「瀧口修造とマルセル・デュシャン」第5回
土渕信彦
5.「デュシャンのロート・レリーフ」(1956年3月)
今回採り上げる「デュシャンのロート・レリーフ」は、1956年3月に「美術手帖」誌の巻頭に掲載された論考である(図5-1)。前々回、前回と見てきた「マルセル・デュシャン」(38年10月)および「異色作家列伝」の「デュシャン」(55年12月)に続く、瀧口として3本目のデュシャン論ということになる。なお、今日では「ロト・レリーフ」と表記されることが多いようなので、以下、引用の文中も含めて、こちらの表記に統一する。
図5-1
「美術手帖」1956年3月号
このロト・レリーフ論は、本文1頁、図版頁を合わせてもわずか3頁の小さな論考である。図版2頁のうち1頁はカラー縮小図版2点に当てられ(図5-2)、残りの1頁にはモノクロ縮小図版2点とその使用法の写真が掲載されている(図5-3)。
図5-2
「デュシャンのロート・レリーフ」カラー図版頁
図5-3
同、モノクロ図版および本文頁
この小論を採り上げるのは、もちろんデュシャンと瀧口との関係を考える上で見落とすことのできない、重要な論考と思われるからであるが、数ヶ月前に発表した「異色作家列伝」の「デュシャン」でも、(図版入りで)ある程度詳しくロト・レリーフを紹介したばかりなのに、改めてここでスポットを当てて論じたのは何故なのか、理由や背景を探ってみたいからでもある。まずロト・レリーフの定義に当たる個所を確認すると、以下のとおりである。
「デュシャンはいろいろなオブジェをつくっているが、『ロト・レリーフ』Roto-Reliefはメカニズムと視覚的な錯覚を利用した発明品的な性格をもったものである。ロト・レリーフは直訳すれば、『回転浮彫』であるが、単にデュシャンのディスクとも呼ばれている。蓄音機のレコードのような厚紙の円盤に、黒、赤、青、緑などで円を基調としたデザインが描かれている。それを回転すると円盤の上のデザインの形に想いがけない遠近や立体感があらわれ、また形そのものが空間のなかで動いている錯覚をよびおこす。」
続けて、デザイン、色彩、回転速度などによるさまざまな視覚的な効果やタイトルのユーモアにも触れた上で、次のように結ばれている。
「このロト・レリーフはさまざまなヴァリエーションが考えられるので、読者諸君は自分で工夫して見られるのもおもしろいだろう。」(『コレクション』3巻91頁)
アルトゥーロ・シュワルツのカタログ・レゾネなどから事実関係を少し補足しておくと、ロト・レリーフは、回転ないし円盤を用いた一連の作品の最終形として、1935年にデュシャンが考案した一種の(今日の言葉でいう)マルチプルで、35年9月30日から10月7日に開催された、素人発明家の見本市であるパリのレピヌ発明展に出品された(図5-4)。
この会期を「9月30日から10月7日」とするのは、シュワルツのレゾネに従ったものだが、デュシャン自身の回想では、同展は1ヶ月間、開いており、一日中そこにいたくはなかったので、秘書まで雇ったとしている(『デュシャンは語る』ちくま学芸文庫)。一般公開の日を「8月30日」とするカルバン・トムキンスの評伝(後出)の方が、デュシャンの回想には合っているようである。
この時にデュシャンは、実際にロト・レリーフを販売しようと大真面目に考えてブースを1つ借り、アンリ=ピエール・ロシェからの資金援助をもとに、直径20㎝の厚紙の両面にカラー・オフセット印刷された、12種6枚1組のセットを500セット作って臨んだのだが、ロシェの回想では、友人に売れた2セット以外では、ふりの客にバラで1枚しか売れなかった。デュシャンは「しくじったな。100パーセントしくじった。すくなくとも、それだけはたしかだよ」(木下哲夫訳カルバン・トムキンス『マルセル・デュシャン』)と微笑んだそうである。左のブースはゴミ圧縮機と焼却炉、右は瞬間野菜カッターだったそうなので、その間に挟まれていては、非実用的で訳のわからない、玩具のようなものと思われたとしても、無理はなかったかもしれない。
図5-4
レピヌ発明展でのデュシャンとロシェ(《LA VIE ILLUSTRÉE DE MARCEL DUCHAMP avec 12 dessins d’André RAFFRAY》Centre National d’Art de Culture Georges Pompidou,1977より)
