花束の如く美しく
―「松本竣介と野田英夫―大川美術館収蔵品を中心に―」展を見て―
喜夛孝臣(練馬区立美術館学芸員)
画家松本竣介と野田英夫の二人展が群馬県桐生市にある大川美術館で開かれている。
大川美術館は6000点以上におよぶコレクションを背景に常設展示を中心に運営してきた。これは、美術館の創設者大川栄二氏の「同じ絵を何度も観ないと真の味は分からない」 という考えを反映したものであり、こうした思いのもとにとりわけ大事にしてきた画家が、松本竣介と野田英夫である。コレクションもこの二人を軸に形成され、靉光や麻生三郎、国吉康雄、舟越保武、難波田龍起ら彼らと交流のあった画家たちの作品が数多く収蔵されている。
一方で、大川美術館では、1989年の開館以来、自主企画の展覧会も継続して開催しており、今回の展覧会はちょうど100回目にあたる。この記念すべき節目を迎えるにあたって企画されたのが、コレクションの中核をなす松本竣介と野田英夫の展覧会であり、展示替えを行いながら、竣介と野田のほとんど全てのコレクションを展示するという。本展は、「絵は人格」であると考え、人と人とのつながりを重んじながらコレクションを形成してきたこの美術館の原点ともいえる展覧会である。
会場に入って、まっさきに目に付いたのは、松本竣介の《街》(1938年)であった。
アメリカ生まれの日本人画家である野田英夫は、1934年に一時帰国し、翌年にディエゴ・リベラに学んだモンタージュ風の手法によって都市生活の断面を描いた《帰路》(本展未出品、東京国立近代美術館蔵)を発表する。竣介は、この作品に影響を受けたといわれ、自身でも様々な人々や街並みの断片を重なり合わせて描くモンタージュの技法に取り組むことになった。竣介の《街》は、そうした取り組みの最初の作品であり、竣介と野田を同時に展観し、そこから見えてくるものを探ろうとする本展では欠かせない作品といえよう。
野田英夫
《帰路》
1935年
油彩・カンヴァス
97.0×146.0cm
(東京国立近代美術館蔵)
松本竣介
《街》
1938年
油彩・合板
131.0×163.0㎝
(大川美術館蔵)
野田の《帰路》には、腕を組み深刻そうな面持ちの労働者が黙々と歩く姿が大きく描かれる。彼はおそらく失業者なのであろう。そこには移民の子である野田によるアメリカ社会の矛盾に対するまなざしや、切実なメッセージが託されているように思える。一方、竣介の《街》には、ワンピースを着た女性、靴磨きの青年や犬の散歩をする少年、労働者やソフト帽をかぶった紳士らが闊歩する街角の情景と、時計塔や煙突のある建物が立ち並ぶ幻想的な都市風景が描かれる。詩情溢れる作品であり、野田のような社会性は希薄である。
竣介は、「人間風景」というエッセイの中で、次のように書いている。
「名も知らないやうな路傍の人にさへ、自己の感情に対する以上の同感を感じることがある。それは純粋な精神の接触から生じる同感なのだと思ふ。純粋な状態に於てのみ僕達はどのやうな人とも手を握り合ふ心になれるのだ」(註1)
竣介のこの絵には、名も知らない路傍の人たちに対する、「自己の感情に対する以上の同感」が基調としてあるのではないか。
こうして自らの思想や感情を強く押し出すのではなく、他者に心を寄せて描いた竣介が、「今、沈黙する事は賢い、けれど今たゞ沈黙する事が凡てに於て正しい、のではないと信じる」と、あえて自らの言葉によって、戦時中に個人の制作を続けることの意義について発言した「生きてゐる画家」の重みについてあらためて考えさせられる(註2)。これは、陸軍省情報部の鈴木庫三少佐らによる「国防国家と美術」座談会に応答して書かれた一文であり(註3)、本展では、竣介が妻禎子と編集にあたった随筆の雑誌『雑記帳』などの資料とともに紹介されている。ここで竣介は、国策の為に筆を執れとする軍人たちの発言に対し、人間としての本源的な問題を追及する芸術家の仕事を擁護する見解を真っ向から提示している。自粛という言葉がはやる重苦しい空気の中であり、今以上に同調圧力が強かった時代である。その中で自己を賭して発言した竣介の言葉には、目先のことではなく、「ヒューマニティー」を重んじ、よりよき未来を模索する若者たちによる、この時代を代表する精神を見るような思いである。
