マン・レイのパリ 1972年」第3回

石原輝雄


京都・四条河原町のギャラリーマロニエを会場にした企画展『マン・レイのパリ 1972年』が、無事に終わり、飲み疲れた頭でこれを書いている。展覧会では準備した本人の予測を超える出来事が次々に生まれて驚いた。それは、シュルレアリスム的偶然の産物と云えるし、全国各地から「いざ京都(鎌倉)へと馳せ参じてくださった」皆さんの、お力によるものと感謝申し上げたい。

[今に続く、1972年]

 展覧会の情宣については、ネットでの情報発信が主流となった昨今であっても、葉書の効果、紙のカタログの魅力が功を奏し、日刊紙の朝日新聞、京都新聞、美術雑誌の版画芸術、月刊ギャラリー等が紹介してくれた。封筒から取りだした時の感触が担当者を刺激したのかと思う。有り難いことである。

600四運動画廊とフランシス・トリニエ画廊。この角から会場へどうぞ……。

 今展の狙いは、エフェメラを基にマン・レイの仕事を世界へ知らしめる事にあり、カタログを欧文表記中心で制作した事については、前回報告した。すると閉廊した「四運動画廊」を「ギャラリー1900-2000」に繋げたマルセル・フレイスから、同画廊が1988年に開催した『マン・レイ アトリエにあった油彩とデッサン展』のカタログが送られてきた。頁を開くと前日内示展でマン・レイと若いマルセルが並んだ写真が掲載されている。6年前にボナパルト通り8番地を訪ねた時、大きな椅子に包まれうたた寝をしていた老人が、この人だったと判った。話しかければ良かったと写真を見ながら思う、ご存命なのだ。
 旧知のオークションハウスのディレクターからも手紙をいただいた。彼は6月にあったセールの案内状を同封し「もしパリに来られたら、72年の前日内示展の折に、マン・レイの為に撮ったプレス用の写真があるのでお見せしますよ」と書いてくれた。それで、「ギャラリートークに使いたいから画像を提供してよ」とお願いした。マン・レイの事になると、図々しくなる自分にあきれるけど、しかたがない。彼が選んで添付してくれた二枚の写真には、マン・レイを挟んでパトリック・ワルドベルグとティニー・デュシャン、もう一枚にはリー・ミラーとジュリエットとジョルジュ・ポンピドゥー夫人が写っている。リーが大好きなわたしは、メールのJPGファイルを開きながら1972年1月7日の会場に居るような気分になった。カタログを二冊持ってリーが昔の恋人を見ているのよ、足腰の弱ったマン・レイを案じているようで、最高なんです。
 鉄製アイロンの底部に鋲を引っ付けたオブジェ『贈り物』を表紙に使った同年11月開催のフランシス・トリニエ画廊カタログには、マン・レイ研究の世界的権威となったヤーヌスがテキストを寄せている。日本で最初にマン・レイの写真集が刊行(朝日新聞社)された1981年に論考「哲学的省察の芸術」を載せたのがヤーヌスで、撮影された人物の特定をわたしがやった。30年以上前の話である。最近、そのヤーヌスが元気なのを知って展覧会をお知らせすると、心のこもった手紙をいただいた。氏は筋鉦入りのマン・レイ狂い、同病者の気持ちを判ってくれたようだ。それで、ギャラリートークに託けて、会場画像を添付しメッセージをお願いした。

 40年前の展覧会関係者が存命であり、連絡をいただくことになるとは思っていなかった。時間が繋がり、パリと京都が通底器の両端であるような感覚を持てたのは、幸せである。きっと、40年間途切れることなくマン・レイを愛したご褒美だろう(本人が書くのは、かっこ悪いね)。

[センター合わせ、145センチ]

 準備万端と待機していたら、搬入直前に雨が降った。紙モノに湿気は大敵、急いで梱包を補強しタクシーで会場へ。河原町御池を右折すると京都ホテルオークラのクリスマスイルミネーションが輝いて見え、濡れたブルーの光がわたしの二週間を祝福するかのようだった。
 そして作業。展覧会の評価は展示のコンセプトに左右され、見せ方の工夫が魅力を倍加させると思う。エフェメラ類をガラスケースではなく、壁に固定し、視線を歩く人に合わせる発想はわたし独自である。視線の動きと空間のバランス、色彩の効果を考えた図面も、実際に飾り付けるとなると、「物」の存在感がモニター上のバランスを越えて主張する。展示はセンターを床上145センチに合わせ微調整を幾つか、電卓を横に置いてのネジ留め位置の決定は、プロの仕事で西川寛と北村公亮の技によった。わたしでは、上手く出来ないし、時間もかかる。スイスクリップが活躍した会場写真をお示しするが、どうです、綺麗でしょ、センスが良いですよね(本人が言っちゃいけないか)。展覧会の楽しみは、こうした自画自賛にあるけど、一年に亙った作業の集大成とお許し下さい。

