石原輝雄のエッセイ「マン・レイへの写真日記」第13回
MAN RAY at my Fingertips
指先のマン・レイ展 1990年6月14日 大阪
13-1 梅田書房
阪急百貨店内の梅田書房で、父君とご一緒の山内十三男氏と出会ってから15年が経っていた。その間に所帯を持ち二人の子供にも恵まれていたが、マン・レイへの興味は深まるばかり。作家の人生とつかず離れずある作品や資料の収集が趣味の範疇を超えて、わたしの人生を左右する程になっていた。学生時代から写真を撮り、言葉と共に表現するのが体質的に合っていたので、書店と懇意になるのは自然な流れだったと思う。フランスの仮綴本に、何気なく挟まって流通する版画や写真の魅力に惹かれてしまい、さらにそれが、シュルレアリスム運動の在り方と同じだと気付いて、深入りする結果となった。日本の画商が、書籍やフォリオから版画や写真を取り外し、価格調整をして販売するのとは異なり、書店との付き合いでは原本のままで提供されるのだから、わたしにとって有り難い事だった。
山内氏はフランスの出版流通業界で働いていた経験があり、その豊富な人脈から、この連載でも度々報告したような稀覯本を、見付けてくれた。最初にお会いした時、踏み台の上で書棚を整理されていた父君に、「『マン・レイ肖像集』が手に入りませんか」と尋ねると、奥から出てこられた十三男氏が「阪急電車の梅田駅高架下に建設予定の古書のまちに出店するので、そちらに来て欲しい」と返事をされたと記憶する。
その頃、仕事の関係で大阪の肥後橋にあるコンピューター・メーカーへ通っていたので、研修が終わると、古書のまちに開店したリブレリ・アルカードへ寄り、世界中の古書目録を前に閉店まで雑談。為替を計算しながら海外へ注文することもあったし、近くの百練という店でラーメンを食すのも楽しみだった。
13-2 指先のマン・レイ展
『指先のマン・レイ展』案内状
10.5×14.5cm
『マン・レイ回顧展(1966年)』ポスターとカタログの各頁など
at リブレリ・アルカード
---
山内十三男氏から、「展覧会をやりましょう」と誘われたのは、1989年の終わり頃だったろうか。氏は店を開く時、展覧会も出来るように稼働式の書棚を用意しており、すでに、何回かの絵画展を開催していた。展示ケースも充分に用意されているこの場所で展覧会をするならば、これまでに世話になった展覧会のカタログや案内状、ポスターを中心とし、海外へも情報発信できるものにしたいと考えた。カタログの頁を開いた喜び、案内状と戯れ指先で花開かせた楽しみを表したくて展覧会のタイトルを『指先のマン・レイ』とした。収集成果を見せたいと云うより、カタログや案内状を作りたかったとするのが本意であったのかもしれない。展覧会の会期は1990年6月14日(木)~26日(金)、マン・レイ生誕100年の節目の年である。
カタログの意匠はミラノのシュワルツ画廊が1964年に開催した『我が愛しのオブジェ』展を参考に、本文を厚手の光沢紙(NKハイコート菊判93.5Kg)、表紙(NK両面クリスタル菊判125Kg)をPP貼り加工とする書容設計で行った。個人でのDTP作業が普及していない時代にもかかわらず、デザインはもとより、テキスト執筆、写植発註、写真撮影、版下製作、印刷・製本手配などの総てを自分でやらないと気が済まないのだから、困った性格である。──というか、好きなんですね。
