中村茉貴「美術館に瑛九を観に行く」 第15回
都城市立美術館
UMK寄託作品による「瑛九芸術の迷宮へ」その2
前回に引続き、都城市立美術館で開催されていた「UMK寄託作品による 瑛九芸術の迷宮へ」展の報告である。今回は、2階会場に展示されていた瑛九と富松良夫の関係資料に着目したい。
富松良夫(1903-1954)は、都城市で「南の宮沢賢治」として地元で愛されている詩人で、瑛九と若い頃から親しい関係にあった。良夫の弟富松昇(元宮崎市助役)は、1934年11月に瑛九のアトリエを訪ね、12月には瑛九と山田光春が富松家を訪ねる。翌35年には、瑛九、岡峰龍也、杉田杉(瑛九の妹)、富松昇、藤田頴男、山田光春が洋画研究グループ「ふるさと社」を結成する。
会場の中心に展示された資料。覗きケースには、書簡2通と詩集1冊がある。壁には、瑛九のリトグラフやエッチングが展示されている。
「富松良夫宛 杉田秀夫書簡 昭和10年8月21日」(1935年、都城市立図書館所蔵、部分)
本書簡に記載された内容を下記に少し抜粋したい。
私は絵画藝術とソの今迄のジャンルに従ひたくはありませぬ。ヱかきは描くものであって、観る人ではありませぬ。ゆえに私はヱカキの批評に全てにといってもいいくらいキタイをおいておりませぬ。又ヱカキのみかたとソのめがねをかけてやるこの国の美術批評家の批評は画家以上に私には他人です。私は人間のコヱ(声)をほっします。ろうごくの窓からみえる一りんの小さな赤い花によする囚人の感情、一りんの小さな花のもたらす囚人への言葉に言えない様な一種の希望を。そういった所に絵画をおいて考へたく思っております。
(中略)
今年になって、絵筆がにぎれない精神のじょうたいにいます。すこし評論をかこうかと思ひ、それによる自己成長をはかつております。自己と世界の対決で、日が暮れてしまふのです。一歩もうごけやしません。
東京国立近代美術館の「瑛九1935-1937闇の中で『レアル』をさがす」展に展示されていた山田光春宛の書簡と富松良夫宛の書簡はどこか違う雰囲気がある。尻込みせずに自論を主張する瑛九節は健在ではあるものの、言葉の端々に緊張感が漂っている。瑛九とほぼ同い年の山田に比べて良夫は7歳ばかり年上だった為かもしれないが、おそらく、それだけではない。書簡が書かれた時期は、杉田秀夫(瑛九)が画家を志してスタートを切った頃である。すでに詩集を出版している「文学者」と対峙して、自分は「絵描き」と称して考えを説明するも、まだ不慣れで硬さがある。良夫とは土俵は違っても同じ表現者としてシンパシーを感じていたようで、希望や自論をぶつけている。いわば、山田は何でも打ち明けられる同志で、良夫はもっとも身近な表現者の先輩という存在であったのかもしれない。瑛九はこの良夫との往復書簡を通じて「絵描き」として自己形成を図っていったのではないだろうか。
「富松良夫宛 杉田秀夫書簡」(年代不詳、都城市立図書館所蔵)
上記の書簡より少し抜粋する。
私の制作は量だけで、すこしもうまく行きませぬ。油絵之具になれることすらまだ中々に遠い事を思ふとちょっと困るので、わん力的大作にかりたてるわけです。
「絵描き」同志ではないため、鼓舞するようなところはない。冷静に自分をふりかえって、良夫に報告している。
ケースに入っている本は、富松良夫『詩集 黙示』1958年、龍舌蘭。
表紙は、瑛九の抽象的なフォト・デッサンで飾られている。上部の表題部分は帯状に裁断され、裏表紙の方に回り込んでいる。本書は、1954年良夫が亡くなったあとに編集された。表紙にフォト・デッサン、普及版にデッサン2枚(金属板印刷)、100部限定にエッチング2葉付きで販売された。
