マルセル・デュシャンとマルチプル~その2
工藤香澄
デュシャン再評価とマルチプル
さて、《グリーン・ボックス》を制作した後も、いくつかデュシャンはマルチプルの取り組みを行った。その中でも「デュシャンのマルチプル」を特徴付ける重要な試みは二つある。一つは他者によるレプリカ制作、もう一つはミラノの画商で、デュシャンの研究者であるアルトゥーロ・シュワルツとの1964年の共同制作である。実は、自作の再制作そのものは、デュシャンだけではなくニューヨーク・ダダの友人、マン・レイらも行っている。もちろん、マルチプル制作も画期的なことではあったが、デュシャンはそれをさらに押し進め、他者による制作も寛容に受け入れているのである。そして、1960年代以降に行われたこれらマルチプル制作は、デュシャンが再評価され、現代美術史に明確に位置づけられることと軌を一にしている点にも注目したい。まずは、デュシャンの再評価に至った流れを確認し、1960年のウルフ・リンデによるレプリカ制作と、1964年のシュワルツと共同のマルチプル制作について述べたい。
1954年にフィラデルフィア美術館において、アレンズバーグ・コレクションに含まれるデュシャンの多くの作品が展示された。さらに、ロベール・ルベルによるモノグラフと、カタログ・レゾネ、デュシャンの著作をまとめた『塩売りの商人』、『独身者によって裸にされた花嫁、さえも』の英訳が次々に出版される。限定版であった《グリーン・ボックス》と異なり、これらの著作物は広く普及したため、デュシャン研究が大きく前進する。
こうした背景の下に、1960年にスウェーデンのデュシャンの研究者であるウルフ・リンデが、出版された写真と記録のみを用いて、デュシャンの許可なくレディメイドと《大ガラス》のレプリカの制作を行い、展覧会を開催した。デュシャンはこの展覧会を訪れ、レプリカに署名をしている。デュシャン自身、他者によって複製可能であるというアイディアを面白がったのだろうか。芸術作品のオリジナル神話を破壊する意図もあったためだろうが、デュシャンは鷹揚に受け入れている。
1964年にはシュワルツが、デュシャンのレプリカに着目した展覧会を企画し、デュシャンも参加している。この展示に際して、14種のレプリカを再制作、販売を行った。デュシャンはサイズ、それぞれの値段、展示の仕方について考え、14種をそれぞれ異なる職人に作らせた。細部までオリジナルに正確なマルチプルを制作しようとし、1種ずつ、ドローイングと詳細な計画が練られ、その一枚一枚にデュシャンが署名をしている。今日、私たちが目にする多くのデュシャン作品は、このシュワルツ版の普及に拠るところが大きい。
もちろん、商業主義的なマルチプルのあり方には賛否両論がおきた。こうした声に応えるように、今までほとんど公に口を開かなかったデュシャンは、積極的にインタビューなどに応じるようになる。デュシャンによる言葉は、レディメイドや《大ガラス》などを制作していた1910年代ではなく、この頃が圧倒的に多い。また、1950年代後半より隆盛になったネオ・ダダの創始や、デュシャン研究の進展が相まって、デュシャンの評価は決定的となった。
瀧口修造とマルセル・デュシャン
さて最後に、デュシャンのマルチプルの広がりとして、瀧口修造の《檢眼圖》と《大ガラス》(東京ヴァージョン)について触れたい。デュシャンの再評価と呼応するように、世界中でデュシャンのオマージュ制作が様々に行われていった。日本に目を向けると、デュシャン受容は比較的早かったといってよい。瀧口は、ブルトンの「花嫁の燈台」にいち早く反応し、3年後の1938年、雑誌『みづゑ』に「マルセル・デュシャン」を発表した。詩人であり、戦前戦後を通じて日本を代表する美術評論家であった瀧口は、デュシャンを本格的に日本に紹介する、決定的な役割を果たした人物である。1958年には、予期せぬデュシャンとの出会いを果たし、二人に交流が生まれ、1960年代以降の瀧口の活動に大きな影響を与えた。
1977年に、瀧口は大ガラス下部(独身者の領域)の右端にある、「眼科医の商人」と呼ばれる3つの楕円と「マンダラ」という部分を立体化したオブジェを制作し、《檢眼圖》と名づける。既にデュシャンは亡くなっており、当初瀧口は、未亡人のティニー・デュシャンに贈るために、小部数限定で制作するつもりだったようだ。制作を実行するにあたって、オブジェ作家として広く知られた岡崎和郎が選ばれている。本作の面白さは、《大ガラス》において楕円に描かれた円を、再び二次元の平面に戻して、三次元のオブジェにした点にある。デュシャンがメモ集《不定法で》のなかで四次元について論じていることからも分かるように、《大ガラス》は次元の問題と深い関わりがある。瀧口はこの作品を通して、次元に関するデュシャンの言葉を再解釈したと見ることもできよう。