わたしは経理マンだけど勤務先の事業が広告関連なので、先輩や同僚から助言をもらって準備を整えた。貴重なダニエル画廊(1915年)やリブレリ・シス(1921年)のカタログを含んで展示品リストは全100点。テキストの冒頭で「展覧会のカタログには不思議な魅力がある。オリジナル作品を紹介する単なる印刷物にすぎないものでありながら、場所と日時の記載によって作品のアリバイと共に観客の存在をも立証する役割を担っている。それが昔、人知れず開催され人知れず終わった細やかな街の画廊の展覧会である場合には、恋人達のラブレターを読むような秘密の楽しみを味わうことができる。」とわたしは書き、これまでにカタログを送ってくれた海外の画廊などにも送りたいので、英訳も掲載する事にした。しかし、予算の関係もあってリスト印字は英文タイプライター。手書きで加えたアクセント符号が不揃いで、マイナー感ただよう紙面となってしまったのが恥ずかしい(マン・レイらしいと思ったのだけど)。尚、協力頂いたのは、写真植字: 京都写研、写真現像・焼付: クリエイト、製版・印刷: 光陽印刷、製本: 村田紙工の各社、改めて記し感謝の気持ちを伝えたい。カタログのサイズは23.7×17cmで、20頁、23図、限定350部。4月の終わりには出来上がったので、さっそく、番号とサインを書き入れ友人、知人、関係者の方々にお送りした。
---
『指先のマン・レイ展』
at リブレリ・アルカード
同上
同上
展示の様子については、掲載した写真を見ていただくのが一番判りやすいと思う。日本に限らず、これまでに画家の展覧会でオリジナル作品を展示せず、展覧会の脇役に焦点を絞った展示と云うのは開催されていないだろうから、画期的な企画だと自画自賛しての開催だった。多くの方々が来場してくださったが、本好き、資料好きの人達(アルカードのお客さん達だけど)が一番喜んでくれた。もちろん、前回報告(連載第12回参照)した児玉画廊の加藤義夫さんや編集担当の林美佐さん、横浜美術館の学芸員(当時)である倉石信乃さんなどの専門家の方々も興味をもって鑑賞してくれた。そうしたお一人に写真家・中山岩太氏の未亡人正子さんがいらっしゃった。1895年のお生まれなので90歳になられていたが、矍鑠としてモダンなセンスをお持ち、巴里でキキ・ド・モンパルナスと交流されマン・レイとも面識があって、キャバレー・シャーノアへキキを向かえに来る「無口で静かなマン・レイ」の様子について話して下さった。それは1920年代後半で、酒場での乱痴気騒ぎが続いてキキの体型が崩れかけた時代、楽しい巴里の思い出話しだった。
時代も場所も違うので中山夫妻のように、お酒を呑む訳にはいかないが、わたしも好きなたち、展覧会の会期中は家人も寛大となるので、閉店の8時を待って一杯、かっぱ横丁の梅田丸一屋に入る事が多かった。古書に関わる男性陣に混じって気さくなT嬢を交え、飲めや歌えの大騒ぎ、本当に充実した展覧会となって夜が更けていった。「カタログや案内状を作りたかった」と云うより「お酒を呑みたかった」の方が展覧会を引き受けた本意だったのかしらと(笑)、今になって思う。
筆者を挟んで、ピーノ・マラス氏と(故)中山正子氏
---
加藤義夫氏と林美佐さん
倉石信乃氏(左)と筆者
---
T嬢と古書関係者 (撮影: 吉永昭夫氏) at 梅田丸一屋 / 阪急かっぱ横丁
13-3 珈琲を飲みながら
リブレリ・アルカードには、サロンのような雰囲気があって、多くの人達と出会い、楽しく語り、情報交換をする事が出来た。立ち寄った人達の専門領域は広く、わたしに関連する場合でもシュルレアリスム国際展(1959年)の郵便箱やジャン・デェビュッフェのレアなカタログから始まり、極めつけはマルセル・デュシャンの『グリーンボックス』と『プロフィルの自画像』で、──手に取らせていただけたのは貴重な体験だった。近くの喫茶店から珈琲の出前を取って、巴里の同性愛者や酩酊事件の真相、大阪の恐ろしげな世間話に興じながら、カタログ類の相場や海外の古書店事情についても、知ることが出来て感謝している。ミロなどの挿絵本が好きだと云う十三男氏と話しながら、以前、京都で知り合った四柱推命の占い師(画家です)から、「貴方の住まいから南西の方角に神社があって、その近くにある薬屋が、貴方にとてもよく効く薬を売っている。貴方を助け、幸せにするのよ。」と予言されていたのを、たびたび思い出すのだった(阪急電車京都線の桂から梅田に出ると左手に旅行の神様として知られる綱敷天神社御旅社が鎮座、この向かい側に阪急古書のまちがある)。
