「鎌鼬美術館――秋田県羽後町田代に開館」
その2 鎌鼬美術館へ
森下隆(慶應義塾大学アート・センター)
承前
3.
昨年暮れ12月23日には、青山ブックセンター本店(表参道)で「トーク・イベント 写真家と舞踏家<眼はどこを見ている>」が開催されました。写真家の細江英公さんと舞踏家の笠井叡さんの対談です。
2016年に刊行された細江さんの2冊の写真集『透明迷宮』と『鎌鼬 田代の土方巽』の刊行を記念してのイベントです。いずれも舞踏家を被写体として細江さんが撮影した写真集ですが、対照的な内容になっています。
笠井叡を被写体とした『透明迷宮』は、東京のスタジオで撮影され、写真にはダンサー笠井叡の姿だけが写されていて、緊張感が漲る写真が続きます。
一方、『鎌鼬』はいうまでもなく、秋田の村里を撮影地として、田んぼや野良、古民家を舞台に、土方巽が村人たちとともに写されています。土方巽は道化であったり狂者であったり、馬鹿王であったり白痴男であったりするのですが、演じているのかどうかと訝しく思われるシーンの連続です。『鎌鼬』の写真を見ながら、笠井さんは「土方さんは、この写真集では断じて被写体ではないです」と一回性の行為を強調されていました。
開館記念写真集『鎌鼬 田代の土方巽』(慶應義塾大学出版会)の表紙
このトーク・イベントには多くの聴衆が参加され、イベント終了後のサイン会も長い列となり、両書の売れ行きに貢献できました。
というところで、羽後町田代に戻ります。2015年のクリスマスイブに、かなり突っ込んだ討議を、例のごとく茅葺き民家の囲炉裏端で行っています。その時の様子を、私はfacebookでレポートしています。
「この日は、午後早くから大事なミーティングをこの場で行っていた。新聞2紙にテレビカメラまで取材に入っていた。取り交わしたのが、ヨシ、この村に美術館をつくろうという、囲炉裏端に似合わぬ内容であった。
その美術館が一枚目の写真の建物である。雪に備えてすっかり板囲いされている。この日は暖冬で雪がなく、青空をバックに凛々しく建っている。右側が母屋だが、左の3階建ての建物、見るのは鞘堂だが、この中に蔵がある。内部を漆で塗られた立派なもので、ここが展示室になるというもの。実はここが、細江英公の写真集「鎌鼬」の撮影の場でもあった。
秋田県羽後町田代。何とも不思議な集落である。七曲峠を登ってくると、低い山並みに囲まれた異空間である。この時代になお稲架がけの光景を残す田んぼが広がる。「鎌鼬」が撮影された50年前と同じ光景が残されている。いや、50年前どころか、土方巽が子供の頃に見たであろう風景が今に残されている。
ここにはウサギもいれば、鼬もいる。ウサギは秋田の米山家の食卓に並んだし、鼬はといえば、米山家の鶏を襲ったもので、土方は書き残している。そういうわけで、懐かしい動物たちが生息しているこの村に「鎌鼬美術館」をつくろうという謀議を、村の男たちが囲炉裏端で決行し、新聞に大きく取り上げられ、テレビニュースにもなったので、もう後には引けないというところである。
蔵が美術館と言ったが、実はこの村の田んぼ、土方が赤ん坊を抱えて走った田んぼ、村人の前で道化として振舞った田んぼそのものが美術館なのである。そのことで、今や失われてない、日本の原風景ともいうべき稲架がけの光景がこの村に残ることになる。さらに言えば、稲架がけによる美味しい米を作り続けることができる。(中略)東京から出向いて、茅葺の民家の囲炉裏端で秋田の酒を呑んで酩酊した私の希望はといえば、鎌鼬美術館の館長に、この村の鼬に就任してもらうことである。そうはっきりと里の会の面々にも伝えたが、鼬は獰猛だから、あいつは鶏殺しを愉しんでいるから、ということで認めてもらえるかどうかは分からない。東京に住む私は鼬にお目にかかったことがないもので、村の面々より、あの鼬が館長に相応しいと思うばかりである」
このような1年前の「謀議」がほぼ現実となります。また、私の希望する鼬館長案も、実質的に館長がいないのだから通ったということです。美術館の前では、イタチが来訪者を迎えてくれます。