ロト・レリーフはその後、ロンドンのシュルレアリスム国際展(36年)、ニューヨークの幻想芸術・ダダ・シュルレアリスム展(同年)などで展示された(第2次大戦中に約300セットが失われた)。53年にはニューヨークで同じ図柄のものが1000セット作られている(ただしそのうち約600セットは破損した)。35年の元版はプラスチック製ホルダー入りで、12種それぞれに「ROTORELIEF No.1~12」という番号と図柄のタイトルが印刷されていたのに対し、53年版は厚紙のホルダー入りで、図柄の番号は省かれ、タイトルのみとなっている。両版ともに無署名・無記番。
さらにその後、53年版の残部にサインを入れて、59年にパリで100セット、63年にニューヨークで5セットが販売された。この頃からマルチプルとしての位置付けが定まってきたといえるかもしれない。さらに65年にミラノで150セットが作られている(63年版の再制作)。59年版以降はターンテーブル付きとなるが、59年版と65年版は上面が、63年版は側面が回転するタイプのようである。
以上が経緯の概略である。今日から振り返ると、ロト・レリーフはマルチプルの先駆的な作品であったばかりでなく、機械による動きを導入した点でキネティック・アートの嚆矢とも考えられている。同様の作品としてデュシャン自身の「回転ガラス板」(図5-5)や「回転半球」(図5-6)、ナウム・ガボのモーターを使った彫刻、モホリ=ナジの動く立体、アレクサンダー・カルダーの「モビール」、ブルーノ・ムナーリの「役に立たない機械」なども挙げられる。ただし、しばしばキネティック・アートの最初の展覧会と位置付けられる、パリのドゥニーズ・ルネ画廊の「動き」展(55年4月)に出品されたのは「回転半球」で、ロト・レリーフは展示されなかったようである。
図5-5
デュシャン
「回転ガラス板」
1920年(マン・レイとの共作)
図5-6
デュシャン
「回転半球」
1925年
前置きが長くなったが、以上で見てきたとおり、この小論が発表された50年代中頃では、ロト・レリーフは「大ガラス」やレディ・メードのオブジェ、さらには初期の油彩画などと比べ、デュシャンに関心を持つ人にとってもそれほど注意を惹く存在ではなかったのではなかろうか。上記の53年版を紹介する雑誌記事などが瀧口の眼に留まっていた可能性はあるが、だからといって、このロト・レリーフ論を執筆するものでもないように思われる。この当時、瀧口がわざわざ論じたのは何故だったのだろうか?
直接的な動機や理由はもちろん判らないが、1938年のニュース映画のなかで、回転する螺旋の映像を観た体験がおおもとにあるのは確かだろう。第3回で触れた「マルセル・デュシャン」(「みづゑ」、38年10月。図5-7,8)の冒頭近くに、次のように記されている。
「先頃パラマウント・ニュースの『巴里超現実主義展』を見た人は、その最初のカットで、回転する螺線(ママ)が飛び出してくるような印象を経験したであろう。それがデュシャンのロト・レリーフの一つである」(『コレクション』12巻510頁)
図5-7
「みづゑ」1938年9月号
図5-8
同「マルセル・デュシャン」
ここで言及されているパリのシュルレアリスム国際展(38年)には、ロト・レリーフは出品されていないはずなので、引用で「ロト・レリーフの一つ」と記されている作品は、この頃にはまだ呼称が定まっていなかった「回転半球」だったのかもしれない。いずれにせよ、このニュース映画のなかの回転する螺旋が飛び出してくるような映像が、瀧口に鮮烈な印象を残したことは間違いないだろう。翌39年4月に多摩帝国美術学校図案科会の機関誌”DESEGNO”No.9に発表された「機能の限界に立って」にも、次のような記述が見られる(初出誌未見)。
「デュシャンの考案したロト・レリーフ(レコードのように廻転することによって造型的な錯覚を与えるディスク)を眼鏡屋のウィンドウに装置することを思いつくのは私だけではなかろう。(中略)ロト・レリーフの原型のごときものは理髪店の看板にも見出すことが出来る。彼等は昔ながらの優雅な紋章をモーターで廻転する。そこに大衆的な『オブジェ・モビール』が出来上る」(『コレクション』13巻101頁)