渡仏回数の多さでテレビ取材を受けた事もある古書店主は、クラシック・ギターの演奏家であり、BMWやハーレーのオートバイを運転する行動派。祖父は阪急電車の創始者小林一三に求められて梅田書房を開いた画家の山内金三郎、そうした交流で十三男氏の名付け親が小林さんだったと聞いた。
山内十三男氏
---
『指先のマン・レイ展』を開催させていただいてから、この6月で25年が経過する。バブルの時代も遠い昔。今はインターネットの普及で美術洋書を扱う書店は、どこも苦戦を強いられていると聞く。これに加えて挿絵などでも活躍したフランスの巨匠画家のほとんどが鬼籍に入ってしまった結果、版元の出版社も規模の縮小・撤退を余儀なくされ、輸入業者には先の見えない袋小路。さらに、阪神淡路大震災を経て、長く続くデフレの時代。こうした状況下であっても、リブレリ・アルカードのカレンダー展は毎年好評だったし、十三男氏は遊牧民の手織り絨毯がミロの絵画作品のように見えるギャベを扱う市場を日本で開拓された。そして、2009年からは天然石とシルバーアクセサリーも扱う店となっている。わたしは、平凡なサラリーマンコレクターに過ぎないので、売上にほとんど貢献できなかったけれど、リブレリ・アルカードの吟味された素材を使って調合された薬剤には何度も助けられた。今度、梅田に出掛けたら網敷天神社御旅社にお礼参りをしなくちゃならないな。
リブレリ・アルカード at 阪急古書のまち
---
13-4 海外へ
さて、前述したように展覧会情報を海外へも発信できるものにしたいとする考えは、幾つかの好結果をもたらした。カタログを郵送した時点で、スタジオ・マルコーニや研究者のヤーヌス氏から心温まる返事をいただいたばかりでなく、ポンピドウセンターのカンディンスキー文庫やイングランドのエセックス大学などいくつかの公立図書館に受け入れてもらえたのは有り難い事だった。本稿執筆に際してインターネットの古書検索サイトを改めて確認すると、オランダ・ユトレヒトの古書店から、限定版・サイン入りとして『指先のマン・レイ展』カタログが出品されていた。──どなたかお買い求めいただけないものだろうか。
続く
(いしはらてるお)
■石原輝雄 Teruo ISHIHARA(1952-)
1952年名古屋市生まれ。中部学生写真連盟高校の部に参加。1973年よりマン・レイ作品の研究と収集を開始。エフェメラ(カタログ、ポスター、案内状など)を核としたコレクションで知られ、展覧会企画も多数。主な展示協力は、京都国立近代美術館、名古屋市美術館、資生堂、モンテクレール美術館、ハングラム美術館。著書に『マン・レイと彼の女友達』『マン・レイになってしまった人』『マン・レイの謎、その時間と場所』『三條廣道辺り』、編纂レゾネに『Man Ray Equations』『Ephemerons: Traces of Man Ray』(いずれも銀紙書房刊)などがある。京都市在住。
◆石原輝雄のエッセイ「マン・レイへの写真日記」目次
第1回「アンナ 1975年7月8日 東京」
第1回bis「マン・レイ展『光の時代』 2014年4月29日―5月4日 京都」
第2回「シュルレアリスム展 1975年11月30日 京都」
第3回「ヴァランティーヌの肖像 1977年12月14日 京都」
第4回「青い裸体 1978年8月29日 大阪」
第5回「ダダメイド 1980年3月5日 神戸」
第6回「プリアポスの文鎮 1982年6月11日 パリ」
第7回「よみがえったマネキン 1983年7月5日 大阪」
第8回「マン・レイになってしまった人 1983年9月20日 京都」
第9回「ダニエル画廊 1984年9月16日 大阪」
第10回「エレクトリシテ 1985年12月26日 パリ」
