森本悟郎のエッセイ その後・第27回
赤瀬川原平とライカ同盟 (7) 博多来襲
パリ撮影に出掛けた1999年は、新春に東京・京橋のINAXギャラリー(現LIXILギャラリー)で「ライカ同盟展『旧京橋區ライカ町』」を開いている。これは「名古屋や三重もいいけれど、一番身近な東京も撮りたいね」、という同盟員の意向を当時のINAXギャラリーディレクター・入澤ユカさんに伝え、二つ返事で引き受けて貰ったもの。展覧会タイトルは、「INAXのあたり、昔は京橋区だったね」という高梨さんのひと言と、「だったら会場はライカ町ということにしよう」という赤瀬川さんの提案がもとで、おのずから撮影エリアも決まった。「そりゃ俺の庭みたいなものだ」という秋山さんは旧京橋区の新富町育ちで、今は京橋プラザとなった京橋小学校卒。このギャラリーでは1986年に秋山さんが「そのトタンに」展を、1988年に高梨さんが「『都の貌』1986-1988」展を開いており、赤瀬川さんは初舞台だった。
福岡市の博多は秋山さんの御尊父出身地で菩提寺が福岡市内にあり、今もって秋山さんの本籍は福岡市博多区博多駅前とのこと。その博多を撮影して、博多に新しくできた大規模商業施設のキャナルシティで展覧会をしないか、という話がパリ撮影に同行した倉本紀久子さんから持ち込まれたのはその年の夏頃だったか。京橋・博多と、総督との地縁が続くものだと感心した。
同年9月と11月に3人揃って博多に出掛けた。この頃の博多は街が大きく変わろうとしていた時期だったらしく、9月に撮影した建物が11月には忽然と消えていたという経験を一度ならずしている。赤瀬川さんの〈物件〉も含め、なべてライカ同盟の写真に〈記録〉という意識は働いていないが、多くの写真がそうであるように、時を経ることでその〈記録〉性が浮かびあがってきていることは言を俟たない。11月は展覧会ポスター用写真撮影のため二塚カメラマンが従軍し、屋台での反省会という設定で撮影している。
展覧会フライヤー
撮影:二塚一徹
撮影地:博多区中洲新橋付近
取材は翌2000年にも続き、秋山・赤瀬川の美術家組は〈博多どんたく〉が開催される5月連休中に、高梨さんは7月の〈博多祇園山笠〉に合わせて出動。家元は恵比寿流(えびすながれ)の重鎮である住職の計らいで長法被(当番法被とも呼ばれる正装)を着用し、クライマックスの〈追い山〉に向けて行われるさまざまな行事をライカで追いかけた(舁き手にかける勢水(きおいみず)対策として、防水カメラのニコノスも用意していたが出番はなかった)。
秋山祐徳太子「二つ山越しゃ」志免町
赤瀬川原平「長老会議」博多区上川端商店街
高梨豊「自我の芽ばえ」東区箱崎
展覧会は「ライカ同盟写真展[博多来襲]」と銘打ち、撮影開始から約1年半後の2001年2月8日から始まったが、その間に主催者が替わり、会場は福岡市中心街の天神・イムズの三菱地所アルティアムに変更となった。この展覧会に合せて、ライカ同盟が選ぶ公募の市民写真展「博多地撮り」も同じイムズ内のfmfukuoka/GAYAで同時期に開催した。10日にトークや表彰式などオープニングイベントが行われ、パーティは恵比寿流主要メンバーによる「祝いめでた」と「手一本」で始まった。
志賀島フェリー桟橋で
撮影:二塚一徹
2000年には長い歴史に幕を閉じようとしていた都内の同潤会アパートを撮るという雑誌『東京人』の仕事もあった。振り返ってみると、ライカ同盟にとって世紀末から新世紀にかけての3年はなかなか多忙で充実したものだったことがわかる。
(もりもと ごろう)
■森本悟郎 Goro MORIMOTO
1948年愛知県に生まれる。1971年武蔵野美術大学造形学部美術学科卒業。1972年同専攻科修了。小学校から大学までの教職を経て、1994年から2014年3月末日まで中京大学アートギャラリーキュレーター。展評、作品解説、作家論など多数。
●今日のお勧め作品は、浮田要三です。
浮田要三
「巻物」
油彩・キャンバス
130.5×95.0cm
サインあり
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※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください。
ときの忘れものの通常業務は平日の火曜~土曜日です。日曜、月曜、祝日はお問い合わせには返信できませんので、予めご了承ください。
