小林美香のエッセイ「母さん目線の写真史」 第13回

子どもとお面

setsubun-omen(図1)
紙皿で作った鬼のお面 (2012)


setsubun(図2)
鬼のお面をつけた保育士の先生に抱かれて泣く筆者の娘 (2012) 


雛祭りや七夕などの季節の行事になると、保育園で行事にちなんで作った折り紙や紙工作を持ち帰ってくることがあります。紙工作の中でも、お面や冠のようなかぶりものは娘のお気に入りらしく、家の中でもお面をつけてちょっとした変身気分を楽しんでいたりしています。 (図1)は、娘が一歳の時に通っていた保育所で、節分の時に保育士の先生が紙皿で作って下さった鬼のお面です(クレヨンの落書きは娘の手によるもの)。保育所で撮影された写真(図2)には、赤鬼のお面をつけた保育士の先生が鬼のお面をつけた娘を抱きかかえ、娘は赤鬼のお面を怖がり、必死の形相の泣き顔で写っていました。親としては、娘が鬼のお面を本気で怖がっている様子を目の当たりにして可笑しく思うと同時に、お面による「変身」の威力を思い知らされもしました。その後も、カエルのお面をつけた時には、カエルになりきって飛び回ったりなどしており、子どもにとってお面は、意識や行動を別の生き物仕様に切り替えるスイッチのようなものだなと感じたりもします。

ueda-kogitsune(図3)
植田正治
「子狐登場」(1948)


ueda-otafuku
(図4)
植田正治
『童暦』より(1955-1970)


子どもがお面をつけて何かになりきって遊んだり、あるいはお面で変身した姿を見て反応したりしている様子は、子どもらしく独特の味わいのある振る舞いとして目を惹きつけるように思います。ただでさえ小動物のように俊敏に動き回る子どもが、お面の力によって現実の世界と空想の世界を自在に行き来するかのように振る舞うのですから、その姿は端で見ていると羨ましさを感じるほどです。
植田正治(1913-2000)の「子狐登場」(図3)は、狐のお面をつけた少年(当時8歳だった植田正治の次男)の振る舞いを絶妙な瞬間でとらえた一例と言えるでしょう。砂丘の上で雲の立ちこめる空を背景に、手足を伸ばして思い切りジャンプする少年の姿が覆い焼きによって際立たせられていて、まるでお伽噺や一コマ漫画の一場面のような情景に仕立て上げられています。植田正治の作品は、(図3)のような砂丘を舞台に自らの子どもや家族のポートレートを撮った作品が特によく知られていますが、1950年代後半から60年代にかけて山陰地方の四季と子どもたちをテーマに撮り続け、写真集『童暦』(1971)として纏めています。(図4)は、『童暦』に収録されたものであり、晴れ着姿のお多福のお面をつけた幼い少女が石畳の上に佇んでいます。頬をおさえてはにかんでいるような仕草をしていることも手伝って、お面で隠れた少女の顔の表情への想像を掻き立てられると同時に、草木が生い茂る背景と奥の方へと続く石畳と小径が、お伽噺の世界へと見る者の意識を誘っていくかのようです。(図3)や(図4)を見ていると、子どもがお面をつけることで、子どもの姿だけではなく周囲の情景の印象をも異化されていることや、狐やお多福のような風土や生活文化の中で培われてきたお面の意匠、造形の豊かさにも気づかされます。 

IMG_2361(図5)
石元泰博
『ある日ある場所(Someday Somewhere)』(1958)


IMG_2362(図6)
石元泰博
『ある日ある場所(Someday Somewhere)』(1958)


IMG_2363(図7)
石元泰博
『ある日ある場所(Someday Somewhere)』(1958)


植田正治と同様に、石元泰博(1921-2012)もお面をつけた子どもたちの姿に惹かれて写真を撮っており、一連の写真を石元にとって初の写真集である『ある日ある場所(Someday Somewhere)』(芸美出版社 1958)の中に纏めています。この写真集は1940年代末から1950年代初頭にかけてシカゴのインスティテュート・オブ・デザインで写真を学んでいた時期に撮影した写真と、1953年に来日(当時石元は米国籍だった)した後に撮影した写真で構成されています。『ある日ある場所』という題名が示唆するように、写真集の冒頭ではアメリカと日本の断片的な光景が交互に入り混じるように、裁ち落としの写真を見開きで組み合わせたり、つなぎ合わせたりするような編集の仕方をしています。
写真集の後半部分である「こどもLittle Ones」は、ハロウィーンで変装用の仮面を頭の上にのせたアメリカの子どもの写真(図5)で始まり、その後に続く見開きのページでは、アメリカと日本の子どもたちに共通するような要素を持つ写真が組み合わせられています。石元がアメリカと日本で子どもたちの写真を撮り、このような仕方で纏めた背景には、彼自身の出自が深く関わっているように思われます。石元は、サンフランシスコで生まれ三歳で日本に帰国、高校を卒業後にアメリカに渡り、第二次世界大戦中は日系人強制収容所で過ごし、シカゴで写真を学んだ後に日本に米国籍者として来日しました(1969年に日本国籍取得)。つまり、石元が日本とアメリカの子どもを見る眼差しは、この二つの国で戦中・戦後の激動期を少年、青年として経る中で培われてきたアイデンティティに裏打ちされているのです。
石元は、子どもたちの姿を通してアメリカと日本それぞれの間にある違いだけではなく、子どもたちの振る舞いや、表情など両者に共通する普遍的な子どもとしてのありようを描き出しています。「お面」はアメリカと日本の子どもを結びつける要素として大きな役割を果たしています。たとえば、(図6)の見開きでは、ひょっとこのお面をつけた子どもの写真(左ページ)に、羽のついた大きな眼帯のようなアイマスクをつけた黒人の女の子が写っている写真(右ページ)が組み合わせられており、お互いのお面の目の雑作や顔の表情に目が惹きつけられます。また、(図7)の見開きでは、ハロウィーン用のかぶり物のお面をつけ、布を纏って変装をしている三人の子どもたちの写真(左ページ)に、月光仮面のお面をつけて風呂敷のような布をマントがわりに巻いている少年の写真(右ページ)が組み合わされており、それぞれの子どもたちの「変身」の身振りを独特のユーモアを交えて浮かび上がらせています。子どもたちのお面という日常的なありふれたものの中に、文化の違いや時代性だけではなく、普遍的な子どもの振る舞いを鮮やかに掬い上げる石元の眼差しの鋭さには感嘆の念を禁じ得ません。
こばやしみか

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