冬晴れに映える旧長谷山邸。2015年12月24日撮影
開館の日、展示室の前に立つ細江英公と来訪者を迎えるイタチ。
後藤剛撮影
美術館を設立し、開館後には美術館を運営する組織とするために、地元の有志による鎌鼬の会をNPO法人としました(2016年4月)。私たち、田代の住民以外も参加して、実行力を有する組織として編制されたのです。
しかし、美術館開設の重要な要件である「資金」については、苦労しました。美術館開設にどれくらいの資金が必要かは、実は誰にも分かっていませんでした。素人だから当たり前なのですが、最終的には展示室の設営・設備に700万円プラス、そして展示作品・資料、印刷物、開館イベント関連で300万円プラスという数字に至っています。
そして、問題はこの資金をどう調達するのか。暗中模索、文字通り手探りでした。地元の鎌鼬の会(2016年4月にはNPO法人として編制)ではクラウドファンディングに挑戦することにしました。達成金額は200万円。決して大きな金額ではありませんが、それでも達成するかどうかの確信は、誰にもありませんでした。
もっとも、その広報活動を通して美術館の事業の宣伝になり、会員の意識を求心的に高める効果もあったでしょう。
私の方は、この美術館設立のタイミングに合わせ、2つの展示を続けて実施しました。いずれも、鎌鼬美術館設立を支援する展覧会でした。
まず、慶應義塾大学アート・センターのギャラリー、アート・スペースでの展覧会「KAMAITACHIとTASHIRO」展(6月~7月)です。KAMAITACHIはともかく、TASHIROはほとんどの人には聞き慣れない言葉です。それでも、田代に美術館を設立することの意義を考えて、この展覧会名にしたのです。
展示の中心は、細江英公の「鎌鼬」から田代で撮影された写真のオリジナルプリントです。また、展示の目玉として「鎌鼬」のコンタクト帳を初めて公開させていただいたことです。「写真家は自分のコンタクト帳は出さないよ」という細江の言葉を呑みながら、あえて出品をお願いして叶いました。
ついで、映像作品「田代―循環と記憶」を上映展示しました。田代=鎌鼬の里をドローンで撮影して、村の自然と暮らしを紹介しようと企画しました。稲架掛けを中心に農村の四季を撮影した映像と、村内を上空から、また低空からドローンを使って撮影したダイナミックな映像とが融合した映像作品です。
ほかに、田代の稲架のある四季の風景を撮影した桜庭文男の写真、そして田代から送ってもらった資材(栗の木)で稲架を組み展示しました。
続いて、秋田市赤れんが郷土館で「土方巽の秋田、秋田の土方巽」展を開催しました(7月~10月)。「秋田は舞踏家土方巽の創造の原点である」という主旨で「農村写真」「鎌鼬の里」「病める舞姫」「東北歌舞伎」の4章で展覧会を構成しました。
また、いずれの展覧会でも、鎌鼬美術館の意義を訴え、その設立を促すためのシンポジウムを開催しました。
開館を間近に控えた9月には、鎌鼬美術館開館プレイベント「鎌鼬芸術祭」が開催されました。東京からは、インドネシアのダンサーたちとポーランドのダンサー、そして大野慶人が参加し、旧長谷山邸の屋内外で踊り、さらに地元の伝統芸能である仙道番楽の上演、土方巽の」『病める舞姫』の秋田弁による朗読などを行い、山里にたくさんの観客が集まってきてくれました。
肝心の資金調達です。クラウドファンディングは見事に達成されました。これは嬉しいことで、開館への活動にも励みになりました。
さらに、羽後町の9月議会に、町長が鎌鼬美術館開設の意義を認め、町からの補助金拠出を提案してくれました。補助金額は必要な資金の約半分に相当する約550万円で、鎌鼬の会会員の士気は大いにあがりました。しかし、議会では町長提案を否定する修正案が出され、結局、本議会では7対8で町長提案は却下される結果となりました。
美術館開館予定まで1ヵ月をきる時期の事態に、会員も一気に意気消沈の態でしたが、ただちに理事会を開催し、町からの補助金なしでも美術館を開館しようと決定したのです。私も東京にあって、町の補助金がつかないから美術館開館を反故にする選択はありえないと思っていたので、会員たちの決定を当然の勇断として喜びました。
