君島彩子のエッセイ「墨と仏像と私」 第6回
「庄薬師堂」
先日、アシナガバチに刺されそうになった、幸いにも私は刺されることはなかったが、一緒にいた友人が刺されてしまい、大変痛そうであった。その時、以前アシナガバチに刺された日の記憶が蘇った。四国のお寺で刺されたことは覚えているのだが、何処の場所であったか思い出す事ができない。そこで昔のスケッチブックを掘り出し、当時の記憶を呼び起こした。
スケッチブックには「平成15年9月10日、愛媛県北条市庄部落薬師堂」とある。インターネットで確認したところ、北条市は松山市に吸収合併されすでになくなっており、時が経つことを改めて感じた。
最近は、墨以外の描画材料を使うことがないので、寺院でスケッチをする事はなくなってしまったが、当時は鉛筆でスケッチしていたようだ。このスケッチの最中にアシナガバチに刺されたのだと思う。その後タクシーで薬を買いに行った事は覚えているが、スケッチ中の記憶はない。せっかくなので、痛い思い出のスケッチを載せておきたい。

JR伊予北条駅から車で10分ほどの農村の中に薬師堂はあった。
行基が、伊予を訪ね「伊予七薬師」を呼ばれる堂宇を建てたという縁起がある。薬師堂から本堂までL字の回廊で結ばれていたとされるが、大規模な区画整理によって回廊がどこにあったのか分からなくなっていた。
平成8年に建てられた新しい薬師堂には、室町時代の丈六寄木造りの薬師如来が安置されている。明治30年に建てられた以前の薬師堂には、薬師如来の周囲に多数の破損仏が集められていたと伺った。お堂の立て直しの際に、破損仏の中でも比較的大きく状態の良い2体の菩薩像が収蔵庫に移された。そのうちの1体が私のスケッチした菩薩立像である。
当時のメモによると、この木心乾漆菩薩立像は、ハルニレの一木造りとある。損傷が目立つが、一部に乾漆を確認することができる程度には状態を保っていた。胸の厚みや腰から脚へ流れる衣紋の表現は、天平の作風が強い平安時代初期の制作と考えられ、愛媛県内で最も古い仏像とされる。腰をひねる表現から脇侍として制作されたのかもしれないと予想されたが、今はこの像のみが残されているため、尊格を詳しく特定することは出来ない。
もう1体、収蔵庫に収められた菩薩像は更に破損がひどく、髻すら失われていた。乾漆は見られないことから少し新しいのかもしれない。
収蔵庫に収められなかった破損仏は、薬師如来の左右に安置されている。形を殆どとどめていないが、如来形、菩薩形、神将形、女神形などかろうじて分かるものもあった。特に木の根が残っている立木仏や大きな鱗が真ん中に空いている像など、明らかに仏像製作には適さない木から彫られた仏像もあった。この木はかつて神宿る霊木として信仰を集めていたのかもしれない。大洪水や戦火にあい、破損しながらも、今日まで仏像が保存されてきたのも信仰の力であろう。
アシナガバチにおかげで、庄の仏像のことを思い出すことができた。久しぶりにスケッチブックを持って出かけたい気分になった。しかしこのごろは、信仰の場でスケッチするの不遜な行為かもしれないという気持ちも持つようになったのも事実である。
(きみじまあやこ)
■君島彩子 Ayako KIMIJIMA(1980-)
1980年生まれ。2004年和光大学表現学部芸術学科卒業。現在、大正大学大学院文学研究科在学。
主な個展:2012年ときの忘れもの、2009年タチカワ銀座スペース ���tte、2008年羽田空港 ANAラウンジ、2007年新宿プロムナードギャラリー、2006年UPLINK GALLERY、現代Heigths/Gallery Den、2003年みずほ銀行数寄屋橋支店ストリートギャラリー、1997年Lieu-Place。主なグループ展:2007年8th SICF 招待作家、2006年7th SICF、浅井隆賞、第9回岡本太郎記念現代芸術大賞展。
◆君島彩子さんのエッセイ「墨と仏像と私」は毎月8日の更新です。
「庄薬師堂」
