美術館に瑛九を観に行く」 第3回 宮城県美術館

「わが愛憎の画家たち―針生一郎と戦後美術」


<これは行かれた方がいいですよ。後悔します(笑)。まして図録がもう完売!古本価格おそらく5000円以上になります。
国カン様か東美様かキュウ龍様、公刊していただきたいなあ。>

(堀宜雄さんのfacebookより)

先日、このブログ「何とか行きたいのですが、仙台は遠い、仕事も詰まってる・・・」と愚痴ったら、早速福島県立美術館の堀先生に脅かされてしまいました。予定をすべてキャンセル、お客さまもほったらかして新幹線で仙台へ。
1_600
行って良かった。
思いもかけず昔手がけた作品に再会することもできました。
堀先生が「後悔します」とおっしゃった意味がよくわかりました。

同館ホームページに以下の29作家が列記されています。

主な出品作家:岡本太郎、香月泰男、鶴岡政男、山下菊二、河原温、勅使河原宏、池田龍雄中村宏、小山田二郎、斎藤義重、桂ゆき、今井俊満、菅井汲、山口勝弘、篠原有司男、赤瀬川原平、高松次郎、立石紘一、岡本信治郎、菊畑茂久馬、宮城輝夫、丸木位里・俊、横山操、中村正義、片岡球子、朝倉摂、粟津潔、磯崎新、他
(太字は宮城県美術館所蔵)

行く前に思っていたのは、仙台での単独開催(巡回はなし)、針生先生は久保貞次郎先生のような大コレクターでもなければ、推薦文書きまくる画廊受けする評論家でもない、旧蔵作品も僅かなものだろう、いったいどうやって構成するの? 
29人のメンバーを見て、磯崎先生はちょっと意外でしたが(ほんとは意外でもなんでもなく、サンパウロ・ビエンナーレのために亭主がエディションした4mを超す超大作で、すっかりこちらが忘れていた)、まあこんなところだろうなあと想像していたら、とんでもない大展覧会でした。
カタログは完売なので(亭主も買えなかった)、出品リストから上掲メンバー以外の作家を列挙します。

靉嘔、芥川沙織、麻生三郎、阿部展也、阿部合成、荒川修作、池田満寿夫、池田幹雄、石井茂雄、石井勢津子、井田照一、井上長三郎、梅田英俊、瑛九海老原喜之助大浦信行、大島哲以、大森運夫、小野忠弘、小山田チカエ、橿尾正次、桂川寛、河口龍夫、菊地養之助、工藤哲巳、昆野勝、佐々木正芳、佐藤多持、佐藤忠良、ラインハルト・サビエ、下村良之介、杉全直、関根伸夫、曹良奎、瀧口修造、高橋秀、田中竜児、辻まこと、中谷泰、中野淳、中本達也、難波田龍起、馬場彬、浜田知明尾藤豊、福沢一郎、福島秀子、福田恒太、不動茂弥、ヨーゼフ・ボイス、星野眞吾、堀内正和前田常作松澤宥三木富雄、三上誠、水谷勇夫、南伸宏(伸坊)、村上善男、山中信夫、山野卓(卓造)、横尾忠則、吉野辰海吉原治良
(太字は宮城県美術館所蔵)

その数実に63人。
わが瑛九はともかく、麻生三郎、荒川修作、海老原喜之助、工藤哲巳、佐藤忠良、関根伸夫、瀧口修造、難波田龍起、福沢一郎、ヨーゼフ・ボイス、松澤宥、三木富雄、横尾忠則、吉原治良らの大スターたちを「主な出品作家」から外せる展覧会なんて・・・
はずされちゃった作家だけで大展覧会がいくつもできる(笑)、いや壮観です。
それも(ここは強調したい)刺身のツマなんかじゃなく、それぞれ代表作といってもいい秀作を揃えている。

「主に1950~70年代に針生が関わった芸術運動や展覧会に焦点をあて、著書『わが愛憎の画家たち』などで論評した作家と作品を紹介し、ひとりの評論家の視線を通して戦後美術史を再読」とのことですが、実態は針生一郎という縦糸(アヴァンギャルドを見つめつづけた反骨の評論家の足跡)を使って、一世代か二世代下の宮城県美術館学芸員の戦後美術史を読み直す愚直な視線を横糸として組まれた大胆かつ意欲的な展覧会です。
20150131針生一郎展 表20150131針生一郎展 裏

