難波田龍起「絵画への道(4)」
(1978年執筆)

今次の大戦は日本の歴史の上ではじめての悲惨な敗戦に終った。しかし軍部の弾圧から逃れられた美術家達が、与えられた民主主義であったにしても、平和の到来を喜ばない筈はなかった。画壇の民主化も急激に進んだ。われわれの美術創作が自由美術に復帰したのはいうまでもなかった。そしていくつかの公募展も息を吹き返して活発な行動を始めた。昭和二十一年(一九四六)には進歩的な美術家を自由意志で大同団結させる日本美術会が発足し、翌年には待望の日本アンデパンダン展が開かれた。また毎日新聞社は率先して各団体の横のつながりをつけようと団体連合展を都美術館で催したことも画期的なことだった。その一方に個人単位で加入する美術家の相互扶助を目的とした日本美術家連盟が昭和二十四年に創立された。そこらあたりに「全美術家に諮る」という宣言文で、団体解消を説えた松本竣介の志の一端が生きた気もする。
私自身のことをいえば、その頃昭和十九年から勤務していた東宝教育映画の方は、終戦後の無理が祟り胸の疾患で休みがちであった。肉体の衰弱を思うと、むしろ制作意欲がかきたてられた。私の抽象絵画への第一歩はこうして始った。連合展に出品した作品に、キャンバスの裏側にクレパスや油絵具を用いて描いた、生物的なイメージの出ているものがあった。自由美術展に発表した作品には、未だギリシャ的なイメージの残像があった。しかしやがて戦後に復興していった東京の街の諸所に見られた、大空に林立した鉄筋や鉄骨の無機的な美は、私にひどく新鮮に見え、その直線による明快な構成は、新しい制作を方向づけるものだった。熱情をこめて描いた「工場」(一九五一)を自由美術展に出品したが、それは朝日新聞社主催の秀作展に選ばれた。この辺から直線の構成によって、私の造形言語が確立されてゆくように思われた。
昭和二十八年(一九五三)に国立近代美術館で開かれた抽象と幻想展に陳列された「北国の家」は、その頃の代表作品というべく、北海道旭川の私の生れた師団官舎のイメージが描かれている。戦後に彫刻家の新田実、峰孝との三人展を旭川のデパートで催した折、木立を背景としたその官舎を見てきたのである。私の作品は冷たい幾何学的抽象絵画に分類されたようだが、私としては抽象の基礎づけのためのデッサンを沢山試みて、自分なりに抽象の勉強をしたのである。例えば針金を無造作に折り曲げて抽象形体を作り、それをデッサンしたこともある。またその針金に麻紐を巻きつけて石膏のじかづけをして、抽象的な彫像を作り、それをモチーフにして油のタブロオに持っていったりした。そうした初歩的な抽象絵画形成の道程を、日本テレビの美術番組で実演したこともあった。
昭和三十年には「たたかい」や「不安な時代」などを制作して、私の抽象思考も深まっていった。その翌年にはそれらの作品を挿画とした「抽象」(緑地社刊)が出版された。その著書には戦前からの文章も含まれていて、いわば抽象に至るまでの絵画思考の集積であった。この出版にあたって高村光太郎の序文が欲しかったが、光太郎の病篤く、それはかなわぬ無理な注文であった。第二回日本現代美術展に出品するべく三月頃描いていた作品は、光太郎の死去を追悼する意味もあって、「昇天する詩魂」という題名をつけた。
(つづく)

『版画センターニュース』(No.40)1978年7月1日号より
現代版画センター刊


44難波田龍起
「(作品)」
1994年 コラージュ
29.0x20.0cm
Signed

46難波田龍起
「王朝の装い」
1978年 銅版、手彩色
27.0x17.8cm
Ed.35
Signed

47難波田龍起
「聖堂」
1978年 カラー銅版
28.0x18.0cm
Ed.35
Signed

49
難波田龍起
「古風な街」※レゾネNo.106
1978年 エッチング
20.0x15.0cm
E.A.
Signed


●難波田龍起画集のご案内
難波田龍起画集『難波田龍起画集』
1992年 用美社 発行
221ページ 34.7x26.6cm
執筆:難波田龍起、浅野徹、佐藤友哉、正木基
図版:191点
価格20,000円(税別)


難波田龍起画集1927-1983 箱『難波田龍起画集 1927~1983』
1984年 講談社 発行
189ページ 32.5x32.5cm
限定600部
執筆:岡本謙次郎
対談:難波田龍起×針生一郎
図版:148点
装幀:難波田龍起、山崎登
価格25,000円(税別)

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難波田龍起 Tatsuoki NAMBATA(1905-1997)
1905年北海道旭川生まれ。23年高村光太郎を知り生涯私淑する。27年早稲田大学中退。太平洋画会研究所、本郷絵画研究所に学ぶ。川島理一郎主宰の金曜会に入り、仲間と[フォルム]を結成。37年自由美術家協会の創立に参加。78年現代版画センターより銅版画集『街と人』『海辺の詩』を刊行。87年東京国立近代美術館で回顧展を開催。88年毎日芸術賞を受賞。96年文化功労者。97年永逝(享年92)。
ただいま群馬県桐生市の大川美術館で「難波田龍起展~Tコレクションを中心に~」が開催されています(2014年10月4日~ 12月14日)。

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