(1928-)が、自分の妻と子どもをとらえた「母と子、ニューヨーク」(1953)(図3)のように、赤ん坊を慈しみ愛おしそうに見つめる情景をとらえ、親子の親密な関係を印象づけるような作品が思い浮かべられることが多いのではないでしょうか。しかし、この作品においてウィン・バロック(Wynn Bullock 1902-1975)は、赤ん坊と女性の存在やその関係を、謎めいて、ミステリアスな要素を含み持つものとして描き出そうとしており、そのことによって見る者をとらえるような印象深い情景が作り出されています。撮影に際してこのような演出を施した背景には、撮影当時の事情が色濃く反映されています。
当時ウィン・バロックは、家族とともにカリフォルニア州モントレーで生活しており、バロックはモントレー近郊のビッグサーで牧場を管理していたサンディという人物と懇意になり、牧場の中で写真を撮影していました。サンディは困窮する人々を助けるような心優しい人物で、モントレーの町で路頭に迷っていたホームレスの妊婦マリリンと偶然出会い、彼女を匿って牧場で数年間生活させました。この写真に写っているのは、マリリンと彼女が牧場に滞在している間に産んだ息子です。妊娠、出産に至る彼女が経験してきた苦境や、彼女がこの牧場で生活をするに至った経緯に想像を巡らせながらこの写真を見ると、「Navigation Without Numbers」という題名に込められた意味合いが、より厚みと奥行きを増してきます。


(図4)「マリリンと彼女の赤ちゃん」(1957)
(図5)「森の道を歩く子供」(1958)
バロックは、この写真のほかにも、彼女と息子をモデルに、「マリリンと彼女の赤ちゃん」(1957)(図4)や「森の道を歩く子供」(1958)(図5)という作品を撮影しています。マリリンと彼女の息子、バロックが共に森を散策する中で撮影された(図5)には、ようやくよちよちと歩きだしたばかりぐらいの小さな男の子が、高い木立に囲まれて、木漏れ日が差し込んでくるのを見上げている情景がとらえられています。(図1)では、古びた部屋の空間のなかにいる乳児の、明暗、テクスチャーのコントラストが際立たされていましたが、(図5)では、森の空間と男の子のスケールのコントラストが際立たされています。このようなコントラストの描き出し方に、バロックの作品に通底する生命や自然、光に対する考え方が反映されているのです。
(こばやしみか)
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土渕信彦さんのエッセイ「瀧口修造の箱舟」は毎月5日の更新です。
植田実さんのエッセイ「美術展のおこぼれ」は、毎月数回、更新は随時行います。
同じく植田実さんの新連載「生きているTATEMONO 松本竣介を読む」は毎月15日の更新です。
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