森本悟郎のエッセイ その後
第31回 井上洋介(1931~2016)(1) アヴァンギャルド美術家だった!
井上洋介さん
ぼくが井上洋介という存在を意識しはじめたのは1960年代半ばからで、矢崎泰久が編集・発行していた雑誌『話の特集』を購読するようになってからである。同誌は書き手の多彩さはもとより、エディトリアルデザインでも当時の最先端を示すものだった。これはアートディレクターとしての和田誠の力によるところ大である。執筆者が凄い。ざっと挙げるだけでも石原慎太郎、伊丹十三、五木寛之、稲垣足穂、井上ひさし、色川武大、植草甚一、永六輔、遠藤周作、岡本太郎、小沢昭一、小田実、開高健、金井美恵子、金子光晴、邱永漢、栗田勇、小松左京、斎藤竜鳳、澁澤龍彦、高橋和巳、田中小実昌、田辺聖子、竹中労、タモリ、筒井康隆、寺山修司、野坂昭如、深沢七郎、星新一、三島由紀夫、山下洋輔、吉行淳之介などなど。ヴィジュアルに起用されたのは、イラストレーションが井上洋介、宇野亞喜良、片山健、黒田征太郎、鴨居羊子、佐伯俊男、長新太、矢吹申彦、米倉斉加年、山口はるみ、山下勇三、山藤章二、横尾忠則、和田誠らで、写真が浅井慎平、荒木経惟、沢渡朔、篠山紀信、須田一政、立木義浩、高梨豊、奈良原一高、深瀬昌久、藤倉明治、柳沢信など(※すべて50音順)。時代が時代とはいえ、まことに贅沢なラインナップだ。
『話の特集』1966年2月創刊号
表紙イラストレーションは当時29歳の横尾忠則
井上さんの作品は毎号載るわけではなかったが、グロテスクで残酷でエロティック、かつユーモアのある世界に強く惹かれた。わけても1969年に掲載された「林檎地獄」は衝撃的だった。以来ずっと機会ある毎に展覧会や印刷物で作品を追いかけていたから、ぼくが展覧会を企画するのは自然ななりゆきだった。
出展を依頼する以前から、秋山祐徳太子さんや立石大河亞さんを通じて井上さんとは知己をえていたが、展覧会打合せで初めて市川市の自宅をお訪ねした。玄関を入ると、主人とともに何匹かの猫が出迎えてくれた。当時何匹いたのか忘れたが、10匹以上だったのではなかったか。外と内の区別なく、出這入り御免だったようだ。ふと、馬場のぼるの『11匹のねこ』が頭に浮かんだのを覚えている。上がって左手が仕事場で、決して狭い部屋ではないが、仕事机と座椅子、来客用座布団の周りは画材や資料、画架に描きかけのキャンヴァス、ベニヤ板の版木などが雑然と置かれ、2人座るのがやっとという具合。ここからイラストレーションや版画(小は蒲鉾板から大は180×90cmのベニヤ板まで)、ドローイング、油絵など、多彩な技法によるさまざまな作品が産み出されてきたのだとは、信じられないほど狭隘な制作場所だった。しかしそこは来訪者のぼくでも気分が落ち着き、仕事に集中するには格好の空間だろうと思われた。
その折に若い頃の作品も見ることができた。主に1950年代のもので、それらは画家・井上洋介を正当に戦後日本アヴァンギャルド美術の系譜に位置づけることを証拠立てるものだった。武蔵野美術学校(現武蔵野美術大学)の学生時代から漫画家として認められる一方で、タブローにも真正面からとり組んできたことがよくわかる。このあたり、以前紹介した立石大河亞さんと重なる。
C・スクエア第21回企画「井上洋介展1997『人間幻燈』」は1997年9月に開催した。思えばこの年は中村宏、木村恒久、中平卓馬、真島直子と、個性的で〈濃い〉展覧会が多かった。長年の餓えを、ぼくは一気に晴らすつもりだったのかもしれない。
井上洋介展ポスター
展示風景-1(第1会場)
展示風景-2(第1会場)
展示風景-3(第2会場)
(もりもと ごろう)
■森本悟郎 Goro MORIMOTO
1948年愛知県に生まれる。1971年武蔵野美術大学造形学部美術学科卒業。1972年同専攻科修了。小学校から大学までの教職を経て、1994年から2014年3月末日まで中京大学アートギャラリーキュレーター。展評、作品解説、作家論など多数。
●今日のお勧め作品は、赤瀬川原平です。
赤瀬川原平
「ねじ式」
1969年 シルクスクリーン
51.7x75.5cm
Ed.100 サインあり
こちらの作品の見積り請求、在庫確認はこちらから
※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください。
ときの忘れものの通常業務は平日の火曜~土曜日です。日曜、月曜、祝日はお問い合わせには返信できませんので、予めご了承ください。
◆森本悟郎のエッセイ「その後」は毎月28日の更新です。
第31回 井上洋介(1931~2016)(1) アヴァンギャルド美術家だった!
