笹沼俊樹のエッセイ「現代美術コレクターの独り言」 第18回

「商社に勤めていたからこそできたコレクション」


 趣味として、本格的に、現代美術のコレクターの道を歩み始めたのは、社会人になってからだった。社会に出る時、心に誓ったことがあった。「日々精進し、十分に実力をつけ、企業組織の“一部品”には、絶対にならない」と。
 選択したのは商社。旧財閥系でなかったので、入社して1年間程、冷静に観察をして、組織の特性を把握することに注力した。「力さえあれば、割り合い自由が効く弱肉強食の組織」だと感知した。サラリーマンは人生の大半の時間を、しかも、最も頭脳が柔軟で、体力のある時期を企業組織の中で過ごす。これをどのように有効に活用するか……、これによって自分の人生が豊潤なものになるかどうか、決まると思った。まず≪仕事の処理能力≫を極力高め、就業時間内に「余裕をどれくらいつくれるか」の工夫を多様に試みだした。そして、その≪余裕≫を利用して、多かった海外出張時には、新しい世界を知るため欧米各地の画商の世界を覗き見し始めた。
 ニューヨーク駐在もあった。この行動パターンは予期さえしなかった事にも効果を及ぼしてゆく。趣味の世界だけでなく、ビジネスの世界でも、多様な面で自分にプラスをもたらした。例えば、欧米の大企業での昼食をはさんだランチョン・ミーティングなどでは、「ビジネスの話のみ」では無粋の最たるもの。人間の小ささが目立ってしまう。“文化・芸術”の話などが多く、この輪に入れないと、「日本人は仕事熱心で、勤勉ですね」とヤンワリとした冗談まじりの皮肉が出る。さらには、「一日、何時間働くのですか?15時間?」などの野次も飛ぶ。日本のビジネス・マンのステレオタイプが彼等の意識の中に、このように沈殿しているのだ。
 非常に得をした記憶がある。このような時、自分が日本文化や現代美術の話題を話すと、「アイツは一味違う」という印象が残り、夜など幹部の邸宅に招いてくれることも多々あった。このような新しい体験は、さらに自分の視野を広めるのに役立った。趣味もその人の印象付けには貴重な戦力になるものだということも分った。やはり、人の思考には、その幅も重要なのだ。
 一方、現実的な面を見ると、“商社の選択”は自分の“趣味”にとっては最適の“解”のように思えた。まず、欧米に渡航する費用は回を重ねると、巨額になってくる。航空機代、各種交通費、そして、ホテル代……、すべて企業負担。その上、出張費までも出してくれる。言うことのない環境だ。もし、趣味のため、これ程の渡航を自費でしたのなら、フトコロと相談して、完全に不可能。このような事をしなければ、その分、資金を趣味にまわせる。合理的なのだ。
 一方、出張で画廊に寄った時、遭遇したことは現代美術の世界での視野を想像もできない程広げてくれた。又、画廊であった基礎のシッカリとした欧米のコレクターからは、多様なことを学んだ。
 企業に在籍した場合、その独得のメカニズムに巻き込まれ、利用され尽くされるのではなく、逆に、それを「トコトン利用してやる」ぐらいの意気込みを持ってないと、ボロボロになるまで使い込まれてしまうのが、現代の企業社会だ。従って、給与をもらうだけの勤務では何のメリットもない。その企業組織の特色や企業行動の方向性を極力利用して、自分を高めないと……。このような姿勢あってか……、今迄に少しずつ集め蓄積したコレクション作品は、≪商社≫に在籍していたからこそ、できたという性格を持っているように思える。他業種の企業に勤めていたなら、コレクションの内容は全く異っていたと思える。