600五月革命

600パリ国立近代美術館

600ユンヌ画廊とボンソワール・マン・レイ


[初日の贈り物]

 初日から沢山の人が来てくれた。展示の工夫を含めお褒めの言葉を頂戴し、マン・レイならばこそと、敬愛する作家に寄り添った人生の幸せを感じた。夕方からのオープニングパーティは家人の協力で準備され、赤白のワインを飲みながら、友人、知人、関係者の皆さんと話した。そして、お持ち下さった品々──未見の展覧会カタログに驚き、若い友人手製のアングルのヴァイオリンを模したクッキーに感激し、京都写真クラブの仲間からの清酒・万歳(まんれい)発見の報に驚喜、その他にも素晴らしいオマージュの連続──に、この世の春かと思った。花嫁を紹介する新郎の喜びと云うか、会場に飾られた34点がもたらす光射す海底の情景は、宝石箱の中にいるようで、酔いしれて花嫁の魅力を語り出したら止まらない、わたしの口は、そんな状態だったかと思う。マン・レイが好きなんです。彼の展覧会につながる案内状やカタログやポスターが会場を飛び回っているのです。

600澤山建史(臨川書店)、高橋貴絵(写真家)、竹田雅弘(写真家) 撮影: 土渕信彦

600安東奈々(版画家) 撮影: 土渕信彦

600 小笠原圭彦(写真家)、吉永昭夫(会社員) 撮影: 山内功一郎

600京都写真クラブ恒例の集合写真。


[それは、あなた……]

 毎夕、仕事を済ませて会場に顔を出した。芳名録を手にすると、不在を申し訳なく思う名前の連続で参った。しかし、サラリーマンの身では会社を休む事が出来ない。収集を続ける為には仕事が必要だし、社会との接点を無くすと、収集が自己癒着してしまう──としておこう。それでも、友人、知人と会場で話し、閉廊後には飲みながら続けた。研究者からの質問は「どうやって手に入れたの」だったが、「一番好きなのは」とか、「マン・レイを一番表しているのは」に混じって「一番高いのは」なんてのもあって苦笑。34点の内の一番、そんなの判らないよ、それぞれの魅力は、子供や恋人と同じだよ、どれもが一番なんだ。

 会期後半にギャラリートークを行った。スライドを使ってマン・レイの仕事の概要を紹介した後、彼も「パリに憧れたアメリカ人のひとり」だったと始め、戦前パリの絵葉書を数点示し、今展へと展開した。最晩年の1972年になって、やっと仕事が認められるようになった画家の勝ち誇った笑顔に隠れた、悲しみへの共感、大衆から表面的に理解されるのではなく、少人数であっても深く愛される事を求めたマン・レイの生涯から、エフェメラを使って過ぎ去った1972年と遠く離れたパリの街を京都に再現する試みの、現在進行中の事象について、上手く話せたかどうか、本人には判らない、でも楽しかった。前述のヤーヌスが寄せてくれたメッセージは「VOICI MON TEXTE」、短い場合は自由に解釈したら良いですよと、来場されたフランス語の先生が助言してくれたけど、「VOICI」には、物を手にして「これだよ」と見せる意志があるようで、展覧会そのものが彼のテキスト(その場に居たからね)になっていると共感したからこその「これが僕のテキスト」だったと思う。

600ギャラリートークで「VOICI MON TEXTE」

600羽良多平吉(デザイナー)、古多仁昴志(稲垣足穂研究)

600金井杜道(写真家)


 展覧会の素晴らしさは「たったひとりの人」との出会いにあり、会場でそれぞれの方に「お好きな背景で写真を一枚」とお願いした。1968年にパリに居た方は「ヌーベル・レピュブリック」の前に立たれたし、ドイツで現代美術を学んだ作家は『レイの手』のポスターを選ばれた。画廊主の西川勲は「マン・レイはこれだね」と『天文台の時刻に──恋人たち』を表紙にしたカタログを、瀧口修造研究の土渕信彦は「ブルトンのこれだね」とガラス作品の『危険』を版画にしたユンヌ画廊のポスター。総じて女性陣は美しいブルーの四運動画廊のポスターに進まれ、グラフィック系の方々は『永遠のモチーフ』の前だった。この後、写真を使って限定版のカタログを作る予定にしているので、楽しみにお待ち願いたい。皆さん有難う、「たったひとりの人」それは、あなたです。
(いしはら てるお)