「わが愛憎の画家たち―針生一郎と戦後美術」
会期:2015年1月31日[土]~3月22日[日]
会場:宮城県美術館

このブログは「美術館に瑛九を観に行く」のがテーマであり、全体を紹介するのは亭主には手に余りますが、「宮城県美の底力」をまざまざと見せつけてくれた力技には恐れ入りました。
県立美術館として相当な歴史と蓄積を持つとはいえ、戦後の前衛美術史を飾る作品群をこんなにたくさん持っていたのかと再認識しました。普通なら所蔵品がこれだけあるのだから他はまあ予算もあることだし、と程よいところで手を打つのですが、ここの学芸員は違った。
人が入らないのは確実な、地味で、暗くて、面白くない展覧会に全力投球。
「戦後美術史を再読」する試みは他にもあるし、網羅的、総花的にならざるを得ないのを断固拒否して、手抜きなし、妥協なし、思い切りよし、全国の美術館、画廊、個人から重要作品を集めた執念と熱意には脱帽です。

会場に入るとまず海老原喜之助のペン素描4点が展示され、資料類はガラスケースに。
序章を枕に、第1章から第12章、終章と全14コーナーに分かれて、最後の大浦信行の映像(映画の予告編)まで、約300点の作品・資料が展示されています。
大作も多いので息苦しいほど密度濃厚、展示についていえばもう少し広い会場でゆったり見られたらなあ、とこれは無いものねだりですが思いました。

展覧会の構成は以下のとおりですが、メモをもとに印象に残ったもの(または懐かしく再見したもの)を一点づつあげておきます。

序章 「思想」と「表現」へのめざめ 
   針生一郎の学生時代のノート「歌集」
第1章 戦後絵画との出会い
   浜田知明「刑場(B)」
第2章 前衛芸術運動への参加
   「夜の会」案内状(手書き)   
第3章 ルポルタージュ絵画と「新しい具象」
   桂川寛「小河内村」
第4章 リアリズムを超えて
   瑛九「作品(フォトデッサン)」
第5章 読売アンデパンダン展の終焉と”針生アンパン” 
   荒川修作「惑星に乗ったトンボー氏」 
第6章 反戦・反核・平和運動と美術
   山下菊二「祀られる戦士」
第7章 「これが日本画だ!」-制度への挑戦
   三上誠「女の輪廻」
第8章 ヴェネツィア・ビエンナーレ1968-国際的同時代性について
   菅井汲「朝のオートルート」
第9章 「反博」-アンチ大阪万博(EXPO'70)
   粟津潔「ポスター」
第10章 環境への視線ー「人間と自然」 第10回現代日本美術展
   関根伸夫「位相によるプロジェクト」
第11章 世界と日本ーサンパウロ・ビエンナーレ'77,'79
   磯崎新「空洞としての美術館 Ⅰ」
第12章 連帯と抵抗と
   ヨーゼフ・ボイス「橇」
終章 針生一郎資料室
   瀧口修造「壊れやすい夜か、または・・・」(針生旧蔵)

見終わったあと、駅前のカフェで待ち合わせた地元のKさん夫妻に感想を聞いたら、「オダチさんから券もらったから行ったけれど・・・ 地元の人も行かない」、「気持ち悪くて、つまらなかった」と率直なご意見、亭主にはそれさえもほめ言葉に聞こえるほど重量級の展覧会で、企画展はこうでなくちゃあと嬉しかった。
観客に「読むことを強制する展覧会」。
心のやすらぎや、ひとときの慰謝をもとめて行けば、どーんと跳ね返される。
絵を読み、キャプションを読み、絵の横に掲示された針生一郎の評論(の一節)を読み、そして考える。

さて本題の瑛九、針生先生が「瑛九の作品の中ではいちばんいい」と評価されていたフォトデッサン(フォトグラム)が出品されていました。
瑛九《作品》宮城県美術館600
瑛九「作品」
制作年不詳
印画紙、フォトグラム・水彩
23.8×28.8cm
*宮城県美術館所蔵

