現代日本版画家群像 第8回
加納光於横尾忠則

針生一郎


 「ある日、私は辿りついた谷間の家で、生物の変態の、そのふしぎな過程を眼のあたりにする想いであった。鏡の束は羽化の寸前を、静かに脈を打っていた。なぜ私は蛾よりもはかない羽音の瞬間に魅せられたのだろう。確かにあの日の糠雨のなかで、天使の囁きと天使の小さな足音を聴いたようだ。だがそれだけではない。芸術と呼ぶ古びた仮装のなかで、稀れに、きわめて稀れに、聞いたことも見たこともない小昆虫が住んで、人の魂のなか、金属の分子のあいだを通行するのを感じ取ったからにほかならない。」
 加納光於は一九五六年、滝口修造の企画したタケミヤ画廊の個展で、はじめてわたしたちの前に出現した。いま引用した滝口の文章は、彼が当時二十三才だった加納の銅版画を発見したときの、したがってわたしたちが最初の個展をみたときの、新鮮な衝動と昂奮をみごとにつたえている。たしかに、この寡黙な少年のような作者の、禁欲的ともみえる内攻的な意志のもとで、金属にひそむ磁力がふいによびさまされ、鉱物から生物へ、また無機物へと、イメージがめまぐるしく変貌をたどるのが魅惑的だった。その翌年、彼はタケミヤ画廊でもういちど個展をひらく一方、第一回東京国際版画ビエンナーレに招待され、一年おいて一九五九年にはサンパウロとリュブリア-ナの国際展への出品者に選ばれ、後者では受賞もしているから、この新人作家が急速に注目をあびていった経過がわかるだろう。
 加納光於は蚕が糸を吐いて自分を包む繭をつくるように、その制作を一貫してシリーズとして展開してきた。最初期の《植物》《種族》《密猟者》などのシリーズでは、闇の恐怖にみちた暗い深さのうちに、海底植物、魚類、甲殻類、骨片、岩石、水流、眼球などのイメージが交錯する。だが、一九五六年の《燐と花と》《焔・谺》《翼・予感》あたりから、暗く重い空間の深さは消え、細密な線條によってうかぶ博物標本、生物の痕跡、天文気象の徴候に似た形象が白い表面に散乱する。とりわけ一九六二年ごろの《星・反芻学》シリーズでは、化石した骨格、凝固した溶岩の亀裂、顕微鏡でみた結晶構造などを思わせる、硬質な集合のイメージの極北がみられる。だが、気がつくと、初期には極度に内攻的とみえた加納が、このあたりですでに百科全書的な「自然の学」をはてしなく渉猟し、やがて版画の限界すらこえようとするのだ。
 一九六五年、加納光於は亜鉛板をガス・バーナーで焼き、凹ませたり穴をあけたりしてかさねあわせ、《Mirror 33》と題する一連のレリーフ作品をつくった。同じ方法でできた亜鉛板をプリントに適用したのが、六四年にはじまる《Soldered Blue》シリーズで、そこには金属の亀裂やよじれとならんで、美しい青という色彩の発見がある。「流れた牛乳がブルーに冒される、捩り上げた腕がブルーに冒される、安全ピンがブルーに冒される、愛撫する乳房がブルーに冒される、海の青いうねりがブルーに冒される」とノートに書いた加納は、六七年の《Penninsular(半島状の)》シリーズでは、すでに十色ものあざやかな色彩を駆使するにいたる。
 だが、一九六七年、八年にジャパン・ソサエティの招待でアメリカ、ヨーロッパに滞在したのち、加納は自己の観念=影像のすべてを封じこめるため《Plant Box》と名づげる函のオブジェの制作に集中する。「もし、仮にその内部に、宇宙の肉体像をとじこめることができるのなら、それらの硬質な器官を支えるための張りつめた外部を、紙でもなく、布でも、冷たい金属でもなく、かたく、しなやかな木材と、ガラスの<函形皮膚>とで構成しようというイメージがまず初めにあった」。一九七一、二年にこの函のオブジェは、大岡信の未発表の詩集『砂の嘴・まわる肉体』を内部に封じこめた、《アララットの船あるいは空の蜜》で絶頂に達する。それは加納の命名によると、この詩集のほかフライング・マシーン、エクトプラズム・ボックス、制作ノート、言語のためのカプセル・オーロラ、大陸棚誘引球、彷徨ミラー、ビーム・コンセントラクション・システム、蜂窩円筒、眼光スペクトル、透視窓、分光円盤、胸時計などの「内臓」と「附随器官」をふくむというが、解体しなければ語を読むことも、部分を識別することもできないのだ。
 さらに一九七三年、加納はナポレオン時代に実用されたという葡萄弾をモチーフとして、『葡萄弾―遍在方位について』という画集とオブジェ、《Grape Shot》という版画シリーズをつくった。七四年には、若林奮の彫刻“How to fly”に触発されて、《How to flyの遍角に沿って》と題する転写とフロッタージュの十二色刷りの版画シリーズを試作した。このように、彼の関心はますます百科全書的に自然全般にひろがり、その制作はリトグラフも手がけてますます表面性に固執する一方、版画の境界を遠くこえ、通常のコミュニケーションすら拒絶する姿勢をつよめているが、その透徹した思索によって多くの人々の前に、回避できない謎のような作品をつきつけてやまない。