本書に挿入されている作品。シュルレアリスムと抽象のあいだのようなスケッチである。タイトルはない。
同書に挿入された作品。タイトルはない。細かな線は幾重にも重なり、花びらや貝殻のようなシルエットが見えてくる。それは、形を変え次第に上昇して消えてゆく、「言の葉」をあらわしているのだろうか。
以下に富松良夫の詩3篇を紹介したい。
山によせて
ひかりの箭(や)をはなつ朝
山は霧のなかに生まれ
むらさきの山体は
こんじきの匂ひをもつ
あたらしい日を信じ
あたらしい世界のきたるを信じ
さらに深い山の発燃を信じ
にんげんの哀しさも
国の面する悲運のかげも
世界の精神的下降の現実も
わすれてはてるわけではないが
いまこのあざやかな
朝のひかりにおぼれ
悠々と非情の勁さにそびえてゐる
山にまなぼう
聴く
ふかい夜のめざめ、しんとして揺るがない星の光を額にあてている、
わたしは信ずる、この秋の夜を徹る虫の音は白銀の穂尖だ
脳髄の心をすずしくすずしく刺しとおしてくる……繊やかさ
わたしの肉身はこゝに傾く、ああわたしはしづかに胸を反らすのだ
わたしは死なないであろう、そして無上にわたしは生きるのであろう
星にぬれ、露に濡れ、この窓にわたしの映像をいつまでも填め
わたしは信ずる、生存のはてしなく涼しいその一念を。
雲
山は風に澄んでいる
凛然と霽れきつた山をわれはまつすぐに受けている
われは坐ったまま、白雲となつて飛ぶ
からだを透きとおらせ
白々と風とあらそう無際辺の旅をする
山脈を超えるとき、われはやまはだに触れて見るのだ
鋼いろのそのつめたさが胸にとおつてくるとき
爽々とわがこころを膊つ一脈の青韻があつた
良夫は日々の生活で得た刺激をあざやかな言葉にかえて、体験した感覚をよみがえらせようとしている。6歳で脊椎カリエスにかかり良夫の体は不自由であるが、詩は空中で生き生きと跳ねあがり、エネルギーに満ちている。情景豊かな表現は、秀夫(瑛九)の影響だろうか。以上のように瑛九と富松の二人の交流関係の結晶として展示されていた資料を詳しく見てみると、互いにいい影響関係にあったことが想像できる。
参考資料:鈴木素直「同時代の軌跡―富松良夫と瑛九」(宮崎日日新聞、2001年11月16日)瑛九と富松良夫の関係を詩人鈴木素直氏は、新聞で次のような点を書いている。一部抜粋する。
・文学の道を歩む富松は美術への関心と共感に支えられ、画家瑛九の世界は文学に育てられた。一九二二、三年ごろから始まる友好関係の中で、文学と美術、さらに音楽の世界をたえずクロスさせながらお互いを刺激し続けた。
・両人とも「就職」することなく、経済的には恵まれない芸術創造だけの生涯を選んだ。
・兵役義務に従事していない。(中略)両人の負い目や戦争観の検証はあまりされていない。
・両人とも数多くの手紙を誠実にまた激しく書いている。
鈴木氏の指摘のとおり都城市立美術館の学芸員祝迫眞澄氏によると、富松関係資料の所在はあまりよくわかっていないという。書簡や瑛九の作品がどこかにある可能性は十分に考えられる。たとえば、愛知県美術館の山田光春アーカイブには、富松良夫に関係する書簡の写しやコピーが保管されている。
同じ宮崎県内でも「瑛九」については宮崎県立美術館(宮崎市)で展示されるという意識が高く、これほどまでボリュームのある展示はしてこなかったと語る祝迫学芸員。これを機に富松と瑛九の関係を、引き続き調査したいと意気込んでいた。
本展の続きは次回にまわし、
ちょっと寄道...