また、この事態が鎌鼬美術館建設の危機として、秋田県内で新聞やテレビで大きく報道されたことで、鎌鼬の会への寄付金が予期以上に集まったのです。県内外から注目され、さらには海外在住の日本人からも大口の寄付が寄せられました。
こうして、本来の経費の半分の資金での出発となりました。そのため、展示設備などの縮小や支払いを先延べすることなどで対応しました。財政的には苦しく苦難からのスタートでしたが、結果的には、行政頼みではなく地域住民の奮闘で、事業を遂行することの意義は大いにありました。
おおげさではなく、地方再生の一つのモデルケースとみなしてもいいでしょう。人口減少が著しく、観光事業も伸びず、インバウンドもなく、全国的に見ても、最低ラインの経済成長に喘いでいる秋田県にあって、この小さなミュージアムも注目されることになります。
2016年10月22日、鎌鼬美術館の開館セレモニーが賑やかに催されました。セレモニーにはなんと、議会で補助金拠出に反対した議員たちも出席していました。ブラックユーモアのような光景ですが、小さな町のお椀のなかの出来事ということでしょうか。
名誉館長となる細江英公も東京から来秋し、開館セレモニーに参列しました。セレモニーの開始を告げる地元の西馬音内盆踊りの笛太鼓の演奏に合わせて、細江は杖を放り出して踊り出し喜びを表現していました。
私も来賓席を与えられ、テープカットを行い、感動のセレモニーに臨みました。鎌鼬の会会長長谷山信介の開館のあいさつも心を打ちました。田代の里は地域の消滅や限界集落とはならず、過去と現在を未来につなげるとの宣言でした。とにもかくにも、美術館が実現したのだという喜びです。
鎌鼬美術館開館のチラシ
鎌鼬美術館開館のセレモニー
唄と演奏に合わせて踊る細江英公
2日間の開館行事には、山里に多くの人が詰めかけ、また村の人たちの手作りの歓迎ぶりに心打たれました。これならば、美術館がアートの展示の場というだけではなく、里の拠点として、生涯教育や社会活動を担い、里の人々の暮らしをみつめ自然を守る役割を果たせると確信しました。
美術館の展示室は、本来は蔵の1階と2階を考えていましたが、開館時は1階だけを整備し展示室とすることとなりました。蔵の重厚な構えと見事な造作に見合った、品のある展示を行うことができました。開館には、写真集『鎌鼬』に写っている人たちも参加されて、細江も51年ぶりの再会に喜びも一入でした。
また、里の老若男女に県内外からの参加者も加わって、美術館のこれからが真剣に話し合われました。村の人たちも、芸術のあり方や美術館をめぐって討議をするなどとは、ほんの少し前までは露にも思わなかったはずです。このような機会があるだけでも、村に美術館ができたことの意義があります。
近年、喧しく語られる「地域アート」とも違います。「ソーシャリー・エンゲイジド・アート」と名付けられているアートの活動に近いかもしれません。
展示室を見る細江英公。後藤剛撮影
撮影者の細江英公と写真に写っていた人との喜びの再会。
後藤剛撮影
美術館のオープンは、県内外の新聞やテレビがニュースとして伝えてくれました。日経新聞の美術記者も、開館日の取材に現地に入ってくれました。そういった報道もあってか、鎌鼬美術館は現在、冬期休館に入っていて、初年度はわずか1か月強の短い期間の開館でしたが、その間予想以上の来館者を集めました。この動きを来年度(4月に再開)以降も期待したいものです。
とにかく、美術館をより一層充実させるためにも、作品、資料、設備から、人材育成や資金まで、さらに館外活動も含めて、基盤を固め、組織を広げ、活動を盛んにする必要があります。ほかのどこにもない、地域の人たちが誇り得る里のミュージアムとなることを期待したいものです。
(もりした たかし)
■森下隆(もりした たかし)
