2012年11月28日東京新聞朝刊に<磯崎新の「低層」都庁案>という大きな記事が掲載されました。
師匠の丹下健三と争って敗れたプランですが、詳しくは平松剛さんの著書『磯崎新の「都庁」 戦後日本最大のコンペ』(文藝春秋)をお読みいただくとして、この記事の右下に刷り師の石田了一さんが刷ってコンペに出したシルクスクリーンが掲載されています。
磯崎新先生がシルクスクリーンによる版画制作を開始したのは1977年の「ヴィッラ」シリーズからですが、以来今日までほとんどの作品を亭主がエディションしてきました。
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1985年~86年にかけて展開された東京都庁の建築コンペは結局師匠の丹下健三が勝利し、高さ243メートル、1991年当時は日本一の高さの東京都庁舎が完成し、今にいたります。
このとき磯崎先生は「超高層はやらない」と断言し、「広場」と「錯綜体(リゾーム)」をキーワードに「都庁低層案」でコンペに挑みました。
これに先立つある時期から磯崎先生は建築コンペに提出する資料を石田了一さんによるシルクスクリーンに切り替えました。
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磯崎新「都庁コンペ作品より西立面図」
シルクスクリーン(刷り:石田了一)

東京都庁のコンペにも上掲の通り石田さん刷りによるシルクスクリーンが提出されています。このとき石田さんが突貫工事で手がけたシルクは全部で15種類。
紙サイズでいうと1200×800mmが12点、800×600mmが2点、そして扉作品が1200×300mm、計15点です。コンペに提出するのが目的の作品でしたから当時刷ったのは各数部のみ。
磯崎先生の幻の東京都庁案は紙の上にのみ立ち上がり、本来ならその後に版画作品として発表されるはずでした。
ところが亭主が主宰していた版元・現代版画センターは1985年に倒産してしまい、都庁コンペのとき亭主は倒産の後始末に追われそれどころではなかった。
その後も折にふれて、この都庁案をエディションして発表したいという話になるのですが、なかなか進まない。

なぜか。
版画をエディションするにははじめに膨大な資金を必要とします。
製版代、紙代、刷り代、etc.,

亭主が磯崎先生の版画をずっと版元としてエディションしてこられたのは事前に費用を負担してくださるパトロンがいたからです。
今から9年前の今日、2003年12月22日、亭主とひとつ違いのOさんが急逝されました。
レセプションや建築ツアーなどの宴会では「ワタヌキ被害者同盟代表のOです。」と自己紹介するのが常でした。
オーナー社長で歌舞伎やクラシックカーなど多くの趣味を持ち、古き時代の旦那衆を思わせる、明るく、華やかで偉ぶることのまったくない方でした。
亭主がエディションした安藤忠雄、磯崎新の版画エディションをすべてコレクション(それも事前に資金を負担してくれて)してくれた恩人でした。

現在進行中の磯崎新連刊画文集『百二十の見えない都市』もなきOさんはじめ事前予約してくださった多くのパトロンの資金によって完成を目指しています。
2012年も残り僅か。今年も完成まで進めなかったことをお詫びします。

来年こそは、Oさんたちの厚意に報いるためにも制作に邁進したいと思っています。

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完成した銅版にサインを入れる磯崎新先生。
後ろに掛かっている作品はシルクスクリーンによる「」シリーズ。2010年2月

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サインする磯崎新先生(右)と、ときの忘れもの亭主(左)、銅版担当の刷り師・白井四子男さん(中央)

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2005年6月13日の入社当日から磯崎新先生との打合せに参加、以来ずっと制作・編集担当としてイソザキ番を続ける尾立(右)と、アトリエの平田さん。2010年2月磯崎新アトリエにて。

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自作の椅子(福岡相互銀行大分支店貴賓室用)に座る磯崎新先生。
2010年10月ときの忘れもの(青山)にて。


磯崎新のエッセイ
磯崎新の版画
磯崎新『百二十の見えない都市』
中上邸イソザキホール/台所なんて要りませんから

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磯崎新「ヴィッラ1
1977年 
シルクスクリーン(刷り・石田了一)
47×47cm
Ed.100  Signed
*現代版画センターエディション
*「現代と声'77」所収
磯崎新の初めてのシルクスクリーン作品


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磯崎新「MOCA#1
1983年
シルクスクリーン(刷り・石田了一)
イメージサイズ:46.5×98.0cm
シートサイズ:73.0×103.5cm
Ed.75   Signed
*現代版画センターエディション
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