都城市立美術館のとなりには、市立図書館が併設されている。中に入ると、さすが都城市のスターである富松良夫のコーナーが設置されていた。良夫は、瑛九と連絡を取り合う前から美術に関心があり、1928年には絵画グループ「白陽会」を創立し、自らも絵筆を握っていた人物でもある。
富松良夫『詩集 現身』龍舌蘭、1971年
本書の表紙も瑛九のフォト・デッサンで飾られている。
オリジナルエッチング《雨》
雨のなかに妖しく佇む奇妙な構造物。わずかに開いた隙間を除くと何が見えるのだろうか。
オリジナルエッチング《おとぎの国》
家々が立ち並び、全体的に賑やかな作品。3人の男女の他にも、よく見ると家のなかにも人の姿がある。傘をもつ男性に手を振り上げて挨拶をする人。太陽と星、光と影が同居する世界でどのような物語が展開されるのだろうか。
(なかむら まき)
●展覧会のご案内
「瑛九芸術の迷宮へ」
会期:2017年1月5日[火]~2017年2月26日[日]
会場:都城市立美術館
休館:月曜(祝日・振替休日の場合、その翌日は休館)
時間:9:00~17:00(入館は30分前)
主催:都城市立美術館
入館料:無料
本展では平成27年度にテレビ宮崎から寄託された瑛九作品を中心に、過去にテレビ宮崎が収集した特別出品作品を加えた、写真や銅版画、リトグラフなど約80点を展示いたします。宮崎ゆかりの美術作品が散逸することを防ぎ、県内の文化・芸術を長く伝え残したいという理念のもと築かれたこのコレクションは、代表的な版画やフォトデッサンに加えて、初期の油彩画やガラス絵など。今までほとんど紹介されていない貴重な作品も含まれています。
当館は開館以来、瑛九作品の収集と企画展示を行ってきましたが、この度の寄託を機会に、瑛九の画業全体がより広く理解されることとなりました。この展示を通じて、瑛九の自由な時代精神を感じ取っていただければ幸いです。(本展HP「ごあいさつ」より転載)
都城市立美術館
UMK寄託作品による「瑛九芸術の迷宮へ」その2
前回に引続き、都城市立美術館で開催されていた「UMK寄託作品による 瑛九芸術の迷宮へ」展の報告である。今回は、2階会場に展示されていた瑛九と富松良夫の関係資料に着目したい。
富松良夫(1903-1954)は、都城市で「南の宮沢賢治」として地元で愛されている詩人で、瑛九と若い頃から親しい関係にあった。良夫の弟富松昇(元宮崎市助役)は、1934年11月に瑛九のアトリエを訪ね、12月には瑛九と山田光春が富松家を訪ねる。翌35年には、瑛九、岡峰龍也、杉田杉(瑛九の妹)、富松昇、藤田頴男、山田光春が洋画研究グループ「ふるさと社」を結成する。
会場の中心に展示された資料。覗きケースには、書簡2通と詩集1冊がある。壁には、瑛九のリトグラフやエッチングが展示されている。
「富松良夫宛 杉田秀夫書簡 昭和10年8月21日」(1935年、都城市立図書館所蔵、部分)本書簡に記載された内容を下記に少し抜粋したい。
私は絵画藝術とソの今迄のジャンルに従ひたくはありませぬ。ヱかきは描くものであって、観る人ではありませぬ。ゆえに私はヱカキの批評に全てにといってもいいくらいキタイをおいておりませぬ。又ヱカキのみかたとソのめがねをかけてやるこの国の美術批評家の批評は画家以上に私には他人です。私は人間のコヱ(声)をほっします。ろうごくの窓からみえる一りんの小さな赤い花によする囚人の感情、一りんの小さな花のもたらす囚人への言葉に言えない様な一種の希望を。そういった所に絵画をおいて考へたく思っております。
(中略)
今年になって、絵筆がにぎれない精神のじょうたいにいます。すこし評論をかこうかと思ひ、それによる自己成長をはかつております。自己と世界の対決で、日が暮れてしまふのです。一歩もうごけやしません。