◆森本悟郎のエッセイ「その後」は毎月28日の更新です。
赤瀬川原平とライカ同盟 (7) 博多来襲
パリ撮影に出掛けた1999年は、新春に東京・京橋のINAXギャラリー(現LIXILギャラリー)で「ライカ同盟展『旧京橋區ライカ町』」を開いている。これは「名古屋や三重もいいけれど、一番身近な東京も撮りたいね」、という同盟員の意向を当時のINAXギャラリーディレクター・入澤ユカさんに伝え、二つ返事で引き受けて貰ったもの。展覧会タイトルは、「INAXのあたり、昔は京橋区だったね」という高梨さんのひと言と、「だったら会場はライカ町ということにしよう」という赤瀬川さんの提案がもとで、おのずから撮影エリアも決まった。「そりゃ俺の庭みたいなものだ」という秋山さんは旧京橋区の新富町育ちで、今は京橋プラザとなった京橋小学校卒。このギャラリーでは1986年に秋山さんが「そのトタンに」展を、1988年に高梨さんが「『都の貌』1986-1988」展を開いており、赤瀬川さんは初舞台だった。
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福岡市の博多は秋山さんの御尊父出身地で菩提寺が福岡市内にあり、今もって秋山さんの本籍は福岡市博多区博多駅前とのこと。その博多を撮影して、博多に新しくできた大規模商業施設のキャナルシティで展覧会をしないか、という話がパリ撮影に同行した倉本紀久子さんから持ち込まれたのはその年の夏頃だったか。京橋・博多と、総督との地縁が続くものだと感心した。
同年9月と11月に3人揃って博多に出掛けた。この頃の博多は街が大きく変わろうとしていた時期だったらしく、9月に撮影した建物が11月には忽然と消えていたという経験を一度ならずしている。赤瀬川さんの〈物件〉も含め、なべてライカ同盟の写真に〈記録〉という意識は働いていないが、多くの写真がそうであるように、時を経ることでその〈記録〉性が浮かびあがってきていることは言を俟たない。11月は展覧会ポスター用写真撮影のため二塚カメラマンが従軍し、屋台での反省会という設定で撮影している。
展覧会フライヤー撮影:二塚一徹
撮影地:博多区中洲新橋付近
取材は翌2000年にも続き、秋山・赤瀬川の美術家組は〈博多どんたく〉が開催される5月連休中に、高梨さんは7月の〈博多祇園山笠〉に合わせて出動。家元は恵比寿流(えびすながれ)の重鎮である住職の計らいで長法被(当番法被とも呼ばれる正装)を着用し、クライマックスの〈追い山〉に向けて行われるさまざまな行事をライカで追いかけた(舁き手にかける勢水(きおいみず)対策として、防水カメラのニコノスも用意していたが出番はなかった)。
秋山祐徳太子「二つ山越しゃ」志免町
赤瀬川原平「長老会議」博多区上川端商店街
高梨豊「自我の芽ばえ」東区箱崎展覧会は「ライカ同盟写真展[博多来襲]」と銘打ち、撮影開始から約1年半後の2001年2月8日から始まったが、その間に主催者が替わり、会場は福岡市中心街の天神・イムズの三菱地所アルティアムに変更となった。この展覧会に合せて、ライカ同盟が選ぶ公募の市民写真展「博多地撮り」も同じイムズ内のfmfukuoka/GAYAで同時期に開催した。10日にトークや表彰式などオープニングイベントが行われ、パーティは恵比寿流主要メンバーによる「祝いめでた」と「手一本」で始まった。
志賀島フェリー桟橋で撮影:二塚一徹
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2000年には長い歴史に幕を閉じようとしていた都内の同潤会アパートを撮るという雑誌『東京人』の仕事もあった。振り返ってみると、ライカ同盟にとって世紀末から新世紀にかけての3年はなかなか多忙で充実したものだったことがわかる。
(もりもと ごろう)
■森本悟郎 Goro MORIMOTO
1948年愛知県に生まれる。1971年武蔵野美術大学造形学部美術学科卒業。1972年同専攻科修了。小学校から大学までの教職を経て、1994年から2014年3月末日まで中京大学アートギャラリーキュレーター。展評、作品解説、作家論など多数。
●今日のお勧め作品は、浮田要三です。
浮田要三「巻物」
油彩・キャンバス
130.5×95.0cm
サインあり
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