一九五〇年福井県生まれ。一九七二年から土方巽の舞踏公演の制作に携わる。一九八六年の土方巽の死後、アスベスト館に土方巽記念資料館を設立し、土方巽の資料の収集・保存活動を行う。一九九八年慶應義塾大学アート・センターに土方巽アーカイヴが設立されるにともない、土方巽の舞踏資料を土方巽アーカイヴに移管し、新たにアーカイヴ活動を展開。あわせて、土方巽展の企画・構成や舞踏の海外公演を制作し、土方巽の舞踏を国内外で紹介する活動を行っている。現在、NPO法人舞踏創造資源代表理事、慶應義塾大学アート・センター所員(土方巽アーカイヴ運営)。慶應義塾大学文学部・大学院非常勤講師。著書に『土方巽 舞踏譜の舞踏―記号の創造、方法の発見』、『写真集土方巽——肉体の舞踏誌』、編著書に『土方巽の舞踏』など。秋田魁新報に『不世出の舞踏家土方巽〜秋田から世界へ』を連載中。
●今日のお勧め作品は細江英公です。
細江英公
「鎌鼬#13, 1965」
1965年
ピグメント・アーカイバル・プリント
50.8×60.9cm
サインあり
こちらの作品の見積り請求、在庫確認はこちらから
※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください。
ときの忘れものの通常業務は平日の火曜~土曜日です。日曜、月曜、祝日はお問い合わせには返信できませんので、予めご了承ください。
●本日の瑛九情報!
~~~
瑛九たちがつくったデモクラート美術家協会のメンバーだった細江英公先生が書いた「瑛九と私」という文章をご紹介します。

2004年5月「瑛九写真展」パンフレットより
(銀座松屋前・松島眼鏡店3階)

2004年8月21日ときの忘れもの
「第15回瑛九展/1936年画家の出発」にて
右から細江英公先生、亭主、社長
~~~
<瑛九 1935-1937 闇の中で「レアル」をさがす>展が東京国立近代美術館で開催されています(2016年11月22日~2017年2月12日)。外野応援団のときの忘れものは会期終了まで瑛九について毎日発信します。
◆森下隆のエッセイ「鎌鼬美術館——秋田県羽後町田代に開館」は毎月21日の更新です。
その2 鎌鼬美術館へ
森下隆(慶應義塾大学アート・センター)
承前
3.
昨年暮れ12月23日には、青山ブックセンター本店(表参道)で「トーク・イベント 写真家と舞踏家<眼はどこを見ている>」が開催されました。写真家の細江英公さんと舞踏家の笠井叡さんの対談です。
2016年に刊行された細江さんの2冊の写真集『透明迷宮』と『鎌鼬 田代の土方巽』の刊行を記念してのイベントです。いずれも舞踏家を被写体として細江さんが撮影した写真集ですが、対照的な内容になっています。
笠井叡を被写体とした『透明迷宮』は、東京のスタジオで撮影され、写真にはダンサー笠井叡の姿だけが写されていて、緊張感が漲る写真が続きます。
一方、『鎌鼬』はいうまでもなく、秋田の村里を撮影地として、田んぼや野良、古民家を舞台に、土方巽が村人たちとともに写されています。土方巽は道化であったり狂者であったり、馬鹿王であったり白痴男であったりするのですが、演じているのかどうかと訝しく思われるシーンの連続です。『鎌鼬』の写真を見ながら、笠井さんは「土方さんは、この写真集では断じて被写体ではないです」と一回性の行為を強調されていました。
開館記念写真集『鎌鼬 田代の土方巽』(慶應義塾大学出版会)の表紙このトーク・イベントには多くの聴衆が参加され、イベント終了後のサイン会も長い列となり、両書の売れ行きに貢献できました。
というところで、羽後町田代に戻ります。2015年のクリスマスイブに、かなり突っ込んだ討議を、例のごとく茅葺き民家の囲炉裏端で行っています。その時の様子を、私はfacebookでレポートしています。
「この日は、午後早くから大事なミーティングをこの場で行っていた。新聞2紙にテレビカメラまで取材に入っていた。取り交わしたのが、ヨシ、この村に美術館をつくろうという、囲炉裏端に似合わぬ内容であった。