東京国立近代美術館の「瑛九1935-1937闇の中で『レアル』をさがす」展に展示されていた山田光春宛の書簡と富松良夫宛の書簡はどこか違う雰囲気がある。尻込みせずに自論を主張する瑛九節は健在ではあるものの、言葉の端々に緊張感が漂っている。瑛九とほぼ同い年の山田に比べて良夫は7歳ばかり年上だった為かもしれないが、おそらく、それだけではない。書簡が書かれた時期は、杉田秀夫(瑛九)が画家を志してスタートを切った頃である。すでに詩集を出版している「文学者」と対峙して、自分は「絵描き」と称して考えを説明するも、まだ不慣れで硬さがある。良夫とは土俵は違っても同じ表現者としてシンパシーを感じていたようで、希望や自論をぶつけている。いわば、山田は何でも打ち明けられる同志で、良夫はもっとも身近な表現者の先輩という存在であったのかもしれない。瑛九はこの良夫との往復書簡を通じて「絵描き」として自己形成を図っていったのではないだろうか。
「富松良夫宛 杉田秀夫書簡」(年代不詳、都城市立図書館所蔵)上記の書簡より少し抜粋する。
私の制作は量だけで、すこしもうまく行きませぬ。油絵之具になれることすらまだ中々に遠い事を思ふとちょっと困るので、わん力的大作にかりたてるわけです。
「絵描き」同志ではないため、鼓舞するようなところはない。冷静に自分をふりかえって、良夫に報告している。
ケースに入っている本は、富松良夫『詩集 黙示』1958年、龍舌蘭。表紙は、瑛九の抽象的なフォト・デッサンで飾られている。上部の表題部分は帯状に裁断され、裏表紙の方に回り込んでいる。本書は、1954年良夫が亡くなったあとに編集された。表紙にフォト・デッサン、普及版にデッサン2枚(金属板印刷)、100部限定にエッチング2葉付きで販売された。
本書に挿入されている作品。シュルレアリスムと抽象のあいだのようなスケッチである。タイトルはない。
同書に挿入された作品。タイトルはない。細かな線は幾重にも重なり、花びらや貝殻のようなシルエットが見えてくる。それは、形を変え次第に上昇して消えてゆく、「言の葉」をあらわしているのだろうか。以下に富松良夫の詩3篇を紹介したい。
山によせて
ひかりの箭(や)をはなつ朝
山は霧のなかに生まれ
むらさきの山体は
こんじきの匂ひをもつ
あたらしい日を信じ
あたらしい世界のきたるを信じ
さらに深い山の発燃を信じ
にんげんの哀しさも
国の面する悲運のかげも
世界の精神的下降の現実も
わすれてはてるわけではないが
いまこのあざやかな
朝のひかりにおぼれ
悠々と非情の勁さにそびえてゐる
山にまなぼう
聴く
ふかい夜のめざめ、しんとして揺るがない星の光を額にあてている、
わたしは信ずる、この秋の夜を徹る虫の音は白銀の穂尖だ
脳髄の心をすずしくすずしく刺しとおしてくる……繊やかさ
わたしの肉身はこゝに傾く、ああわたしはしづかに胸を反らすのだ
わたしは死なないであろう、そして無上にわたしは生きるのであろう
星にぬれ、露に濡れ、この窓にわたしの映像をいつまでも填め
わたしは信ずる、生存のはてしなく涼しいその一念を。
雲
山は風に澄んでいる
凛然と霽れきつた山をわれはまつすぐに受けている
われは坐ったまま、白雲となつて飛ぶ
からだを透きとおらせ
白々と風とあらそう無際辺の旅をする
山脈を超えるとき、われはやまはだに触れて見るのだ
鋼いろのそのつめたさが胸にとおつてくるとき
爽々とわがこころを膊つ一脈の青韻があつた