PF-2加納光於
「llumination-1986 PF-No.2」
1986年
リトグラフ
49.0x61.0cm
Ed.50
サインあり


 加納が版画への内攻的、求心的な探求から、その境界を一挙につきやぶるヴィジョンに達したとすれば、横尾忠則はまったく対照的に、グラフィック・デザインの領域から、霊魂や神秘の世界を求めて版画に達している。一九三六年、兵庫県西脇市の呉服屋に生まれた彼は、幼時から福助、旭日、波頭などの商標やラベルに愛着をいだいたらしい。高校を出て版下描きをしたり、神戸新聞の広告部につとめたりしたのち、六一年二十才で上京して、田中一光の世話で日本デザイン・センターに入り、かたわら日宣美(日本宣伝美術協会)展に出品する。当時の日宣美展は、バウハウス以来の機能主義の理念が、キレイゴトのレイアウト万能主義として固定化しつつあったのにたいして、横尾の土俗的映像を極彩色でちりばめながら、強烈に私性を表出するサイケデリックな作品は、六〇年安保闘争以後の若者たちに急速に浸透していった。
 わたしは一九六八年秋、アメリカ国務省の招待でニューヨークに滞在中、あるポスター・スタジオ主催の個展のためきていた横尾と出会ったことを思いだす。彼はたえずホモ人士につきまとわれて逃げまわっていることや、自分の英語がほとんど通じないのに失望して、英語学校に通っていることをユーモラスに語っていた。六九年には、パリ青年ビエンナーレで版画大賞を受賞し、また東京国際版画ビエンナーレでは、ベル・エポック期西洋家族の記念写真を転写して、ポスターとカタログ表紙をデザインしたが、たまたま同展で大賞となった野田哲也の《日記》も、自分とイスラエル人婚約者の家族の記念写真を、木版とシルクスクリーンで転写した作品だったため、版画とデザインの区別がひとしきり話題になった。その論議のなかで横尾が、大量伝達の機能上政治とのかかわりも避けられないグラフィック・デザインの立場から、版画の限定部数と結びついたオリジナル信仰に疑問を提出したことは忘れられない。
 だが、一九七〇年三月、交通事故に遭って一年半ほど休業したのち、横尾忠則は生死の問題を契機として急速にUFO、心霊術、ヨガ、古代インド思想などに傾倒していった。七二年には、ニューヨーク近代美術館で、彼のポスター個展がひらかれて好評を博したが、彼は広告と結びついたグラフィック・デザインの第一線からは退いて、しだいに文筆活動に重点を移しはじめる。とりわけ、ヒマラヤの奥のポタラ宮殿の地下にひろがるジャンバラ王国の伝説にとり憑かれ、インド、ネパールで観光みやげものとして市販されている聖像画や絵葉書、ポスターなどを資料に、オフセットとセリグラフの版画家《聖シャンバラ》をつくって、一九七四年南天子画廊で個展をひらいた。
 最後に、近年の心境をつたえるため、横尾の言葉をいくつか引用しておこう。「考えてみると、自分のやってきたことが、何事も中途半端で、いやでたまらない。仕事が残るってことは、いやなことだな。仕事というのは、おかしなもので、あらゆる欲望をかきたて、なんでもかんでもとろうとする野心をおこさせる。ぼくは映画にも出たし、TVドラマにも何ケ月も出た。ああいう仕事は、人に見られたい欲望がなければ、とうていつとまらない。ところが、あるとき、楽屋で鏡を見ている役者の軽薄な顔を見て、たまらなくいやになった。」(瀬木慎一『明日をつくるデザイナーたち』から)。