さらに注目されるのは、最初に引用した、このロト・レリーフ論の末尾の「読者諸君は自分で工夫して見られるのもおもしろいだろう」の一節である。この言葉は直接的には、美術家たちを中心とする読者に対して、自由に創意工夫したロト・レリーフの自作を促したものだが、具体や実験工房などの活動があったにせよ、当時の真面目な絵画、彫刻が主流の美術界に対して、デュシャンの発想や工夫の実例を紹介し、より自由な制作のあり方を例示したのかもしれない。「美術手帖」誌61年1月号(図5-9,10)に掲載された、山口勝弘との対談「作家研究 マルセル・デュシャン ダダの神様!既成芸術を嘲笑する」の末尾の次の言葉も、同様の趣旨と思われる。
「デュシャンは老いたけれど、この精神の流れはいまの若い人たちに受けつがれている、いやもっと受けついでほしいと思うのですよ。」
この対談は、残念ながら『コレクション』には再録されていないようであるが、デュシャンの主な仕事について、「どうも面白いのがつぎつぎに出てきますね(笑)」(瀧口)と論じ合った、たいへん楽しい対談である(図版多数)。付録として両面カラー印刷されたロト・レリーフの縮小版も挿入されている。ご紹介しておきたい。
図5-9
「美術手帖」1961年1月号
図5-10
同「作家研究 マルセル・デュシャン」
また、このロト・レリーフ論を発表したのは、芸術とテクノロジーとの関わり方の一つを例示する趣旨だったのかもしれない。技術の追求に陥りがちになる危険性を見通し、ロト・レリーフのような血の通ったユーモアのある関わり方を示したとも考えられるだろう。掲載された4点の図版も(図5-11,12)、抽象的な図柄のものではなく、具体物を連想させるユーモラスなタイトルのものが選ばれているようである。
図5-11
ロト・レリーフ「支那の提灯」と「花冠」
図5-12
同「日本の魚」と「ボヘミア・グラス」
テクノロジーに関わりながら、同時にユーモアの精神を併せ持っている作家といえば、まずムナーリを挙げてもそれほど異論はないだろう。58年の欧州旅行の際に瀧口がムナーリと意気投合したのは、この旅行のハイライトの一つだったと思われるが、交友を深める発端となったのは、二人に共通するデュシャンへの敬意だったのかもしれない。
その後60年代に入り、瀧口が造形の領域でドローイングやデカルコマニーなどのさまざまな試みを開始してからは、ロト・レリーフはさらに重要な意味を持つようになり、具体的な成果ももたらしている。一連の「ロトデッサン」の試みである(図5-13~16)。これは上記の引用で読者に制作を促していたロト・レリーフの「ヴァリエーション」を、自ら実践したものとも考えられるだろう。
図5-13
瀧口修造
《PREMIERS ROTO-DESSINS ESSAIS》
1963年
図5-14
「ロトデッサン」年代不詳
図5-15
「ロトデッサン」年代不詳
図5-16
「ロトデッサンとバラとデュシャンのプリフィール」1968年頃
欧州旅行から帰国してからデュシャンとの文通が始まったのだが、64年3月29日頃の書簡で瀧口は、「卓上ミキサーのモーターでほんの数秒で制作した」と述べながら、デュシャンに対してロトデッサンを献呈している。他にデュシャン夫人のティニー・デュシャンやジャン・ティンゲリーにもロトデッサンが贈呈されているようである(図5-17,18)。初めてロトデッサンの着想を得た際に、デュシャンのロト・レリーフが視野に入っていたのは間違いないと思われる。(続く)
図5-17
「ロトデッサン」(ティニー・デュシャン宛て)
1977年
図5-18
ティンゲリー宛てロトデッサンの添え書き
1963年
(つちぶちのぶひこ)
●今日のお勧め作品は瀧口修造です。
瀧口修造
「I-34」
水彩、インク、紙
イメージサイズ:34.2×23.6cm
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※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください。