第11回「セルフポートレイト 1986年7月11日 ミラノ」
第12回「贈り物 1988年2月4日 大阪」
第13回「指先のマン・レイ展 1990年6月14日 大阪」
第14回「ピンナップ 1991年7月6日 東京」
第15回「破壊されざるオブジェ 1993年11月10日 ニューヨーク」
第16回「マーガレット 1995年4月18日 ロンドン」
第17回「我が愛しのマン・レイ展 1996年12月1日 名古屋」
第18回「1929 1998年9月17日 東京」
第19回「封印された星 1999年6月22日 パリ」
第20回「パリ・国立図書館 2002年11月12日 パリ」
第21回「まなざしの贈り物 2004年6月2日 銀座」
第22回「マン・レイ展のエフェメラ 2008年12月20日 京都」
第23回「天使ウルトビーズ 2011年7月13日 東京」
第24回「月夜の夜想曲 2012年7月7日 東京」
番外編「新刊『マン・レイへの写真日記』 2016年7月京都」
番外編─2『Reflected; 展覧会ポスターに見るマン・レイ』
番外編─2-2『マン・レイへの廻廊』
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◆石原輝雄のエッセイ「マン・レイへの写真日記」は毎月5日の更新です。
●今日のお勧め作品は、宇田義久です。
宇田義久
「bamboo-blind 04 (red)」
2004年
木綿布、木綿糸、アクリル絵具、アクリルメディウム、パネル
27.5x27.5x4.0cm
裏面にサインあり
こちらの作品の見積り請求、在庫確認はこちらから
※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください。
MAN RAY at my Fingertips
指先のマン・レイ展 1990年6月14日 大阪
13-1 梅田書房
阪急百貨店内の梅田書房で、父君とご一緒の山内十三男氏と出会ってから15年が経っていた。その間に所帯を持ち二人の子供にも恵まれていたが、マン・レイへの興味は深まるばかり。作家の人生とつかず離れずある作品や資料の収集が趣味の範疇を超えて、わたしの人生を左右する程になっていた。学生時代から写真を撮り、言葉と共に表現するのが体質的に合っていたので、書店と懇意になるのは自然な流れだったと思う。フランスの仮綴本に、何気なく挟まって流通する版画や写真の魅力に惹かれてしまい、さらにそれが、シュルレアリスム運動の在り方と同じだと気付いて、深入りする結果となった。日本の画商が、書籍やフォリオから版画や写真を取り外し、価格調整をして販売するのとは異なり、書店との付き合いでは原本のままで提供されるのだから、わたしにとって有り難い事だった。
山内氏はフランスの出版流通業界で働いていた経験があり、その豊富な人脈から、この連載でも度々報告したような稀覯本を、見付けてくれた。最初にお会いした時、踏み台の上で書棚を整理されていた父君に、「『マン・レイ肖像集』が手に入りませんか」と尋ねると、奥から出てこられた十三男氏が「阪急電車の梅田駅高架下に建設予定の古書のまちに出店するので、そちらに来て欲しい」と返事をされたと記憶する。
その頃、仕事の関係で大阪の肥後橋にあるコンピューター・メーカーへ通っていたので、研修が終わると、古書のまちに開店したリブレリ・アルカードへ寄り、世界中の古書目録を前に閉店まで雑談。為替を計算しながら海外へ注文することもあったし、近くの百練という店でラーメンを食すのも楽しみだった。
13-2 指先のマン・レイ展
『指先のマン・レイ展』案内状10.5×14.5cm
『マン・レイ回顧展(1966年)』ポスターとカタログの各頁などat リブレリ・アルカード
