「瀧口修造とマルセル・デュシャン」第8回
Shuzo TAKIGUCHI and Marcel Duchamp Vol.8

土渕信彦


8.「オブジェの店」(その1)
 1963年頃から瀧口修造は「オブジェの店」をひらくという構想を抱くようになった。その命名をマルセル・デュシャンに依頼したところ、有名な変名の「ローズ・セラヴィ」を贈られた。この経緯と内容について、今回から数回にわたって述べることとする。今回は構想を巡る経緯を確認することにしたい。

 「オブジェの店」をひらく構想について瀧口が初めて触れたのは、おそらく「物々控」「美術手帖」増刊特集「おもちゃ」(1965年4月。図8-1)と思われる。この文章は後に『余白に書く』(みすず書房、1966年5月)にも再録されることになる。次のように記されている。

 「奇妙なことだが、いつの頃からか、私に「オブジェの店」を出すという観念が醗酵し、それがばかにならない固執であることに気づきはじめた。いうまでもなく私は企業家や商人とはまったく異なったシステムで、それを考えていたのだ。/私はまずその店名と、その看板の文字とを、既知のマルセル・デュシャンに依頼すると、かれは快く応じてくれた。こうして、その店の名は“Rrose Sélavy”(ローズ・セラヴィ)ということになった。これはデュシャンが1920年頃から使いはじめた有名な偽名で、あのレディ・メードのオブジェに署名するためだったらしいが、またかれがしばしばこころみる言葉の洒落にもこの署名を使っている。(中略)こうして、いまは架空だが、「ローズ・セラヴィ」という店の名が、デュシャン自身の命名によって誕生し、いま私は看板を試作中であり、おそらく近日中には少なくとも看板だけは私の書斎に掲げられるだろう。それがまたひとつの物であり、この看板はいったい何を私に照らしだしてくれることだろう?」(「物々控」)

図8-1「美術手帖」図8-1
「美術手帖」増刊特集「おもちゃ」、1965年4月


 実際に瀧口がデュシャンに対して出した「オブジェの店」の命名依頼状の64年1月24日頃の草稿も残されている。以下に引用する。

 「私はいま、小さな店を開いて、さまざまなオブジェ(自然のオブジェや構成されたオブジェ)を陳列し、場合によっては販売するという考えに取り憑かれています。/そこで店名にあなたの言葉を使うことをおゆるしいただけないでしょうか。たとえば「ローズ・セラヴィ(Rrose Sélavy)」など、いかがでしょう。(中略)ともあれ、あなたの流儀で私の店に命名してくださり、同封の白紙と同サイズの紙にその名を記していただけると、たいへんありがたく存じます(色つきでもなしでも、何か描き加えてあってもなくても、すべてあなたにお任せします)。職人に頼んで、拡大した署名を看板に彫りこんでもらうつもりです。当面、この店が実在のものとなることはありません。書斎にかけられた看板のもと、私はもっぱら実在しない店を営むことになるでしょう。」(朝木由香、笠井裕之、橋本まゆ、水沼啓和編「瀧口修造‐マルセル・デュシャン書簡資料集」、千葉市美術館「瀧口修造とマルセル・デュシャン」展図録、2011年11月。図8-2.以下、単に「書簡資料集」と表記する。なお原文は英文。編者訳)

図8-2 千葉市美「瀧口デュシャン展」図録図8-2
千葉市美術館「瀧口修造とマルセル・デュシャン」展図録、2011年11月


 引用は省略したが、この草稿の冒頭部では前回の手紙でデュシャンに照会したデュシャンの《ヴァリーズ》(主要作品のミニチュアをトランクの箱に収めた作品。図8-3)に触れられており、東野芳明から《ヴァリーズ》を見せてもらったと述べている。後出のデュシャンからの瀧口宛て返信で触れられているとおり、東野は瀧口から紹介されたとしてデュシャンにコンタクトをとり、《ヴァリーズ》を購入したものと思われる。

図8-3(参考)マルセル・デュシャン「ヴァリーズ」特装版図8-3
(参考)マルセル・デュシャン「ヴァリーズ」特装版(富山県立近代美術館蔵)1946年(「遺作」のモデルとされるマリア・マルティンス宛に贈られた特装版で、東野芳明が購入した作品ではない)