瑛九《窓の二人》宮城県美術館
瑛九「窓の二人」
制作年不詳
印画紙、フォトグラム
27.0×22.0cm
*宮城県美術館所蔵

この2点は会場では<第4章リアリズムを超えて>のコーナーに、難波田龍起の油彩「水色の空間A」と池田満寿夫の銅版「タエコの朝食」(針生先生旧蔵)にはさまれて展示されています。
これもすっかり忘れていたのですが、開館時に萬鉄五郎の木版画とともに私どもがお納めした作品で1981年3月に現代版画センターの直営画廊として渋谷区松濤につくった「ギャラリー方寸」開廊記念展に出品したものです。
針生先生にも参加していただいた「シンポジウム 瑛九」の記事を機関誌『版画センターニュース』より以下転載します。
~~~~~~~~~~~~~~
ギャラリー方寸「瑛九展」のために(1981年)

「シンポジウム瑛九」より    針生一郎

●去る3月の、ギャラリー方寸開廊企画にあわせ、毎月1回、瑛九をめぐって現代の美術を考えようという企画「シンポジウム 瑛九」が、この7月で5回を数えた。針生一郎氏にはじまり、北川フラム氏、木水育男氏、ヨシダヨシエ氏、そして福島辰夫氏と、生前の瑛九の興味深いエピソードも含めて、それぞれの視点から、瑛九の原像についてを約2時間に亙り語って頂く現場である。深い霧の中に閉ざされたまま、種々の形容句をあてがわれてきたきらいのある瑛九だが、ニュース紙上での瑛九論とあわせた各氏の批評の積み重なりは、おぼろげではあるが瑛九の像、これまでとは少し違った瑛九の像を結びつつあるのではなかろうか。
今号は、去る4月18日、ギャラリー方寸での第一回シンポジウムでの針生氏の話を抄録した。
----------------------------------

瑛九を神棚に祭りあげるな

 瑛九の名前をはじめて聞いたのは、一九五五年ごろ、利根山光人、加藤正、福島辰夫など、デモクラート美術協会の周囲にいた人びとからだと思う。デモクラート美術協会は一九五〇年ごろ、当時宮崎にいた瑛九が大阪の泉茂、山城隆一、棚橋紫水、早川良雄らによびかけて結成したものですが、二年ぐらいたつと瑛九は宮崎から浦和に移ってきたので、瑛九の家に集まる作家たちを加えて、東京のデモクラート美術グループができる。ところが、この連中にいわせると、瑛九は天才か神様あつかいなんですが、彼はめったに東京に出てこないので、わたしには顔をあわせる機会がない。そこで一九五九年でしたか、「芸術新潮」が「人われを異色作家とよぶ」という特集を組んだとき、わたしは瑛九の名前を聞くと、ジンマシンにかかったような気がする。瑛九をいつまでも神棚にまつりあげるな、久保貞次郎から解放しろ、と書いたことがあります。
 結局、私は生前瑛九に会う機会がなかった。ただ、瑛九の親友であるオノサト・トシノブから、あの文章はおもしろかったといわれたし、瑛九の死後、未亡人から、彼が会いたがっていたという話を聞きました。久保貞次郎はそれから数年後、いっしょにタクシーに乗っているとき、ふと「針生君、あなたは皮膚病か何かありませんか」といいだし(笑)、妙なところでカタキをとられるものだ、と思ったことがあります。
 わたしは先日、県展の審査ではじめて宮崎県にゆき、そこでも瑛九が郷土出身の前衛画家として、いまや神棚にまつりあげられるのを感じた。宮崎は風光明媚、気候温暖で、食べ物もうまく、観光ぐらいしか産業がないので、生前無視していた瑛九をいまや神話化しようとしている、しかし、それは宮崎の弱さとともに、もしかしたら瑛九の弱さではないかと痛感したものです。
 瑛九は、ある意味では、非常に本格的な芸術の本質を、才能を持っていた作家でありますけども、そういう日本全体の文化風土の中で、やはり完全な開花を遂げる前に亡くなった作家だと思うんですね。それは一種の、挫折じゃないけれども、中絶みたいなものと考えるならば、それはその才能を天才としか呼べなかった日本の、社会的、文化的条件の弱さ、当人のまわりを含めてそういうものがあったのじゃないかという気がします。

批評精神と濾過ということ

 海老原喜之助が、瑛九の初期の仕事をみて、宮崎のような遅れたところから、どうしてこんなすごい作家が出て来たのか不思議だと思っていたけれども、宮崎を訪ねて、杉田家の玄関に立って建物を見たときにいっぺんに分った、という言葉を残してますが、瑛九はそういう家柄とか環境には恵まれていたわけです。その恵まれていたことを通して、私は瑛九の芸術に対する一番の素地をつちかったのは、まずひとつには文学だと思う。一番最初の彼の出発は美術評論ですね。これはなかなか本格的な、つまり彼は手紙なども含めて、文章の表現力が、非常に誇張もなければレトリックも使ったりしない、自分の感じたこと、考えたことを的確に表現する才能があった。瑛九は「みずゑ」とか「アトリヱ」に、どんな偶然か、とにかく美術評論を依頼され、そこで発表されたものは、いま読んでも非常に的確な文章で、つまり言葉と表現が一番基礎にあるんじゃないか、それは言葉だけじゃなくて、批評精神が彼の芸術の根底にあることが第一の問題じゃないかと思いますね。