野田と竣介の二人の絶筆が近くにならべられており、同時にみることができたのも得がたい機会であった。野田の 《野尻の花》(1938年)は、ヒメジオンや鬼アザミなど妻のルース・ケルツが野尻湖辺で摘んできた野花を描いた作品である。野田は、妻を伴った避暑の一夏から体調に異変をきたし、その後、絵筆をとることもなく亡くなった。竣介の《建物(青)》(1948年)は、第2回美術団体連合展に出品するために描かれた作品の一つである。ペディメントと巨大な柱をもつ、神殿のように荘厳な建物が描かれている。竣介は本作を肺結核が進行した高熱のさなかに制作し、出品後まもなくに亡くなっている。野田は30才、竣介は36才という若さであった。彼らの絶筆は、あまりにもはやく訪れた二人の死をつきつけてくる。
展覧会の中心を占めていたのは、彼らのドローイングやスケッチであった。むさぼるように読書に没頭する男性や、手紙を書く女性の姿をとらえた野田のスケッチには、どこか知性に対する素直な信頼のようなものが見えて明るい気持ちにさせられる。このように彼らのスケッチには、自らの手と頭で考えてきた彼らの視線がそのままに写し出されている。
野田英夫
《野尻の花》
1938年
油彩・ボード
33.0×24.0㎝
(信濃デッサン館蔵)
松本竣介
《建物(青)》
1948年
油彩・カンヴァス
24.0×33.0㎝
(大川美術館蔵)
これらは、もともとは何冊かのスケッチ帖であったのだろう。彼らの死後にそれらは解体され、一枚一枚大事に額に納められ、一度に何枚も展示できるようにされたのだ。彼らはあまりに若くして亡くなった。そのため作品の数はそれほど多く残されていない。30才で亡くなった野田には、とりわけそれが顕著である。竣介と野田に親しく交わっていた人びと、彼らに敬意をもつ者たち、そうした竣介と野田の死後に残された者たちは少しでも作品に宿した彼らの精神が後世にのこるように、普通なら反故にしてしまいそうなものでさえも、慈しんできたのである。彼らのスケッチを一つ一つ丹念に眺めるうちに、そうした営みまでが想像されてくる。
常設の特集展示コーナーでは、今回の企画展にあわせ「当館コレクションによるアメリカシーンの画家たち~野田英夫と松本竣介の言葉とともに」も開催されている。ここでは野田と竣介の言葉とともに、彼らに影響を与えたジョージ・グロッスやジョン・スローンの絵などが展示されている。そのなかに絵画制作について語る野田の次の言葉が紹介されていた。
「我々が絵画するに当って我々は現象世界の一部を描写することだけに満足してはならない。絵画のもつ複雑な世界、それは、文学的内容、造形的骨格、詩的情操等が描かれなければならない。作家の世界観の深度が造形的知性と相まって、渾然として花束の如く美しく表現された時、我々は一つの絵画に何度も足を運ばずに居れないのである」(註4)
竣介が絵だけではなく、野田の言葉にも影響を受けていたであろうという指摘がなされていた。確かにその通りであろう。野田の制作態度は、竣介の態度でもある。ともに彼らは社会に向き合いながら、「花束の如く美しく」、彼らの世界観を画面に固着させている。
時代に対峙して瑞々しい精神を屹立させてきた二人の絵には、今、大きな時代の曲がり角を迎えようとする私たちひとりひとりのありようを振り返らせる力を持っているように思う。
(きた たかおみ)
註1:松本竣介「人間風景」『人間風景 新装増補版』中央公論美術出版、1990年(初出:『生命の藝術』3巻4号、1935年4月)
註2:松本竣介「生きてゐる画家」『みづゑ』437号、1941年4月
