石原輝雄のエッセイ「マン・レイへの写真日記」 第6回

プリアポスの文鎮 1982年6月11日 パリ

6-1 パリまで

ガールフレンドの卒業を待って結婚式を挙げ、欧州へ新婚旅行に出掛けた。ジャルパックの「あこがれのウィーン・パリ 九日間の旅」である。成田11時発の便だったので伊丹空港で泊まり翌朝移動。搭乗手続きが遅れていたので訝しく思い、騒がしい人が居るなと眼をやると漫才の横山やすしだった。それはさておき、モスクワで給油しローマまで、およそ20時間、ウィーンではシェーンブルン宮殿、大観覧車、美術史美術館などを観光。パリでもお決まりのサクレクール寺院やエッフェル塔などを周った。セーヌ川に架かるグルネル橋左岸のニッコー・ド・パリに入って自由になれたのは6月10日の午後だった(窓から『自由の女神』像が見えたと記憶する)。

manray6-1グルネル橋から望むエッフェル塔 


 丁度、リブレリ・アルカードの山内十三男氏が買い付けの仕事でパリに滞在しておられたので連絡を入れ、夕方、サン・ジェルマン・デ・プレで落ち合った。ビッシ通りの活気ある店に案内してもらい、肉のプレートと赤ワインで食事、デザートも申し分なかった。山内氏は、「仕事がほとんど終わっているので、明日は古書店巡りにつき合いましょう」と誘ってくれた。食後、ホテルに戻るのに大通りでタクシーをつかまえるのが一苦労。わたしたちの為に大声を出される山内氏が「パリじゃ、こうなんだよ、地下鉄は危ないからね」と助けてくれた。

 
6-2 セーヌ左岸

翌朝、氏の常宿であるホテル・マディソンを訪ね地下の食堂でパンと珈琲の朝食。こいつが美味しいのよ。ドアなしのエレベーターに驚きつつ部屋に上がると眼の前にはサン・ジェルマン・デ・プレ教会、大通りには6月の光があふれている。十代の後半にアンドレ・ブルトンの『ナジャ』(巖谷國士訳、人文書院、1970年刊)を読んだ時から憧れてきた街にいる幸せを感じた。「私とは誰か?」とブルトンは、その書物を初め、「私が誰と「つきあっているか」を知ればよい」と続ける。豊富に挿入された街路の写真を見ながら、そこに立ちたいと思ったし、誰かを追いもとめ、つき合う事ができれば、自分が判ると云う希望のようなものに動かされ続けて来た。

manray6-2翌朝の地下鉄
高架部分・ビル=アケム駅


manray6-3カフェ・ド・フロール


 古書店巡りはシュルレアリスム関係書籍の充実で知られるセーヌ通り72番地のベルナルド・ロリエの店から始まった。山内氏がマン・レイの在庫を訊ねてくれるが、既に架蔵している『マン・レイ フォトグラフィス 1920-1934』、次ぎに訪ねたジャコブ通りのジャン・ユーゴでは『自伝』で、これも架蔵している。すでに、この街から山内氏の尽力で多くのマン・レイ稀覯本を入手していたので、新たに見付ける可能性は低いのだと諦め気分になってしまった。「何か面白い事をしなくちゃ」と山内氏が、ポスターを扱う店やカタログ類を置いた店などに案内してくれたので、未見の資料を購入。そうして、ボナパルト通りからマラケ河岸に出て良いモノを置いていると云うアラントンに入る。ここで1926年刊行のポシュワール版画集『回転ドア』を手に取った。マン・レイがパリに渡ってからニューヨーク時代の作品をフォリオにしたもので限定100部。しかし、あまりに高価なので手が出ない。ここで「最近、マン・レイの展覧会を開いた画廊が、ゲネゴー通りにあるから、行ってみると良い」と勧められた。

manray6-4カタログを入手。


 ギャラリー・マリオン・メイエはすぐに見付かった。『マン・レイとその友達たち』と題した写真の展覧会は二ヶ月前に終わっていたが、カタログを入手。ドイツ系の画廊主と山内さんが話をされていると「作品を出しておくから二時間程したら来て下さい。ジュリエットにも会わせてあげる」と展開。時差の影響もあってか、頭がパニックとなってしまった。旅行に出る前にポンピドゥー・センターで開かれた大規模な『マン・レイ回顧展』を観た友人が、街中にマン・レイが溢れていたと教えてくれていたので、わたし達もマン・レイに出会いたかったし、作品を購入したかった。

