リレー連載
建築家のドローイング 第15回
ル・コルビュジエ(Le Corbusier)〔1887-1965〕
八束はじめ
既にとりあげられたフランク・ロイド・ライトと共に20世紀を代表する建築家であるル・コルビュジエは、後半生をフランス国民として過したが生まれはスイスの時計つくりの村ショー・ドー・フォンであり、そこの美術工芸学校からキャリアをはじめた。ル・コルビュジエとは、パリに出て画家オザンファンの知己を得、共に絵画運動「ピューリズム」を創設し、またシュール・レアリスト、ポール・デルメーと三人で雑誌「エスプリ・ヌーボー」をはじめたころからのペンネームであり、本名はシャルル・エドゥアール・ジャンヌレという。しかしパリに殆んど無名で出てきたスイスの田舎出の若者は、この一風変ったペンネームで発表した数多くの文章の刺激的で詩的なプロパガンダ性によって、そしてその予言的な調子を裏書きするパリの大改造プロジェクトや最初はドミノとかシトロエンと名づけられたモデル住宅のプロジェクト、そして筆名の高揚よりやや遅れてでてきた白いキュービックな、いわゆる「豆腐の角を切った」ような住宅群によって一躍時代の寵児となって、以後のほぼ半世紀近くそのペンネームによって世界の巨匠としてのステータスを保持しつづけていった。ヨーロッパの教養人なら、この巨人の名は、例えば美術におけるピカソのように、誰でも知っている(日本でそうでないとしたら、それはこの国におけるこれまでの建築への相対的無関心の証しでしかない)。彼が戦後の復興事業の核として手がけた巨大なアパートの連作ユニテ・ダビタシオン(マルセイユ、テント、フィルミニー、ブリ・アン・フォレそしてベルリンにつくられた)は現地の市民たちには戦前の彼の都市計画のタイトルを冠して「輝く都市」と呼ばれ誇りの対象であり、観光名所ともなっている。

ル・コルビュジエ Le Corbusier
「輝く農家」
前述のようにこの巨匠はパリでのキャリアをむしろ画家としてスタートさせている。彼はあくまでデザイナー、建築家、技術者としてのトレーニングを受けたのだったが、パリでキュービズムをはじめとする前衛芸術運動に触れて自からの建築的な造型も変化させると共に、オザンファンの刺激によって絵を描きはじめた。以降死ぬまでの年月、彼は主として午前中を絵筆をとる時間にあてたのだった。もっとも「ピューリズム」の画家として登場する以前からも若きジャンヌレは例えばヨーロッパや小アジアへの旅行に際して尨大なスケッチ群を残している。そこで描かれているのは異国の街並みや建物、そして人々のざわめきや工芸品であった。そこでの主題は人々の生活であり、その詩情である。彼は19世紀的なヨーロッパ・ブルジョアジーの虚飾に満ちた生活やそれを彩る建築や装飾を嫌悪したが、東方の人々の千古の昔から変っていない素朴な生活やそのための日用品はこよなく愛した。後にナチス・ドイツなどの右翼民族主義者たちからキュービックで白い彼の住宅がムーア的(つまり非アーリア的、非ヨーロッパ的)と呼ばれたのは故なきとはしない。この性向はピューリズムの絵にもそのまま引きつがれている。彼は年長のピカソを尊敬し、長い交友関係を結ぶことになるが、この当時のキュービズムは彼には既にエピゴーネンによる抽象的技巧主義と見えた。ピューリズムではキュービズムの手法が多く引きつがれるが、そこでは常に彼がobjet-type(典型的なもの)と呼んだ、人々の生活に直結する水さしやコップなどがテーマとされた。彼の関心では常に新精神(エスプリ・ヌーボー)によって光をあてられた簡明率直な生活の詩であり、それは建築のスタイルが初期の「住居機械」と呼ばれたキュービックなものから後期のより彫刻的でマッシブなものへと移行しても変りがなかった。
このことは、建物のスタイルと関りなくドローイングのスタイルは一貫していたことからもある程度伺い知ることができる。彼のドローイング、とくにインテリアのそれでは常に逞しい素朴な人間像が描かれている。それは18世紀の啓蒙期以来の「高貴な蛮人」のテーマの踏襲である。だが、それは同時に「新精神」によって武装されているのだ。逞しい人体の有機的な曲線は、しかしル・コルビュジエにとって住居機械の精確な直線と矛盾するものではなかった。何故乱ら両者を支配するのはギリシアの黄金比以来の正しく美しいプロポーションのシステムだったからである。彼はそれを後にモジュロールと呼ぶシステムにまとめた。それは片手を太陽に向けて伸ばした人体像の各部のプロポーションを基に展開されたシステムであり、ル・コルビュジエはこのシステムを建物の各部に用いつづけた。後期の、より逞しい、殆んど人間の素足のような柱脚をもち、肉感的なカーブをもった建物に対しても同様である。数学的な精確さと官能的な詩情との間には、この巨匠にとって、如何なる違いもなかったのかもしれない。
