How I felt with signitures

笹沼俊樹のエッセイ「現代美術コレクターの独り言」 第7回

「“サイン”をもらって感じたこと」


 コレクションを行う過程やそのための学習を重ねている折に出会い、“先達”と仰げ、あるいは、強烈な印象刺激をうけた人には、いつの頃からだったか……、≪サイン≫をしてもらうことが習性になっていた。
 よわいを重ね自分の歩みを振り返った時、“絵画コレクション”で自分のたどった足跡を再確認する大切な拠り所のひとつにもなると思ったからだ。
 今、時折、それらのサインを見ることがある。当時の想い出が次々と湧き出てくる。その頃の美術界の雰囲気、その人と出会った街の光景、そして経済状況までもが再生されてくる。

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 1989年8月9日、モナコのプリンセス・グレース病院で帰らぬ人となったピエール・マティスのサインである。〔巨匠アンリ・マティスの次男:不世出の世界的な大画商:ニューヨークのマンハッタンの中心街に画廊があった〕 Matisseというサインの綴の下あたりに1cm~5mmぐらいの横線を書き添えるのが癖だった。
 これを見ると、まず脳裏をよぎるのは、あのダンディな服装と粋な身のこなしだ。
 未だ無名だったジャン・デュビュッフェ〔1901-85:仏:20世紀の現代美術の巨匠〕を、1947年にニューヨークの彼の画廊で個展を開きアメリカに紹介をした。その後、デュビュッフェは評価を徐々に高め、彼の眼で選んだ極上質の作品は欧米の多くの超一流美術館に収蔵されてゆく。又、デュビュッフェの世界的コレクター、ゴードン・バンシャフトやラルフ・コーリンを育てあげ、さらに、多数のコレクターをアメリカで生みだした。父、アンリ・マティスの遺伝子を引き継いだからか、作品の質を見抜く眼、作品を選択するセンスは天性のもので、頭抜けていた。
 大学生の頃からデュビュッフェに引かれ始め、いつの日か、「デュビュッフェの極上質の初期なかでも、1940年代後半の小品をピエール・マティスから買いたい」と思い始めた。しかし、たかがサラリーマン、どんなに頑張っても、小品しか買えないと思っていた。とにかく、この画廊からデュビュッフェの作品を買えたら、コレクター冥利につきる。〔欧米の美術界では、『ピエールは簡単に作品を売らない』ことで有名だった〕
 ニューヨーク出張の度に、時間があれば必ずピエール・マティス画廊に立ち寄った。何回訪問したか、分らないくらいだ。しかし、本人と面会できるまでに、画廊に初めて足を踏み入れてから、5年もの時間がかかった。そして面会してから、作品を購入するまでに、さらに4年もかかっている。〔苦労して初めて購入した作品は、2014年9月23日~11月3日の間、東京国立近代美術館で展示された〕
 このサインはなくなる約3年4ヶ月前、85才の時に書いてもらったものだ。まだ、その頃、この年齢とは思えない程元気で、才気があった。
 沢山の極上質の作品〔デュビュッフェ、ミロ、バルテュス、カルダー、タンギー、ジャコメッティ……〕を見せてくれた。これが私への無言の教育だったように思えてならない。度々、彼がつぶやいていた言葉を思い出す。
「私は絵画市場での教育者だなんて思ってもないし、又、コレクターにも特に興味をもつでもなく、ただ自分の好みのタイプの作品を売りたいだけだ」