先日、アシナガバチに刺されそうになった、幸いにも私は刺されることはなかったが、一緒にいた友人が刺されてしまい、大変痛そうであった。その時、以前アシナガバチに刺された日の記憶が蘇った。四国のお寺で刺されたことは覚えているのだが、何処の場所であったか思い出す事ができない。そこで昔のスケッチブックを掘り出し、当時の記憶を呼び起こした。
スケッチブックには「平成15年9月10日、愛媛県北条市庄部落薬師堂」とある。インターネットで確認したところ、北条市は松山市に吸収合併されすでになくなっており、時が経つことを改めて感じた。
最近は、墨以外の描画材料を使うことがないので、寺院でスケッチをする事はなくなってしまったが、当時は鉛筆でスケッチしていたようだ。このスケッチの最中にアシナガバチに刺されたのだと思う。その後タクシーで薬を買いに行った事は覚えているが、スケッチ中の記憶はない。せっかくなので、痛い思い出のスケッチを載せておきたい。

JR伊予北条駅から車で10分ほどの農村の中に薬師堂はあった。
行基が、伊予を訪ね「伊予七薬師」を呼ばれる堂宇を建てたという縁起がある。薬師堂から本堂までL字の回廊で結ばれていたとされるが、大規模な区画整理によって回廊がどこにあったのか分からなくなっていた。
平成8年に建てられた新しい薬師堂には、室町時代の丈六寄木造りの薬師如来が安置されている。明治30年に建てられた以前の薬師堂には、薬師如来の周囲に多数の破損仏が集められていたと伺った。お堂の立て直しの際に、破損仏の中でも比較的大きく状態の良い2体の菩薩像が収蔵庫に移された。そのうちの1体が私のスケッチした菩薩立像である。
当時のメモによると、この木心乾漆菩薩立像は、ハルニレの一木造りとある。損傷が目立つが、一部に乾漆を確認することができる程度には状態を保っていた。胸の厚みや腰から脚へ流れる衣紋の表現は、天平の作風が強い平安時代初期の制作と考えられ、愛媛県内で最も古い仏像とされる。腰をひねる表現から脇侍として制作されたのかもしれないと予想されたが、今はこの像のみが残されているため、尊格を詳しく特定することは出来ない。
もう1体、収蔵庫に収められた菩薩像は更に破損がひどく、髻すら失われていた。乾漆は見られないことから少し新しいのかもしれない。
収蔵庫に収められなかった破損仏は、薬師如来の左右に安置されている。形を殆どとどめていないが、如来形、菩薩形、神将形、女神形などかろうじて分かるものもあった。特に木の根が残っている立木仏や大きな鱗が真ん中に空いている像など、明らかに仏像製作には適さない木から彫られた仏像もあった。この木はかつて神宿る霊木として信仰を集めていたのかもしれない。大洪水や戦火にあい、破損しながらも、今日まで仏像が保存されてきたのも信仰の力であろう。
アシナガバチにおかげで、庄の仏像のことを思い出すことができた。久しぶりにスケッチブックを持って出かけたい気分になった。しかしこのごろは、信仰の場でスケッチするの不遜な行為かもしれないという気持ちも持つようになったのも事実である。
(きみじまあやこ)
■君島彩子 Ayako KIMIJIMA(1980-)
1980年生まれ。2004年和光大学表現学部芸術学科卒業。現在、大正大学大学院文学研究科在学。
主な個展:2012年ときの忘れもの、2009年タチカワ銀座スペース ���tte、2008年羽田空港 ANAラウンジ、2007年新宿プロムナードギャラリー、2006年UPLINK GALLERY、現代Heigths/Gallery Den、2003年みずほ銀行数寄屋橋支店ストリートギャラリー、1997年Lieu-Place。主なグループ展:2007年8th SICF 招待作家、2006年7th SICF、浅井隆賞、第9回岡本太郎記念現代芸術大賞展。
◆君島彩子さんのエッセイ「墨と仏像と私」は毎月8日の更新です。
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