「瀧口修造とマルセル・デュシャン」第16回
Shuzo TAKIGUCHI and Marcel Duchamp Vol.16
土渕信彦
1.「ローズ・セラヴィ ’58‐‘68」(その1)
今回は雑誌「遊」第5号(工作舎、1973年冬)に掲載された「ローズ・セラヴィ ’58‐’68」を採り上げるが、その前に、前々回、前回と見てきた「急速な鎮魂曲」の補足を1件。瀧口によるコラージュ「S.T.-M.D 急速な鎮魂曲」(1968年頃。慶應義塾大学アート・センター蔵)があるので、ご紹介しておきたい(図16-1)。
図16-1
瀧口修造
コラージュ「S.T.-M.D 急速な鎮魂曲」
1968年頃
(なおタイトルが瀧口自身によるものかは不明)
千葉市美術館「瀧口修造とマルセル・デュシャン」展カタログより転載
このコラージュは白い厚紙の左上部にメモが貼られ、そのメモにはティニー夫人から瀧口の弔電に対する1968年10月11日付け礼状(第13回参照)の冒頭部がタイプ打ちされ、また、訳文がインクで書き込まれている。以下のとおりである。
「First Marcel died “extra-rapid”
... perhaps blossoming...
マルセルは先きに死にました”特急”で…
たぶん開花したのでしょう…
デュシャン夫人より」
厚紙の下部には、『マルセル・デュシャン語録』に挟み込まれた英文によるデュシャン追悼文(第13回参照)が貼り付けられ、その右側には黒いフェルト製の矢印も貼られている。このフェルト製の矢印は、瀧口と親しかった立体・オブジェ作家岡崎和郎が製作した連作《Mr.Takiguchi》の1つのように思われる(図16-2,3)。ただし、この連作には青色ないし空色のフェルトが用いられる場合が多いので、あえて黒色のフェルトが用いられているのは、デュシャン追悼のためかもしれない。
図16-2
岡崎和郎
《Giveaway Pack 2》
1968年
(中央に空色の《Mr.Takiguchi》)
図16-3
「《Mr.Takiguchi》と瀧口修造」
(撮影:空閑俊憲。1970年代)
さて、本題の「ローズ・セラヴィ ’58‐’68」に入る。冒頭に記したとおり、雑誌「遊」第5号(図16-4)に掲載されたが、当初は同誌第4号(1972年秋)に掲載する予定だったのかもしれない。
図16-4
「遊」第5号表紙
(工作舎、1973年冬)
というのも、この号に掲載された「マルセル・デュシャン解析第2番」には、瀧口と編集部との以下のような会話が収録されているからである。おそらく電話の会話を編集部側が文字に起こしたものだろう。少し長いが、ここに全文を再録する。なお、原文では段落分けは無いが、以下の引用では、読み易さを考慮して、会話ごとに段落分けしたことをお断りしておく。
「デュシャンのノートの件ですが、写真の方は選んでいただけたでしょうか。
ええずーと気にかかっていて、ここにこうして置いてあるんですがね。なにしろ身体が言うこと聞かぬので困っているんですよ。
ええ、やってもらうことといってもね。前から気にかかっていて、一度まとめようと思っていたものですから、図版の方の説明もいろいろ調べているもんですからね。デュシャンがどうしてカダッケス[ママ]に行くようになったのか、今ティニーに尋ねているんです。ええデュシャンの未亡人です。彼女は今、チェスの世界選手権のことでアイスランドへ行って、それからそのカダッケス[ママ]へ行くと言っていましたよ。そしたら暇になるからゆっくり調べられると思うんですが。チェスはどうなったのかな。一時新聞で報道されたんだが、アメリカ人の方がずいぶん気まぐれらしくてね。
ノートの方はだいたい何日頃できそうですか。
さあー、見通しがたてば良いんですが、その見通しがたたないんでねー。弱ったな。