さて、もう一つ瀧口が深く携わった重要な作品として、《大ガラス》のレプリカ(東京ヴァージョン)が挙げられる。1976年、東京大学が創立100周年を迎えるにあたり、《大ガラス》のレプリカを制作する計画が持ち上がった。この時、ティニー夫人は、瀧口と東野芳明両名を監修に付けることを条件に、制作を許可している。1926年に破損する以前の《大ガラス》を復元するというコンセプトのもと、計画はスタートした。瀧口は、荒川修作からもらった葉巻の空き箱のなかに《大ガラス》やデュシャンについて記したメモをためこみ、打ち合わせの際に時々目を通していたという。これが通常《シガー・ボックス》と呼ばれるメモ集である。しかし、瀧口は1979年に世を去り、《大ガラス》は1980年に完成した。
芸術のオリジナル神話に対し、懐疑的な態度をとっていたマルセル・デュシャン。
芸術家をやめることで伝説になった彼が、複製可能なマルチプルをもって、決定的に美術史に名を刻むようになるとは、極めてデュシャンらしい皮肉な振る舞いであり、運命である。
(くどう・かすみ/横須賀美術館主任学芸員)
■工藤香澄(くどう・かすみ)
2004年慶應義塾大学美学美術学前期博士課程終了。同年、横須賀市教育委員会美術館開設準備室学芸員。2007年横須賀美術館学芸員。主な展覧会として、2007年『開館記念<生きる>展 現代作家9人のリアリティ』2009年『芥川紗織展』、2009年『白髪一雄展 格闘から生まれた絵画』、2011年『生誕100年 川端実展 東京―ニューヨーク』、2013年『街の記憶―写真と現代美術でたどるヨコスカ』、2014年『小林孝亘展―私たちを夢見る夢』。
●下記の作品は開催中の「瀧口修造展 III―瀧口修造とマルセル・デュシャン」に出品しています。
出品No.13)
瀧口修造
《シガー・ボックス》
(千葉市美術館、p.203 No.229)
葉巻の箱、メモ、写真、他
21.5x16.5x3.6cm ※参考出品
出品No.16)
瀧口修造・岡崎和郎
《檢眼圖》
(千葉市美術館、p.185 No.205)
1977年
シルクスクリーン、アクリル板、レンズ、アルミニウム
26.0x26.0x26.0cm ※参考出品
出品No.17)
マルセル・デュシャン
《彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも(グリーン・ボックス)》(千葉市美術館、p.94 No.4)
1934年
メモ、図面、作品等の複製、写真、箱
33.2x28.0x2.5cm ※参考出品
出品No.18)
マルセル・デュシャン
《大ガラス》
1967年
エッチング
アクリルケース:43.3x27.7x7.1cm
Ed.150
マルセル・デュシャンと著者の自筆サインあり
こちらの作品の見積り請求、在庫確認はこちらから
※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください。
◆ときの忘れものは2014年11月5日[水]―11月22日[土]「瀧口修造展 III 瀧口修造とマルセル・デュシャン」を開催しています(*会期中無休)。

1月と3月に続く3回展です。
瀧口修造のデカルコマニー、ドローイング、《シガー・ボックス》、《シガー・ボックス TEN-TEN》、《扉に鳥影》、マルセル・デュシャンの《グリーン・ボックス》、オリジナル銅版画『大ガラス』、奈良原一高の写真《デュシャン 大ガラス》連作、瀧口修造・岡崎和郎《檢眼圖》をご覧いただき、瀧口とデュシャンとの交流の実相と精神的な絆の一端を明らかにします。
●11月15日(土)17時より土渕信彦さん(瀧口修造研究)によるギャラリー・トークを開催します。
*要予約(会費1,000円)
※必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記の上、メールにてお申込ください。
E-mail. info@tokinowasuremono.com
●デカルコマニー47点を収録したカタログ『瀧口修造展Ⅱ』(テキスト:大谷省吾)を刊行しました(2,160円+送料250円)。
2014年 ときの忘れもの 発行
64ページ 21.5x15.2cm
執筆:大谷省吾「瀧口修造のデカルコマニーをめぐって」
再録:瀧口修造「百の眼の物語」(『美術手帖』216号、1963年2月、美術出版社)
ハードカバー
英文併記
『瀧口修造展Ⅰ』と合わせご購読ください。
工藤香澄