 それから、その次に彼がやったのはフォト・デッサンですね。もちろん絵も描いていたんですが、その絵からの発展として写真機をいじっていて、特に印画紙に直に感光させるフォト・デッサンの方法を発見して、それを発表したときに大きな反響があったわけです。そして、現代版画センターの機関誌に柳本氏が書いているように、写真批評をやった時期がある。昭和の五、六年ですか。その中でも一番強調しているのは、写真に於ける批評精神、批評精神に貫かれた写真です。批評精神を芸術の中心に置く考え方と、芸術なんだけれども、写真のメカニズムを通して、単に体質的、趣味的な自己表現に、一種のフィルターをかけて濾過するという、そのことが第二の問題として彼には非常にプラスになっている。それはある意味で、芸術の概念を変革し、それを乗り越えてゆく方向を常に彼に指し示したと思うんです。

主題としての〈光〉

 滝口修造さんが、タケミヤ画廊での瑛九の個展のときに書いていたと思うんですけども、瑛九にとっての一番の主題は〈光〉の問題ではないか。〈光〉を通しての映像の問題です。それが瑛九の一番中心の主題じゃないかと思います。その上で、スタイルとして言えば抽象芸術の要素があります。一九三七(昭和12)年に結成された自由美術、これは今の自由美術とはずい分違いますけども、山口薫とか村井正誠、矢橋六郎、荒井竜男とか、独立美術に居て、そして昭和十年前後に小さなグループをいろいろやった人や、新時代展という難波田龍起なんかのグループを中心として結成された抽象芸術の団体であります。それから創立時には長谷川三郎がいました。その自由美術に瑛九は加わって、そして二回までいるんですが、結局シュルレアリスム系の美術文化には加わらないんです。しかし抽象の要素がないことはないけども、むしろシュルレアリスムの要素、幻想的な要素が彼の作品の中にあります。あのフォト・デッサンが追求しているのは、〈光〉の問題であると同時に〈人間〉というモチーフだと思われます。〈光〉を通して捉えられる人間像と空間の関係です。
 それから、中日戦争の半ば頃の時期から、彼の思想として、日本的東洋的なものと、転向したわけではないですけども、それと対決することを回避できないという時期があります。それから作品も、油絵では風景や人物、かなり具象的なものを描いています。しかし、その風景を通して点描風になる。これもやはり光の問題が描かれていると思います。
 それからまた彼はフォト・デッサンをやり、それから戦後になって版画に集中しました。これらは、私がさっき言った写真というフィルターを通して、カメラというフィルターを通して体質的な表現から脱却しようということのいわば延長です。銅版、石版という版画の、つまり版の材質を通して自分のイメージを純化し、体質的なものを濾過してゆく、そして思いがけないいろんなものをとり出してゆくことに、大きな歓こびを感じ、それだけでない、池田満寿夫なんかが何度も書いてますように、デモクラートを中心とした若い人たちに版画の重要さ、面白さをずい分吹きこんでいった、それらのことに情熱を傾けたわけです。

デモクラートとコンミューン

 瑛九は、決していわば親分とか師匠みたいな顔をしない、つまりどんな若い作家でも対等に、一人前の芸術家として扱って、そして一番本質的なこと、本質的な要素をとり出してそれを励ます、それから枝葉の問題を切り捨てて、その方向を示す、そういう態度であったといいます。そこでデモクラート美術協会は、自由美術や宮崎での地元のグループを通しての、公募団体とは違う新しい運動、つまり芸術家コンミューンみたいなもの、芸術家の同志的な結合、それから更に小コレクターの会などの、これは久保さんと瑛九の合作みたいなものですが、そういう芸術を通して結ばれるコンミューンを作りたいという考えがあったと思われます。デモクラートについては終り方がよく分らないところがあるのですが、これは若い作家たちを集めて、受け手に向かっても開かれた特に版画のようなオリジナルが複数ある作品という要素をして、作り手と受け手を通じたコンミューンみたいなもの、それに彼が挫折しなかったかどうか……なんか挫折があるような気がしてならないんですが、これは推測ですから、ちょっとはっきり言うことが出来ません。つまり彼が晩年に油絵の大作に取り組んで、印象派とは違った、光のいわば抽象絵画みたいなものに取り組んだあたりに、体力や病気の問題だけではない、彼の中での運動の挫折みたいなものがあったのではないかという感じがしてならないんです。
 近代日本は、少くとも戦前においては美術の後進国でありますけども、瑛九はそういうなかに現れた非常に本質的な面をもっていた芸術家であります。それは油絵に対して写真、フォト・デッサン、版画といった一種の歯どめといいますか、自己表現を濾過するメディアをもち得たことが、彼の大きな進展の理由と思います。そこで最初の問題に帰りますが、天才とよばれて今もなお熱烈なファンが続いていて、しかしその熱烈なファンの外にいる私には、ジンマシンが出てくるような、そういう秘教的、閉鎖的なものからもっと普遍化したかたちにならない、例えば宮崎の郷土の美術博物館で瑛九遺作展が開かれても、その閉鎖的ピラミッドがそのまま宮崎にもっていかれたという、もっと普遍化したかたちにはならないのは何故か……これはもしかしたら、瑛九のファンに問題があるのかもしれないが、それを考えつづけています。
 私が今日言いたいのはそういうことなのですが、“とりあえず瑛九について語ろう”という今日のテーマで、今までの瑛九像についての疑問をいくつか挙げてみました。
(現代版画センター『版画センターニュース No.71 1981年7月号』より転載)

