木村利三郎 ■ ニューヨーク便り3(1979年)
SOHO(ソーホー)
今、手持ちのギャラリーガイドを開き、ソーホーの画廊の数をかぞえてみたら、68あった。ハウストン通りの南、25ブロックにちらばっているが、歩いてみてもそんなに時間はかからない広さである。画廊以外にブティック、アンティックの店、レストラン、小さな劇場、バー、ハッとするような小ぎれいな店が並んでいる。歩いているとたいがい友人の一人や二人に会う。土曜日の午後などまるで銀座通りなみだ。
このソーホーはそれより芸術家が多く住んでいるので有名なのだ。四百人ぐらいという人もいるし、千人という人もいる。夜おそく歩いていると大きな窓がアカアカと輝いているのはぜんぶ芸術家のアトリエだ、それはロフトと呼ばれる。十五、六年前までは中小企業のビル内工場だったのだが、税金や家賃の値上がりのためマンハッタンから郊外へ移っていった。そのあと、広い空間を必要とする画家や彫刻家が集ってきて、それぞれ工場のあとを自分たちで手を加え仕事場になおし、こっそりそこに住むようになった。市の法律ではいけないのだ。ぼくが一九六四年はじめて住んだアパートは、このソーホーの真中だった。まわりには商店が一軒もなく隣りのビルは服をつくる工場だった。昼間はトラックの往来が激しいが夜になると人一人歩いていなかった。本当に倉庫街だった。
一九六七年頃、数十人の作家がはじめてロフト展を開いた。自分のロフトに作品を並べ一定の日時ドアーを開き、一般にそれを見せるようにした。自分たちの名前と住所をポスターに記載し、はなばなしく運動を展開した。週末には多くの人たちがポスターを手に歩きまわった。
一九六九年頃より商業画廊が新しい市場とみこんで営業を開始し、マヂソン街の有名画廊も支店を開くことになった。レオキャステリ、ソノバンドなどは五階建のビルすべてを画廊にした。マヂソンや五七丁目の画廊に比べて、とてつもなく広いスペースは、もっともアメリカ的な作品を並べるのに適した。客の層も展示作品もすべて異った。
商業主義をいやがって自分たちで画廊を経営しだした作家たちもあった。金を出しあって部屋を借り、自分たちだけショーを順番に開いたが、結果的にはやはりよい作家は商業画廊に引きぬかれ、かえって自分たちを二軍的立場においこんだ。やはり商業主義には勝てないのかも知れない。よいものはよいといって名前だけが残るのではなく、よいものは売れる、売れないものはよくないと云い切り、アートジャーナルに左右されることなく、固定した客を持ち自身をもって売り出してゆく商業画廊にソーホー全域が包みこまれつつある。
一九四〇年代グリーニッチビレヂに十番街画廊群があり、ビレヂにはボヘミヤン的生活に酔った芸術家が集った。それもそれもビレヂの俗化と住居の高価によって、芸術家はおいだされて行った。ソーホーに移り住んだ作家群もやがて又数年後商業資本のため移動するのではないだろうか。
ある友人はロフトを買いそれを直し維持するために、制作をやめ大工仕事をし、レコードジャケット描きの内職をしていた。そのうち彼は制作のためのロフトにちがう夢を持ちはじめた。ヨーロッパから来た彼は、より以上に美しく飾りたて、真白な家具、真白な敷物、そして照明とすべて白一色に統一した。キャンバスも真白なまま何枚も重ねてあった。これがこれから流行するであろう。ホビーな生活なのかも知れない。(つづく)
(きむらりさぶろう)
『版画センターニュース No.49』所収
1979年8月1日 現代版画センター発行
SOHO(ソーホー)
今、手持ちのギャラリーガイドを開き、ソーホーの画廊の数をかぞえてみたら、68あった。ハウストン通りの南、25ブロックにちらばっているが、歩いてみてもそんなに時間はかからない広さである。画廊以外にブティック、アンティックの店、レストラン、小さな劇場、バー、ハッとするような小ぎれいな店が並んでいる。歩いているとたいがい友人の一人や二人に会う。土曜日の午後などまるで銀座通りなみだ。
このソーホーはそれより芸術家が多く住んでいるので有名なのだ。四百人ぐらいという人もいるし、千人という人もいる。夜おそく歩いていると大きな窓がアカアカと輝いているのはぜんぶ芸術家のアトリエだ、それはロフトと呼ばれる。十五、六年前までは中小企業のビル内工場だったのだが、税金や家賃の値上がりのためマンハッタンから郊外へ移っていった。そのあと、広い空間を必要とする画家や彫刻家が集ってきて、それぞれ工場のあとを自分たちで手を加え仕事場になおし、こっそりそこに住むようになった。市の法律ではいけないのだ。ぼくが一九六四年はじめて住んだアパートは、このソーホーの真中だった。まわりには商店が一軒もなく隣りのビルは服をつくる工場だった。昼間はトラックの往来が激しいが夜になると人一人歩いていなかった。本当に倉庫街だった。
一九六七年頃、数十人の作家がはじめてロフト展を開いた。自分のロフトに作品を並べ一定の日時ドアーを開き、一般にそれを見せるようにした。自分たちの名前と住所をポスターに記載し、はなばなしく運動を展開した。週末には多くの人たちがポスターを手に歩きまわった。
一九六九年頃より商業画廊が新しい市場とみこんで営業を開始し、マヂソン街の有名画廊も支店を開くことになった。レオキャステリ、ソノバンドなどは五階建のビルすべてを画廊にした。マヂソンや五七丁目の画廊に比べて、とてつもなく広いスペースは、もっともアメリカ的な作品を並べるのに適した。客の層も展示作品もすべて異った。
商業主義をいやがって自分たちで画廊を経営しだした作家たちもあった。金を出しあって部屋を借り、自分たちだけショーを順番に開いたが、結果的にはやはりよい作家は商業画廊に引きぬかれ、かえって自分たちを二軍的立場においこんだ。やはり商業主義には勝てないのかも知れない。よいものはよいといって名前だけが残るのではなく、よいものは売れる、売れないものはよくないと云い切り、アートジャーナルに左右されることなく、固定した客を持ち自身をもって売り出してゆく商業画廊にソーホー全域が包みこまれつつある。
一九四〇年代グリーニッチビレヂに十番街画廊群があり、ビレヂにはボヘミヤン的生活に酔った芸術家が集った。それもそれもビレヂの俗化と住居の高価によって、芸術家はおいだされて行った。ソーホーに移り住んだ作家群もやがて又数年後商業資本のため移動するのではないだろうか。
ある友人はロフトを買いそれを直し維持するために、制作をやめ大工仕事をし、レコードジャケット描きの内職をしていた。そのうち彼は制作のためのロフトにちがう夢を持ちはじめた。ヨーロッパから来た彼は、より以上に美しく飾りたて、真白な家具、真白な敷物、そして照明とすべて白一色に統一した。キャンバスも真白なまま何枚も重ねてあった。これがこれから流行するであろう。ホビーな生活なのかも知れない。(つづく)
(きむらりさぶろう)
『版画センターニュース No.49』所収
1979年8月1日 現代版画センター発行
コメント