ギリギリであと1週間でどうですか。
あ、そりゃーだめだ。他にものばしてるのがあるから、そりゃ無理です。締切りがある雑誌は、だから最近は全部断ってるんですが、遊は企画がおもしろいのと、内容がやってみたかったのとで、引き受けたんですが、なにしろ身体がおもうにまかせない状態でしょう。締切りが大切なのはよくわかるんですがね。
「遅延」ということですね。
「遅延」ね、そう。」
(みすず書房の『コレクション瀧口修造』第3巻では、本文には収録されず、解題の部分に掲載されている。)
図16-5
「遊」第4号表紙
(工作舎、1972年秋)
ちなみに、この「マルセル・デュシャン解析第2番」は、デュシャンについての瀧口ら16名への短いインタビューないし原稿をまとめたもので、顔ぶれは掲載順に、加納光於、巖谷國士、針生一郎、天沢退二郎、粟津潔、石子順造、富岡多恵子、赤瀬川原平、織田達朗、岡田隆彦、日向あき子、原弘、宮川淳、宇野亜喜良、福沢一郎の各氏である。この記事のサブタイトルと編者は次のように表記されている。「aを露出としbを可能性とすれば(a=11 b=99+16)b/a=18日19時~21日0時(デュシャンからデュシャンのために) 市川英夫+遊」。
こうした「遅延」を経た後、「遊」の次号(1973年冬号)に掲載されたのが、「ローズ・セラヴィ ’58‐’68」(図16-6)である。タイトルから判るとおり、その内容は、1958年の欧州旅行のカダケスでの出会いから、『マルセル・デュシャン語録』ができる前後までの、書簡などの原資料40点余りの写真に、自ら解説を付してまとめたもの。
図16-6
「ローズ・セラヴィ ’58‐’68」冒頭頁
もちろん『コレクション瀧口修造』第3巻に再録されている。図版の配置は基本的に元の「遊」が踏襲されているが、若干変更された個所もある。例えば「遊」の105頁(図16-7)は、『コレクション』では115~116頁の2頁に分けられている(図16-8,9)。全体を通じ、解説の活字は新たに組まれたようである。(続く)
図16-7
「遊」第5号105頁
図16-8
『コレクション瀧口修造』115頁
図16-9
同116頁
(つちぶちのぶひこ)
●今日のお勧め作品は、瀧口修造です。
瀧口修造
「III-14」
デカルコマニー、紙
Image size: 18.5x13.9cm
Sheet size: 18.5x13.9cm
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◆土渕信彦のエッセイ「瀧口修造とマルセル・デュシャン」は毎月13日の更新です。
Shuzo TAKIGUCHI and Marcel Duchamp Vol.16
土渕信彦
1.「ローズ・セラヴィ ’58‐‘68」(その1)
今回は雑誌「遊」第5号(工作舎、1973年冬)に掲載された「ローズ・セラヴィ ’58‐’68」を採り上げるが、その前に、前々回、前回と見てきた「急速な鎮魂曲」の補足を1件。瀧口によるコラージュ「S.T.-M.D 急速な鎮魂曲」(1968年頃。慶應義塾大学アート・センター蔵)があるので、ご紹介しておきたい(図16-1)。
図16-1瀧口修造
コラージュ「S.T.-M.D 急速な鎮魂曲」
1968年頃
(なおタイトルが瀧口自身によるものかは不明)
千葉市美術館「瀧口修造とマルセル・デュシャン」展カタログより転載
このコラージュは白い厚紙の左上部にメモが貼られ、そのメモにはティニー夫人から瀧口の弔電に対する1968年10月11日付け礼状(第13回参照)の冒頭部がタイプ打ちされ、また、訳文がインクで書き込まれている。以下のとおりである。
「First Marcel died “extra-rapid”
... perhaps blossoming...