manray6-5ギャラリー・マリオン・メイエ


manray6-6ジュリエットとの記念写真
1982.6.11


 再び画廊を訪ねるとウインドウにはマン・レイのミクストメディア『桃風景』が置かれている。オフィスには『不滅のオブシェ』『贈り物』『鉋』『輸出必需品』といった愛すべきオブジェたち。女主人が梱包を解いて版画集の『時間の外にいる貴婦人たちのバラード』やリッジフィールド時代の裸婦デッサンなどを見せてくれるが、いずれも高価でわたしには手が出ない。でもどれか欲しいと算段していると、見覚えのあるアッサンブラージュを撮った写真が現れた。男性器を連想させるエロティックな一枚で、アルミ額に無造作に入れられている。小品故か値段も手頃だった。そうこうしているとマン・レイの未亡人ジュリエットが登場されて、パニックは最高潮。先程求めたジュリエットが写っているカタログのシートにサインを頂くと、山内さんがここにも書いてもらったらとTシャツの胸を示した。「Man Ray」のサインを拡大し赤色の染料を使って自分で書いた一枚(限定版ですよね)、新妻にも勧められ脱がされるしまつ。恥ずかしかったけど嬉しかった。彼女の方は黄色地に黒で「MAN RAY」のロゴ、袖の部分にジュリエットがペンを取った。そして、みんなで記念写真。わたしのマン・レイへの敬愛が伝わったのか、「明日、アトリエに遊びにおいで」と誘っていただいた時には、ついに、失神してしまった。……この二日間の様子については拙著『マン・レイになってしまった人』(銀紙書房、1983年刊)に詳しく書いたので参照していただけたら嬉しい。

manray6-7キャネット通り


manray6-8マン・レイのアトリエ(フェルー通り2番地乙)
1982.6.12


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6-3 プリアポスの文鎮

手荷物として持ち帰った写真を新居に飾った。アルトゥーロ・シュワルツの研究書『想像力の自由』(テムズ・アンド・ハドソン、1977年刊)で確認すると、1920年に作られたオブジェを基に1966年になって再制作された銀製のオブジェと関連がある写真と思われ、ニューヨーク時代のオブジェに共通する手許の日用品や、興味を持った品物を組み合わせた仕事の一つで、オリジナルは失われてしまったと推測された。アイデアを証明するために写真として残すマン・レイのやり方は、品物を残す必要を持たない詩人の心情に近い。そして、イメージを決定付ける重要な要素が作品のタイトルであり、この場合には『プリアポスの文鎮』と付けられた。1920年にマン・レイは30歳でフェレール・センターに通っていたから、ギリシャ神話に登場する生殖と豊饒を司る神についての知識は持っていたと思う。陰茎の隠喩として使われ、侮蔑語でもある「プリアポス」巨大な男根で象徴される男性の生殖力の神をマン・レイは、何処かで見付けてきた鉄玉と金属の筒を組み合わせて産みだした。写真を見たとき強く促されたのは、新婚旅行の故だろうか。再制作品は台座に置かれているが、求めた写真はフラットで、右からの光りで立体感を増し、陰茎は黒く、左右の陰嚢と鬼頭表面に撮影者の影が写っている。よく見ると大きな窓のようでニューヨークのアトリエかと思われる(とすれば、オリジナルを写した貴重な写真になる訳だが)。

 タイトルとして面白く、わたしが参ってしまったのは「文鎮」と付け加えた意味である。確かに写真を見ると男性器を連想するが、そのままだったり、「肖像」としたりするのではなく、手に持ち紙を押さえる動作から「自慰」を含むに至る「文鎮」の意味は大きい。求めた写真には、アトリエ・スタンプは無く、イニシャルだけのサインもマン・レイとは言い難い。しかし、印画紙全面に細かい糸屑状のものが浮遊していて、「精子」じゃないかと思った。パニックの最中にそれがしっかり見えた。

manray6-9新居に飾った。


 シュワルツの研究書には、「このオブジェの写真を見たほとんどの人は、わたしにオリジナルのサイズを訊ねるのです。その度に、貴方のと同じぐらいだと答えました。」(159頁)と云うマン・レイの態度を紹介している。ここにはオリジナルと写真とのアイロニーに満ちた駆け引きが存在する。倍率の変化によって姿を変える強さも、翌日、フェルー街のアトリエで対面した苔むした特大『プリアポスの文鎮』の持続性と硬度には打ち負かされた。わたしぐらいの大きさが身長だからね。