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山内十三男氏から、「展覧会をやりましょう」と誘われたのは、1989年の終わり頃だったろうか。氏は店を開く時、展覧会も出来るように稼働式の書棚を用意しており、すでに、何回かの絵画展を開催していた。展示ケースも充分に用意されているこの場所で展覧会をするならば、これまでに世話になった展覧会のカタログや案内状、ポスターを中心とし、海外へも情報発信できるものにしたいと考えた。カタログの頁を開いた喜び、案内状と戯れ指先で花開かせた楽しみを表したくて展覧会のタイトルを『指先のマン・レイ』とした。収集成果を見せたいと云うより、カタログや案内状を作りたかったとするのが本意であったのかもしれない。展覧会の会期は1990年6月14日(木)~26日(金)、マン・レイ生誕100年の節目の年である。
カタログの意匠はミラノのシュワルツ画廊が1964年に開催した『我が愛しのオブジェ』展を参考に、本文を厚手の光沢紙(NKハイコート菊判93.5Kg)、表紙(NK両面クリスタル菊判125Kg)をPP貼り加工とする書容設計で行った。個人でのDTP作業が普及していない時代にもかかわらず、デザインはもとより、テキスト執筆、写植発註、写真撮影、版下製作、印刷・製本手配などの総てを自分でやらないと気が済まないのだから、困った性格である。──というか、好きなんですね。
わたしは経理マンだけど勤務先の事業が広告関連なので、先輩や同僚から助言をもらって準備を整えた。貴重なダニエル画廊(1915年)やリブレリ・シス(1921年)のカタログを含んで展示品リストは全100点。テキストの冒頭で「展覧会のカタログには不思議な魅力がある。オリジナル作品を紹介する単なる印刷物にすぎないものでありながら、場所と日時の記載によって作品のアリバイと共に観客の存在をも立証する役割を担っている。それが昔、人知れず開催され人知れず終わった細やかな街の画廊の展覧会である場合には、恋人達のラブレターを読むような秘密の楽しみを味わうことができる。」とわたしは書き、これまでにカタログを送ってくれた海外の画廊などにも送りたいので、英訳も掲載する事にした。しかし、予算の関係もあってリスト印字は英文タイプライター。手書きで加えたアクセント符号が不揃いで、マイナー感ただよう紙面となってしまったのが恥ずかしい(マン・レイらしいと思ったのだけど)。尚、協力頂いたのは、写真植字: 京都写研、写真現像・焼付: クリエイト、製版・印刷: 光陽印刷、製本: 村田紙工の各社、改めて記し感謝の気持ちを伝えたい。カタログのサイズは23.7×17cmで、20頁、23図、限定350部。4月の終わりには出来上がったので、さっそく、番号とサインを書き入れ友人、知人、関係者の方々にお送りした。
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『指先のマン・レイ展』at リブレリ・アルカード
同上
同上展示の様子については、掲載した写真を見ていただくのが一番判りやすいと思う。日本に限らず、これまでに画家の展覧会でオリジナル作品を展示せず、展覧会の脇役に焦点を絞った展示と云うのは開催されていないだろうから、画期的な企画だと自画自賛しての開催だった。多くの方々が来場してくださったが、本好き、資料好きの人達(アルカードのお客さん達だけど)が一番喜んでくれた。もちろん、前回報告(連載第12回参照)した児玉画廊の加藤義夫さんや編集担当の林美佐さん、横浜美術館の学芸員(当時)である倉石信乃さんなどの専門家の方々も興味をもって鑑賞してくれた。そうしたお一人に写真家・中山岩太氏の未亡人正子さんがいらっしゃった。1895年のお生まれなので90歳になられていたが、矍鑠としてモダンなセンスをお持ち、巴里でキキ・ド・モンパルナスと交流されマン・レイとも面識があって、キャバレー・シャーノアへキキを向かえに来る「無口で静かなマン・レイ」の様子について話して下さった。それは1920年代後半で、酒場での乱痴気騒ぎが続いてキキの体型が崩れかけた時代、楽しい巴里の思い出話しだった。