デュシャン再評価とマルチプル
さて、《グリーン・ボックス》を制作した後も、いくつかデュシャンはマルチプルの取り組みを行った。その中でも「デュシャンのマルチプル」を特徴付ける重要な試みは二つある。一つは他者によるレプリカ制作、もう一つはミラノの画商で、デュシャンの研究者であるアルトゥーロ・シュワルツとの1964年の共同制作である。実は、自作の再制作そのものは、デュシャンだけではなくニューヨーク・ダダの友人、マン・レイらも行っている。もちろん、マルチプル制作も画期的なことではあったが、デュシャンはそれをさらに押し進め、他者による制作も寛容に受け入れているのである。そして、1960年代以降に行われたこれらマルチプル制作は、デュシャンが再評価され、現代美術史に明確に位置づけられることと軌を一にしている点にも注目したい。まずは、デュシャンの再評価に至った流れを確認し、1960年のウルフ・リンデによるレプリカ制作と、1964年のシュワルツと共同のマルチプル制作について述べたい。
1954年にフィラデルフィア美術館において、アレンズバーグ・コレクションに含まれるデュシャンの多くの作品が展示された。さらに、ロベール・ルベルによるモノグラフと、カタログ・レゾネ、デュシャンの著作をまとめた『塩売りの商人』、『独身者によって裸にされた花嫁、さえも』の英訳が次々に出版される。限定版であった《グリーン・ボックス》と異なり、これらの著作物は広く普及したため、デュシャン研究が大きく前進する。
こうした背景の下に、1960年にスウェーデンのデュシャンの研究者であるウルフ・リンデが、出版された写真と記録のみを用いて、デュシャンの許可なくレディメイドと《大ガラス》のレプリカの制作を行い、展覧会を開催した。デュシャンはこの展覧会を訪れ、レプリカに署名をしている。デュシャン自身、他者によって複製可能であるというアイディアを面白がったのだろうか。芸術作品のオリジナル神話を破壊する意図もあったためだろうが、デュシャンは鷹揚に受け入れている。
1964年にはシュワルツが、デュシャンのレプリカに着目した展覧会を企画し、デュシャンも参加している。この展示に際して、14種のレプリカを再制作、販売を行った。デュシャンはサイズ、それぞれの値段、展示の仕方について考え、14種をそれぞれ異なる職人に作らせた。細部までオリジナルに正確なマルチプルを制作しようとし、1種ずつ、ドローイングと詳細な計画が練られ、その一枚一枚にデュシャンが署名をしている。今日、私たちが目にする多くのデュシャン作品は、このシュワルツ版の普及に拠るところが大きい。
もちろん、商業主義的なマルチプルのあり方には賛否両論がおきた。こうした声に応えるように、今までほとんど公に口を開かなかったデュシャンは、積極的にインタビューなどに応じるようになる。デュシャンによる言葉は、レディメイドや《大ガラス》などを制作していた1910年代ではなく、この頃が圧倒的に多い。また、1950年代後半より隆盛になったネオ・ダダの創始や、デュシャン研究の進展が相まって、デュシャンの評価は決定的となった。
瀧口修造とマルセル・デュシャン
さて最後に、デュシャンのマルチプルの広がりとして、瀧口修造の《檢眼圖》と《大ガラス》(東京ヴァージョン)について触れたい。デュシャンの再評価と呼応するように、世界中でデュシャンのオマージュ制作が様々に行われていった。日本に目を向けると、デュシャン受容は比較的早かったといってよい。瀧口は、ブルトンの「花嫁の燈台」にいち早く反応し、3年後の1938年、雑誌『みづゑ』に「マルセル・デュシャン」を発表した。詩人であり、戦前戦後を通じて日本を代表する美術評論家であった瀧口は、デュシャンを本格的に日本に紹介する、決定的な役割を果たした人物である。1958年には、予期せぬデュシャンとの出会いを果たし、二人に交流が生まれ、1960年代以降の瀧口の活動に大きな影響を与えた。
1977年に、瀧口は大ガラス下部(独身者の領域)の右端にある、「眼科医の商人」と呼ばれる3つの楕円と「マンダラ」という部分を立体化したオブジェを制作し、《檢眼圖》と名づける。既にデュシャンは亡くなっており、当初瀧口は、未亡人のティニー・デュシャンに贈るために、小部数限定で制作するつもりだったようだ。制作を実行するにあたって、オブジェ作家として広く知られた岡崎和郎が選ばれている。本作の面白さは、《大ガラス》において楕円に描かれた円を、再び二次元の平面に戻して、三次元のオブジェにした点にある。デュシャンがメモ集《不定法で》のなかで四次元について論じていることからも分かるように、《大ガラス》は次元の問題と深い関わりがある。瀧口はこの作品を通して、次元に関するデュシャンの言葉を再解釈したと見ることもできよう。