ル・コルビュジエ Le Corbusier
チャンディガールの「開いた手」
因襲的なアカデミズムは生涯を通じてル・コルビュジエの敵としたものだが、ボーザール流の手のこんだ大時代的な図面表現もまた彼のものではなかった。彼のドローイング・スタイルはペンの簡潔な線と簡単な色彩とだけから成り立っている。自からもまた敵からも「裸」のと形容されたそのスタイルにふさわしく、裸形の建築に陽光だけがふりそそぎ、緑が縁を飾る、そんなイメージだけをそれらのドローイングは送りつづけた。それはフリーハンドのスケッチにしても定規を用いた透視図にしても同じであった。大げさな線や派手派手しい色彩などは「新精神」にとっては無用の抜けがらに過ぎないのだ、とそれらのドローイングは語る。このスタイルはル・コルビュジエ・スタイルとして多くの若い建築家たちの真似る対象ともなった。例えばイタリアの夭逝した天才建築家ジュゼッペ・テラーニのドローイングは全くル・コルビュジエのそれの引き写しであるといってもよいし、この巨匠に深く私淑した丹下健三のかつてのドローイング・スタイルもまたそうである。例えばライトの場合にはそのスタイルを真似たのはほんの一部のエピゴーネンに過ぎない。このシリーズにとりあげられた他の建築家たちの場合にしてもそうである。それはおそらくル・コルビュジエのドローイングのスタイルが格別美しかったからというのでも。ましてや真似するに易しかったからというのでもない。多分それは、ル・コルビュジエのドローイング・スタイルは、ル・コルビュジエ本人と同じく最も典型的に時代の理想像を示していたから、つまり時代が最も待望していた太陽と緑と数学の詩学を体現していたからに他ならないのではないか?
建築家としてのル・コルビュジエのスタイル上の変貌にも拘らず、彼のドローイング・スタイルは一貫してピューリスト的であったということは、ドローイングが建築に対して付帯吋な立場にしかないということで看過してよい問題ではない。筆者にはそれはしばしばいわれるル・コルビュジエの変貌の中に、単なるドローイング・スタイルのそれを超えて一貫したものがあったことの示唆と思える。思えば初期の「住居機械」の要素も後期のいわゆる「ブルータリズム」の肉感性もピューリズムの絵画に共に存在していたのである。それはこの20世紀最大の巨人がもう一人の巨人ピカソと共に最後のユマニストであったことの証しであったとは読めないか? 彼らの生涯にはスタイルの変転を超えた人間への信頼と愛情が一貫している。
ル・コルビュジエ Le Corbusier
「シトロアン・ハウス」
ル・コルビュジエ Le Corbusier
「国際連盟」
(やつか はじめ)
*現代版画センター 発行『Ed 第105号』(1985年1月1日発行)より再録
ル・コルビュジエ
〈ユニテ〉より#11b
1965年
カラー銅版画
57.5×45.0cm
Ed.130 Signed
こちらの作品の見積り請求、在庫確認はこちらから
※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください。
■八束 はじめ Hajime Yatsuka
建築家・建築批評家
1948年山形県生れ。72年東京大学工学部都市工学科卒業、78年同博士課程中退。
磯崎新アトリエを経て、I983年(株)UPM設立。2003年から芝浦工業大学教授。2014年退職、同名誉教授。
代表作に白石市情報センターATHENS,
主要著書に『思想としての日本近代建築』。
*画廊亭主敬白
「建築家のドローイング」は今回が最終回です。
今から約34年ほど前、亭主が主宰していた現代版画センター の機関誌に当時新進気鋭の建築家だった八束はじめさんと彦坂裕さんのお二人に「建築家のドローイング」を連載していただきました。