 上に引用した命名依頼状はデュシャン宛ての書簡として2通目に当たり、前回引用した59年11月1日付けの『幻想画家論』の献呈状以来、約4年ぶりで書かれたものである。念のため、『幻想画家論』を献呈してからこの依頼状を出すまでの、つまり60年初め頃から64年初め頃までの、瀧口の主な活動を簡単に見ておきたい。

 展覧会では次のような活動が挙げられよう。 
 ①「私の画帖から」、南天子画廊、1960年12月
 ②「私の画帖から」、北画廊、1961年
 ③「私の心臓は時を刻む」、南画廊、1962年12月
 ④「私の心臓は時を刻む」、神戸国際会館、1963年2月
 これ以外に東京国立近代美術館で開催された「超現実絵画の展開」展(1960年4月)への協力(カタログテキスト「日本における超現実絵画の展開」の執筆)なども、重要だろう。

 編著書などとして関わった本としては、以下のようなものが挙げられる。
 ⑤『マックス・エルンスト 「絵画の彼岸」の画家』、みすず書房、60年8月
 ⑥『近代芸術』、美術出版社、62年12月
 ⑦『点』、みすず書房、63年1月
 ⑧『パウル・クレー』、草月出版部、1963年5月

 なかなか充実しており、特に数回の個展開催が示すとおり、それまでの美術評論家としての活動から、ひとりのアーティスト(ないしシュルレアリスト)としての活動への、転換過程にあったと考えることもできるだろう。上記⑦の美術評論集『点』(図8-4)の「あとがき」(62年12月付け)は、次のように結ばれている。

 「私はいま美術批評のありかた、その動機、発想そのものにたいして、いい表わしがたい疑問を自分につきつけている状態にいる。それが芸術作品そのもののありかたの問題と同時に私を襲うのである。事実、この本に採録された最後の時評から半年にわたって、評論の筆をほとんど絶っている始末である。そういう状況から、複雑な気持ちでこの本を世に送ることになったことを、私はあえて皮肉とは思いたくない。それはこれからの私の行為のすべてが決定することである。/読者よ、今日は! そして、さようなら、また会いましょう、を同時に申し上げたい。」(『点』「あとがき」)

図8-4 瀧口修造『点』図8-4
瀧口修造『点』みすず書房、1963年1月


 さて、再び「オブジェの店」に戻る。上に引用した命名依頼状は、4年振りに書かれた手紙にしてはかなり強引な内容のようである。しかも「ローズ・セラヴィ」という名前は瀧口の方から持ち出していることがわかる。しかし瀧口にはある程度の成算があったのかもしれない。4年前に献呈した『幻想画家論』の装幀はデュシャンを喜ばせたことだろうし、瀧口の紹介で東野が《ヴァリーズ》購入したことも面目を施したことになるだろう。そして何よりも、「ローズ・セラヴィ」という名前の「オブジェの店」をひらくという構想そのものが、デュシャンに評価されるだろうと考えたのかもしれない。幸いなことにデュシャンは同年(64年)3月4日付けの返信で「ローズ・セラヴィ」の名称の使用を認め、看板用のサインまで返送してきた(図8-5)。この返信の文面も確認しておこう。

図8-5 デュシャン”Rrose Sélavy”のサイン図8-5
マルセル・デュシャン”Rrose Sélavy”のサイン(慶應義塾大学アート・センター蔵)


 「親愛なる瀧口さん/近年の美学への大いなる反抗ともいうべき東京でのあなたの活動についてお聞きして、嬉しく思います。/あなたのギャラリーを「ローズ・セラヴィ」と呼ぶことに同意いたします。同封の紙は(拡大してもしなくても)看板に使ってください。くれぐれも” é”のアクサン記号を忘れずに。/おっしゃるとおり、Sélavyは、C’est la vie(これが人生)の綴りをもじったものです。/ローズ(Rose)は、1920年(彼女が生まれた年)には女の子のもっともありふれた名前で、それをもっと平凡にするためにRを二つ書いたのです。/それでは幸運を祈ります。東野さんから《ヴァリーズ》の支払いを受けました。どうぞ彼によろしく、そしてありがとうとお伝えください。」(前出「書簡資料集」)

