森本悟郎のエッセイ その後・第5回

木村恒久(5) それから


2000年10月25日~12月24日、川崎市市民ミュージアムで「木村恒久原画展」が開かれた。グラフィック作品は印刷物で見せるもの、と言っていた木村さんのフォト・モンタージュ原画による大々的な展観である。その展覧会が終わった翌年初め、突然木村さんから電話があった。「ぼくの原画を貰ってくれないか」と。「これから川崎で展示した作品が戻ってくるけれどとても自分には保管できない」という理由だった。熟慮の末での決断だったのだろうと、恐る恐るぼくは受諾した。届いたのは川崎市市民ミュージアムで展示した全作品と、自宅にあった原画やポスターなどのグラフィック作品で、1960年代末以降の木村作品をほぼ網羅している。
受贈後、ぼくには二つの仕事ができた。一つは作品の整理と研究であり、もう一つは終の収蔵場所を考えることである。作品整理はしばしば木村さんに名古屋へご足労いただいて少しずつ進めていたが、2008年の作家逝去を機に中断した。作品研究も本務の忙しさに取り紛れて手がつけられなかった。2014年に退職することが決まっていたぼくの喫緊の課題は、作品の嫁入り先を探すことだった。
ところで、ぼくには一度展覧会が決まっていながら開催できなかったことがある。1950年代にフォト・コラージュ作品によって注目された作家、岡上淑子さんの展示を2011年4月に予定していた。ところが調べていくと作家の手許には作品が殆どなく、作品を収蔵している東京国立近代美術館、東京都写真美術館、栃木県立美術館、高知県立美術館のうち3館もしくは2館から借りなければ展覧会が成立しないことが判った。もっともこれまで公立美術館から作品借用の実績があったので、さほど心配していたわけではなかった。そこで東京国立近美を除く3館に作品借用依頼をすることにした。果たして実際交渉してみると、これまでになく高いハードルが課された。それはフォト・コラージュ作品の脆弱性に基づく、会場のハードウェアの問題である。C・スクエアの展示環境整備には可能な限り努めてきたが、美術館のそれとは比すべくもない。幾度も説得に努めたが、結局諦めざるを得なかった。
この苦い経験が木村作品収蔵先についてヒントを与えてくれた。木村さんが大阪出身であることから、作品は生地へと考えていたのだが、場所に拘らず作品保全第一でいいのでは、と思ったのだ。作品貸出条件は東京都写真美術館が一番厳しかった。だが、岡上作品を持っているということは木村作品収蔵の可能性もあるはずである。事業企画課長の笠原美智子さんに尋ねてみたところ話が進み、史子夫人の許諾を得て2012年に寄贈を決めた(一部、グラフィック作品は武蔵野美術大学美術館・図書館に寄贈が決まっている)。
こうして木村作品は手を離れ、今後ぼくには木村さんの原画を借りることすら不可能となった。それでも貴重な作品に安住の場が与えられたこと、木村恒久調査・研究の一次資料を提供できたことに安堵している。
もりもと ごろう

キムラカメラ展キムラカメラ展


02木村恒久


森本悟郎 Goro MORIMOTO
1948年愛知県に生まれる。1971年武蔵野美術大学造形学部美術学科卒業。1972年同専攻科修了。小学校から大学までの教職を経て、1994年から2014年3月末日まで中京大学アートギャラリーキュレーター。展評、作品解説、作家論など多数。

◆森本悟郎のエッセイ「その後」は毎月28日に更新します。