「鎌鼬美術館——秋田県羽後町田代に開館」
その2 鎌鼬美術館へ
森下隆(慶應義塾大学アート・センター)
はじめに
細江英公と土方巽がのちに写真集『鎌鼬』としてまとまる写真を撮影した秋田県羽後町の田代は、いたって長閑な村里です。山間にぽっかり開けた農村で、信号もなければコンビニもない僻村とはいえ、廃れた村とか限界集落と言った雰囲気はありません。
とはいえ、この村に美術館誕生といっても現実感がないのも確かで、羽後町の人たちも驚いたことでしょう。とくに、アートに縁のない村人たちが美術館をつくるなどとは思いもよらないことだったでしょう。
小なりとはいえ、堂々と美術館を名乗っています。いったい、どのようにして美術館がうまれたのか、どのような美術館なのか。
小さな里の美術館誕生物語の序章です。
I.1968年の展覧会と舞踏公演
「鎌鼬」の撮影は、田代に続いて、都内各所や筑波山麓で行われました。都内は、土方巽の稽古場であったアスベスト館をはじめ巣鴨や葛飾です。
一方、筑波山麓での撮影は田代での撮影と混同されがちです。同じように田んぼで撮影されているからです。とはいえ、その違いは実は一目瞭然です。
というのも、筑波での撮影は1968年ですが、田代では短髪だった土方巽はこの年には長髪になっているからです。土方巽はずっと短髪で、若い頃はジェームス・ディーンに似ていると自認していました。いや他人からも認められていました。
それが、1967年中でしょうか、髪を長くし始めたのです。軌を一にして、土方巽は、「からだのなかにひとりの姉を住まわせている」と周囲に言うようになります。
それはともかく、田代での撮影をはじめ各所で撮影された写真を加えて、細江英公写真展「とてつもなく悲劇的な喜劇――日本の舞踏家・天才<土方巽>主演写真劇場」が1968年3月に開催されます。
写真展は観覧者になかなかに衝撃を与えたようです。展示作品はプリントを額装というスタイルではなく、大きく引き延ばされたプリントが板貼りされていました。その後の細江英公展でも出品されていますが、プリント面には銀塩が浮いていて、時間の経過とともに、写真を生々しく見せています。
また、この展覧会は舞踏公演「土方巽と日本人」に波及します。ポスターには舞踏公演「土方巽と日本人」の開催は6月と印刷されています。ところが実際には、10月に公演が行われるのです。つまり、公演は延期されたのですが、それにとどまらず、公演内容も当初の目論みとは違って変更されたのです。
ここでは詳しくは述べませんが、公演内容に大きく影響を与えたのが、写真展の展評だったのです。それが、『美術手帖』(6月号)に掲載された種村季弘による展評「暗黒舞踊家・土方巽の狂気」です。
この種村の展評では、写真展を紹介しつつ、突然、文章が変調して、一気にボルテージが上がります。「凶兆をはらんだ暗黒の空の下をなまめいた女の薄物を翻しながら、狂気のヘルマフロディトスが魔のように疾走する。風景は卵形にたわみ」と、種村の文章も疾走するのです。
舞踊という身体運動の始原を求め、ロシア革命にニジンスキーの肉体をからめ、「あらゆる暴動は舞踊である」とアジテートするや、一気呵成に輾転とすると、「つねに不死の人として立ち会って光栄ある肉体の叛乱を主宰したのだ」と高揚した宣言で文章は閉じられます。
これには土方巽も煽られたにちがいありません。かくして、舞踏公演「土方巽と日本人」は「肉体の叛乱」と化したのです。この年10月、土方巽は日本青年館の舞台の上で模造男根を振り立て、真鍮版に体をぶつけて、「舞踊という暴動」を巻き起こし、満員の観客を興奮の坩堝に引き込んだのです。
翌1969年に土方巽の発声で『鎌鼬』とのタイトルをもって、写真集が上梓されたことは前回に述べました。
種村季弘「肉体の叛乱」。
「土方巽と日本人」の公演の際に配布された