 後年、池袋のアール・ヴィヴァンで『我が愛しのオブジェ』(マルセル・ゼルブ、1966年刊)と題した小型本を入手した。金色の表紙にマン・レイのオブジェ『四角いダンベル』を配したもので、旧蔵マリオ・アマヤ。挟まれたローランド・ペンローズからの手紙(1974年5月29日付)によると刊行者のマルセル・ゼルブから托され、アマヤに贈ったものと云う。掲載図版13点を見るとほとんどが1967年にパリのアメリカ・センターで開かれた『マン・レイへの挨拶』展に出品されたマルセル・ゼルブによる再制作品であるのだが、本稿で言及してきた『プリアポスの文鎮』に使われた写真は、わたしが入手した一枚と同じだった。左頁の説明には「シェイクスピア方程式のシリーズで使われた」とあるが、1940年代後半にカリフォルニアで描かれた油彩シリーズに男性器の特徴的な図像は描かれていないと思うので、文字通り数学的オブジェの図像をトレースした過程で「文鎮」として使われたのだろうか。

manray6-10Bar KAZABANA(木屋町四条下る)


 マン・レイ作品の謎解きは、いつもこうして「あっけらかん」に終わる。タイトルに求めた寓意も、日用品の実利部分に回収されてしまう。しかし、そこにこそマン・レイ作品の魅力があると思う。深読みをせずにはおられない眼の誘惑、写真に散らばる「精子」たちの動きは、飽きさせない希望に満ちている。

続く

(いしはらてるお)

■石原輝雄 Teruo ISHIHARA(1952-)
1952年名古屋市生まれ。中部学生写真連盟高校の部に参加。1973年よりマン・レイ作品の研究と収集を開始。エフェメラ(カタログ、ポスター、案内状など)を核としたコレクションで知られ、展覧会企画も多数。主な展示協力は、京都国立近代美術館、名古屋市美術館、資生堂、モンテクレール美術館、ハングラム美術館。著書に『マン・レイと彼の女友達』『マン・レイになってしまった人』『マン・レイの謎、その時間と場所』『三條廣道辺り』、編纂レゾネに『Man Ray Equations』『Ephemerons: Traces of Man Ray』(いずれも銀紙書房刊)などがある。京都市在住。

石原輝雄のエッセイ「マン・レイへの写真日記」目次
第1回「アンナ 1975年7月8日 東京」
第1回bis「マン・レイ展『光の時代』 2014年4月29日―5月4日 京都」
第2回「シュルレアリスム展 1975年11月30日 京都」
第3回「ヴァランティーヌの肖像 1977年12月14日 京都」
第4回「青い裸体 1978年8月29日 大阪」
第5回「ダダメイド 1980年3月5日 神戸」
第6回「プリアポスの文鎮 1982年6月11日 パリ」
第7回「よみがえったマネキン 1983年7月5日 大阪」
第8回「マン・レイになってしまった人 1983年9月20日 京都」
第9回「ダニエル画廊 1984年9月16日 大阪」
第10回「エレクトリシテ 1985年12月26日 パリ」
第11回「セルフポートレイト 1986年7月11日 ミラノ」
第12回「贈り物 1988年2月4日 大阪」
第13回「指先のマン・レイ展 1990年6月14日 大阪」
第14回「ピンナップ 1991年7月6日 東京」
第15回「破壊されざるオブジェ 1993年11月10日 ニューヨーク」
第16回「マーガレット 1995年4月18日 ロンドン」
第17回「我が愛しのマン・レイ展 1996年12月1日 名古屋」
第18回「1929 1998年9月17日 東京」
第19回「封印された星 1999年6月22日 パリ」
第20回「パリ・国立図書館 2002年11月12日 パリ」
第21回「まなざしの贈り物 2004年6月2日 銀座」
第22回「マン・レイ展のエフェメラ 2008年12月20日 京都」
第23回「天使ウルトビーズ 2011年7月13日 東京」
第24回「月夜の夜想曲 2012年7月7日 東京」
番外編「新刊『マン・レイへの写真日記』 2016年7月京都」
番外編─2『Reflected; 展覧会ポスターに見るマン・レイ』
番外編─2-2『マン・レイへの廻廊』
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