スタッフSの「森美術館ウォーホル展 スペシャルトーク」レポート

スタッフSこと新澤です。
5月6日まで森美術館で開催されている「アンディ・ウォーホル展:永遠の15分」、その関連プログラムであるスペシャルトーク「日本で制作されたウォーホル作品:《Kiku》をめぐる物語」に参加してきました。
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2014年4月19日
森ビル3Fのチケットカウンターにて。
社長と「アンディ・ウォーホル展:永遠の15分」看板。

現在ときの忘れものでも「わが友ウォーホル~X氏コレクションより」と題してウォーホルの《毛沢東》、《マリリン》、《Kiku 2》、を展示していますが、相変わらずの勉強不足の悲しさよ、"Kiku"と"Love"が日本で刷られたことに驚き、亭主がエディションに関わっていたことに更に驚きと、物知らずっぷりを遺憾なく発揮させられた夜でありました。
talk_02森ビル52Fからの展望風景。
こうして見ると東京タワーがかなり近くて驚きました。

talk_03左からギャラリー360°ディレクターの根本寿幸さん、ときの忘れもの亭主こと綿貫不二夫、摺師にして石田了一工房代表の石田了一さん。

日本産のウォーホル作品の由来ですが、そもそものきっかけは1974年10月大丸で行われた大個展。反響こそ大きかったものの、実は美術業界からは全く相手にされていなかった。驚いたことに60~70年代の日本の画廊はウォーホルの取り扱いに軒並みそっぽを向いたそうで、結局日本での初個展は1971年、渋谷の西武デパートで行われるという、ちょっと今では考えられない事態でした。80年代になっても変わらず、で、そんな状況にリベンジを企てたのが74年大丸の「アンディ・ウォーホル大回顧展」プロデューサー安斎慶子さんの助手だった宮井陸郎さん。宮井陸郎さんが当時亭主が主宰していた「現代版画センター」に話を持ち込んだのが始まりでした。
この頃は丁度(というよりは狙ってのことでしょうが)ウォーホルが精力的に作品制作(神話シリーズ等)を行っており、これに合わせてもう一度日本にウォーホルを引っ張ってきたい、宮井さんがそんな企画の組織的運営を依頼した相手が亭主でした。しかし当時の亭主はウォーホルにさして興味がなく、版画センター内でも「やっても売れない」と反対意見が続出、結局一度はお断りすることに。後日他の画廊や美術館にも軒並み断られた宮井さんに再び懇願され、今度は版画センターの外に意見を求めるもやはり「売れない」との意見ばかり。ところが亭主、ここで一つ気付きました。皆口を揃えて「売れない」というが、会う人話す人皆ウォーホルを知っている。「これはひょっとしてホームランになるんじゃないだろうか」と思い至った亭主は、周囲の反対を押し切り、企画に乗り出すことにしたそうです。とはいえ亭主自身はウォーホルについてはろくすっぽ知りませんが、と宮井さんに告げたところ、「問題ありません」と紹介されたのが、当時ギャラリー360°を立ち上げたばかりだった根本寿幸さんと、「路上のウォーホル」こと似顔絵描きの栗山豊さん(故人)でした。日本では指折りのウォーホルオタクとして知られており、ウォーホル研究会まで開いていたというのですから、その知識量は推して知るべし。逆に石田さんは以前から仕事の付き合いがあったため、ごく自然にこの企画に加わることになったようです。

かくして1974年に次ぐ大規模なウォーホル展の企画が動きだしたのですが、宮井さんの考えは、ウォーホルの新作を現代版画センターで買い上げ、それを全国展で捌いて行く、というものでした。でも、それじゃあただのブローカー、亭主としては面白くない。だったら日本で開催するからこその新作を作ってもらおうじゃあないか、と言うことでエディションされたのが"KIKU"と"LOVE"のシリーズです。最終的には皇室の家紋のモチーフである菊が採用されていますが、企画段階では定番の富士山やミスタージャイアンツの長嶋茂雄(タイガースファンに配慮して没になったとか)も候補に上がっていたとのこと。最終的に「日本の花をテーマに」、「日本の紙(和紙)で」、「日本の刷り師を使って」制作するというコンセプトの元、桜と菊が候補としてウォーホルに供され、「日本は天皇の国だ、菊は天皇の印だから」という理由から菊の花がモチーフとして選ばれたそうです。(和紙も試刷りでは試みられたのですが、最終段階で定番のBFK紙に決まりました。)
ちなみに"LOVE"シリーズですが、こちらは版元がForm K.K.となっており、当時「ビニ本」でかなり稼いでいたらしい社長さんが、「思いっきり危ないポルノ」を作ってくれるならお金を出そうとスポンサーになった結果誕生した作品です。実際の制作進行は刷りからサインまで現代版画センターが代行しました。