 「夢日記をつけてみようと思いたったのは、空飛ぶ円盤が夢の中に飛んでくるようになった1971年の頃からです。それまでばくは空飛ぶ円盤なんてものには全く興味がありませんでした。……何しろ潜在意識からUFOの存在を叩き込まれていったわけだから、疑いようがないのです。UFOの次に説得されていったのは神仏の夢でした。神仏の出現の夢はUFOと同様、全く夢とは思えないほどの強烈なリアリティを持っていて目が覚めてからも夢の続きの高揚感が持続するのです。」(『夢日記』あとがき、一九七九年)。
 「これは本心か、本心でないか、ぼくもよくわからないのですけれども、そういう版画ができようが、絵がいいものができなくてもいいから、いまおっしゃった自我というものから、あるいは自分自身の執着といっていいかもわからないけれども、そういったものから解放されるのだったら、職業が変ってもいいし、もっと貧しい生活でもいいと思いますね。ところがそちらの方に行けないわけですよ。だから非常に俗なるものをまた一方で求めてしまうことになるわけですね。そして求めすぎると、また聖なるものへ自分が引返さなければいけないとか、その非常に中間的な位置で、ちゅうぶらりんの状態で苦しんでいるわけですよ。」(『GQ』6号、一九七四年)。

yokoo_11_tahiti_2a横尾忠則
「タヒチの印象 II-A」
1973年
スクリーンプリント・和紙(裁ち落し)
イメージサイズ:83.9x59.1cm
Ed.100の内、T.P.(数部)
サインあり
※レゾネNo.39(講談社)


(はりゅう いちろう)
*版画センターニュース(PRINT COMMUNICATION)No.68より再録
1981年4月 現代版画センター刊

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◆故・針生一郎の「現代日本版画家群像」は「現代版画センター」の月刊機関誌「版画センターニュース」の1979年3月号(45号)「第1回 恩地孝四郎と長谷川潔」から1982年5月号(80号)「第12回 高松次郎と井田照一」まで連載されました。
ご遺族の許可を得て再録掲載します。30数年前に執筆されたもので、一部に誤記と思われる箇所もありますが基本的には原文のまま再録します。

針生一郎(はりゅう いちろう)
1925年宮城県仙台市生まれ。旧制第二高等学校卒業、東北大学文学部卒業。東京大学大学院で美学を学ぶ。大学院在学中、岡本太郎、花田清輝、安部公房らの「夜の会」に参加。1953年日本共産党に入党(1961年除名)。美術評論・文芸評論で活躍。ヴェネツィア・ビエンナーレ(1968年)、サンパウロ・ビエンナーレ(1977年、1979年)のコミッショナーを務め、2000年には韓国の光州ビエンナーレの特別展示「芸術と人権」で日本人として初めてキュレーターを務めた。2005年大浦信行監督のドキュメンタリー映画『日本心中 - 針生一郎・日本を丸ごと抱え込んでしまった男』に出演した。和光大学教授、岡山県立大学大学院教授、美術評論家連盟会長、原爆の図丸木美術館館長、金津創作の森館長などを務めた。2010年死去(享年84)。