磯崎アトリエに在籍していた八束さんを「あいつは優秀だから」と磯崎新先生に紹介され、執筆をお願いすると「毎月はたいへんだから、友人の彦坂君と交互に書くのなら」とリレー連載が決まりました。
第一回のジョヴァンニ・バティスタ・ピラネージから始まった連載で取り上げる建築家の人選はお二人が相談して決め、第15回はル・コルビュジエでした。
お二人の心づもりではこの後も続けるはずだったのですが、亭主の突然の破産ですべてが中断してしまいました。原稿料も大半が未払いだった。悔やんでも悔やみきれない。
以来、亭主の胸に骨のように突き刺さっていたのが、この未完の大連載でした。
お二人にはブログへの再録を快く承諾していただき、毎回丁寧に校正もしていただきました。
彦坂裕さん、八束はじめさん、そして30数年前の原稿をテキスト化し、画像を新たに付け加えてくれた芳賀言太郎さんに、心より感謝いたします。
ほんとうは、彦坂さん、八束さんのお二人に第16回以降も書き継いでいただきたいのですが、それは若い世代にお任せしましょう。
偶然ですが、来月から倉方俊輔さんと光嶋裕介さんによる「悪のコルビュジエ」と題した新連載が始まります。これについては後ほど詳しくご案内します。
長い間のご愛読、ありがとうございました。
新年早々、銀座のギャラリーせいほうで開催していた「石山修武・六角鬼丈 二人展―遠い記憶の形―」が21日に無事、大盛況のうちに終了いたしました。
磯崎新、安藤忠雄、難波和彦、山本理顕ら日本を代表する建築家はじめ、お二人の幅広い人脈を反映して連日たくさんのお客さまがいらしてくださいました。
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●本日の瑛九情報!
~~~
先日1月19日のブログのアクセスが突然急騰しました。
何のことかわからずアクセス解析をみると2011年11月14日の「大野の堀栄治さん訃報」という記事が原因でした。
世間的には全く無名な堀さんの5年も前の訃報記事がなぜ?
その日「石山修武・六角鬼丈二人展」の展評原稿を届けてくれた植田実先生からの情報でやっと謎がとけました。19日の朝のNHKテレビが福井県大野の堀さんの映像を放映したらしい。亭主はテレビがないのでまったくそういう情報には疎い。
まったくの偶然ですが、先日から瑛九の会を担った人たちを順次ご紹介していて、今日とりあげる堀さんもその一人です。
1965年、瀧口修造らを発起人として結成された瑛九の会は、機関誌『眠りの理由』の発行を軸に、展覧会や頒布会の開催、石版画総目録の刊行など、瑛九顕彰に大きな役割を果たしました。
福井県大野市の堀栄治さん(2011年没)は久保貞次郎の唱導した創造美育運動に参加した教師の一人でした。
瑛九の晩年に木水育男さんが組織した頒布会の中心メンバーであり、自らも大野で瑛九頒布会を独自に組織し、大野に多くの瑛九作品をもたらした大功績者でした。
瑛九没後も、堀さんは瑛九周辺の作家たちー池田満寿夫、泉茂、オノサトトシノブ、北川民次、ヘンリー・ミラー、キムラ リサブロー、靉嘔たちを支援し続けました。
中でも靉嘔先生の作品頒布には精力的に取り組み、美術館はもちろんギャラリーすらない人口僅か3万5千人ほどの山間の町で、靉嘔やフルクサスの大展覧会を組織しました。

2004年5月8日~16日に多田記念大野有終会館で開催された「虹のふるさと大野 靉嘔展」のオープニングにて。
中央が靉嘔先生、右のベレー帽が堀栄治さん

2006年大野の堀さん宅にて
堀栄治さんと社長
堀さんの功績の一つとして忘れてはならないのは『福井創美の歩み』(1990年10月初版、2007年5月第5版発行)という手作りの記録集を残されたことです。
福井における創造美育運動、ひいては小コレクター運動の詳細な日録です。これについては明日詳しくご紹介しましょう。
~~~
<瑛九 1935-1937 闇の中で「レアル」をさがす>展が東京国立近代美術館で開催されています(2016年11月22日~2017年2月12日)。外野応援団のときの忘れものは会期終了まで瑛九について毎日発信します。
建築家のドローイング 第15回
ル・コルビュジエ(Le Corbusier)〔1887-1965〕
八束はじめ