ここまで書いておいてなんですが、これらの話は当ブログの亭主の連載「KIKUシリーズの誕生」により詳しく書かれております。ご興味のある方は是非こちらもお目通しください。

talk_04「ウォーホル全国展」のスタートは1983年6月8日~22日のパルコPART3(東京・渋谷)。

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パルコでのオープニングは6月7日、700人が出席したそうです。

talk_06若かりし日の亭主(38歳)。
自分はここ3年の綿貫さんしか知らないので、恥ずかしながら説明されるまで誰なのか分かりませんでした。
talk_07同じく展覧会当時の石田さん。ちなみにこの時展示された"Kiku"と"Love"は展覧会に間に合わせるために急ぎ各5部だけ先に刷り上げ、石田さんが手持ちでニューヨークに渡り、ウォーホルにサインしてもらってきた分(E.P.)だったそうで。

これらの写真以外にも、石田さんが渡米した際に撮影したウォーホルのスタジオの映像なども流されましたが、残念ながらこちらは版権の都合で掲載が不可とのこと。石田さん曰く、スタッフ達は皆スーツを着て働いている中、ウォーホル一人だけがシャツにジーンズとラフな格好をしていたらしく、ファクトリーからスタジオへ名に違わぬビジネスのための場所だったようです。

他には同年の7月に宇都宮、大谷での地下空間で開催された「巨大地下空間とウォーホル展」の映像も上映されました(撮影はこちらも石田さん)。既にYouTubeにアップロードされていますが、後日このブログでも紹介予定です。

talk_08森美術館「アンディ・ウォーホル展:永遠の15分」53Fの展示会場へ続くエスカレーター手前に展示してあるウォーホルがペイントを施したBMW。
talk_09車の走行動画の下にはウォーホルの一言が。
"I love that car. It has turned out better than the artwork."
「僕はあの車が大好きだ。何せ作品よりも出来がいい。」


今回のウォーホル展は作品以外にも彼の語録が壁面のいたる所に表示してあり、その多くが「世界有数の芸術家」、「ポップアートの巨匠」などというイメージとはかけ離れた、俗気のある率直な言葉です。個人的にはこちらも作品に負けず劣らず興味深い内容でした。

(しんざわ ゆう)

◆ときの忘れものは2014年4月19日[土]―5月6日[火 祝日]「わが友ウォーホル~氏コレクションより」を開催しています(*会期中無休)。
ウォーホル展DM
日本で初めて大規模なウォーホル展が開催されたのは1974年(東京と神戸の大丸)でした。その前年の新宿マット・グロッソでの個展を含め、ウォーホル将来に尽力された大功労者がさんでした。
アンディ・ウォーホルはじめ氏が交友した多くの作家たち、ロバート・ラウシェンバーグ、フランク・ステラ、ジョン・ケージ、ナム・ジュン・パイク、萩原朔美、荒川修作、草間彌生らのコレクションを出品します。

本日のウォーホル語録

<トレーシング・ペーパーと、いいライトがあれば充分だ。なんで抽象画家にならなかったか理解できないな。なぜって、ぼくのふるえる手だったら、いとも自然にそうなっただろうから。
―アンディ・ウォーホル>


4月19日~5月6日の会期で「わが友ウォーホル」展を開催していますが、亭主が企画し1988年に全国を巡回した『ポップ・アートの神話 アンディ・ウォーホル展』図録から“ウォーホル語録”をご紹介します。