難波田龍起「絵画への道(1)」
自己の真実を語ることはむずかしい。しかし、厚く覆いかくされている装飾物を一切とり去って、物の本質を見極めようとする美術家は、自己の裸を直視しなければなるまい。気弱な私という人間はいやらしいと青春初期の思い出に書いたけれども、そのコンプレックスを克服して生きようとした私は、自然(風景)の前に画架を立てたのである。だが、自然はあまりに広大で、その一部分を切りとることに随分と戸惑ったものである。お手本に頼らずに自力で未知の絵画の世界を開拓しなければならない。それは絵画に志したすべての画学生の願望であったにちがいない。
私が太平洋洋画研究所に入所してデッサンの勉強を始めるにあたって、高村光太郎も先生に頼らずに自分の眼でしっかり物をつかまなければならないという意味のことを話された。その教示は研究所では通用しがたいものだった。毎月ある石膏デッサンのコンクールで落とされて、研究所に嫌気がさしてしまった。その頃のことだが、白樺派の信者のような精神主義者のS君を中心に、光玄会という小グループを作り、生活と制作の問題を真剣に解決しようとしたりした。その後私は、人体が自由に描ける本郷研究所やクロッキー研究所にも出かけたのである。
当時私は、絵を描くことは取りも直さず自然が相手なのだと思った。また自然を相手にすることで、孤独な人間は救われるような気がした。かつ自然を描くことで心身ともつよくなりたかったのである。自己の内に何らかの信念が確立されたならば、人生の弱者にならないで済むだろう。親友の山の遭難死は、若い私にひどく応えて、生きる力を奪われそうな危機さえ感じていた。しかし高村光太郎に接して、別の自分が漸く形成されてくるのを感じていたし、絵を描くことに踏み切ったことで、前途に一筋の光が得られそうに思えた。
私は、最初から画業に志を立て美術学校に入学した青年とは、おのずから違う道を歩き出したわけである。親戚にやはり早稲田高等学院に入学した同年輩のN君がいて、彼から油絵道具一式を教えてもらい、自分勝手に油絵を描き始めたのである。小学生の時から絵は上手な方で、卒業間際に担任の先生から君は将来美術学校に進んだらいいといわれたものである。私はいま先生の予言が適中したのだと思った。そして私の父は軍人であったが、大学を中退して、これから先どうなるかわからない息子の絵画志望を敢えて許した両親の寛大さに、高村光太郎は非常に驚いておられた。その頃は未だ、画家になるというと、すぐさま堕落したように扱われた時代である。また親戚からは、随分と子供に甘い親だと非難されたようである。しかし自由に絵を描くとしても、やはり師は必要なのである。高村光太郎に描き始めから絵を見てもらっていたが、自分は現在油絵は描いていないから技法の面で誰か適当な師についた方がよいと勧められた。
(つづく)
『版画センターニュース』(No.37)1978年4月1日号より
現代版画センター刊
難波田龍起
「聖堂」
1978年
カラー銅版
28.0x18.0cm
Ed.35
サインあり
難波田龍起
「幻の館」
1978年
カラー銅版
21.0×12.0cm
Ed.75
サインあり
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■難波田龍起 Tatsuoki NAMBATA(1905-1997)
1905年北海道旭川生まれ。23年高村光太郎を知り生涯私淑する。27年早稲田大学中退。太平洋画会研究所、本郷絵画研究所に学ぶ。川島理一郎主宰の金曜会に入り、仲間と[フォルム]を結成。37年自由美術家協会の創立に参加。78年現代版画センターより銅版画集『街と人』『海辺の詩』を刊行。87年東京国立近代美術館で回顧展を開催。88年毎日芸術賞を受賞。96年文化功労者。97年永逝(享年92)。
*画廊亭主敬白
「難波田龍起の愛した作家たち」展では、難波田先生が生前コレクションした作品を出品しています。これを機に先生の歩んだ道を振り返ってみたい。
それには先生ご自身の書いたものにしくはない。
さいわい、1978年に当時の現代版画センターに機関誌に寄稿された文章が残っています。
ご遺族の了解を得て、5回にわたり再録掲載いたします(毎月23日に更新)。
◆ときの忘れもののブログは下記の皆さんのエッセイを連載しています。