■  ■

 日記を見ていて、当時のある一日を思い出した。それは、ニューヨークのソーホー地区にあった有名画廊でのなんら変りのない通常の行動だった。この光景の中に、なつかしい当時の自分の姿が埋め込まれていた。
JAN. 21, 1989〔at Paula Cooper Gallery〕
店に入り、大きな展示室、次の展示室をぬけ、バック・オフィスに入ると、そこで、作家のジョエル・シャピロとレズリー・ミラーが打合せをしていた。レズリー・ミラーは良家〔父親は世界的な超一流シンクタンクのCEO〕の子女なのに、版画の刷り師で、自分で小さな工房を経営している。シャピロの木版画は全部、彼女が刷っていた。
 気配を感じたのか…、シャピロがこちらに顔を向け、
「おっ、久しぶりだね。元気?」
「このように元気ですよ。ただ、今、仕事が忙しくてね。今日、近くを通ったので、息抜きにチョット寄ったんですよ。新作版画の打合せ?」
「今度、2種の木版画が完成したんだ。<#14><#15>。あとで見ておいてよ」、ユダヤ人らしいプラグマティックな言葉もつけ加えた。「今回のできはいいよ。少し取っておいた方がいいよ。値上がりしてゆくから……」
この話が終るか終らないかの時、この画廊のディレクターのジム・コーハンが現れた。
「お元気そうで……」
「どう、何かおもしろい話ある?」
「耳よりなニュースをお話ししますよ。こちらの部屋で話しましょう」
部屋のドアーを閉めると、
「シャピロのドローイング、また上げますよ。<質の良い作品>は〔105x75〕cmぐらいで、
$23,000.-になります。今、セカンダリー・マーケットでは、$28,000.-~30,000.-ぐらいしてます」
「今回、上げ幅が大きいね」
「'87年には、このサイズで、ポーラでは$12,000.-。'88年には$16,000.-になってます。今回、これらと比べると、上げ幅は大きいですね。とにかく“評価”が近頃さらに強くなってますので……」
続けて、「あなたのヤリ方は実にスマートですよね。今迄買った作品を全く売ってないのですから……」
「今日は値段の話を聞きによったんじゃないんだ。作品を見たいんだよ」
「今、ポーラの倉庫にも、シャピロの作品は2点しかありません。しかも、質はあまりよくないので、あなたでは、到底関心を示されないものです。シャピロのスタジオには、何もありません。作品が入れば、今、1日と持ちませんよ」
彼は、世辞やセールス・トークのできない、真面目な性格なので、この話の内容は真の現況を示してると思った。
「ジャ、しょうがない。入ったら知らせてよ」
この対話が終った時に、ポーラ・クーパーが戻ってきた。
「あら、久しぶり」
「なんか、おもしろい話ない?」
ちょっと、考え込んで、
「そう、今日、朝、ボロフスキーから作品が送られてきたの。見ますか?」
ポーラは長い期間、ジョナサン・ボロフスキーを扱っていて、契約作家の一人である。が、今迄、自分は関心を示したことがなかった。客の体質を知りつくしているポーラが、「見てみる?」と言ったのには、何か意味があるのでは……、と思った。
5cmぐらいの厚みのある紙の作品の束がさし出された。
「うわ、すごい量」
「とにかく、見てごらんなさいよ」
見ると、どれも、近来見たことのない程、良質の作品ばかり。
「今回どうしたの? ボロフスキーがこんな良い作品があるなんて……」
「分ったでしょう。だから見せたのよ」
500枚ぐらいあっただろうか……。すべて、よくある螺旋状の金具でとじられたノートの紙〔横線の入った〕に色エンピツやクレヨン、ペンで描かれた作品だった。どれも小品である。
この中に、1枚、好みの美しい小品があった。
「これいくら」とポーラに聞くと、
「それ、$2,500.-。すごく質の良いものよ。それね、ボロフスキーの夢に実際に出てきたイメージを描いたものよ」
「自分の部屋に飾ろうと思うんだ。インボイス切ってね」
「そう。それじゃ20%引いてあげるわよ。$2,000.-でいいわよ」

01〔資料1〕
“Untitled at 2,779,335”
Colored pencil, ink on lined spiral edge paper
9 3/8" x 6"
〔23.8x15.2〕cm
1988



ポーラは、自分の勧めた作品を、コレクション作家でもないのに、スンナリ買ってくれたので、気分をよくしたのだろう。帰り、画廊のドアーまで送って来て、別れ際に、「今日、ありがとう」と一言つぶやいた。こんな安いものでも、顧客が今まで買わなかった作家に手を出してくれたことに、何かを感じたのか……。自分の側から見れば、たまには「このような事」も行い、自分にとって大切な画廊との絆を強める事も重要であることが意識の片隅にあった。
双方が「何かを感じる」このような小さな事の積み重ねが、人間関係を強めてゆくように思えてならなかった。
 2012年に拙著を出版する時、そこに<写真>〔ポーラ・クーパーからもらったもの〕を何枚も掲載することになり、「版権の支払い」の件でletterを出した。
版権担当の専門のマネジャーがいるのに、
「あなたが本を出すのでしょ。お金はとれないわ。それらをNo chargeで使って下さい」とのポーラ自身からの返信。しかも、そのletterはタイプでうたれた文字でなく、全文自筆で書かれていた。
長い時を経ても、今なお変らない“ポーラの厚意”に目頭が熱くなった。

