森本悟郎のエッセイ その後
第30回 赤瀬川原平とライカ同盟(10) 倉敷、そして……
2009年1月に倉敷市役所でライカ同盟の記者会見が開かれた。市内アイビースクエア内の展示施設「アイビー学館」を改装し、そのお披露目にライカ同盟展を開催するという公式発表のためだ。この展覧会を支援したのが倉敷商工会議所で、翌日はその創設80周年記念シンポジウムに伊藤香織市長、大原美術館理事長で倉敷商工会議所会頭(当時)の大原謙一郎氏とともに3同盟員がパネリストとして登壇した。
ライカ同盟記者会見
倉敷へは倉敷商工会議所からお声がかかった前年秋に続いてこの時が2度目。「どうせ撮るなら四季を」ということで、その後さらに2度撮影に訪れている。最初は倉敷市内(近隣の市町を併合し、市域は案外広い)にこだわっていたものの、回を重ねるごとに越境し始め、結果的には岡山県下も含んだ作品構成となった。これはパリでも博多でも同様で、足が向いた先が撮影地というわけだ。
赤瀬川原平「文字の力」倉敷市玉島
秋山祐徳太子「寶の山」倉敷市下津井
高梨豊「こんにちは」倉敷市下津井
展覧会は『ライカ同盟写真展 ライク・ア・クラシキ』として、この年10月に開催(おわかりだろうが、「ライク・ア」は「ライカ」と掛詞になっている)。会場が広いため、撮り下ろしの倉敷と旧作のパリとを並べ、さらにライカ同盟が選んだ写真コンテスト「クラフォト2009」の入選作も展示した。
『ライカ同盟写真展 ライク・ア・クラシキ』ポスター
写真コンテスト「クラフォト2009」ポスター
倉敷展の頃はライカ同盟もぼくも、これからどこを撮ってどこで展覧会をしようか、などと倉敷以後について話していたものだ。しかし3人揃ったライカ同盟展は倉敷が最後となった。
撮影はそれでも続けていて、3人が顔を揃えたこともあれば、赤瀬川さんと秋山さんの2人ということもあった。2010年10月、曇り空のもと、三河島周辺をライカ同盟と歩いた。撮影後は新宿で反省会となり、それはいつも通りライカ散歩のルーティンだった。だが、こののち3人揃っての撮影機会はこなかった。それはもっぱら赤瀬川さんの健康問題によるものだった。
翌春か、赤瀬川さんから目眩がするという話を聞いた。それも以前あった目眩とは違うようだと(これはのちに脳出血だったことが判明)。その後、胃癌が見つかり全摘手術を受ける。退院後の2012年4月頃だったか、電話越しに聞いたのは耳に心地よいいつもの赤瀬川さんの声ではなく、ひどく年老いた人のようだった。5月には秋山さんと『「墓活」論』(PHP研究所)に描かれている赤瀬川家の墓(鎌倉・東慶寺)を訪ね、宗匠から礼状をもらったが、2年後にご自身が入ることになるとは露ほども思っていなかった。
赤瀬川原平著『「墓活」論』
赤瀬川家墓前の秋山祐徳太子さん
赤瀬川さんが亡くなった翌年、「追悼 赤瀬川原平」と題して秋山さん、高梨さん、ぼくの3人で座談会をした(『日本写真年鑑 2015』公益社団法人 日本写真協会)。その最後で僕が「原平さんが亡くなったことで解散ということになりますか?」と問いかけると、高梨さんは「いや解散しません。精神のリレーは続けます」と答えた。しかし秋山さんからも高梨さんからも、未だ「そろそろ散歩しようか」という話は出ていない。解散はしていないが、以来、活動がないままである。
この座談会より前に雑誌『日本カメラ』から依頼された追悼文に、ぼくは「赤瀬川さんがライカ同盟の扇の要で、調整役だった」(2014年12月号)と書いた。生前赤瀬川さんが属していた「路上観察学会」や「日本美術応援団」は、前者はそれぞれ得意とする分野を持つメンバーたちによって今後も活動することだろうし、後者は赤瀬川さんの後任に南伸坊さんが就いている。しかし〈かなめ〉を失ったライカ同盟は、今や名目だけの存在というべきではないか、とぼくは見ている。赤瀬川さんを措いてその任の務まる人がいなければやむをえないというものだ。これは寂しいことだが、宗匠没後の現実がそれを物語っている。赤瀬川さんの逝去はライカ同盟初展覧会から20年目。ちょうど潮時ということだったのかもしれない。
ともに80を過ぎた高齢ながら、健康が許す限り秋山さんも高梨さん(こちらはプロだから当たり前だが)も写真を撮り続けることだろう。ぼくはこの二人の写真ファンでもあるから、それはそれで観る楽しみは残されている。だが、それは秋山さんの写真であり高梨さんの写真であって、ライカ同盟の写真ではない。ライカ同盟の写真は、〈ライカ同盟3人による写真〉だったのだから。
(もりもと ごろう)
■森本悟郎 Goro MORIMOTO
1948年愛知県に生まれる。1971年武蔵野美術大学造形学部美術学科卒業。1972年同専攻科修了。小学校から大学までの教職を経て、1994年から2014年3月末日まで中京大学アートギャラリーキュレーター。展評、作品解説、作家論など多数。
●今日のお勧め作品は、秋山祐徳太子です。
秋山祐徳太子
「三角男」
1989年
ブリキ彫刻
H27×11.5×11.5cm
台座の裏にサインと年記あり
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◆森本悟郎のエッセイ「その後」は毎月28日の更新です。