註3:「国防国家と美術」『みづゑ』434号、1941年1月
註4:野田英夫「ヒラノニマス・ボッシュ」『みづゑ』396号、1938年2月
「松本竣介と野田英夫―大川美術館収蔵品を中心に―」
会場:大川美術館
〒376-0043 群馬県桐生市小曾根町3−69
tel. 0277-46-3300
会期:2016年10月1日(土)~12月18日(日)
HP: http://okawamuseum.jp/index.php


※画面をクリックしてください。
■喜夛孝臣 Takaomi KITA
1978年生まれ。早稲田大学卒、同大学院博士課程満期退学。早稲田大学會津八一記念博物館助手、早稲田大学坪内博士記念演劇博物館学芸員を経て、現在、練馬区立美術館学芸員。
担当した企画展は、「戦争画の相貌—花岡萬舟連作—」(09年)、「新耽奇会展—奇想天外コレクション」(13年)、「あしたのジョー、の時代」(14年)、「没後50年“日本のルソー”横井弘三の世界展」(16年)、「朝井閑右衛門—空想の饗宴」(16年)など。
●本日のお勧め作品は、松本竣介です。
松本竣介 Shunsuke MATSUMOTO
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先日ご紹介した通り、この秋は東京、鎌倉、桐生の各美術館で松本竣介が展示されています。上掲の大川美術館といえば竣介。瑛九より一つ年下の1912年生まれ。竣介36歳、瑛九48歳、ともに若死にですが遺された作品数は圧倒的に瑛九が多い。詳しくは亭主の駄文「松本竣介と瑛九」をお読みください。
<瑛九 1935-1937 闇の中で「レアル」をさがす>展が東京国立近代美術館で始まりました(11月22日~2017年2月12日)。ときの忘れものは会期終了まで瑛九について毎日発信します。
―「松本竣介と野田英夫―大川美術館収蔵品を中心に―」展を見て―
喜夛孝臣(練馬区立美術館学芸員)
画家松本竣介と野田英夫の二人展が群馬県桐生市にある大川美術館で開かれている。
大川美術館は6000点以上におよぶコレクションを背景に常設展示を中心に運営してきた。これは、美術館の創設者大川栄二氏の「同じ絵を何度も観ないと真の味は分からない」 という考えを反映したものであり、こうした思いのもとにとりわけ大事にしてきた画家が、松本竣介と野田英夫である。コレクションもこの二人を軸に形成され、靉光や麻生三郎、国吉康雄、舟越保武、難波田龍起ら彼らと交流のあった画家たちの作品が数多く収蔵されている。
一方で、大川美術館では、1989年の開館以来、自主企画の展覧会も継続して開催しており、今回の展覧会はちょうど100回目にあたる。この記念すべき節目を迎えるにあたって企画されたのが、コレクションの中核をなす松本竣介と野田英夫の展覧会であり、展示替えを行いながら、竣介と野田のほとんど全てのコレクションを展示するという。本展は、「絵は人格」であると考え、人と人とのつながりを重んじながらコレクションを形成してきたこの美術館の原点ともいえる展覧会である。
会場に入って、まっさきに目に付いたのは、松本竣介の《街》(1938年)であった。
アメリカ生まれの日本人画家である野田英夫は、1934年に一時帰国し、翌年にディエゴ・リベラに学んだモンタージュ風の手法によって都市生活の断面を描いた《帰路》(本展未出品、東京国立近代美術館蔵)を発表する。竣介は、この作品に影響を受けたといわれ、自身でも様々な人々や街並みの断片を重なり合わせて描くモンタージュの技法に取り組むことになった。竣介の《街》は、そうした取り組みの最初の作品であり、竣介と野田を同時に展観し、そこから見えてくるものを探ろうとする本展では欠かせない作品といえよう。
野田英夫《帰路》
1935年
油彩・カンヴァス
97.0×146.0cm
(東京国立近代美術館蔵)
松本竣介《街》
1938年
油彩・合板
131.0×163.0㎝
(大川美術館蔵)
野田の《帰路》には、腕を組み深刻そうな面持ちの労働者が黙々と歩く姿が大きく描かれる。彼はおそらく失業者なのであろう。そこには移民の子である野田によるアメリカ社会の矛盾に対するまなざしや、切実なメッセージが託されているように思える。一方、竣介の《街》には、ワンピースを着た女性、靴磨きの青年や犬の散歩をする少年、労働者やソフト帽をかぶった紳士らが闊歩する街角の情景と、時計塔や煙突のある建物が立ち並ぶ幻想的な都市風景が描かれる。詩情溢れる作品であり、野田のような社会性は希薄である。
竣介は、「人間風景」というエッセイの中で、次のように書いている。
「名も知らないやうな路傍の人にさへ、自己の感情に対する以上の同感を感じることがある。それは純粋な精神の接触から生じる同感なのだと思ふ。純粋な状態に於てのみ僕達はどのやうな人とも手を握り合ふ心になれるのだ」(註1)
竣介のこの絵には、名も知らない路傍の人たちに対する、「自己の感情に対する以上の同感」が基調としてあるのではないか。
こうして自らの思想や感情を強く押し出すのではなく、他者に心を寄せて描いた竣介が、「今、沈黙する事は賢い、けれど今たゞ沈黙する事が凡てに於て正しい、のではないと信じる」と、あえて自らの言葉によって、戦時中に個人の制作を続けることの意義について発言した「生きてゐる画家」の重みについてあらためて考えさせられる(註2)。これは、陸軍省情報部の鈴木庫三少佐らによる「国防国家と美術」座談会に応答して書かれた一文であり(註3)、本展では、竣介が妻禎子と編集にあたった随筆の雑誌『雑記帳』などの資料とともに紹介されている。ここで竣介は、国策の為に筆を執れとする軍人たちの発言に対し、人間としての本源的な問題を追及する芸術家の仕事を擁護する見解を真っ向から提示している。自粛という言葉がはやる重苦しい空気の中であり、今以上に同調圧力が強かった時代である。その中で自己を賭して発言した竣介の言葉には、目先のことではなく、「ヒューマニティー」を重んじ、よりよき未来を模索する若者たちによる、この時代を代表する精神を見るような思いである。
野田と竣介の二人の絶筆が近くにならべられており、同時にみることができたのも得がたい機会であった。野田の 《野尻の花》(1938年)は、ヒメジオンや鬼アザミなど妻のルース・ケルツが野尻湖辺で摘んできた野花を描いた作品である。野田は、妻を伴った避暑の一夏から体調に異変をきたし、その後、絵筆をとることもなく亡くなった。竣介の《建物(青)》(1948年)は、第2回美術団体連合展に出品するために描かれた作品の一つである。ペディメントと巨大な柱をもつ、神殿のように荘厳な建物が描かれている。竣介は本作を肺結核が進行した高熱のさなかに制作し、出品後まもなくに亡くなっている。野田は30才、竣介は36才という若さであった。彼らの絶筆は、あまりにもはやく訪れた二人の死をつきつけてくる。
展覧会の中心を占めていたのは、彼らのドローイングやスケッチであった。むさぼるように読書に没頭する男性や、手紙を書く女性の姿をとらえた野田のスケッチには、どこか知性に対する素直な信頼のようなものが見えて明るい気持ちにさせられる。このように彼らのスケッチには、自らの手と頭で考えてきた彼らの視線がそのままに写し出されている。
野田英夫《野尻の花》
1938年
油彩・ボード
33.0×24.0㎝
(信濃デッサン館蔵)
松本竣介《建物(青)》
1948年
油彩・カンヴァス
24.0×33.0㎝
(大川美術館蔵)
これらは、もともとは何冊かのスケッチ帖であったのだろう。彼らの死後にそれらは解体され、一枚一枚大事に額に納められ、一度に何枚も展示できるようにされたのだ。彼らはあまりに若くして亡くなった。そのため作品の数はそれほど多く残されていない。30才で亡くなった野田には、とりわけそれが顕著である。竣介と野田に親しく交わっていた人びと、彼らに敬意をもつ者たち、そうした竣介と野田の死後に残された者たちは少しでも作品に宿した彼らの精神が後世にのこるように、普通なら反故にしてしまいそうなものでさえも、慈しんできたのである。彼らのスケッチを一つ一つ丹念に眺めるうちに、そうした営みまでが想像されてくる。
常設の特集展示コーナーでは、今回の企画展にあわせ「当館コレクションによるアメリカシーンの画家たち~野田英夫と松本竣介の言葉とともに」も開催されている。ここでは野田と竣介の言葉とともに、彼らに影響を与えたジョージ・グロッスやジョン・スローンの絵などが展示されている。そのなかに絵画制作について語る野田の次の言葉が紹介されていた。
「我々が絵画するに当って我々は現象世界の一部を描写することだけに満足してはならない。絵画のもつ複雑な世界、それは、文学的内容、造形的骨格、詩的情操等が描かれなければならない。作家の世界観の深度が造形的知性と相まって、渾然として花束の如く美しく表現された時、我々は一つの絵画に何度も足を運ばずに居れないのである」(註4)
竣介が絵だけではなく、野田の言葉にも影響を受けていたであろうという指摘がなされていた。確かにその通りであろう。野田の制作態度は、竣介の態度でもある。ともに彼らは社会に向き合いながら、「花束の如く美しく」、彼らの世界観を画面に固着させている。
時代に対峙して瑞々しい精神を屹立させてきた二人の絵には、今、大きな時代の曲がり角を迎えようとする私たちひとりひとりのありようを振り返らせる力を持っているように思う。
(きた たかおみ)
註1:松本竣介「人間風景」『人間風景 新装増補版』中央公論美術出版、1990年(初出:『生命の藝術』3巻4号、1935年4月)
註2:松本竣介「生きてゐる画家」『みづゑ』437号、1941年4月
註3:「国防国家と美術」『みづゑ』434号、1941年1月
註4:野田英夫「ヒラノニマス・ボッシュ」『みづゑ』396号、1938年2月
「松本竣介と野田英夫―大川美術館収蔵品を中心に―」
会場:大川美術館
〒376-0043 群馬県桐生市小曾根町3−69
tel. 0277-46-3300
会期:2016年10月1日(土)~12月18日(日)
HP: http://okawamuseum.jp/index.php


※画面をクリックしてください。
■喜夛孝臣 Takaomi KITA
1978年生まれ。早稲田大学卒、同大学院博士課程満期退学。早稲田大学會津八一記念博物館助手、早稲田大学坪内博士記念演劇博物館学芸員を経て、現在、練馬区立美術館学芸員。
担当した企画展は、「戦争画の相貌—花岡萬舟連作—」(09年)、「新耽奇会展—奇想天外コレクション」(13年)、「あしたのジョー、の時代」(14年)、「没後50年“日本のルソー”横井弘三の世界展」(16年)、「朝井閑右衛門—空想の饗宴」(16年)など。
●本日のお勧め作品は、松本竣介です。
松本竣介 Shunsuke MATSUMOTO《作品》
紙にインク、墨
Image size:30.5x22.3cm
Sheet size:32.7x24.0cm
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先日ご紹介した通り、この秋は東京、鎌倉、桐生の各美術館で松本竣介が展示されています。上掲の大川美術館といえば竣介。瑛九より一つ年下の1912年生まれ。竣介36歳、瑛九48歳、ともに若死にですが遺された作品数は圧倒的に瑛九が多い。詳しくは亭主の駄文「松本竣介と瑛九」をお読みください。
<瑛九 1935-1937 闇の中で「レアル」をさがす>展が東京国立近代美術館で始まりました(11月22日~2017年2月12日)。ときの忘れものは会期終了まで瑛九について毎日発信します。
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