◆ときの忘れもののブログは下記の皆さんのエッセイを連載しています。
 ・大竹昭子さんのエッセイ「迷走写真館 一枚の写真に目を凝らす」は毎月1日の更新です。
 ・土渕信彦さんのエッセイ「瀧口修造の箱舟」は毎月5日の更新です。
 ・君島彩子さんのエッセイ「墨と仏像と私」は毎月8日の更新です。
 ・故・針生一郎の「現代日本版画家群像」の再録掲載は毎月14日の更新です。
 ・鳥取絹子さんのエッセイ「百瀬恒彦の百夜一夜」は毎月16日の更新です。
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  バックナンバーはコチラです。
 ・森下泰輔さんの新連載エッセイ「私のAndy Warhol体験」は毎月22日の更新です。
 ・小林美香さんのエッセイ「母さん目線の写真史」は毎月25日の更新です。
 ・「スタッフSの海外ネットサーフィン」は毎月26日の更新です。
 ・植田実さんのエッセイ「美術展のおこぼれ」は、更新は随時行います。
  同じく植田実さんのエッセイ「生きているTATEMONO 松本竣介を読む」は終了しました。
  「本との関係」などのエッセイのバックナンバーはコチラです。
 ・飯沢耕太郎さんのエッセイ「日本の写真家たち」は英文版とともに随時更新します。
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 ・深野一朗さんのエッセイは随時更新します。
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 ・「殿敷侃の遺したもの」はゆかりの方々のエッセイ他を随時更新します。
 ・ときの忘れものでは2014年1月から数回にわけて瀧口修造展を開催します。関係する記事やテキストを「瀧口修造の世界」として紹介します。土渕信彦のエッセイ「瀧口修造の箱舟」と合わせてお読みください。

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◆ときの忘れものは2014年2月5日[水]―2月22日[土]「西村多美子写真展―憧景」を開催しています。
出品リストはホームページに掲載しました。
DM
本展は六本木の ZEN FOTO GALLERY との共同開催です(会期が異なりますので、ご注意ください)。

第1会場 ZEN FOTO GALLERY
「西村多美子写真展―しきしま」
会期:2014年2月5日[水]―3月1日[土]
日・月・祝日休廊
第2会場 ときの忘れもの
「西村多美子写真展―憧景」
会期:2014年2月5日[水]―2月22日[土]
会期中無休

●展覧会の感想
<休日の11日、南青山のギャラリー「ときの忘れもの」で西村多美子の『憧景』。70年代前半に撮られた写真のプリント群は、当時のアレ・ブレ・ボケの潮流の中から這い出てきて、今見ても、強く惹き付けられるものがある。
ところで、ギャラリー「ときの忘れもの」に伺った時、入るなり温かいお茶を出していただいたことに、ほんのり感動してしまった。外が寒かったのでなおのこと。それも、熱すぎず、ちょうど飲み頃の温かさ。感動倍増やん。>

(悲しき石庭さんのtwitterより)

『西村多美子写真展―憧景』の出品作品を順次ご紹介します。

出品番号21:
nishimura_21
西村多美子 Tamiko NISHIMURA

《神戸、兵庫県》
(p.112-113)
1971年
ヴィンテージゼラチンシルバープリント
イメージサイズ:19.0×27.8cm
シートサイズ :25.2×31.0cm
サインあり

出品番号22:
nishimura_22
西村多美子 Tamiko NISHIMURA
《秋田駅、秋田県》

(p.61)
1970年代初期
ヴィンテージゼラチンシルバープリント
イメージサイズ:28.8×19.7cm
シートサイズ :30.6×25.3cm
サインあり