時代も場所も違うので中山夫妻のように、お酒を呑む訳にはいかないが、わたしも好きなたち、展覧会の会期中は家人も寛大となるので、閉店の8時を待って一杯、かっぱ横丁の梅田丸一屋に入る事が多かった。古書に関わる男性陣に混じって気さくなT嬢を交え、飲めや歌えの大騒ぎ、本当に充実した展覧会となって夜が更けていった。「カタログや案内状を作りたかった」と云うより「お酒を呑みたかった」の方が展覧会を引き受けた本意だったのかしらと(笑)、今になって思う。
筆者を挟んで、ピーノ・マラス氏と(故)中山正子氏---
加藤義夫氏と林美佐さん
倉石信乃氏(左)と筆者---
T嬢と古書関係者 (撮影: 吉永昭夫氏) at 梅田丸一屋 / 阪急かっぱ横丁13-3 珈琲を飲みながら
リブレリ・アルカードには、サロンのような雰囲気があって、多くの人達と出会い、楽しく語り、情報交換をする事が出来た。立ち寄った人達の専門領域は広く、わたしに関連する場合でもシュルレアリスム国際展(1959年)の郵便箱やジャン・デェビュッフェのレアなカタログから始まり、極めつけはマルセル・デュシャンの『グリーンボックス』と『プロフィルの自画像』で、──手に取らせていただけたのは貴重な体験だった。近くの喫茶店から珈琲の出前を取って、巴里の同性愛者や酩酊事件の真相、大阪の恐ろしげな世間話に興じながら、カタログ類の相場や海外の古書店事情についても、知ることが出来て感謝している。ミロなどの挿絵本が好きだと云う十三男氏と話しながら、以前、京都で知り合った四柱推命の占い師(画家です)から、「貴方の住まいから南西の方角に神社があって、その近くにある薬屋が、貴方にとてもよく効く薬を売っている。貴方を助け、幸せにするのよ。」と予言されていたのを、たびたび思い出すのだった(阪急電車京都線の桂から梅田に出ると左手に旅行の神様として知られる綱敷天神社御旅社が鎮座、この向かい側に阪急古書のまちがある)。
渡仏回数の多さでテレビ取材を受けた事もある古書店主は、クラシック・ギターの演奏家であり、BMWやハーレーのオートバイを運転する行動派。祖父は阪急電車の創始者小林一三に求められて梅田書房を開いた画家の山内金三郎、そうした交流で十三男氏の名付け親が小林さんだったと聞いた。
山内十三男氏---
『指先のマン・レイ展』を開催させていただいてから、この6月で25年が経過する。バブルの時代も遠い昔。今はインターネットの普及で美術洋書を扱う書店は、どこも苦戦を強いられていると聞く。これに加えて挿絵などでも活躍したフランスの巨匠画家のほとんどが鬼籍に入ってしまった結果、版元の出版社も規模の縮小・撤退を余儀なくされ、輸入業者には先の見えない袋小路。さらに、阪神淡路大震災を経て、長く続くデフレの時代。こうした状況下であっても、リブレリ・アルカードのカレンダー展は毎年好評だったし、十三男氏は遊牧民の手織り絨毯がミロの絵画作品のように見えるギャベを扱う市場を日本で開拓された。そして、2009年からは天然石とシルバーアクセサリーも扱う店となっている。わたしは、平凡なサラリーマンコレクターに過ぎないので、売上にほとんど貢献できなかったけれど、リブレリ・アルカードの吟味された素材を使って調合された薬剤には何度も助けられた。今度、梅田に出掛けたら網敷天神社御旅社にお礼参りをしなくちゃならないな。
リブレリ・アルカード at 阪急古書のまち---
13-4 海外へ