土渕信彦
5.「デュシャンのロート・レリーフ」(1956年3月)
今回採り上げる「デュシャンのロート・レリーフ」は、1956年3月に「美術手帖」誌の巻頭に掲載された論考である(図5-1)。前々回、前回と見てきた「マルセル・デュシャン」(38年10月)および「異色作家列伝」の「デュシャン」(55年12月)に続く、瀧口として3本目のデュシャン論ということになる。なお、今日では「ロト・レリーフ」と表記されることが多いようなので、以下、引用の文中も含めて、こちらの表記に統一する。
図5-1「美術手帖」1956年3月号
このロト・レリーフ論は、本文1頁、図版頁を合わせてもわずか3頁の小さな論考である。図版2頁のうち1頁はカラー縮小図版2点に当てられ(図5-2)、残りの1頁にはモノクロ縮小図版2点とその使用法の写真が掲載されている(図5-3)。
図5-2「デュシャンのロート・レリーフ」カラー図版頁
図5-3同、モノクロ図版および本文頁
この小論を採り上げるのは、もちろんデュシャンと瀧口との関係を考える上で見落とすことのできない、重要な論考と思われるからであるが、数ヶ月前に発表した「異色作家列伝」の「デュシャン」でも、(図版入りで)ある程度詳しくロト・レリーフを紹介したばかりなのに、改めてここでスポットを当てて論じたのは何故なのか、理由や背景を探ってみたいからでもある。まずロト・レリーフの定義に当たる個所を確認すると、以下のとおりである。
「デュシャンはいろいろなオブジェをつくっているが、『ロト・レリーフ』Roto-Reliefはメカニズムと視覚的な錯覚を利用した発明品的な性格をもったものである。ロト・レリーフは直訳すれば、『回転浮彫』であるが、単にデュシャンのディスクとも呼ばれている。蓄音機のレコードのような厚紙の円盤に、黒、赤、青、緑などで円を基調としたデザインが描かれている。それを回転すると円盤の上のデザインの形に想いがけない遠近や立体感があらわれ、また形そのものが空間のなかで動いている錯覚をよびおこす。」
続けて、デザイン、色彩、回転速度などによるさまざまな視覚的な効果やタイトルのユーモアにも触れた上で、次のように結ばれている。
「このロト・レリーフはさまざまなヴァリエーションが考えられるので、読者諸君は自分で工夫して見られるのもおもしろいだろう。」(『コレクション』3巻91頁)
アルトゥーロ・シュワルツのカタログ・レゾネなどから事実関係を少し補足しておくと、ロト・レリーフは、回転ないし円盤を用いた一連の作品の最終形として、1935年にデュシャンが考案した一種の(今日の言葉でいう)マルチプルで、35年9月30日から10月7日に開催された、素人発明家の見本市であるパリのレピヌ発明展に出品された(図5-4)。
この会期を「9月30日から10月7日」とするのは、シュワルツのレゾネに従ったものだが、デュシャン自身の回想では、同展は1ヶ月間、開いており、一日中そこにいたくはなかったので、秘書まで雇ったとしている(『デュシャンは語る』ちくま学芸文庫)。一般公開の日を「8月30日」とするカルバン・トムキンスの評伝(後出)の方が、デュシャンの回想には合っているようである。
この時にデュシャンは、実際にロト・レリーフを販売しようと大真面目に考えてブースを1つ借り、アンリ=ピエール・ロシェからの資金援助をもとに、直径20㎝の厚紙の両面にカラー・オフセット印刷された、12種6枚1組のセットを500セット作って臨んだのだが、ロシェの回想では、友人に売れた2セット以外では、ふりの客にバラで1枚しか売れなかった。デュシャンは「しくじったな。100パーセントしくじった。すくなくとも、それだけはたしかだよ」(木下哲夫訳カルバン・トムキンス『マルセル・デュシャン』)と微笑んだそうである。左のブースはゴミ圧縮機と焼却炉、右は瞬間野菜カッターだったそうなので、その間に挟まれていては、非実用的で訳のわからない、玩具のようなものと思われたとしても、無理はなかったかもしれない。
図5-4レピヌ発明展でのデュシャンとロシェ(《LA VIE ILLUSTRÉE DE MARCEL DUCHAMP avec 12 dessins d’André RAFFRAY》Centre National d’Art de Culture Georges Pompidou,1977より)