その美術館が一枚目の写真の建物である。雪に備えてすっかり板囲いされている。この日は暖冬で雪がなく、青空をバックに凛々しく建っている。右側が母屋だが、左の3階建ての建物、見るのは鞘堂だが、この中に蔵がある。内部を漆で塗られた立派なもので、ここが展示室になるというもの。実はここが、細江英公の写真集「鎌鼬」の撮影の場でもあった。
秋田県羽後町田代。何とも不思議な集落である。七曲峠を登ってくると、低い山並みに囲まれた異空間である。この時代になお稲架がけの光景を残す田んぼが広がる。「鎌鼬」が撮影された50年前と同じ光景が残されている。いや、50年前どころか、土方巽が子供の頃に見たであろう風景が今に残されている。
ここにはウサギもいれば、鼬もいる。ウサギは秋田の米山家の食卓に並んだし、鼬はといえば、米山家の鶏を襲ったもので、土方は書き残している。そういうわけで、懐かしい動物たちが生息しているこの村に「鎌鼬美術館」をつくろうという謀議を、村の男たちが囲炉裏端で決行し、新聞に大きく取り上げられ、テレビニュースにもなったので、もう後には引けないというところである。
蔵が美術館と言ったが、実はこの村の田んぼ、土方が赤ん坊を抱えて走った田んぼ、村人の前で道化として振舞った田んぼそのものが美術館なのである。そのことで、今や失われてない、日本の原風景ともいうべき稲架がけの光景がこの村に残ることになる。さらに言えば、稲架がけによる美味しい米を作り続けることができる。(中略)東京から出向いて、茅葺の民家の囲炉裏端で秋田の酒を呑んで酩酊した私の希望はといえば、鎌鼬美術館の館長に、この村の鼬に就任してもらうことである。そうはっきりと里の会の面々にも伝えたが、鼬は獰猛だから、あいつは鶏殺しを愉しんでいるから、ということで認めてもらえるかどうかは分からない。東京に住む私は鼬にお目にかかったことがないもので、村の面々より、あの鼬が館長に相応しいと思うばかりである」
このような1年前の「謀議」がほぼ現実となります。また、私の希望する鼬館長案も、実質的に館長がいないのだから通ったということです。美術館の前では、イタチが来訪者を迎えてくれます。
冬晴れに映える旧長谷山邸。2015年12月24日撮影
開館の日、展示室の前に立つ細江英公と来訪者を迎えるイタチ。後藤剛撮影
美術館を設立し、開館後には美術館を運営する組織とするために、地元の有志による鎌鼬の会をNPO法人としました(2016年4月)。私たち、田代の住民以外も参加して、実行力を有する組織として編制されたのです。
しかし、美術館開設の重要な要件である「資金」については、苦労しました。美術館開設にどれくらいの資金が必要かは、実は誰にも分かっていませんでした。素人だから当たり前なのですが、最終的には展示室の設営・設備に700万円プラス、そして展示作品・資料、印刷物、開館イベント関連で300万円プラスという数字に至っています。
そして、問題はこの資金をどう調達するのか。暗中模索、文字通り手探りでした。地元の鎌鼬の会(2016年4月にはNPO法人として編制)ではクラウドファンディングに挑戦することにしました。達成金額は200万円。決して大きな金額ではありませんが、それでも達成するかどうかの確信は、誰にもありませんでした。
もっとも、その広報活動を通して美術館の事業の宣伝になり、会員の意識を求心的に高める効果もあったでしょう。
私の方は、この美術館設立のタイミングに合わせ、2つの展示を続けて実施しました。いずれも、鎌鼬美術館設立を支援する展覧会でした。
まず、慶應義塾大学アート・センターのギャラリー、アート・スペースでの展覧会「KAMAITACHIとTASHIRO」展(6月~7月)です。KAMAITACHIはともかく、TASHIROはほとんどの人には聞き慣れない言葉です。それでも、田代に美術館を設立することの意義を考えて、この展覧会名にしたのです。
展示の中心は、細江英公の「鎌鼬」から田代で撮影された写真のオリジナルプリントです。また、展示の目玉として「鎌鼬」のコンタクト帳を初めて公開させていただいたことです。「写真家は自分のコンタクト帳は出さないよ」という細江の言葉を呑みながら、あえて出品をお願いして叶いました。