さて、前述したように展覧会情報を海外へも発信できるものにしたいとする考えは、幾つかの好結果をもたらした。カタログを郵送した時点で、スタジオ・マルコーニや研究者のヤーヌス氏から心温まる返事をいただいたばかりでなく、ポンピドウセンターのカンディンスキー文庫やイングランドのエセックス大学などいくつかの公立図書館に受け入れてもらえたのは有り難い事だった。本稿執筆に際してインターネットの古書検索サイトを改めて確認すると、オランダ・ユトレヒトの古書店から、限定版・サイン入りとして『指先のマン・レイ展』カタログが出品されていた。──どなたかお買い求めいただけないものだろうか。
続く
(いしはらてるお)
■石原輝雄 Teruo ISHIHARA(1952-)
1952年名古屋市生まれ。中部学生写真連盟高校の部に参加。1973年よりマン・レイ作品の研究と収集を開始。エフェメラ(カタログ、ポスター、案内状など)を核としたコレクションで知られ、展覧会企画も多数。主な展示協力は、京都国立近代美術館、名古屋市美術館、資生堂、モンテクレール美術館、ハングラム美術館。著書に『マン・レイと彼の女友達』『マン・レイになってしまった人』『マン・レイの謎、その時間と場所』『三條廣道辺り』、編纂レゾネに『Man Ray Equations』『Ephemerons: Traces of Man Ray』(いずれも銀紙書房刊)などがある。京都市在住。
◆石原輝雄のエッセイ「マン・レイへの写真日記」目次
第1回「アンナ 1975年7月8日 東京」
第1回bis「マン・レイ展『光の時代』 2014年4月29日―5月4日 京都」
第2回「シュルレアリスム展 1975年11月30日 京都」
第3回「ヴァランティーヌの肖像 1977年12月14日 京都」
第4回「青い裸体 1978年8月29日 大阪」
第5回「ダダメイド 1980年3月5日 神戸」
第6回「プリアポスの文鎮 1982年6月11日 パリ」
第7回「よみがえったマネキン 1983年7月5日 大阪」
第8回「マン・レイになってしまった人 1983年9月20日 京都」
第9回「ダニエル画廊 1984年9月16日 大阪」
第10回「エレクトリシテ 1985年12月26日 パリ」
第11回「セルフポートレイト 1986年7月11日 ミラノ」
第12回「贈り物 1988年2月4日 大阪」
第13回「指先のマン・レイ展 1990年6月14日 大阪」
第14回「ピンナップ 1991年7月6日 東京」
第15回「破壊されざるオブジェ 1993年11月10日 ニューヨーク」
第16回「マーガレット 1995年4月18日 ロンドン」
第17回「我が愛しのマン・レイ展 1996年12月1日 名古屋」
第18回「1929 1998年9月17日 東京」
第19回「封印された星 1999年6月22日 パリ」
第20回「パリ・国立図書館 2002年11月12日 パリ」
第21回「まなざしの贈り物 2004年6月2日 銀座」
第22回「マン・レイ展のエフェメラ 2008年12月20日 京都」
第23回「天使ウルトビーズ 2011年7月13日 東京」
第24回「月夜の夜想曲 2012年7月7日 東京」
番外編「新刊『マン・レイへの写真日記』 2016年7月京都」
番外編─2『Reflected; 展覧会ポスターに見るマン・レイ』
番外編─2-2『マン・レイへの廻廊』
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◆石原輝雄のエッセイ「マン・レイへの写真日記」は毎月5日の更新です。
●今日のお勧め作品は、宇田義久です。
宇田義久「bamboo-blind 04 (red)」
2004年
木綿布、木綿糸、アクリル絵具、アクリルメディウム、パネル
27.5x27.5x4.0cm
裏面にサインあり
こちらの作品の見積り請求、在庫確認はこちらから
※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください。
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