井上洋介さんぼくが井上洋介という存在を意識しはじめたのは1960年代半ばからで、矢崎泰久が編集・発行していた雑誌『話の特集』を購読するようになってからである。同誌は書き手の多彩さはもとより、エディトリアルデザインでも当時の最先端を示すものだった。これはアートディレクターとしての和田誠の力によるところ大である。執筆者が凄い。ざっと挙げるだけでも石原慎太郎、伊丹十三、五木寛之、稲垣足穂、井上ひさし、色川武大、植草甚一、永六輔、遠藤周作、岡本太郎、小沢昭一、小田実、開高健、金井美恵子、金子光晴、邱永漢、栗田勇、小松左京、斎藤竜鳳、澁澤龍彦、高橋和巳、田中小実昌、田辺聖子、竹中労、タモリ、筒井康隆、寺山修司、野坂昭如、深沢七郎、星新一、三島由紀夫、山下洋輔、吉行淳之介などなど。ヴィジュアルに起用されたのは、イラストレーションが井上洋介、宇野亞喜良、片山健、黒田征太郎、鴨居羊子、佐伯俊男、長新太、矢吹申彦、米倉斉加年、山口はるみ、山下勇三、山藤章二、横尾忠則、和田誠らで、写真が浅井慎平、荒木経惟、沢渡朔、篠山紀信、須田一政、立木義浩、高梨豊、奈良原一高、深瀬昌久、藤倉明治、柳沢信など(※すべて50音順)。時代が時代とはいえ、まことに贅沢なラインナップだ。
『話の特集』1966年2月創刊号表紙イラストレーションは当時29歳の横尾忠則
井上さんの作品は毎号載るわけではなかったが、グロテスクで残酷でエロティック、かつユーモアのある世界に強く惹かれた。わけても1969年に掲載された「林檎地獄」は衝撃的だった。以来ずっと機会ある毎に展覧会や印刷物で作品を追いかけていたから、ぼくが展覧会を企画するのは自然ななりゆきだった。
出展を依頼する以前から、秋山祐徳太子さんや立石大河亞さんを通じて井上さんとは知己をえていたが、展覧会打合せで初めて市川市の自宅をお訪ねした。玄関を入ると、主人とともに何匹かの猫が出迎えてくれた。当時何匹いたのか忘れたが、10匹以上だったのではなかったか。外と内の区別なく、出這入り御免だったようだ。ふと、馬場のぼるの『11匹のねこ』が頭に浮かんだのを覚えている。上がって左手が仕事場で、決して狭い部屋ではないが、仕事机と座椅子、来客用座布団の周りは画材や資料、画架に描きかけのキャンヴァス、ベニヤ板の版木などが雑然と置かれ、2人座るのがやっとという具合。ここからイラストレーションや版画(小は蒲鉾板から大は180×90cmのベニヤ板まで)、ドローイング、油絵など、多彩な技法によるさまざまな作品が産み出されてきたのだとは、信じられないほど狭隘な制作場所だった。しかしそこは来訪者のぼくでも気分が落ち着き、仕事に集中するには格好の空間だろうと思われた。
その折に若い頃の作品も見ることができた。主に1950年代のもので、それらは画家・井上洋介を正当に戦後日本アヴァンギャルド美術の系譜に位置づけることを証拠立てるものだった。武蔵野美術学校(現武蔵野美術大学)の学生時代から漫画家として認められる一方で、タブローにも真正面からとり組んできたことがよくわかる。このあたり、以前紹介した立石大河亞さんと重なる。
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C・スクエア第21回企画「井上洋介展1997『人間幻燈』」は1997年9月に開催した。思えばこの年は中村宏、木村恒久、中平卓馬、真島直子と、個性的で〈濃い〉展覧会が多かった。長年の餓えを、ぼくは一気に晴らすつもりだったのかもしれない。
井上洋介展ポスター
展示風景-1(第1会場)
展示風景-2(第1会場)
展示風景-3(第2会場)(もりもと ごろう)
■森本悟郎 Goro MORIMOTO
1948年愛知県に生まれる。1971年武蔵野美術大学造形学部美術学科卒業。1972年同専攻科修了。小学校から大学までの教職を経て、1994年から2014年3月末日まで中京大学アートギャラリーキュレーター。展評、作品解説、作家論など多数。
●今日のお勧め作品は、赤瀬川原平です。
赤瀬川原平「ねじ式」
1969年 シルクスクリーン
51.7x75.5cm
Ed.100 サインあり
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