ロト・レリーフはその後、ロンドンのシュルレアリスム国際展(36年)、ニューヨークの幻想芸術・ダダ・シュルレアリスム展(同年)などで展示された(第2次大戦中に約300セットが失われた)。53年にはニューヨークで同じ図柄のものが1000セット作られている(ただしそのうち約600セットは破損した)。35年の元版はプラスチック製ホルダー入りで、12種それぞれに「ROTORELIEF No.1~12」という番号と図柄のタイトルが印刷されていたのに対し、53年版は厚紙のホルダー入りで、図柄の番号は省かれ、タイトルのみとなっている。両版ともに無署名・無記番。
さらにその後、53年版の残部にサインを入れて、59年にパリで100セット、63年にニューヨークで5セットが販売された。この頃からマルチプルとしての位置付けが定まってきたといえるかもしれない。さらに65年にミラノで150セットが作られている(63年版の再制作)。59年版以降はターンテーブル付きとなるが、59年版と65年版は上面が、63年版は側面が回転するタイプのようである。
以上が経緯の概略である。今日から振り返ると、ロト・レリーフはマルチプルの先駆的な作品であったばかりでなく、機械による動きを導入した点でキネティック・アートの嚆矢とも考えられている。同様の作品としてデュシャン自身の「回転ガラス板」(図5-5)や「回転半球」(図5-6)、ナウム・ガボのモーターを使った彫刻、モホリ=ナジの動く立体、アレクサンダー・カルダーの「モビール」、ブルーノ・ムナーリの「役に立たない機械」なども挙げられる。ただし、しばしばキネティック・アートの最初の展覧会と位置付けられる、パリのドゥニーズ・ルネ画廊の「動き」展(55年4月)に出品されたのは「回転半球」で、ロト・レリーフは展示されなかったようである。
図5-5デュシャン
「回転ガラス板」
1920年(マン・レイとの共作)
図5-6デュシャン
「回転半球」
1925年
前置きが長くなったが、以上で見てきたとおり、この小論が発表された50年代中頃では、ロト・レリーフは「大ガラス」やレディ・メードのオブジェ、さらには初期の油彩画などと比べ、デュシャンに関心を持つ人にとってもそれほど注意を惹く存在ではなかったのではなかろうか。上記の53年版を紹介する雑誌記事などが瀧口の眼に留まっていた可能性はあるが、だからといって、このロト・レリーフ論を執筆するものでもないように思われる。この当時、瀧口がわざわざ論じたのは何故だったのだろうか?
直接的な動機や理由はもちろん判らないが、1938年のニュース映画のなかで、回転する螺旋の映像を観た体験がおおもとにあるのは確かだろう。第3回で触れた「マルセル・デュシャン」(「みづゑ」、38年10月。図5-7,8)の冒頭近くに、次のように記されている。
「先頃パラマウント・ニュースの『巴里超現実主義展』を見た人は、その最初のカットで、回転する螺線(ママ)が飛び出してくるような印象を経験したであろう。それがデュシャンのロト・レリーフの一つである」(『コレクション』12巻510頁)
図5-7「みづゑ」1938年9月号
図5-8同「マルセル・デュシャン」
ここで言及されているパリのシュルレアリスム国際展(38年)には、ロト・レリーフは出品されていないはずなので、引用で「ロト・レリーフの一つ」と記されている作品は、この頃にはまだ呼称が定まっていなかった「回転半球」だったのかもしれない。いずれにせよ、このニュース映画のなかの回転する螺旋が飛び出してくるような映像が、瀧口に鮮烈な印象を残したことは間違いないだろう。翌39年4月に多摩帝国美術学校図案科会の機関誌”DESEGNO”No.9に発表された「機能の限界に立って」にも、次のような記述が見られる(初出誌未見)。
「デュシャンの考案したロト・レリーフ(レコードのように廻転することによって造型的な錯覚を与えるディスク)を眼鏡屋のウィンドウに装置することを思いつくのは私だけではなかろう。(中略)ロト・レリーフの原型のごときものは理髪店の看板にも見出すことが出来る。彼等は昔ながらの優雅な紋章をモーターで廻転する。そこに大衆的な『オブジェ・モビール』が出来上る」(『コレクション』13巻101頁)