「土方巽と日本人」(肉体の叛乱)の土方巽。
中西夏之の舞台装置である真鍮版
2.村に美術館をつくりたい
田代の人たちは、「鎌鼬」の写真展のことも、写真集『鎌鼬』が刊行されたことも、ましてこの写真集が芸術選奨文部大臣賞を受賞したことも知る由もありません。
ところが、2001年に「細江英公の写真1950-2000」展が秋田市立秋田千秋美術館で開催され、それに合わせて、細江は田代を再訪したのです。細江は村の人たちに、36年前の撮影時における非礼を詫びたのですが、『鎌鼬』に土方巽とともに写っている人たちは、細江の来訪を歓迎してくれました。
田代を再訪した細江英公と村の人たち
村人にとっては、不思議な体験をしたということで、あの日の出来事がただ記憶の底に残っていたばかりです。不愉快な気持ちは少しもなく、懐かしい記憶です。そして、『鎌鼬』の写真をいつも傍にあって見てみたいとの思いから、写真を展示する「記念館」ができればいいとの発言も出ました。
また、この村を鎌鼬の里にしようと、有志が鎌鼬の里の会を結成したのですが、「記念館」設立までは至りませんでした。
それから十数年、2015年の春に、田代の人が慶應義塾大学アート・センターに訪ねてこられました。地元の町会議員の阿部久夫さんで、「鎌鼬」について相談したいとのこと。
田代では、「鎌鼬記念館」をつくりたいという気運があるとのことで、細江さんに連絡したら、アート・センターの森下に相談しなさい、ということで、私の仕事場に来られたのです。
聞けば、前年の夏に1台の大型バスが田代に来て、大勢の人が田んぼの周りをゾロゾロと歩いていて、「鎌鼬」の撮影地を探している光景を見たというのです。そのことがきっかけで、田代の人たちの間に鎌鼬の里の気運が再燃したとのこと。
実は、そのバスには私も乗っていて、秋田市にある秋田舞踏会がチャーターして田代を訪れていたのです。
私はすぐに細江さんの意向を確認。「鎌鼬記念館」の設置に賛成とのことで、この企画は急展開することになります。美術館開設に必要なことは多々ありますが、まずは、作品、組織、建物、理念、資金といったところでしょうか。
展示場としては、村にある旧長谷山邸を活用しようということで、あるのは建物ぐらい、ほかは未知数でスタートしました。村の人たちは、当然のことこれまで美術館とは縁はなく、それでこそ、この無謀な企てに突入して行くことができたのです。
それから、私もたびたび田代に出かけて、美術館の実現に向かって協議を重ねることになります。世にいう美術館設立準備委員会です。しかし、打ち合せはいつも、茅葺きの古民家である、民宿格山の囲炉裏を囲んで行われます。村の寄合です。日が暮れると、囲炉裏端はそのまま宴の場となるのです。
旧長谷山邸全景。
鎌鼬美術館を設置
茅葺き民家の民宿「格山」の囲炉裏端での協議(2015年12月24日)
(もりした たかし)
■森下隆(もりした たかし)
一九五〇年福井県生まれ。一九七二年から土方巽の舞踏公演の制作に携わる。一九八六年の土方巽の死後、アスベスト館に土方巽記念資料館を設立し、土方巽の資料の収集・保存活動を行う。一九九八年慶應義塾大学アート・センターに土方巽アーカイヴが設立されるにともない、土方巽の舞踏資料を土方巽アーカイヴに移管し、新たにアーカイヴ活動を展開。あわせて、土方巽展の企画・構成や舞踏の海外公演を制作し、土方巽の舞踏を国内外で紹介する活動を行っている。現在、NPO法人舞踏創造資源代表理事、慶應義塾大学アート・センター所員(土方巽アーカイヴ運営)。慶應義塾大学文学部・大学院非常勤講師。著書に『土方巽 舞踏譜の舞踏―記号の創造、方法の発見』、『写真集土方巽——肉体の舞踏誌』、編著書に『土方巽の舞踏』など。秋田魁新報に『不世出の舞踏家土方巽〜秋田から世界へ』を連載中。
●本日の瑛九情報!
