芸術は理解よりも流通を崇ぶ。それらの素因は観者と作者の各個の充実感にある。何れにそれが欠くるとも相互の流通は生れない。理解は観者にも又作品にも充実さが欠けていても成り立ち得るが、共歓はその様な状態では全然不可能か、あり得ても又拗曲される。芸術品による共歓は美しい。流通する所には二つの共存が美しくされる。
『恩地孝四郎版画芸術論集 抽象の表情』(1992年 阿部出版)129ページより
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ぼくは仲間にヨタをとばす。一枚しか刷らない版画などだめだ。飛行機からばらまく程の多数を作れ――
『アトリエ』287(昭和二十五年十二月)
『恩地孝四郎版画芸術論集 抽象の表情』(1992年 阿部出版)189ページより
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創作版画の指導者として、また抽象版画のパイオニアとして、版画の普及を誰よりも願ったに違いない恩地孝四郎だが、1960~70年代の<版画の時代>には間に合わず(1955年63歳で没)、自ら「飛行機からばらまく程の多数」の版画を刷ることはかなわなかった。
僅かな枚数しか刷られなかった作品の多くは戦後進駐してきたアメリカの将校たちに買われて海をわたり、国内には残っていない。
いったい恩地孝四郎はどのくらいの版画を制作したのだろうか。
形象社から1975年3月10日付で刊行された『恩地孝四郎版画集』には、1913年の「失題」から年代不明の「蔵書票」まで424点が収録されている。
その後1978年6月24日付で同じく形象社から刊行された小冊子『恩地孝四郎版画集補遺』には20点が収録されている。
合わせて444点が、『恩地孝四郎版画集』に収録された点数である。もちろん漏れはある。
下記に掲載した1925年の「四月」も収録されていない。
その後も続々と『恩地孝四郎版画集』未収録の版画が見つかっているが、その総数がどのくらいになるか、いずれにしてもそう多くはない。世界の「版画」作家にしては多作とはいえない。
問題は、それぞれが何部くらい刷られたかだが、『恩地孝四郎版画集』の巻末316ページの註には「限定部数(Edition)は不明確なものが多い。版画集や書籍に挿画として入れた版画を除けば、そのほとんどはきわめて少ない摺り部数である。その大半は3部以下の限定であろうと思われる。」と記載されています。
とてもじゃないが「飛行機からばらまく」どころではない。
作家、作品が評価されるには、とにかく市場に「流通」するものがなければならない。
レンブラントの昔から、「後刷り」の需要がでてくる理由です。
恩地孝四郎も没後、平井孝一、関野準一郎、恩地邦郎(子息)らによって幾度か後刷りがされています。
恩地孝四郎
「四月」
1925年
木版(生前刷り)
17.8x19.3cm
※『恩地孝四郎版画集』未収録

恩地孝四郎 Koshiro ONCHI
《Image Vol.3 (b) 赤い花》
1946年
木版(生前刷り)
34.5x26.5cm
※『恩地孝四郎版画集』No.257(形象社)
恩地孝四郎
「Composition No.2 文字」
1949年
木版(1968年平井摺)
34.2x26.7cm
スタンプ印
裏面に「刷り平井孝一」のシールあり
※『恩地孝四郎版画集』No.314(形象社)