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 1992年6月、出張でデュッセルドルフを訪れた時、「カッセルで、現代美術の大規模な展覧会、≪ドクメンタ≫が開かれている」ことを知った。翌日、土曜日、カッセルに向う。
 デュッセルドルフ駅のプラットフォームで列車を待っていた時、フウッと、「カッセルまで乗り換えは……?」ということが頭をよぎる。駅員を探したが見あたらない。後ろを振り返ると、ベンチで英語のペーパーバックスを読んでいる60才ぐらいの知的な容貌の女性がいた。
「すみません。カッセルに行くのですが、今度の列車は途中で乗り換えがありますか?」
「ええ、ありますわよ」
「なんという駅で?」
「ハーゲンです。私もカッセルに参りますのよ」
「ありがとうございました」
 この対話は、ここでとぎれた。
 一等車に乗り、コンパートメントに入ると、程なく先程対話をした女性が入ってきた。
「ここ、よろしいですか?」
「ええ、どうぞ。先程はありがとうございました」
 列車はこんでなく、このコンパートメントには、彼女と私のみ。
「ドクメンタにいらっしゃるの?」と彼女。なまりのないきれいな英語で話しかけてきた。 「ええ、現代美術に関心を持ってますので……」 これを切っ掛けに対話が始まった。時が経つにつれ、彼女の話の内容は到底シロウトとは思えない程に、専門的になってきた。現代美術に於ける“A・ウォーホールの重要性”、スペイン生れの巨匠“ジョアン・ミロへの評価”。現代美術への造詣が相当に深い。
「ドイツで美術館のキュレーターをなさっているのですか?」
「いいえ」と手短に答え多くを語らない。
 さらに対話は進み、シグマー・ポルケ、アンセルム・キーファー、今はなきドイツ現代美術の巨匠、ヨーゼフ・ボイスの話に入ってきた。驚く程に、ボイスに関して多様なことを細かく知っている。
 列車がカッセルに近づいた頃、突然、亡くなった日の何日か前に、医者のところに連れて行くことになっていたが、都合で行けなかったことを悔やむようにシンミリと語りだした。人を詮索することは失礼と思いながらも、あまりにも生々しくボイスを語るので、「秘書をなさっていたのですか?」と再び尋ねてみた。「いいえ」とのみ答える。
「では、奥様でしょうか……?」
「そうです」
 商業都市独特のあのとてつもなく大きなデュッセルドルフ駅で、あれ程沢山あるプラットフォームの中で、あの一点で、そこに居合せた人に、“乗り換え”のことで尋ねたことが縁でもって、ボイス夫人との偶然の出会いがあったのだ。旅は、きまぐれにも時々、人に見知らぬ世界を与えてくれるものである。
 1992年6月14日の日記帳の部分に、青いボールペンで、Evor Beuysのサインと住所が記されている。

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 別れ際に、「何かボイスについて聞きたいことがあったら、そこに手紙を下さい。今日、楽しかったわ」と一言言いのこして、下車客の中に消えていった。

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 ニューヨーク駐在時に、美術界の多様な動向、注意点、作家の事など多岐にわたって教示、指導をしてくれた河原温。駐在が終わりに近づいた頃、「想い出として、サインをして下さい」と言うと、即座に、「サインはしない」冷たくはねた。理由も言わない。これには、一瞬、表現しようのない程驚いた。あれだけ親しかったのに、なぜ?
 日本に帰国し、この事の記憶が薄らえ始めた頃、突然一通の電報が彼から届いた。
“I’m still alive”〔まだ元気にやってます〕
 これが彼の流儀なのだろう。「オレはコスモポリタンだ」といつも口癖のように彼は言っていたが、やはり、心の奥は日本人だったようだ。
 アメリカの女性現代美術作家、キキ・スミス〔1954- 〕のクールな作品の切れ味は、かなり前から気になっていた。作品制作で彼女は2種のパターンを追っていた。ひとつは日本でもよく知られているジェンダーの作品〔ボディアート〕。私が関心を持ったのは、これではなく、もうひとつのパターン。非常にクールなポエティックな作品群であった。
 この種の作品を1点、ペース画廊で購入した。ある時、「キキ・スミスの個展があるので、オープニングに来ませんか?」とペース画廊の当時のディレクター、バックスターに言われ出てみた。この時、ものすごく美しい、凝った手づくりのようなカタログを作った。展覧会の内容は非常に充実していて見ごたえがあった。ボディアートの作品とポエティックな作品と半々ぐらいで構成されていた。
 このオープニングにキキも来ていた。バックスターが彼女に、「あなたの作品を購入しているコレクターですよ」と紹介した。
 その時、カタログを差し出し、「ここにサインをして下さい」と言うと、冷めたい眼差しを向け、「サインはいたしません」と一言。その印象的な表情に接した時、咄嗟(とっさ)に感じたことは、彼女の作品からいつもうける、あの「人を突き放すようなクールさ」だった。