 この返信の冒頭部の「近年の美学への大いなる反抗ともいうべき東京でのあなたの活動についてお聞きして、嬉しく思います。」という個所の原文は、”Happy to hear about your activities in Tokyo which seems to be a great counter for the latest esthetics.”であるが、この”great counter”の個所は、デュシャン直筆の原本(慶應義塾大学アート・センター蔵)では、”great center”と書かれているようにも読める。そうだとすると「最新の美学のためのセンターである東京でのあなたの活動」ということになるかもしれない。前回にも見たとおり、デュシャンの手紙にはあまり余計なことが書かれていないようであるので、いずれにしろ、デュシャンが瀧口の活動を大いに認めていたのは、事実だろう。

 つづく個所で「あなたのギャラリー」と述べているので、デュシャンは瀧口の「オブジェの店」について、ギャラリーであると理解していたようである。瀧口からの命名依頼状には「陳列し、場合によっては販売する」と書かれていたのだから、これは当然と思われるが、デュシャンのRrose Sélavyが『グリーン・ボックス』の刊行元となっていたように、暖簾分けされた「東京ローズ・セラヴィ(Rrose Sélavy TOKYO)」が、『マルセル・デュシャン語録』(1968年7月)などの刊行元になるわけで、単なるギャラリーには止まらなかったことも、指摘しておかなくてはならないだろう。しかしこれは後の話であり、この時にデュシャンがそうした展開まで見通していたかはわからない。ただ、「ローズ・セラヴィ」の名称使用は無事に認められ、依頼された手書きのサインも返送されてきたのだから、デュシャンは瀧口の「オブジェの店」の構想そのものに理解を示したと考えられるだろう。

 瀧口は早速(3月29日付けで)礼状をしたため、「卓上ミキサーのモーターでほんの数秒で制作した」(前出「書簡資料集」)と説明しながら自作のロトデッサンを1葉同封している。瀧口のロトデッサンは、機械を用いた回転運動をモチーフとする点でデュシャンのロト・レリーフなどを踏まえた作品といえよう(参考図8-6)。どのようなロトデッサンがデュシャンに献呈されたのか、またこれに対してデュシャンがどう反応したのか、ぜひとも知りたいところだが、残念ながら手掛かりは残されていない。受け取ったデュシャンは大いに喜んだのではなかろうか。

図8-6(参考) ロトデッサン図8-6
(参考)
瀧口修造「ロトデッサン」
(マルセル・デュシャン宛てではない)


 この頃に制作された武満徹宛ての「リバティ・パスポート」(64年3月17日付)には、「Rrose Sélavy 近日開店」と記されているが(図8-7)、瀧口がどこかに店舗を借りるなどして実際に開店したという事実は、確認されていない。依頼状草稿でデュシャンに説明していた通り、「オブジェの店」は実在のものとなることがないままだったようである。

図8-7 武満徹宛てリバティ・パスポート図8-7
瀧口修造「武満徹宛てリバティ・パスポート」
(1964年3月17日付)


 また依頼状草稿で述べていた看板が、実際に制作された。デュシャンのサインをプレートに加工するため、幾通りかの試作品が制作された後、最終的には(職人の協力を得て)腐食プロセスによって銅製凸版に起こすという手法が採用された(図8-8)。

図8-8 オブジェの店看板図8-8
「オブジェの店」の看板(銅凸板プレート)
(富山県立近代美術館蔵)1964年


 このプレートはその後、瀧口の書斎内部の壁面(出入口の脇)に掲げられた。これは瀧口の書斎を撮影したいくつかの写真に写っており、没後に撮影された写真でも確認されるので、おそらくはその後終生にわたって掲げられ続けたようである(図8-9)。(続く)

図8-9 瀧口修造の書斎図8-9
大辻清司「瀧口修造の書斎」、1981年


つちぶちのぶひこ

◆土渕信彦のエッセイ「瀧口修造とマルセル・デュシャン」は毎月13日の更新です。
ときの忘れものでは2014年からシリーズ企画「瀧口修造展」を開催し、関係する記事やテキストを「瀧口修造の世界」として紹介します。土渕信彦のエッセイ「瀧口修造とマルセル・デュシャン」、「瀧口修造の箱舟」と合わせてお読みください。

●今日のお勧め作品は、瀧口修造です。
20150413_takiguchi2014_I_11瀧口修造
「I-11」
インク、紙
イメージサイズ:30.5x22.0cm
シートサイズ :35.4x27.0cm


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