2000年~2003年に、山形美術館、足利市立美術館、渋谷区立松濤美術館、釧路市立美術館、徳山市立美術博物館、秋田市立千秋美術館、長野県信濃美術館、清里フォトアートミュージアムの8館で巡回開催された大規模な回顧展『細江英公の写真 1950-2000』図録の年譜には以下の記述があります。
~~~
1952(昭和27)年[19歳]
4月、田村栄、長浜慶三の勧めにより、東京写真短期大学(通称「写大」、 現・東京工芸大学)写真技術科に入学。
11月、「写真サロン」11月号で〈子供〉が特選。これを見て興味をもった評論家・福島辰夫と出会い、以後交友する。
秋、福島の紹介で、デモクラート美術家協会を知り、中心人物だった瑛九の自宅を訪ね、強い影響を受ける。
この頃、デモクラートのメンバーをはじめ、若い芸術家たちと交流する。池田満寿夫、加藤正、靉嘔、河原温らと議論しあう。久保貞次郎、瀧口修造、岡鹿之助らを知り、影響を受ける。~~~
瑛九(当時41歳)のもとに集まった若い芸術家たちー池田満寿夫18歳、加藤正26歳、靉嘔21歳、河原温19歳とみな実に若い、その多くがやがてアメリカはじめ世界へと羽ばたきます。瑛九の吸引力が凄かったのでしょうね。細江英公先生は自身の原点が瑛九だったことを繰りかえし語っています。
細江英公
「鎌鼬#8, 1965」
1965年
ピグメント・アーカイバル・プリント
60.9×50.8cm サインあり
<瑛九 1935-1937 闇の中で「レアル」をさがす>展が東京国立近代美術館で始まりました(11月22日~2017年2月12日)。ときの忘れものは会期終了まで瑛九について毎日発信します。
こちらの作品の見積り請求、在庫確認はこちらから
※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください。
ときの忘れものの通常業務は平日の火曜~土曜日です。日曜、月曜、祝日はお問い合わせには返信できませんので、予めご了承ください。
◆森下隆のエッセイ「鎌鼬美術館——秋田県羽後町田代に開館」は毎月21日の更新です。
その2 鎌鼬美術館へ
森下隆(慶應義塾大学アート・センター)
はじめに
細江英公と土方巽がのちに写真集『鎌鼬』としてまとまる写真を撮影した秋田県羽後町の田代は、いたって長閑な村里です。山間にぽっかり開けた農村で、信号もなければコンビニもない僻村とはいえ、廃れた村とか限界集落と言った雰囲気はありません。
とはいえ、この村に美術館誕生といっても現実感がないのも確かで、羽後町の人たちも驚いたことでしょう。とくに、アートに縁のない村人たちが美術館をつくるなどとは思いもよらないことだったでしょう。
小なりとはいえ、堂々と美術館を名乗っています。いったい、どのようにして美術館がうまれたのか、どのような美術館なのか。
小さな里の美術館誕生物語の序章です。
I.1968年の展覧会と舞踏公演
「鎌鼬」の撮影は、田代に続いて、都内各所や筑波山麓で行われました。都内は、土方巽の稽古場であったアスベスト館をはじめ巣鴨や葛飾です。
一方、筑波山麓での撮影は田代での撮影と混同されがちです。同じように田んぼで撮影されているからです。とはいえ、その違いは実は一目瞭然です。
というのも、筑波での撮影は1968年ですが、田代では短髪だった土方巽はこの年には長髪になっているからです。土方巽はずっと短髪で、若い頃はジェームス・ディーンに似ていると自認していました。いや他人からも認められていました。
それが、1967年中でしょうか、髪を長くし始めたのです。軌を一にして、土方巽は、「からだのなかにひとりの姉を住まわせている」と周囲に言うようになります。
それはともかく、田代での撮影をはじめ各所で撮影された写真を加えて、細江英公写真展「とてつもなく悲劇的な喜劇――日本の舞踏家・天才<土方巽>主演写真劇場」が1968年3月に開催されます。