第30回 赤瀬川原平とライカ同盟(10) 倉敷、そして……
2009年1月に倉敷市役所でライカ同盟の記者会見が開かれた。市内アイビースクエア内の展示施設「アイビー学館」を改装し、そのお披露目にライカ同盟展を開催するという公式発表のためだ。この展覧会を支援したのが倉敷商工会議所で、翌日はその創設80周年記念シンポジウムに伊藤香織市長、大原美術館理事長で倉敷商工会議所会頭(当時)の大原謙一郎氏とともに3同盟員がパネリストとして登壇した。
ライカ同盟記者会見倉敷へは倉敷商工会議所からお声がかかった前年秋に続いてこの時が2度目。「どうせ撮るなら四季を」ということで、その後さらに2度撮影に訪れている。最初は倉敷市内(近隣の市町を併合し、市域は案外広い)にこだわっていたものの、回を重ねるごとに越境し始め、結果的には岡山県下も含んだ作品構成となった。これはパリでも博多でも同様で、足が向いた先が撮影地というわけだ。
赤瀬川原平「文字の力」倉敷市玉島
秋山祐徳太子「寶の山」倉敷市下津井
高梨豊「こんにちは」倉敷市下津井展覧会は『ライカ同盟写真展 ライク・ア・クラシキ』として、この年10月に開催(おわかりだろうが、「ライク・ア」は「ライカ」と掛詞になっている)。会場が広いため、撮り下ろしの倉敷と旧作のパリとを並べ、さらにライカ同盟が選んだ写真コンテスト「クラフォト2009」の入選作も展示した。
『ライカ同盟写真展 ライク・ア・クラシキ』ポスター
写真コンテスト「クラフォト2009」ポスター*
倉敷展の頃はライカ同盟もぼくも、これからどこを撮ってどこで展覧会をしようか、などと倉敷以後について話していたものだ。しかし3人揃ったライカ同盟展は倉敷が最後となった。
撮影はそれでも続けていて、3人が顔を揃えたこともあれば、赤瀬川さんと秋山さんの2人ということもあった。2010年10月、曇り空のもと、三河島周辺をライカ同盟と歩いた。撮影後は新宿で反省会となり、それはいつも通りライカ散歩のルーティンだった。だが、こののち3人揃っての撮影機会はこなかった。それはもっぱら赤瀬川さんの健康問題によるものだった。
翌春か、赤瀬川さんから目眩がするという話を聞いた。それも以前あった目眩とは違うようだと(これはのちに脳出血だったことが判明)。その後、胃癌が見つかり全摘手術を受ける。退院後の2012年4月頃だったか、電話越しに聞いたのは耳に心地よいいつもの赤瀬川さんの声ではなく、ひどく年老いた人のようだった。5月には秋山さんと『「墓活」論』(PHP研究所)に描かれている赤瀬川家の墓(鎌倉・東慶寺)を訪ね、宗匠から礼状をもらったが、2年後にご自身が入ることになるとは露ほども思っていなかった。
赤瀬川原平著『「墓活」論』
赤瀬川家墓前の秋山祐徳太子さん*
赤瀬川さんが亡くなった翌年、「追悼 赤瀬川原平」と題して秋山さん、高梨さん、ぼくの3人で座談会をした(『日本写真年鑑 2015』公益社団法人 日本写真協会)。その最後で僕が「原平さんが亡くなったことで解散ということになりますか?」と問いかけると、高梨さんは「いや解散しません。精神のリレーは続けます」と答えた。しかし秋山さんからも高梨さんからも、未だ「そろそろ散歩しようか」という話は出ていない。解散はしていないが、以来、活動がないままである。
この座談会より前に雑誌『日本カメラ』から依頼された追悼文に、ぼくは「赤瀬川さんがライカ同盟の扇の要で、調整役だった」(2014年12月号)と書いた。生前赤瀬川さんが属していた「路上観察学会」や「日本美術応援団」は、前者はそれぞれ得意とする分野を持つメンバーたちによって今後も活動することだろうし、後者は赤瀬川さんの後任に南伸坊さんが就いている。しかし〈かなめ〉を失ったライカ同盟は、今や名目だけの存在というべきではないか、とぼくは見ている。赤瀬川さんを措いてその任の務まる人がいなければやむをえないというものだ。これは寂しいことだが、宗匠没後の現実がそれを物語っている。赤瀬川さんの逝去はライカ同盟初展覧会から20年目。ちょうど潮時ということだったのかもしれない。
ともに80を過ぎた高齢ながら、健康が許す限り秋山さんも高梨さん(こちらはプロだから当たり前だが)も写真を撮り続けることだろう。ぼくはこの二人の写真ファンでもあるから、それはそれで観る楽しみは残されている。だが、それは秋山さんの写真であり高梨さんの写真であって、ライカ同盟の写真ではない。ライカ同盟の写真は、〈ライカ同盟3人による写真〉だったのだから。
(もりもと ごろう)
■森本悟郎 Goro MORIMOTO
1948年愛知県に生まれる。1971年武蔵野美術大学造形学部美術学科卒業。1972年同専攻科修了。小学校から大学までの教職を経て、1994年から2014年3月末日まで中京大学アートギャラリーキュレーター。展評、作品解説、作家論など多数。
●今日のお勧め作品は、秋山祐徳太子です。
秋山祐徳太子「三角男」
1989年
ブリキ彫刻
H27×11.5×11.5cm
台座の裏にサインと年記あり
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