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 今迄に、“サイン”をもらった人は作家で4人〔米国2人・日本2人:日本人2人は既に他界〕、画商で6人〔米国3人・仏国3人〕、そしてボイス夫人〔独国〕。サインを取得したのは合計11名。残念ながらコレクターはいなかった。
 コレクションを行う過程の何十年という期間に、数え切れない程の作家、画商、コレクターに出会っている。しかし、今思うと、これ程に、「集まった“サイン”が少ない」という事は、何を意味しているのか……?
 極めて強い個性や独創的な行動をしている人に引きつけられて、サインをねだったのだ。人のに同じものがないように、個性も人によって異なる。
 「もらったサインが少ない」ということは、私の心に響く個性が希少になりつつあるのでは……。
 アメリカの社会学者、デビット・リースマンが問題にしていた現代社会特有の“顔のない社会”の一現象が美術界にも発生し始めたか……。金太郎飴のような社会ではやりきれない。感性が重要な世界は、個性が最大の武器なのだが……。

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☆もし、さらに、ピエール・マティスの事を知りたい読者は、拙著『現代美術コレクションの楽しみ』(三元社)の〔60頁~104頁〕の<「売約済みです」―ピエール・マティスの想い出>を御一読ください。

(ささぬまとしき)

笹沼俊樹 Toshiki SASANUMA(1939-)
1939年、東京生まれ。商社で東京、ニューヨークに勤務。趣味で始めた現代美術コレクションだが、独自にその手法を模索し、国内外の国公立・私立美術館等にも認められる質の高いコレクションで知られる。企画展への作品貸し出しも多い。駐在中の体験をもとにアメリカ企業のメセナ活動について論じた「メセナABC」を『美術手帖』に連載。その他、新聞・雑誌等への寄稿多数。
主な著書:『企業の文化資本』(日刊工業新聞社、1992年)、「今日のパトロン、アメリカ企業と美術」『美術手帖』(美術出版社、1985年7月号)、「メセナABC」『美術手帖』(美術出版社、1993年1月号~12月号、毎月連載)他。

※笹沼俊樹さんへの質問、今後エッセイで取り上げてもらいたい事などございましたら、コメント欄よりご連絡ください。

●書籍のご紹介
笹沼俊樹『現代美術コレクションの楽しみ』笹沼俊樹
『現代美術コレクションの楽しみ―商社マン・コレクターからのニューヨーク便り』

2013年
三元社 発行
171ページ
18.8x13.0cm
税込1,944円(税込)
※送料別途250円

舞台は、現代美術全盛のNY(ニューヨーク)。
駆け出しコレクターが摩天楼で手にしたものは…
“作品を売らない”伝説の一流画廊ピエール・マティスとのスリリングな駆け引き、リーマン・ブラザーズCEOが倒産寸前に売りに出したコレクション!? クセのある欧米コレクターから「日本美術」を買い戻すには…。ニューヨーク画商界の一記録としても貴重な前代未聞のエピソードの数々。趣味が高じて、今では国内外で認められるコレクターとなった著者がコレクションの醍醐味をお届けします。(本書帯より転載)

目次(抄):
I コレクションは病
II コレクションの基礎固め
III 「売約済みです」―ピエール・マティスの想い出
IV 従来のコレクション手法を壊し、より自由に―ジョエル・シャピロのケース
V 欧米で日本の美を追う

◆ときの忘れもののブログは下記の皆さんのエッセイを連載しています。
 ・大竹昭子のエッセイ「迷走写真館 一枚の写真に目を凝らす」は毎月1日の更新です。
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  同じく植田実のエッセイ「生きているTATEMONO 松本竣介を読む」は終了しました。
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 ・故・針生一郎の「現代日本版画家群像」の再録掲載は終了しました。
 ・森下泰輔のエッセイ「私のAndy Warhol体験」は終了しました。
 ・ときの忘れものでは2014年からシリーズ企画「瀧口修造展」を開催し、関係する記事やテキストを「瀧口修造の世界」として紹介します。土渕信彦のエッセイ「瀧口修造とマルセル・デュシャン」、「瀧口修造の箱舟」と合わせてお読みください。

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●今日のお勧め作品は瀧口修造です。
20141109_takiguchi2014_III_32瀧口修造
「III-32」
デカルコマニー、紙
Image size: 18.0x13.0cm
Sheet size: 26.2x19.1cm
※III-33と対


20141109_takiguchi2014_III_33瀧口修造
「III-33」
デカルコマニー、紙
Image size: 18.0x13.2cm
Sheet size: 26.3x19.2cm
※III-32と対


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