写真展は観覧者になかなかに衝撃を与えたようです。展示作品はプリントを額装というスタイルではなく、大きく引き延ばされたプリントが板貼りされていました。その後の細江英公展でも出品されていますが、プリント面には銀塩が浮いていて、時間の経過とともに、写真を生々しく見せています。
また、この展覧会は舞踏公演「土方巽と日本人」に波及します。ポスターには舞踏公演「土方巽と日本人」の開催は6月と印刷されています。ところが実際には、10月に公演が行われるのです。つまり、公演は延期されたのですが、それにとどまらず、公演内容も当初の目論みとは違って変更されたのです。
ここでは詳しくは述べませんが、公演内容に大きく影響を与えたのが、写真展の展評だったのです。それが、『美術手帖』(6月号)に掲載された種村季弘による展評「暗黒舞踊家・土方巽の狂気」です。
この種村の展評では、写真展を紹介しつつ、突然、文章が変調して、一気にボルテージが上がります。「凶兆をはらんだ暗黒の空の下をなまめいた女の薄物を翻しながら、狂気のヘルマフロディトスが魔のように疾走する。風景は卵形にたわみ」と、種村の文章も疾走するのです。
舞踊という身体運動の始原を求め、ロシア革命にニジンスキーの肉体をからめ、「あらゆる暴動は舞踊である」とアジテートするや、一気呵成に輾転とすると、「つねに不死の人として立ち会って光栄ある肉体の叛乱を主宰したのだ」と高揚した宣言で文章は閉じられます。
これには土方巽も煽られたにちがいありません。かくして、舞踏公演「土方巽と日本人」は「肉体の叛乱」と化したのです。この年10月、土方巽は日本青年館の舞台の上で模造男根を振り立て、真鍮版に体をぶつけて、「舞踊という暴動」を巻き起こし、満員の観客を興奮の坩堝に引き込んだのです。
翌1969年に土方巽の発声で『鎌鼬』とのタイトルをもって、写真集が上梓されたことは前回に述べました。
種村季弘「肉体の叛乱」。「土方巽と日本人」の公演の際に配布された
「土方巽と日本人」(肉体の叛乱)の土方巽。中西夏之の舞台装置である真鍮版
2.村に美術館をつくりたい
田代の人たちは、「鎌鼬」の写真展のことも、写真集『鎌鼬』が刊行されたことも、ましてこの写真集が芸術選奨文部大臣賞を受賞したことも知る由もありません。
ところが、2001年に「細江英公の写真1950-2000」展が秋田市立秋田千秋美術館で開催され、それに合わせて、細江は田代を再訪したのです。細江は村の人たちに、36年前の撮影時における非礼を詫びたのですが、『鎌鼬』に土方巽とともに写っている人たちは、細江の来訪を歓迎してくれました。
田代を再訪した細江英公と村の人たち村人にとっては、不思議な体験をしたということで、あの日の出来事がただ記憶の底に残っていたばかりです。不愉快な気持ちは少しもなく、懐かしい記憶です。そして、『鎌鼬』の写真をいつも傍にあって見てみたいとの思いから、写真を展示する「記念館」ができればいいとの発言も出ました。
また、この村を鎌鼬の里にしようと、有志が鎌鼬の里の会を結成したのですが、「記念館」設立までは至りませんでした。
それから十数年、2015年の春に、田代の人が慶應義塾大学アート・センターに訪ねてこられました。地元の町会議員の阿部久夫さんで、「鎌鼬」について相談したいとのこと。
田代では、「鎌鼬記念館」をつくりたいという気運があるとのことで、細江さんに連絡したら、アート・センターの森下に相談しなさい、ということで、私の仕事場に来られたのです。
聞けば、前年の夏に1台の大型バスが田代に来て、大勢の人が田んぼの周りをゾロゾロと歩いていて、「鎌鼬」の撮影地を探している光景を見たというのです。そのことがきっかけで、田代の人たちの間に鎌鼬の里の気運が再燃したとのこと。
実は、そのバスには私も乗っていて、秋田市にある秋田舞踏会がチャーターして田代を訪れていたのです。
私はすぐに細江さんの意向を確認。「鎌鼬記念館」の設置に賛成とのことで、この企画は急展開することになります。美術館開設に必要なことは多々ありますが、まずは、作品、組織、建物、理念、資金といったところでしょうか。