・大竹昭子のエッセイ「迷走写真館 一枚の写真に目を凝らす」は毎月1日の更新です。
・石原輝雄のエッセイ「マン・レイへの写真日記」は毎月5日の更新です。
・笹沼俊樹のエッセイ「現代美術コレクターの独り言」は毎月8日の更新です。
・芳賀言太郎のエッセイ「El Camino(エル・カミーノ) 僕が歩いた1600km」は毎月11日の更新です。
・去る5月17日死去した木村利三郎のエッセイ、70年代NYのアートシーンを活写した「ニューヨーク便り(再録)」は毎月17日の更新です。
・井桁裕子のエッセイ「私の人形制作」は毎月20日の更新です。
・故・難波田龍起のエッセイ「絵画への道」は毎月23日に再録掲載します。
・小林美香のエッセイ「母さん目線の写真史」は毎月25日の更新です。
・「スタッフSの海外ネットサーフィン」は毎月26日の更新です。
・森本悟郎のエッセイ「その後」は毎月28日に更新します。
・植田実のエッセイ「美術展のおこぼれ」は、更新は随時行います。
同じく植田実のエッセイ「生きているTATEMONO 松本竣介を読む」は終了しました。
「本との関係」などのエッセイのバックナンバーはコチラです。
・飯沢耕太郎のエッセイ「日本の写真家たち」は英文版とともに随時更新します。
・浜田宏司のエッセイ「展覧会ナナメ読み」は随時更新します。
・深野一朗のエッセイは随時更新します。
・「久保エディション」(現代版画のパトロン久保貞次郎)は随時更新します。
・「殿敷侃の遺したもの」はゆかりの方々のエッセイ他を随時更新します。
・故・針生一郎の「現代日本版画家群像」の再録掲載は終了しました。
・森下泰輔のエッセイ「私のAndy Warhol体験」は終了しました。
・君島彩子のエッセイ「墨と仏像と私」は終了しました。
・鳥取絹子のエッセイ「百瀬恒彦の百夜一夜」は終了しました。
・ときの忘れものでは2014年からシリーズ企画「瀧口修造展」を開催し、関係する記事やテキストを「瀧口修造の世界」として紹介します。土渕信彦のエッセイ「瀧口修造の箱舟」と合わせてお読みください。
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自己の真実を語ることはむずかしい。しかし、厚く覆いかくされている装飾物を一切とり去って、物の本質を見極めようとする美術家は、自己の裸を直視しなければなるまい。気弱な私という人間はいやらしいと青春初期の思い出に書いたけれども、そのコンプレックスを克服して生きようとした私は、自然(風景)の前に画架を立てたのである。だが、自然はあまりに広大で、その一部分を切りとることに随分と戸惑ったものである。お手本に頼らずに自力で未知の絵画の世界を開拓しなければならない。それは絵画に志したすべての画学生の願望であったにちがいない。
私が太平洋洋画研究所に入所してデッサンの勉強を始めるにあたって、高村光太郎も先生に頼らずに自分の眼でしっかり物をつかまなければならないという意味のことを話された。その教示は研究所では通用しがたいものだった。毎月ある石膏デッサンのコンクールで落とされて、研究所に嫌気がさしてしまった。その頃のことだが、白樺派の信者のような精神主義者のS君を中心に、光玄会という小グループを作り、生活と制作の問題を真剣に解決しようとしたりした。その後私は、人体が自由に描ける本郷研究所やクロッキー研究所にも出かけたのである。
当時私は、絵を描くことは取りも直さず自然が相手なのだと思った。また自然を相手にすることで、孤独な人間は救われるような気がした。かつ自然を描くことで心身ともつよくなりたかったのである。自己の内に何らかの信念が確立されたならば、人生の弱者にならないで済むだろう。親友の山の遭難死は、若い私にひどく応えて、生きる力を奪われそうな危機さえ感じていた。しかし高村光太郎に接して、別の自分が漸く形成されてくるのを感じていたし、絵を描くことに踏み切ったことで、前途に一筋の光が得られそうに思えた。