恩地孝四郎
「Allegory No.2 廃墟」
1948年
木版(恩地邦郎の後刷り)
43.0×36.0cm
Ed.20 スタンプ印
※『恩地孝四郎版画集』No.292(形象社)
こちらの作品の見積り請求、在庫確認はこちらから
自刷り(または生前刷り)と後刷りの価格はどのくらい違うか。
最近のことですが、某美術館が1928年の「童女浴後」を350万円で購入したと聞きます。
こういう例から考えても、恩地孝四郎の場合は、少なくとも10倍以上、作品によっては数十倍にもなるでしょう。
後刷りのおかげで多くの人が廉価で恩地作品を買うことができる。
しかし、プラス面ばかりではありません。
「没後の後刷り」の功罪を判断するのはとても難しい。
後刷りの動機が「作品の普及」という善意にあったとしても、それが行き過ぎると逆効果になってしまう。
恩地孝四郎の場合は点数(種類)も後刷り部数も限定されているためそう心配する必要はありませんが、そうでない場合もある。
わが瑛九の銅版画がその例です。
このブログでも瑛九の銅版後刷りについて詳述しましたが、没後に300種類以上の銅版画が後刷りされ、その総部数は2万枚にものぼる。供給過剰です。
版元がどんな事情かわかりませんが、大量の在庫を投げ出してしまったため、ヤフーオークションにはここ数年「1円」スタートでの出品が続いています。
亭主が近代日本の最高の画家と信じてやまない瑛九の銅版画(後刷り)の市場での惨状は見るにしのびません・・・・・・・
◆ときの忘れものは6月25日(火)~7月6日(土)「恩地孝四郎展」を開催しています(*会期中無休)。
創作版画運動の指導者、日本の抽象絵画のパイオニアであった恩地孝四郎の木版画、素描、水彩など約20点をご覧いただきます。
『恩地孝四郎版画芸術論集 抽象の表情』(1992年 阿部出版)129ページより
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ぼくは仲間にヨタをとばす。一枚しか刷らない版画などだめだ。飛行機からばらまく程の多数を作れ――
『アトリエ』287(昭和二十五年十二月)
『恩地孝四郎版画芸術論集 抽象の表情』(1992年 阿部出版)189ページより
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創作版画の指導者として、また抽象版画のパイオニアとして、版画の普及を誰よりも願ったに違いない恩地孝四郎だが、1960~70年代の<版画の時代>には間に合わず(1955年63歳で没)、自ら「飛行機からばらまく程の多数」の版画を刷ることはかなわなかった。
僅かな枚数しか刷られなかった作品の多くは戦後進駐してきたアメリカの将校たちに買われて海をわたり、国内には残っていない。
いったい恩地孝四郎はどのくらいの版画を制作したのだろうか。
形象社から1975年3月10日付で刊行された『恩地孝四郎版画集』には、1913年の「失題」から年代不明の「蔵書票」まで424点が収録されている。
その後1978年6月24日付で同じく形象社から刊行された小冊子『恩地孝四郎版画集補遺』には20点が収録されている。
合わせて444点が、『恩地孝四郎版画集』に収録された点数である。もちろん漏れはある。
下記に掲載した1925年の「四月」も収録されていない。
その後も続々と『恩地孝四郎版画集』未収録の版画が見つかっているが、その総数がどのくらいになるか、いずれにしてもそう多くはない。世界の「版画」作家にしては多作とはいえない。
問題は、それぞれが何部くらい刷られたかだが、『恩地孝四郎版画集』の巻末316ページの註には「限定部数(Edition)は不明確なものが多い。版画集や書籍に挿画として入れた版画を除けば、そのほとんどはきわめて少ない摺り部数である。その大半は3部以下の限定であろうと思われる。」と記載されています。
とてもじゃないが「飛行機からばらまく」どころではない。
作家、作品が評価されるには、とにかく市場に「流通」するものがなければならない。
レンブラントの昔から、「後刷り」の需要がでてくる理由です。
恩地孝四郎も没後、平井孝一、関野準一郎、恩地邦郎(子息)らによって幾度か後刷りがされています。
恩地孝四郎「四月」
1925年
木版(生前刷り)
17.8x19.3cm
※『恩地孝四郎版画集』未収録

恩地孝四郎 Koshiro ONCHI
《Image Vol.3 (b) 赤い花》
1946年
木版(生前刷り)
34.5x26.5cm
※『恩地孝四郎版画集』No.257(形象社)
恩地孝四郎「Composition No.2 文字」
1949年
木版(1968年平井摺)
34.2x26.7cm
スタンプ印
裏面に「刷り平井孝一」のシールあり
※『恩地孝四郎版画集』No.314(形象社)

恩地孝四郎
「Allegory No.2 廃墟」
1948年
木版(恩地邦郎の後刷り)
43.0×36.0cm
Ed.20 スタンプ印
※『恩地孝四郎版画集』No.292(形象社)
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自刷り(または生前刷り)と後刷りの価格はどのくらい違うか。
最近のことですが、某美術館が1928年の「童女浴後」を350万円で購入したと聞きます。
こういう例から考えても、恩地孝四郎の場合は、少なくとも10倍以上、作品によっては数十倍にもなるでしょう。
後刷りのおかげで多くの人が廉価で恩地作品を買うことができる。
しかし、プラス面ばかりではありません。
「没後の後刷り」の功罪を判断するのはとても難しい。
後刷りの動機が「作品の普及」という善意にあったとしても、それが行き過ぎると逆効果になってしまう。
恩地孝四郎の場合は点数(種類)も後刷り部数も限定されているためそう心配する必要はありませんが、そうでない場合もある。
わが瑛九の銅版画がその例です。
このブログでも瑛九の銅版後刷りについて詳述しましたが、没後に300種類以上の銅版画が後刷りされ、その総部数は2万枚にものぼる。供給過剰です。
版元がどんな事情かわかりませんが、大量の在庫を投げ出してしまったため、ヤフーオークションにはここ数年「1円」スタートでの出品が続いています。
亭主が近代日本の最高の画家と信じてやまない瑛九の銅版画(後刷り)の市場での惨状は見るにしのびません・・・・・・・
◆ときの忘れものは6月25日(火)~7月6日(土)「恩地孝四郎展」を開催しています(*会期中無休)。
創作版画運動の指導者、日本の抽象絵画のパイオニアであった恩地孝四郎の木版画、素描、水彩など約20点をご覧いただきます。
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