展示場としては、村にある旧長谷山邸を活用しようということで、あるのは建物ぐらい、ほかは未知数でスタートしました。村の人たちは、当然のことこれまで美術館とは縁はなく、それでこそ、この無謀な企てに突入して行くことができたのです。
それから、私もたびたび田代に出かけて、美術館の実現に向かって協議を重ねることになります。世にいう美術館設立準備委員会です。しかし、打ち合せはいつも、茅葺きの古民家である、民宿格山の囲炉裏を囲んで行われます。村の寄合です。日が暮れると、囲炉裏端はそのまま宴の場となるのです。
旧長谷山邸全景。鎌鼬美術館を設置
茅葺き民家の民宿「格山」の囲炉裏端での協議(2015年12月24日)(もりした たかし)
■森下隆(もりした たかし)
一九五〇年福井県生まれ。一九七二年から土方巽の舞踏公演の制作に携わる。一九八六年の土方巽の死後、アスベスト館に土方巽記念資料館を設立し、土方巽の資料の収集・保存活動を行う。一九九八年慶應義塾大学アート・センターに土方巽アーカイヴが設立されるにともない、土方巽の舞踏資料を土方巽アーカイヴに移管し、新たにアーカイヴ活動を展開。あわせて、土方巽展の企画・構成や舞踏の海外公演を制作し、土方巽の舞踏を国内外で紹介する活動を行っている。現在、NPO法人舞踏創造資源代表理事、慶應義塾大学アート・センター所員(土方巽アーカイヴ運営)。慶應義塾大学文学部・大学院非常勤講師。著書に『土方巽 舞踏譜の舞踏―記号の創造、方法の発見』、『写真集土方巽——肉体の舞踏誌』、編著書に『土方巽の舞踏』など。秋田魁新報に『不世出の舞踏家土方巽〜秋田から世界へ』を連載中。
●本日の瑛九情報!
2000年~2003年に、山形美術館、足利市立美術館、渋谷区立松濤美術館、釧路市立美術館、徳山市立美術博物館、秋田市立千秋美術館、長野県信濃美術館、清里フォトアートミュージアムの8館で巡回開催された大規模な回顧展『細江英公の写真 1950-2000』図録の年譜には以下の記述があります。
~~~
1952(昭和27)年[19歳]
4月、田村栄、長浜慶三の勧めにより、東京写真短期大学(通称「写大」、 現・東京工芸大学)写真技術科に入学。
11月、「写真サロン」11月号で〈子供〉が特選。これを見て興味をもった評論家・福島辰夫と出会い、以後交友する。
秋、福島の紹介で、デモクラート美術家協会を知り、中心人物だった瑛九の自宅を訪ね、強い影響を受ける。
この頃、デモクラートのメンバーをはじめ、若い芸術家たちと交流する。池田満寿夫、加藤正、靉嘔、河原温らと議論しあう。久保貞次郎、瀧口修造、岡鹿之助らを知り、影響を受ける。~~~
瑛九(当時41歳)のもとに集まった若い芸術家たちー池田満寿夫18歳、加藤正26歳、靉嘔21歳、河原温19歳とみな実に若い、その多くがやがてアメリカはじめ世界へと羽ばたきます。瑛九の吸引力が凄かったのでしょうね。細江英公先生は自身の原点が瑛九だったことを繰りかえし語っています。
細江英公「鎌鼬#8, 1965」
1965年
ピグメント・アーカイバル・プリント
60.9×50.8cm サインあり
<瑛九 1935-1937 闇の中で「レアル」をさがす>展が東京国立近代美術館で始まりました(11月22日~2017年2月12日)。ときの忘れものは会期終了まで瑛九について毎日発信します。
こちらの作品の見積り請求、在庫確認はこちらから
※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください。
ときの忘れものの通常業務は平日の火曜~土曜日です。日曜、月曜、祝日はお問い合わせには返信できませんので、予めご了承ください。
◆森下隆のエッセイ「鎌鼬美術館——秋田県羽後町田代に開館」は毎月21日の更新です。
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