私は、最初から画業に志を立て美術学校に入学した青年とは、おのずから違う道を歩き出したわけである。親戚にやはり早稲田高等学院に入学した同年輩のN君がいて、彼から油絵道具一式を教えてもらい、自分勝手に油絵を描き始めたのである。小学生の時から絵は上手な方で、卒業間際に担任の先生から君は将来美術学校に進んだらいいといわれたものである。私はいま先生の予言が適中したのだと思った。そして私の父は軍人であったが、大学を中退して、これから先どうなるかわからない息子の絵画志望を敢えて許した両親の寛大さに、高村光太郎は非常に驚いておられた。その頃は未だ、画家になるというと、すぐさま堕落したように扱われた時代である。また親戚からは、随分と子供に甘い親だと非難されたようである。しかし自由に絵を描くとしても、やはり師は必要なのである。高村光太郎に描き始めから絵を見てもらっていたが、自分は現在油絵は描いていないから技法の面で誰か適当な師についた方がよいと勧められた。
(つづく)
『版画センターニュース』(No.37)1978年4月1日号より
現代版画センター刊
難波田龍起「聖堂」
1978年
カラー銅版
28.0x18.0cm
Ed.35
サインあり
難波田龍起「幻の館」
1978年
カラー銅版
21.0×12.0cm
Ed.75
サインあり
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■難波田龍起 Tatsuoki NAMBATA(1905-1997)
1905年北海道旭川生まれ。23年高村光太郎を知り生涯私淑する。27年早稲田大学中退。太平洋画会研究所、本郷絵画研究所に学ぶ。川島理一郎主宰の金曜会に入り、仲間と[フォルム]を結成。37年自由美術家協会の創立に参加。78年現代版画センターより銅版画集『街と人』『海辺の詩』を刊行。87年東京国立近代美術館で回顧展を開催。88年毎日芸術賞を受賞。96年文化功労者。97年永逝(享年92)。
*画廊亭主敬白
「難波田龍起の愛した作家たち」展では、難波田先生が生前コレクションした作品を出品しています。これを機に先生の歩んだ道を振り返ってみたい。
それには先生ご自身の書いたものにしくはない。
さいわい、1978年に当時の現代版画センターに機関誌に寄稿された文章が残っています。
ご遺族の了解を得て、5回にわたり再録掲載いたします(毎月23日に更新)。
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・大竹昭子のエッセイ「迷走写真館 一枚の写真に目を凝らす」は毎月1日の更新です。
・石原輝雄のエッセイ「マン・レイへの写真日記」は毎月5日の更新です。
・笹沼俊樹のエッセイ「現代美術コレクターの独り言」は毎月8日の更新です。
・芳賀言太郎のエッセイ「El Camino(エル・カミーノ) 僕が歩いた1600km」は毎月11日の更新です。
・去る5月17日死去した木村利三郎のエッセイ、70年代NYのアートシーンを活写した「ニューヨーク便り(再録)」は毎月17日の更新です。
・井桁裕子のエッセイ「私の人形制作」は毎月20日の更新です。
・故・難波田龍起のエッセイ「絵画への道」は毎月23日に再録掲載します。
・小林美香のエッセイ「母さん目線の写真史」は毎月25日の更新です。
・「スタッフSの海外ネットサーフィン」は毎月26日の更新です。
・森本悟郎のエッセイ「その後」は毎月28日に更新します。
・植田実のエッセイ「美術展のおこぼれ」は、更新は随時行います。
同じく植田実のエッセイ「生きているTATEMONO 松本竣介を読む」は終了しました。
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・浜田宏司のエッセイ「展覧会ナナメ読み」は随時更新します。
・深野一朗のエッセイは随時更新します。
・「久保エディション」(現代版画のパトロン久保貞次郎)は随時更新します。
・「殿敷侃の遺したもの」はゆかりの方々のエッセイ他を随時更新します。
・故・針生一郎の「現代日本版画家群像」の再録掲載は終了しました。
・森下泰輔のエッセイ「私のAndy Warhol体験」は終了しました。
・君島彩子のエッセイ「墨と仏像と私」は終了しました。
・鳥取絹子のエッセイ「百瀬恒彦の百夜一夜」は終了しました。
・ときの忘れものでは2014年からシリーズ企画「瀧口修造展」を開催し、関係する記事やテキストを「瀧口修造の世界」として紹介します。土渕信彦のエッセイ「瀧口修造の箱舟」と合わせてお読みください。
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