既にとりあげられたフランク・ロイド・ライトと共に20世紀を代表する建築家であるル・コルビュジエは、後半生をフランス国民として過したが生まれはスイスの時計つくりの村ショー・ドー・フォンであり、そこの美術工芸学校からキャリアをはじめた。ル・コルビュジエとは、パリに出て画家オザンファンの知己を得、共に絵画運動「ピューリズム」を創設し、またシュール・レアリスト、ポール・デルメーと三人で雑誌「エスプリ・ヌーボー」をはじめたころからのペンネームであり、本名はシャルル・エドゥアール・ジャンヌレという。しかしパリに殆んど無名で出てきたスイスの田舎出の若者は、この一風変ったペンネームで発表した数多くの文章の刺激的で詩的なプロパガンダ性によって、そしてその予言的な調子を裏書きするパリの大改造プロジェクトや最初はドミノとかシトロエンと名づけられたモデル住宅のプロジェクト、そして筆名の高揚よりやや遅れてでてきた白いキュービックな、いわゆる「豆腐の角を切った」ような住宅群によって一躍時代の寵児となって、以後のほぼ半世紀近くそのペンネームによって世界の巨匠としてのステータスを保持しつづけていった。ヨーロッパの教養人なら、この巨人の名は、例えば美術におけるピカソのように、誰でも知っている(日本でそうでないとしたら、それはこの国におけるこれまでの建築への相対的無関心の証しでしかない)。彼が戦後の復興事業の核として手がけた巨大なアパートの連作ユニテ・ダビタシオン(マルセイユ、テント、フィルミニー、ブリ・アン・フォレそしてベルリンにつくられた)は現地の市民たちには戦前の彼の都市計画のタイトルを冠して「輝く都市」と呼ばれ誇りの対象であり、観光名所ともなっている。

ル・コルビュジエ Le Corbusier
「輝く農家」
前述のようにこの巨匠はパリでのキャリアをむしろ画家としてスタートさせている。彼はあくまでデザイナー、建築家、技術者としてのトレーニングを受けたのだったが、パリでキュービズムをはじめとする前衛芸術運動に触れて自からの建築的な造型も変化させると共に、オザンファンの刺激によって絵を描きはじめた。以降死ぬまでの年月、彼は主として午前中を絵筆をとる時間にあてたのだった。もっとも「ピューリズム」の画家として登場する以前からも若きジャンヌレは例えばヨーロッパや小アジアへの旅行に際して尨大なスケッチ群を残している。そこで描かれているのは異国の街並みや建物、そして人々のざわめきや工芸品であった。そこでの主題は人々の生活であり、その詩情である。彼は19世紀的なヨーロッパ・ブルジョアジーの虚飾に満ちた生活やそれを彩る建築や装飾を嫌悪したが、東方の人々の千古の昔から変っていない素朴な生活やそのための日用品はこよなく愛した。後にナチス・ドイツなどの右翼民族主義者たちからキュービックで白い彼の住宅がムーア的(つまり非アーリア的、非ヨーロッパ的)と呼ばれたのは故なきとはしない。この性向はピューリズムの絵にもそのまま引きつがれている。彼は年長のピカソを尊敬し、長い交友関係を結ぶことになるが、この当時のキュービズムは彼には既にエピゴーネンによる抽象的技巧主義と見えた。ピューリズムではキュービズムの手法が多く引きつがれるが、そこでは常に彼がobjet-type(典型的なもの)と呼んだ、人々の生活に直結する水さしやコップなどがテーマとされた。彼の関心では常に新精神(エスプリ・ヌーボー)によって光をあてられた簡明率直な生活の詩であり、それは建築のスタイルが初期の「住居機械」と呼ばれたキュービックなものから後期のより彫刻的でマッシブなものへと移行しても変りがなかった。
このことは、建物のスタイルと関りなくドローイングのスタイルは一貫していたことからもある程度伺い知ることができる。彼のドローイング、とくにインテリアのそれでは常に逞しい素朴な人間像が描かれている。それは18世紀の啓蒙期以来の「高貴な蛮人」のテーマの踏襲である。だが、それは同時に「新精神」によって武装されているのだ。逞しい人体の有機的な曲線は、しかしル・コルビュジエにとって住居機械の精確な直線と矛盾するものではなかった。何故乱ら両者を支配するのはギリシアの黄金比以来の正しく美しいプロポーションのシステムだったからである。彼はそれを後にモジュロールと呼ぶシステムにまとめた。それは片手を太陽に向けて伸ばした人体像の各部のプロポーションを基に展開されたシステムであり、ル・コルビュジエはこのシステムを建物の各部に用いつづけた。後期の、より逞しい、殆んど人間の素足のような柱脚をもち、肉感的なカーブをもった建物に対しても同様である。数学的な精確さと官能的な詩情との間には、この巨匠にとって、如何なる違いもなかったのかもしれない。
ル・コルビュジエ Le Corbusierチャンディガールの「開いた手」
因襲的なアカデミズムは生涯を通じてル・コルビュジエの敵としたものだが、ボーザール流の手のこんだ大時代的な図面表現もまた彼のものではなかった。彼のドローイング・スタイルはペンの簡潔な線と簡単な色彩とだけから成り立っている。自からもまた敵からも「裸」のと形容されたそのスタイルにふさわしく、裸形の建築に陽光だけがふりそそぎ、緑が縁を飾る、そんなイメージだけをそれらのドローイングは送りつづけた。それはフリーハンドのスケッチにしても定規を用いた透視図にしても同じであった。大げさな線や派手派手しい色彩などは「新精神」にとっては無用の抜けがらに過ぎないのだ、とそれらのドローイングは語る。このスタイルはル・コルビュジエ・スタイルとして多くの若い建築家たちの真似る対象ともなった。例えばイタリアの夭逝した天才建築家ジュゼッペ・テラーニのドローイングは全くル・コルビュジエのそれの引き写しであるといってもよいし、この巨匠に深く私淑した丹下健三のかつてのドローイング・スタイルもまたそうである。例えばライトの場合にはそのスタイルを真似たのはほんの一部のエピゴーネンに過ぎない。このシリーズにとりあげられた他の建築家たちの場合にしてもそうである。それはおそらくル・コルビュジエのドローイングのスタイルが格別美しかったからというのでも。ましてや真似するに易しかったからというのでもない。多分それは、ル・コルビュジエのドローイング・スタイルは、ル・コルビュジエ本人と同じく最も典型的に時代の理想像を示していたから、つまり時代が最も待望していた太陽と緑と数学の詩学を体現していたからに他ならないのではないか?
建築家としてのル・コルビュジエのスタイル上の変貌にも拘らず、彼のドローイング・スタイルは一貫してピューリスト的であったということは、ドローイングが建築に対して付帯吋な立場にしかないということで看過してよい問題ではない。筆者にはそれはしばしばいわれるル・コルビュジエの変貌の中に、単なるドローイング・スタイルのそれを超えて一貫したものがあったことの示唆と思える。思えば初期の「住居機械」の要素も後期のいわゆる「ブルータリズム」の肉感性もピューリズムの絵画に共に存在していたのである。それはこの20世紀最大の巨人がもう一人の巨人ピカソと共に最後のユマニストであったことの証しであったとは読めないか? 彼らの生涯にはスタイルの変転を超えた人間への信頼と愛情が一貫している。
ル・コルビュジエ Le Corbusier「シトロアン・ハウス」
ル・コルビュジエ Le Corbusier「国際連盟」
(やつか はじめ)
*現代版画センター 発行『Ed 第105号』(1985年1月1日発行)より再録
ル・コルビュジエ
〈ユニテ〉より#11b1965年
カラー銅版画
57.5×45.0cm
Ed.130 Signed
こちらの作品の見積り請求、在庫確認はこちらから
※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください。
■八束 はじめ Hajime Yatsuka
建築家・建築批評家
1948年山形県生れ。72年東京大学工学部都市工学科卒業、78年同博士課程中退。
磯崎新アトリエを経て、I983年(株)UPM設立。2003年から芝浦工業大学教授。2014年退職、同名誉教授。
代表作に白石市情報センターATHENS,
主要著書に『思想としての日本近代建築』。
*画廊亭主敬白
「建築家のドローイング」は今回が最終回です。
今から約34年ほど前、亭主が主宰していた現代版画センター の機関誌に当時新進気鋭の建築家だった八束はじめさんと彦坂裕さんのお二人に「建築家のドローイング」を連載していただきました。
磯崎アトリエに在籍していた八束さんを「あいつは優秀だから」と磯崎新先生に紹介され、執筆をお願いすると「毎月はたいへんだから、友人の彦坂君と交互に書くのなら」とリレー連載が決まりました。