ついで、映像作品「田代―循環と記憶」を上映展示しました。田代=鎌鼬の里をドローンで撮影して、村の自然と暮らしを紹介しようと企画しました。稲架掛けを中心に農村の四季を撮影した映像と、村内を上空から、また低空からドローンを使って撮影したダイナミックな映像とが融合した映像作品です。
ほかに、田代の稲架のある四季の風景を撮影した桜庭文男の写真、そして田代から送ってもらった資材(栗の木)で稲架を組み展示しました。
続いて、秋田市赤れんが郷土館で「土方巽の秋田、秋田の土方巽」展を開催しました(7月~10月)。「秋田は舞踏家土方巽の創造の原点である」という主旨で「農村写真」「鎌鼬の里」「病める舞姫」「東北歌舞伎」の4章で展覧会を構成しました。
また、いずれの展覧会でも、鎌鼬美術館の意義を訴え、その設立を促すためのシンポジウムを開催しました。
開館を間近に控えた9月には、鎌鼬美術館開館プレイベント「鎌鼬芸術祭」が開催されました。東京からは、インドネシアのダンサーたちとポーランドのダンサー、そして大野慶人が参加し、旧長谷山邸の屋内外で踊り、さらに地元の伝統芸能である仙道番楽の上演、土方巽の」『病める舞姫』の秋田弁による朗読などを行い、山里にたくさんの観客が集まってきてくれました。
肝心の資金調達です。クラウドファンディングは見事に達成されました。これは嬉しいことで、開館への活動にも励みになりました。
さらに、羽後町の9月議会に、町長が鎌鼬美術館開設の意義を認め、町からの補助金拠出を提案してくれました。補助金額は必要な資金の約半分に相当する約550万円で、鎌鼬の会会員の士気は大いにあがりました。しかし、議会では町長提案を否定する修正案が出され、結局、本議会では7対8で町長提案は却下される結果となりました。
美術館開館予定まで1ヵ月をきる時期の事態に、会員も一気に意気消沈の態でしたが、ただちに理事会を開催し、町からの補助金なしでも美術館を開館しようと決定したのです。私も東京にあって、町の補助金がつかないから美術館開館を反故にする選択はありえないと思っていたので、会員たちの決定を当然の勇断として喜びました。
また、この事態が鎌鼬美術館建設の危機として、秋田県内で新聞やテレビで大きく報道されたことで、鎌鼬の会への寄付金が予期以上に集まったのです。県内外から注目され、さらには海外在住の日本人からも大口の寄付が寄せられました。
こうして、本来の経費の半分の資金での出発となりました。そのため、展示設備などの縮小や支払いを先延べすることなどで対応しました。財政的には苦しく苦難からのスタートでしたが、結果的には、行政頼みではなく地域住民の奮闘で、事業を遂行することの意義は大いにありました。
おおげさではなく、地方再生の一つのモデルケースとみなしてもいいでしょう。人口減少が著しく、観光事業も伸びず、インバウンドもなく、全国的に見ても、最低ラインの経済成長に喘いでいる秋田県にあって、この小さなミュージアムも注目されることになります。
2016年10月22日、鎌鼬美術館の開館セレモニーが賑やかに催されました。セレモニーにはなんと、議会で補助金拠出に反対した議員たちも出席していました。ブラックユーモアのような光景ですが、小さな町のお椀のなかの出来事ということでしょうか。
名誉館長となる細江英公も東京から来秋し、開館セレモニーに参列しました。セレモニーの開始を告げる地元の西馬音内盆踊りの笛太鼓の演奏に合わせて、細江は杖を放り出して踊り出し喜びを表現していました。
私も来賓席を与えられ、テープカットを行い、感動のセレモニーに臨みました。鎌鼬の会会長長谷山信介の開館のあいさつも心を打ちました。田代の里は地域の消滅や限界集落とはならず、過去と現在を未来につなげるとの宣言でした。とにもかくにも、美術館が実現したのだという喜びです。
鎌鼬美術館開館のチラシ
鎌鼬美術館開館のセレモニー
唄と演奏に合わせて踊る細江英公2日間の開館行事には、山里に多くの人が詰めかけ、また村の人たちの手作りの歓迎ぶりに心打たれました。これならば、美術館がアートの展示の場というだけではなく、里の拠点として、生涯教育や社会活動を担い、里の人々の暮らしをみつめ自然を守る役割を果たせると確信しました。