さて、もう一つ瀧口が深く携わった重要な作品として、《大ガラス》のレプリカ(東京ヴァージョン)が挙げられる。1976年、東京大学が創立100周年を迎えるにあたり、《大ガラス》のレプリカを制作する計画が持ち上がった。この時、ティニー夫人は、瀧口と東野芳明両名を監修に付けることを条件に、制作を許可している。1926年に破損する以前の《大ガラス》を復元するというコンセプトのもと、計画はスタートした。瀧口は、荒川修作からもらった葉巻の空き箱のなかに《大ガラス》やデュシャンについて記したメモをためこみ、打ち合わせの際に時々目を通していたという。これが通常《シガー・ボックス》と呼ばれるメモ集である。しかし、瀧口は1979年に世を去り、《大ガラス》は1980年に完成した。
芸術のオリジナル神話に対し、懐疑的な態度をとっていたマルセル・デュシャン。
芸術家をやめることで伝説になった彼が、複製可能なマルチプルをもって、決定的に美術史に名を刻むようになるとは、極めてデュシャンらしい皮肉な振る舞いであり、運命である。
(くどう・かすみ/横須賀美術館主任学芸員)
■工藤香澄(くどう・かすみ)
2004年慶應義塾大学美学美術学前期博士課程終了。同年、横須賀市教育委員会美術館開設準備室学芸員。2007年横須賀美術館学芸員。主な展覧会として、2007年『開館記念<生きる>展 現代作家9人のリアリティ』2009年『芥川紗織展』、2009年『白髪一雄展 格闘から生まれた絵画』、2011年『生誕100年 川端実展 東京―ニューヨーク』、2013年『街の記憶―写真と現代美術でたどるヨコスカ』、2014年『小林孝亘展―私たちを夢見る夢』。
●下記の作品は開催中の「瀧口修造展 III―瀧口修造とマルセル・デュシャン」に出品しています。
出品No.13)瀧口修造
《シガー・ボックス》
(千葉市美術館、p.203 No.229)
葉巻の箱、メモ、写真、他
21.5x16.5x3.6cm ※参考出品
出品No.16)瀧口修造・岡崎和郎
《檢眼圖》
(千葉市美術館、p.185 No.205)
1977年
シルクスクリーン、アクリル板、レンズ、アルミニウム
26.0x26.0x26.0cm ※参考出品
出品No.17)マルセル・デュシャン
《彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも(グリーン・ボックス)》(千葉市美術館、p.94 No.4)
1934年
メモ、図面、作品等の複製、写真、箱
33.2x28.0x2.5cm ※参考出品
出品No.18)マルセル・デュシャン
《大ガラス》
1967年
エッチング
アクリルケース:43.3x27.7x7.1cm
Ed.150
マルセル・デュシャンと著者の自筆サインあり
こちらの作品の見積り請求、在庫確認はこちらから
※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください。
◆ときの忘れものは2014年11月5日[水]―11月22日[土]「瀧口修造展 III 瀧口修造とマルセル・デュシャン」を開催しています(*会期中無休)。

1月と3月に続く3回展です。
瀧口修造のデカルコマニー、ドローイング、《シガー・ボックス》、《シガー・ボックス TEN-TEN》、《扉に鳥影》、マルセル・デュシャンの《グリーン・ボックス》、オリジナル銅版画『大ガラス』、奈良原一高の写真《デュシャン 大ガラス》連作、瀧口修造・岡崎和郎《檢眼圖》をご覧いただき、瀧口とデュシャンとの交流の実相と精神的な絆の一端を明らかにします。
●11月15日(土)17時より土渕信彦さん(瀧口修造研究)によるギャラリー・トークを開催します。
*要予約(会費1,000円)
※必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記の上、メールにてお申込ください。
E-mail. info@tokinowasuremono.com
●デカルコマニー47点を収録したカタログ『瀧口修造展Ⅱ』(テキスト:大谷省吾)を刊行しました(2,160円+送料250円)。
2014年 ときの忘れもの 発行64ページ 21.5x15.2cm
執筆:大谷省吾「瀧口修造のデカルコマニーをめぐって」
再録:瀧口修造「百の眼の物語」(『美術手帖』216号、1963年2月、美術出版社)
ハードカバー
英文併記
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