第一回のジョヴァンニ・バティスタ・ピラネージから始まった連載で取り上げる建築家の人選はお二人が相談して決め、第15回はル・コルビュジエでした。
お二人の心づもりではこの後も続けるはずだったのですが、亭主の突然の破産ですべてが中断してしまいました。原稿料も大半が未払いだった。悔やんでも悔やみきれない。
以来、亭主の胸に骨のように突き刺さっていたのが、この未完の大連載でした。
お二人にはブログへの再録を快く承諾していただき、毎回丁寧に校正もしていただきました。
彦坂裕さん、八束はじめさん、そして30数年前の原稿をテキスト化し、画像を新たに付け加えてくれた芳賀言太郎さんに、心より感謝いたします。
ほんとうは、彦坂さん、八束さんのお二人に第16回以降も書き継いでいただきたいのですが、それは若い世代にお任せしましょう。
偶然ですが、来月から倉方俊輔さんと光嶋裕介さんによる「悪のコルビュジエ」と題した新連載が始まります。これについては後ほど詳しくご案内します。
長い間のご愛読、ありがとうございました。
新年早々、銀座のギャラリーせいほうで開催していた「石山修武・六角鬼丈 二人展―遠い記憶の形―」が21日に無事、大盛況のうちに終了いたしました。
磯崎新、安藤忠雄、難波和彦、山本理顕ら日本を代表する建築家はじめ、お二人の幅広い人脈を反映して連日たくさんのお客さまがいらしてくださいました。
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●本日の瑛九情報!
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先日1月19日のブログのアクセスが突然急騰しました。
何のことかわからずアクセス解析をみると2011年11月14日の「大野の堀栄治さん訃報」という記事が原因でした。
世間的には全く無名な堀さんの5年も前の訃報記事がなぜ?
その日「石山修武・六角鬼丈二人展」の展評原稿を届けてくれた植田実先生からの情報でやっと謎がとけました。19日の朝のNHKテレビが福井県大野の堀さんの映像を放映したらしい。亭主はテレビがないのでまったくそういう情報には疎い。
まったくの偶然ですが、先日から瑛九の会を担った人たちを順次ご紹介していて、今日とりあげる堀さんもその一人です。
1965年、瀧口修造らを発起人として結成された瑛九の会は、機関誌『眠りの理由』の発行を軸に、展覧会や頒布会の開催、石版画総目録の刊行など、瑛九顕彰に大きな役割を果たしました。
福井県大野市の堀栄治さん(2011年没)は久保貞次郎の唱導した創造美育運動に参加した教師の一人でした。
瑛九の晩年に木水育男さんが組織した頒布会の中心メンバーであり、自らも大野で瑛九頒布会を独自に組織し、大野に多くの瑛九作品をもたらした大功績者でした。
瑛九没後も、堀さんは瑛九周辺の作家たちー池田満寿夫、泉茂、オノサトトシノブ、北川民次、ヘンリー・ミラー、キムラ リサブロー、靉嘔たちを支援し続けました。
中でも靉嘔先生の作品頒布には精力的に取り組み、美術館はもちろんギャラリーすらない人口僅か3万5千人ほどの山間の町で、靉嘔やフルクサスの大展覧会を組織しました。

2004年5月8日~16日に多田記念大野有終会館で開催された「虹のふるさと大野 靉嘔展」のオープニングにて。
中央が靉嘔先生、右のベレー帽が堀栄治さん

2006年大野の堀さん宅にて
堀栄治さんと社長
堀さんの功績の一つとして忘れてはならないのは『福井創美の歩み』(1990年10月初版、2007年5月第5版発行)という手作りの記録集を残されたことです。
福井における創造美育運動、ひいては小コレクター運動の詳細な日録です。これについては明日詳しくご紹介しましょう。
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<瑛九 1935-1937 闇の中で「レアル」をさがす>展が東京国立近代美術館で開催されています(2016年11月22日~2017年2月12日)。外野応援団のときの忘れものは会期終了まで瑛九について毎日発信します。
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