~~~~~~~~~~~~

*画廊亭主追伸
新連載企画「美術館に瑛九を観に行く」の第一回第二回は中村茉貴さんに執筆していただき、次も中村さんを予定していました。
思わぬ展開で亭主が第三回を書くはめになりましたが、どうぞ番外編と思い、お許しください。
サンパウロビエンナーレに出品された磯崎新先生の大作の制作経緯や、針生先生に参加していただいた1981年のギャラリー方寸の瑛九展についてはいずれ詳しくご紹介しましょう。
1950~70年代、針生先生とともに美術評論のご三家と言われた中原佑介、東野芳明のお二人の、それぞれの前衛美術史が展覧会として見られたらいいなあと思いました。
当時、現代美術を二分していた東京画廊のブレーンが針生先生と中原先生で、一方の南画廊のブレーンが東野先生でした。
そういう視点でみると、今回瑛九はあったが(針生先生は瑛九には遂に会うことはなかった)オノサト・トシノブはない、斎藤義重はあったが山口長男はない、浜田知明はあったが駒井哲郎はない、というセレクションもなかなか味わい深いものがありました。
(偶然でしょうが、オノサト、山口、駒井はいずれも南画廊の作家です)

私どものお願いに丁寧に対応してくださり、画像も快く提供してくれた宮城県美術館の皆様には深く感謝いたします。
常設展示も「洲之内コレクション」のほか、松本竣介クレーカンディンスキーと充実しています。
会期は残り僅か、3月22日[日]までなので仙台の方も、遠方の方もぜひぜひお出かけください。
針生先生の(「現代日本版画家群像」も合わせてお読みください。
2_600
美術館一階のカフェにて。
椅子がいろいろあって、のんびりできました。

●今日のお勧めは瑛九です。
瑛九油彩吹付け600
瑛九 Q Ei
《手》
1957年
板に油彩吹き付け
46.4x38.3cm
※山田光春『私家版・瑛九油絵作品写真集』(1977年刊)No.286
※宮崎県立美術館他『生誕100年記念 瑛九展』図録所収・油彩画カタログレゾネ(2011年刊)No.346

こちらの作品の見積り請求、在庫確認はこちらから
※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください