杉山幸一郎のエッセイ「幸せにみちたくうかんを求めて」
第9回 スイス木工所

今回はスイスの木工所を見ていこうと思います。
第三回のエッセイで紹介したヴェネチアビエンナーレも終わり、再び会場であるArsenalへ向かい撤収作業を行いました。ズントー事務所はそこでLACMAプロジェクトを展示しましたが、それを解体して美術館へ搬送するためです。 設置する際はプロの手によって組み立てられましたが、今回は大きな模型以外は事務所からやって来た自分たち3人で解体する必要があるため、どのように行うのが一番安全で効率的なのか確認も含め発注先であったRuWaという木工所へ向かいました。
日本では、少なくとも僕の年代で周りを見渡して考えると、建設現場で働く大工や左官、板金職人というのは中学高校卒と同時に会社に入って親方に師事して職人になるというのが一般的であったように思います。一方でスイスやドイツの教育システムでは日本でいうところの小学校を卒業した後に普通高等学校へ進むのとは別に、職業訓練学校へ進んで成る道が一般的です。もちろん職人と言っても建設業に限らず様々で、コックや美容師、自動車工、銀行員など多岐に渡ります。彼らは二、三年学校へ行く傍ら仕事をしながら学んでいき卒業と同時に職人となります。(と言っても分野によってはこの卒業証明がなければその仕事ができないという縛りではなく、肩書きのようなものらしいです)
僕たちの事務所でも常に2人の職業訓練学校生が学んでおり、彼らは三年間勉強しHochbauzeichnerいわゆる設計ドラフトマンとなります。
木工関係の仕事では、大工Zimmermann、木工職人Schreiner、カット職人Säger、模型職人Modellbauerなどに細かく分かれています。それでも同じような機械を使い仕事としては部分的に重なっているため、自分が学んだ分野以外のところで仕事をしている人も珍しくありません。
Workflow としては仕入れた丸太をカット職人が大まかに角材とし、大工が無垢のままもしくは集成材にした材木を寸法通りに製材し、必要であれば現場で組み立てる。木工職人は扉から机、バスタブまでの幅広い家具を作り、また巨大で精密なCNCマシンで行う作業を受け持つ職人もいます。訪れた木工所では木造住宅の設計、一部施行施工も受注する比較的大きな規模とシステムを持つ創立80年以上の会社で従業員は全部で35人程度、カット職人、事務員が数名、木工職人と大工が大半でした。展示した全長5mほどの大きな模型を発注した別の製作所Modellbauは比べて小さな会社であったため、当然ながら1人が行う作業の幅は増えていました。

始めに見せてもらったのは、大きな木材を切断する機械。僕は恥ずかしながら、木材を垂直に立て掛けて切断する機械を見たのは初めてだったので戸惑いましたが、なるほどスペースを有効に使える良いアイデアです。これは大きめの木材を主に短手方向にカットする際に用います。

続いてこれは木材を長手方向にカットする機械。デジタルのメモリが付いていましたが、実際に精度を出すには十分でないようで、平削盤を使って精度ある仕上げをしていきます。


木材を綺麗にスライスする機械。まずは下面を水平にしてから、その後別の機械でもう片方を削ります。紹介していると枚挙に遑がないのですが、4面を同時に鉋がけできる機械や巨大なCNCカッターなどもあります。木工所内で加工している範囲では、クラフトマン的手作業と言うよりはむしろ機械の制御とメインテナンスが重視されているように感じました。

続いて併設されている家具工房へ。こちらは手工業的です。雑然としているようで、モノがきちんと使いやすいところにある。どこへ行っても良い職人さんは身の回りをいつも綺麗にし、工具を大切に扱い、それらが機能的に整頓されている印象があります。フィジカルな仕事であるほど疲れやすくなるため、頭の中が整理されていないとすぐに間違った方向へ作業が進んでしまいがちです。それは事務所内でモデルを作製する時にも度々起こってしまいます。。。

場所を変えて木材の保管場所へ。この一帯もとても良い香りがします。こうして山に囲まれた場所でその土地で取れる木々(スプルースFichte、カラマツLärche、スイスマツArve)で建材や家具を作る。とても素直で健康的な仕事です。
ズントー建築のクオリティーを保っているのはこうした職人たちです。腕の良い職人を探し一緒に仕事をすることは、良い建築を作る必要条件。今回少し紹介した木工所、職人は氷山の一角で、例えばいつも名指しして依頼する溶接工の職人がいます。彼はヴァルスの温泉施設から新アトリエまで20年以上仕事をしており、オルジアティ(Valerio Olgiati)やデプラツェス(Bearth & Deplazes )らの建築現場にいつも現れます。そうした人材を探し当て、作り手と供にモノ(建築)を発展させていく能力も建築家としての職能だと強く感じています。
(すぎやま こういちろう)
■杉山幸一郎 Koichiro SUGIYAMA
1984年生まれ。日本大学高宮研究室で建築を学び、2008年東京藝術大学大学院北川原研究室に入学。
在学中にETH Zurichに留学し大学院修了後、建築家として活動する。
2014年文化庁新進芸術家海外研修制度によりスイスにて研修。 2015年からアトリエ ピーターズントー アンド パートナー。
世の中に満ち溢れているけれどなかなか気づくことができないものを見落とさないように、感受性の幅を広げようと日々努力しています。
●本日の瑛九情報!
~~~
1951年瑛九と泉茂らによって大阪で結成された「デモクラート美術家協会」は既存の美術団体を批判し、翌年加藤正らその運動を東京に広げ、以後大阪と東京そして瑛九の郷里宮崎を拠点にさまざまな活動を展開します。「デモクラート」とはエスペラント語で「民主主義者」の意。エスペラントを学んでいた瑛九の命名です。
瑛九がかつて住んだ埼玉県浦和の埼玉県立近代美術館では 1999.8.21(土)-10月11日(月)「デモクラート1951~1957」展が開催され、瑛九の周辺に集まった作家たちを回顧しました。
その出品作家の名前を挙げてみましょう。
靉嘔、池田満寿夫、泉茂、磯辺行久、井山忠行、岩宮武二、内田耕平、内間俊子、内海柳子、瑛九、織田繁、オノサトトモコ、加藤正、河野徹、河原温、郡司盛男、杉村恒、高井義博、棚橋紫水、津志本貞、鶴岡弘康、利根山光人、早川良雄、春口光義、船井裕、古家玲子、細江英公、幹英生、森啓、森泰、山城隆一、山中嘉一、吉田利次、吉原英雄
瑛九は徒党を組むことを嫌い、学校や組織になじむことの苦手な人だったようですが、彼のもとには多くの若者たちがあつまりました。
浦和の瑛九アトリエに集まった若者たちの中に、河原温がおり、細江英公がおり、まだ学生だった磯崎新もいました。
河原温
印刷絵画 「いれずみ」
1959年以前
73.0×51.0cm
*『美術手帖』臨時増刊No.155(1959年3月)107Pに図版掲載
~~~
<瑛九 1935-1937 闇の中で「レアル」をさがす>展が東京国立近代美術館で始まりました(11月22日~2017年2月12日)。ときの忘れものは会期終了まで瑛九について毎日発信します。
◆杉山幸一郎のエッセイ「幸せにみちたくうかんを求めて」は毎月10日の更新です。
第9回 スイス木工所

今回はスイスの木工所を見ていこうと思います。
第三回のエッセイで紹介したヴェネチアビエンナーレも終わり、再び会場であるArsenalへ向かい撤収作業を行いました。ズントー事務所はそこでLACMAプロジェクトを展示しましたが、それを解体して美術館へ搬送するためです。 設置する際はプロの手によって組み立てられましたが、今回は大きな模型以外は事務所からやって来た自分たち3人で解体する必要があるため、どのように行うのが一番安全で効率的なのか確認も含め発注先であったRuWaという木工所へ向かいました。
日本では、少なくとも僕の年代で周りを見渡して考えると、建設現場で働く大工や左官、板金職人というのは中学高校卒と同時に会社に入って親方に師事して職人になるというのが一般的であったように思います。一方でスイスやドイツの教育システムでは日本でいうところの小学校を卒業した後に普通高等学校へ進むのとは別に、職業訓練学校へ進んで成る道が一般的です。もちろん職人と言っても建設業に限らず様々で、コックや美容師、自動車工、銀行員など多岐に渡ります。彼らは二、三年学校へ行く傍ら仕事をしながら学んでいき卒業と同時に職人となります。(と言っても分野によってはこの卒業証明がなければその仕事ができないという縛りではなく、肩書きのようなものらしいです)
僕たちの事務所でも常に2人の職業訓練学校生が学んでおり、彼らは三年間勉強しHochbauzeichnerいわゆる設計ドラフトマンとなります。
木工関係の仕事では、大工Zimmermann、木工職人Schreiner、カット職人Säger、模型職人Modellbauerなどに細かく分かれています。それでも同じような機械を使い仕事としては部分的に重なっているため、自分が学んだ分野以外のところで仕事をしている人も珍しくありません。
Workflow としては仕入れた丸太をカット職人が大まかに角材とし、大工が無垢のままもしくは集成材にした材木を寸法通りに製材し、必要であれば現場で組み立てる。木工職人は扉から机、バスタブまでの幅広い家具を作り、また巨大で精密なCNCマシンで行う作業を受け持つ職人もいます。訪れた木工所では木造住宅の設計、一部施行施工も受注する比較的大きな規模とシステムを持つ創立80年以上の会社で従業員は全部で35人程度、カット職人、事務員が数名、木工職人と大工が大半でした。展示した全長5mほどの大きな模型を発注した別の製作所Modellbauは比べて小さな会社であったため、当然ながら1人が行う作業の幅は増えていました。

始めに見せてもらったのは、大きな木材を切断する機械。僕は恥ずかしながら、木材を垂直に立て掛けて切断する機械を見たのは初めてだったので戸惑いましたが、なるほどスペースを有効に使える良いアイデアです。これは大きめの木材を主に短手方向にカットする際に用います。

続いてこれは木材を長手方向にカットする機械。デジタルのメモリが付いていましたが、実際に精度を出すには十分でないようで、平削盤を使って精度ある仕上げをしていきます。


木材を綺麗にスライスする機械。まずは下面を水平にしてから、その後別の機械でもう片方を削ります。紹介していると枚挙に遑がないのですが、4面を同時に鉋がけできる機械や巨大なCNCカッターなどもあります。木工所内で加工している範囲では、クラフトマン的手作業と言うよりはむしろ機械の制御とメインテナンスが重視されているように感じました。

続いて併設されている家具工房へ。こちらは手工業的です。雑然としているようで、モノがきちんと使いやすいところにある。どこへ行っても良い職人さんは身の回りをいつも綺麗にし、工具を大切に扱い、それらが機能的に整頓されている印象があります。フィジカルな仕事であるほど疲れやすくなるため、頭の中が整理されていないとすぐに間違った方向へ作業が進んでしまいがちです。それは事務所内でモデルを作製する時にも度々起こってしまいます。。。

場所を変えて木材の保管場所へ。この一帯もとても良い香りがします。こうして山に囲まれた場所でその土地で取れる木々(スプルースFichte、カラマツLärche、スイスマツArve)で建材や家具を作る。とても素直で健康的な仕事です。
ズントー建築のクオリティーを保っているのはこうした職人たちです。腕の良い職人を探し一緒に仕事をすることは、良い建築を作る必要条件。今回少し紹介した木工所、職人は氷山の一角で、例えばいつも名指しして依頼する溶接工の職人がいます。彼はヴァルスの温泉施設から新アトリエまで20年以上仕事をしており、オルジアティ(Valerio Olgiati)やデプラツェス(Bearth & Deplazes )らの建築現場にいつも現れます。そうした人材を探し当て、作り手と供にモノ(建築)を発展させていく能力も建築家としての職能だと強く感じています。
(すぎやま こういちろう)
■杉山幸一郎 Koichiro SUGIYAMA
1984年生まれ。日本大学高宮研究室で建築を学び、2008年東京藝術大学大学院北川原研究室に入学。
在学中にETH Zurichに留学し大学院修了後、建築家として活動する。
2014年文化庁新進芸術家海外研修制度によりスイスにて研修。 2015年からアトリエ ピーターズントー アンド パートナー。
世の中に満ち溢れているけれどなかなか気づくことができないものを見落とさないように、感受性の幅を広げようと日々努力しています。
●本日の瑛九情報!
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1951年瑛九と泉茂らによって大阪で結成された「デモクラート美術家協会」は既存の美術団体を批判し、翌年加藤正らその運動を東京に広げ、以後大阪と東京そして瑛九の郷里宮崎を拠点にさまざまな活動を展開します。「デモクラート」とはエスペラント語で「民主主義者」の意。エスペラントを学んでいた瑛九の命名です。
瑛九がかつて住んだ埼玉県浦和の埼玉県立近代美術館では 1999.8.21(土)-10月11日(月)「デモクラート1951~1957」展が開催され、瑛九の周辺に集まった作家たちを回顧しました。
その出品作家の名前を挙げてみましょう。
靉嘔、池田満寿夫、泉茂、磯辺行久、井山忠行、岩宮武二、内田耕平、内間俊子、内海柳子、瑛九、織田繁、オノサトトモコ、加藤正、河野徹、河原温、郡司盛男、杉村恒、高井義博、棚橋紫水、津志本貞、鶴岡弘康、利根山光人、早川良雄、春口光義、船井裕、古家玲子、細江英公、幹英生、森啓、森泰、山城隆一、山中嘉一、吉田利次、吉原英雄
瑛九は徒党を組むことを嫌い、学校や組織になじむことの苦手な人だったようですが、彼のもとには多くの若者たちがあつまりました。
浦和の瑛九アトリエに集まった若者たちの中に、河原温がおり、細江英公がおり、まだ学生だった磯崎新もいました。
河原温印刷絵画 「いれずみ」
1959年以前
73.0×51.0cm
*『美術手帖』臨時増刊No.155(1959年3月)107Pに図版掲載
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<瑛九 1935-1937 闇の中で「レアル」をさがす>展が東京国立近代美術館で始まりました(11月22日~2017年2月12日)。ときの忘れものは会期終了まで瑛九について毎日発信します。
◆杉山幸一郎のエッセイ「幸せにみちたくうかんを求めて」は毎月10日の更新です。
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