美術館の展示室は、本来は蔵の1階と2階を考えていましたが、開館時は1階だけを整備し展示室とすることとなりました。蔵の重厚な構えと見事な造作に見合った、品のある展示を行うことができました。開館には、写真集『鎌鼬』に写っている人たちも参加されて、細江も51年ぶりの再会に喜びも一入でした。
また、里の老若男女に県内外からの参加者も加わって、美術館のこれからが真剣に話し合われました。村の人たちも、芸術のあり方や美術館をめぐって討議をするなどとは、ほんの少し前までは露にも思わなかったはずです。このような機会があるだけでも、村に美術館ができたことの意義があります。
近年、喧しく語られる「地域アート」とも違います。「ソーシャリー・エンゲイジド・アート」と名付けられているアートの活動に近いかもしれません。
展示室を見る細江英公。後藤剛撮影
撮影者の細江英公と写真に写っていた人との喜びの再会。後藤剛撮影
美術館のオープンは、県内外の新聞やテレビがニュースとして伝えてくれました。日経新聞の美術記者も、開館日の取材に現地に入ってくれました。そういった報道もあってか、鎌鼬美術館は現在、冬期休館に入っていて、初年度はわずか1か月強の短い期間の開館でしたが、その間予想以上の来館者を集めました。この動きを来年度(4月に再開)以降も期待したいものです。
とにかく、美術館をより一層充実させるためにも、作品、資料、設備から、人材育成や資金まで、さらに館外活動も含めて、基盤を固め、組織を広げ、活動を盛んにする必要があります。ほかのどこにもない、地域の人たちが誇り得る里のミュージアムとなることを期待したいものです。
(もりした たかし)
■森下隆(もりした たかし)
一九五〇年福井県生まれ。一九七二年から土方巽の舞踏公演の制作に携わる。一九八六年の土方巽の死後、アスベスト館に土方巽記念資料館を設立し、土方巽の資料の収集・保存活動を行う。一九九八年慶應義塾大学アート・センターに土方巽アーカイヴが設立されるにともない、土方巽の舞踏資料を土方巽アーカイヴに移管し、新たにアーカイヴ活動を展開。あわせて、土方巽展の企画・構成や舞踏の海外公演を制作し、土方巽の舞踏を国内外で紹介する活動を行っている。現在、NPO法人舞踏創造資源代表理事、慶應義塾大学アート・センター所員(土方巽アーカイヴ運営)。慶應義塾大学文学部・大学院非常勤講師。著書に『土方巽 舞踏譜の舞踏―記号の創造、方法の発見』、『写真集土方巽——肉体の舞踏誌』、編著書に『土方巽の舞踏』など。秋田魁新報に『不世出の舞踏家土方巽〜秋田から世界へ』を連載中。
●今日のお勧め作品は細江英公です。
細江英公「鎌鼬#13, 1965」
1965年
ピグメント・アーカイバル・プリント
50.8×60.9cm
サインあり
こちらの作品の見積り請求、在庫確認はこちらから
※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください。
ときの忘れものの通常業務は平日の火曜~土曜日です。日曜、月曜、祝日はお問い合わせには返信できませんので、予めご了承ください。
●本日の瑛九情報!
~~~
瑛九たちがつくったデモクラート美術家協会のメンバーだった細江英公先生が書いた「瑛九と私」という文章をご紹介します。

2004年5月「瑛九写真展」パンフレットより
(銀座松屋前・松島眼鏡店3階)

2004年8月21日ときの忘れもの
「第15回瑛九展/1936年画家の出発」にて
右から細江英公先生、亭主、社長
~~~
<瑛九 1935-1937 闇の中で「レアル」をさがす>展が東京国立近代美術館で開催されています(2016年11月22日~2017年2月12日)。外野応援団のときの忘れものは会期終了まで瑛九について毎日発信します。
◆森下隆のエッセイ「鎌鼬美術館——秋田県羽後町田代に開館」は毎月21日の更新です。
コメント