■  ■

 1942年、ボストン生まれのジョナサン・ボロフスキー〔JONATHAN BOROFSKY〕は、人工知能、ロボット、コンピューターのソフトウェアで、現在、世界でトップクラスにランクされているカーネギー・メロン大学を卒業したあと、1964年にはフランスに留学〔Ecole de Fountainbleau〕。帰国し、名門エール大学の大学院で建築学の修士号をとっている。〔1966年卒業〕
 現代美術では、当初、紙面を手書きの“数字”を書き埋め尽くすコンセプチュアル・アート的な作品を描いてデビュー。1973年頃には、個人的ないたずら書き、本やニュース、街角で見たり聞いたりした事から連想したイメージを描き始めた。この中には、自分が現実に見た“夢”のイメージをそのまま描いたものもあった。
 1975年にはポーラ・クーパー画廊で初個展。
 当初の“数字”への関心を今でも引きずっていて、作品には、必ず、7ケタのナンバリングを入れる。例えば、筆者が購入した作品には、最下部のところに、<2779335>の番号が記述されている。1972年以降、作家のサインの代りに、この番号を記述している。
〔日本での個展の時は、日本人のサイン好きの習癖により、名前をサインしたものを出している〕
 1985年3月。ニューヨークのホイットニー美術館で開かれたボロフスキー展は非常に変ったものだった。一言で言えば、オモチャ箱をひっくり返したようなテーマ・パーク。ここ15年間につくられた、50以上の個別の作品をワンフロアーにインスタレーションして、それら全体で、ひとつの新しい作品につくりあげていた。塩化ビニールの半透明のシートを丸めてつくった巨大な人形はゆったりと会場で屈伸運動をしている。金属でできた人物(巨大な)はハンマーを繰り返しうちおろしている。歩くように手をふる巨大な立体。これらの間を縫うように平面作品や小さな立体作品がおかれている。
 ここには、何のシステムらしいものは感じられない。又何の計算や意図も見られない。ただ雑然さが横たわっているのみ。あっけにとられ眺めているうちに、心はホッとするような何かにつつまれていた。がんじがらめに管理されてゆく社会に対しての、ささやかな異議の申し立てをしているように思えてならなかった。テンポの遅い≪マイウェイ≫のBGMが流れ、それにあわせ、チャールストンをぎこちなく踊っているピエロの人形がささやいているように感じた。「これがボロフスキーだ。彼が歩いてきた道なのだ」と。

02〔資料2〕
ジョナサン・ボロフスキー展のインスタレーション
(1984年、フィラデルフィア美術館)



ささぬま としき

笹沼俊樹 Toshiki SASANUMA(1939-)
1939年、東京生まれ。商社で東京、ニューヨークに勤務。趣味で始めた現代美術コレクションだが、独自にその手法を模索し、国内外の国公立・私立美術館等にも認められる質の高いコレクションで知られる。企画展への作品貸し出しも多い。駐在中の体験をもとにアメリカ企業のメセナ活動について論じた「メセナABC」を『美術手帖』に連載。その他、新聞・雑誌等への寄稿多数。
主な著書:『企業の文化資本』(日刊工業新聞社、1992年)、「今日のパトロン、アメリカ企業と美術」『美術手帖』(美術出版社、1985年7月号)、「メセナABC」『美術手帖』(美術出版社、1993年1月号~12月号、毎月連載)他。

※笹沼俊樹さんへの質問、今後エッセイで取り上げてもらいたい事などございましたら、コメント欄よりご連絡ください。

●書籍のご紹介
笹沼俊樹『現代美術コレクションの楽しみ』笹沼俊樹
『現代美術コレクションの楽しみ―商社マン・コレクターからのニューヨーク便り』

2013年
三元社 発行
171ページ
18.8x13.0cm
税込1,944円(税込)
※送料別途250円

舞台は、現代美術全盛のNY(ニューヨーク)。
駆け出しコレクターが摩天楼で手にしたものは…
“作品を売らない”伝説の一流画廊ピエール・マティスとのスリリングな駆け引き、リーマン・ブラザーズCEOが倒産寸前に売りに出したコレクション!? クセのある欧米コレクターから「日本美術」を買い戻すには…。ニューヨーク画商界の一記録としても貴重な前代未聞のエピソードの数々。趣味が高じて、今では国内外で認められるコレクターとなった著者がコレクションの醍醐味をお届けします。(本書帯より転載)

目次(抄):
I コレクションは病
II コレクションの基礎固め
III 「売約済みです」―ピエール・マティスの想い出
IV 従来のコレクション手法を壊し、より自由に―ジョエル・シャピロのケース
V 欧米で日本の美を追う
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●今日のお勧めは北川民次です。
20151008_tamiji_14北川民次
「果物を売る女」
1976年
リトグラフ、手彩色
38.0x28.0cm
Ed.75
サインあり
※レゾネNo.329


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