マルセルは先きに死にました”特急”で…
たぶん開花したのでしょう…
デュシャン夫人より」
厚紙の下部には、『マルセル・デュシャン語録』に挟み込まれた英文によるデュシャン追悼文(第13回参照)が貼り付けられ、その右側には黒いフェルト製の矢印も貼られている。このフェルト製の矢印は、瀧口と親しかった立体・オブジェ作家岡崎和郎が製作した連作《Mr.Takiguchi》の1つのように思われる(図16-2,3)。ただし、この連作には青色ないし空色のフェルトが用いられる場合が多いので、あえて黒色のフェルトが用いられているのは、デュシャン追悼のためかもしれない。
図16-2岡崎和郎
《Giveaway Pack 2》
1968年
(中央に空色の《Mr.Takiguchi》)
図16-3「《Mr.Takiguchi》と瀧口修造」
(撮影:空閑俊憲。1970年代)
さて、本題の「ローズ・セラヴィ ’58‐’68」に入る。冒頭に記したとおり、雑誌「遊」第5号(図16-4)に掲載されたが、当初は同誌第4号(1972年秋)に掲載する予定だったのかもしれない。
図16-4「遊」第5号表紙
(工作舎、1973年冬)
というのも、この号に掲載された「マルセル・デュシャン解析第2番」には、瀧口と編集部との以下のような会話が収録されているからである。おそらく電話の会話を編集部側が文字に起こしたものだろう。少し長いが、ここに全文を再録する。なお、原文では段落分けは無いが、以下の引用では、読み易さを考慮して、会話ごとに段落分けしたことをお断りしておく。
「デュシャンのノートの件ですが、写真の方は選んでいただけたでしょうか。
ええずーと気にかかっていて、ここにこうして置いてあるんですがね。なにしろ身体が言うこと聞かぬので困っているんですよ。
ええ、やってもらうことといってもね。前から気にかかっていて、一度まとめようと思っていたものですから、図版の方の説明もいろいろ調べているもんですからね。デュシャンがどうしてカダッケス[ママ]に行くようになったのか、今ティニーに尋ねているんです。ええデュシャンの未亡人です。彼女は今、チェスの世界選手権のことでアイスランドへ行って、それからそのカダッケス[ママ]へ行くと言っていましたよ。そしたら暇になるからゆっくり調べられると思うんですが。チェスはどうなったのかな。一時新聞で報道されたんだが、アメリカ人の方がずいぶん気まぐれらしくてね。
ノートの方はだいたい何日頃できそうですか。
さあー、見通しがたてば良いんですが、その見通しがたたないんでねー。弱ったな。
ギリギリであと1週間でどうですか。
あ、そりゃーだめだ。他にものばしてるのがあるから、そりゃ無理です。締切りがある雑誌は、だから最近は全部断ってるんですが、遊は企画がおもしろいのと、内容がやってみたかったのとで、引き受けたんですが、なにしろ身体がおもうにまかせない状態でしょう。締切りが大切なのはよくわかるんですがね。
「遅延」ということですね。
「遅延」ね、そう。」
(みすず書房の『コレクション瀧口修造』第3巻では、本文には収録されず、解題の部分に掲載されている。)
図16-5「遊」第4号表紙
(工作舎、1972年秋)
ちなみに、この「マルセル・デュシャン解析第2番」は、デュシャンについての瀧口ら16名への短いインタビューないし原稿をまとめたもので、顔ぶれは掲載順に、加納光於、巖谷國士、針生一郎、天沢退二郎、粟津潔、石子順造、富岡多恵子、赤瀬川原平、織田達朗、岡田隆彦、日向あき子、原弘、宮川淳、宇野亜喜良、福沢一郎の各氏である。この記事のサブタイトルと編者は次のように表記されている。「aを露出としbを可能性とすれば(a=11 b=99+16)b/a=18日19時~21日0時(デュシャンからデュシャンのために) 市川英夫+遊」。
こうした「遅延」を経た後、「遊」の次号(1973年冬号)に掲載されたのが、「ローズ・セラヴィ ’58‐’68」(図16-6)である。タイトルから判るとおり、その内容は、1958年の欧州旅行のカダケスでの出会いから、『マルセル・デュシャン語録』ができる前後までの、書簡などの原資料40点余りの写真に、自ら解説を付してまとめたもの。
図16-6「ローズ・セラヴィ ’58‐’68」冒頭頁
もちろん『コレクション瀧口修造』第3巻に再録されている。図版の配置は基本的に元の「遊」が踏襲されているが、若干変更された個所もある。例えば「遊」の105頁(図16-7)は、『コレクション』では115~116頁の2頁に分けられている(図16-8,9)。全体を通じ、解説の活字は新たに組まれたようである。(続く)
図16-7「遊」第5号105頁
図16-8『コレクション瀧口修造』115頁
図16-9同116頁
(つちぶちのぶひこ)
●今日のお勧め作品は、瀧口修造です。
瀧口修造「III-14」
デカルコマニー、紙
Image size: 18.5x13.9cm
Sheet size: 18.5x13.9cm
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◆土渕信彦のエッセイ「瀧口修造とマルセル・デュシャン」は毎月13日の更新です。
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