さらに注目されるのは、最初に引用した、このロト・レリーフ論の末尾の「読者諸君は自分で工夫して見られるのもおもしろいだろう」の一節である。この言葉は直接的には、美術家たちを中心とする読者に対して、自由に創意工夫したロト・レリーフの自作を促したものだが、具体や実験工房などの活動があったにせよ、当時の真面目な絵画、彫刻が主流の美術界に対して、デュシャンの発想や工夫の実例を紹介し、より自由な制作のあり方を例示したのかもしれない。「美術手帖」誌61年1月号(図5-9,10)に掲載された、山口勝弘との対談「作家研究 マルセル・デュシャン ダダの神様!既成芸術を嘲笑する」の末尾の次の言葉も、同様の趣旨と思われる。
「デュシャンは老いたけれど、この精神の流れはいまの若い人たちに受けつがれている、いやもっと受けついでほしいと思うのですよ。」
この対談は、残念ながら『コレクション』には再録されていないようであるが、デュシャンの主な仕事について、「どうも面白いのがつぎつぎに出てきますね(笑)」(瀧口)と論じ合った、たいへん楽しい対談である(図版多数)。付録として両面カラー印刷されたロト・レリーフの縮小版も挿入されている。ご紹介しておきたい。
図5-9「美術手帖」1961年1月号
図5-10同「作家研究 マルセル・デュシャン」
また、このロト・レリーフ論を発表したのは、芸術とテクノロジーとの関わり方の一つを例示する趣旨だったのかもしれない。技術の追求に陥りがちになる危険性を見通し、ロト・レリーフのような血の通ったユーモアのある関わり方を示したとも考えられるだろう。掲載された4点の図版も(図5-11,12)、抽象的な図柄のものではなく、具体物を連想させるユーモラスなタイトルのものが選ばれているようである。
図5-11ロト・レリーフ「支那の提灯」と「花冠」
図5-12同「日本の魚」と「ボヘミア・グラス」
テクノロジーに関わりながら、同時にユーモアの精神を併せ持っている作家といえば、まずムナーリを挙げてもそれほど異論はないだろう。58年の欧州旅行の際に瀧口がムナーリと意気投合したのは、この旅行のハイライトの一つだったと思われるが、交友を深める発端となったのは、二人に共通するデュシャンへの敬意だったのかもしれない。
その後60年代に入り、瀧口が造形の領域でドローイングやデカルコマニーなどのさまざまな試みを開始してからは、ロト・レリーフはさらに重要な意味を持つようになり、具体的な成果ももたらしている。一連の「ロトデッサン」の試みである(図5-13~16)。これは上記の引用で読者に制作を促していたロト・レリーフの「ヴァリエーション」を、自ら実践したものとも考えられるだろう。
図5-13瀧口修造
《PREMIERS ROTO-DESSINS ESSAIS》
1963年
図5-14「ロトデッサン」年代不詳
図5-15「ロトデッサン」年代不詳
図5-16「ロトデッサンとバラとデュシャンのプリフィール」1968年頃
欧州旅行から帰国してからデュシャンとの文通が始まったのだが、64年3月29日頃の書簡で瀧口は、「卓上ミキサーのモーターでほんの数秒で制作した」と述べながら、デュシャンに対してロトデッサンを献呈している。他にデュシャン夫人のティニー・デュシャンやジャン・ティンゲリーにもロトデッサンが贈呈されているようである(図5-17,18)。初めてロトデッサンの着想を得た際に、デュシャンのロト・レリーフが視野に入っていたのは間違いないと思われる。(続く)
図5-17「ロトデッサン」(ティニー・デュシャン宛て)
1977年
図5-18ティンゲリー宛てロトデッサンの添え書き
1963年
(つちぶちのぶひこ)
●今日のお勧め作品は瀧口修造です。
瀧口修造「I-34」
水彩、インク、紙
イメージサイズ:34.2×23.6cm
シートサイズ :35.7×25.1cm
こちらの作品の見積り請求、在庫確認はこちらから
※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください。
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