良夫は日々の生活で得た刺激をあざやかな言葉にかえて、体験した感覚をよみがえらせようとしている。6歳で脊椎カリエスにかかり良夫の体は不自由であるが、詩は空中で生き生きと跳ねあがり、エネルギーに満ちている。情景豊かな表現は、秀夫(瑛九)の影響だろうか。以上のように瑛九と富松の二人の交流関係の結晶として展示されていた資料を詳しく見てみると、互いにいい影響関係にあったことが想像できる。
参考資料:鈴木素直「同時代の軌跡―富松良夫と瑛九」(宮崎日日新聞、2001年11月16日)瑛九と富松良夫の関係を詩人鈴木素直氏は、新聞で次のような点を書いている。一部抜粋する。・文学の道を歩む富松は美術への関心と共感に支えられ、画家瑛九の世界は文学に育てられた。一九二二、三年ごろから始まる友好関係の中で、文学と美術、さらに音楽の世界をたえずクロスさせながらお互いを刺激し続けた。
・両人とも「就職」することなく、経済的には恵まれない芸術創造だけの生涯を選んだ。
・兵役義務に従事していない。(中略)両人の負い目や戦争観の検証はあまりされていない。
・両人とも数多くの手紙を誠実にまた激しく書いている。
鈴木氏の指摘のとおり都城市立美術館の学芸員祝迫眞澄氏によると、富松関係資料の所在はあまりよくわかっていないという。書簡や瑛九の作品がどこかにある可能性は十分に考えられる。たとえば、愛知県美術館の山田光春アーカイブには、富松良夫に関係する書簡の写しやコピーが保管されている。
同じ宮崎県内でも「瑛九」については宮崎県立美術館(宮崎市)で展示されるという意識が高く、これほどまでボリュームのある展示はしてこなかったと語る祝迫学芸員。これを機に富松と瑛九の関係を、引き続き調査したいと意気込んでいた。
本展の続きは次回にまわし、
ちょっと寄道...
都城市立美術館のとなりには、市立図書館が併設されている。中に入ると、さすが都城市のスターである富松良夫のコーナーが設置されていた。良夫は、瑛九と連絡を取り合う前から美術に関心があり、1928年には絵画グループ「白陽会」を創立し、自らも絵筆を握っていた人物でもある。
富松良夫『詩集 現身』龍舌蘭、1971年本書の表紙も瑛九のフォト・デッサンで飾られている。
オリジナルエッチング《雨》雨のなかに妖しく佇む奇妙な構造物。わずかに開いた隙間を除くと何が見えるのだろうか。
オリジナルエッチング《おとぎの国》家々が立ち並び、全体的に賑やかな作品。3人の男女の他にも、よく見ると家のなかにも人の姿がある。傘をもつ男性に手を振り上げて挨拶をする人。太陽と星、光と影が同居する世界でどのような物語が展開されるのだろうか。
(なかむら まき)
●展覧会のご案内
「瑛九芸術の迷宮へ」会期:2017年1月5日[火]~2017年2月26日[日]
会場:都城市立美術館
休館:月曜(祝日・振替休日の場合、その翌日は休館)
時間:9:00~17:00(入館は30分前)
主催:都城市立美術館
入館料:無料
本展では平成27年度にテレビ宮崎から寄託された瑛九作品を中心に、過去にテレビ宮崎が収集した特別出品作品を加えた、写真や銅版画、リトグラフなど約80点を展示いたします。宮崎ゆかりの美術作品が散逸することを防ぎ、県内の文化・芸術を長く伝え残したいという理念のもと築かれたこのコレクションは、代表的な版画やフォトデッサンに加えて、初期の油彩画やガラス絵など。今までほとんど紹介されていない貴重な作品も含まれています。
当館は開館以来、瑛九作品の収集と企画展示を行ってきましたが、この度の寄託を機会に、瑛九の画業全体がより広く理解されることとなりました。この展示を通じて、瑛九の自由な時代精神を感じ取っていただければ幸いです。(本展HP「ごあいさつ」より転載)
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