森本悟郎のエッセイ その後

第38回 角偉三郎 (2) 展覧会とその後


角偉三郎さんに初めて会ったのは1994年7月のこと。展覧会作家としてではなく、勤務先の中京大学へのアートワーク提供者としてだった。その後、輪島の仕事場や各地の展覧会場で作品に触れ話を聞くうちに、ふだん作っている器ではないもので展覧会を企画できないかと考えるようになった。
いつだったかそんなことを角さんに話したところ、見せたいものがあるから輪島まで来ませんか、と誘いを受けた。輪島駅に出迎えてくれた角さんは、「お昼はまだですね」と訊ね、「手仕事屋」という門前の蕎麦屋に案内した。そこで供されたそばは、ざるならぬ角さんのへぎ板に盛られていた。「実はこれの大きなのを作りましてね、それを見てもらいたくて」。
食後連れて行かれたのはそこからほど近い、別荘地となっている山の中腹に建てられたアトリエだった。「曼荼羅工房」と名付けられたその建物は、外壁全てが柿渋で塗装された下見板張りという輪島の伝統的な木造建築で、土間は赤土と砂利に消石灰とニガリを混ぜた本格的な三和土(たたき)である。考えごとをするとき、一人になりたいときにここへ来る、漆芸の仕事だけでなく、執筆や書もこの工房で行うのだという。多忙を極める作家の隠れ家という趣きだった。
見せられたのは90×180cmほどもある巨大なへぎ板だった。蕎麦が盛られたへぎ板は薄く剥いだ板を継いだものだったが、それは丸太から割り出した角材を継いだといった感じで、捩れ、平らな面はどこにもないながら、重厚で存在感の際立つ板は、床に置くとそのまま卓となるのだった。「これを10枚、立木のように床から立てるというのはどうでしょう」と言った角さんの頭の隅には、へぎ板を作品としてではなく素材として使うという、インスタレーションのイメージが浮かんでいたのだろう。人の背よりも高い大へぎ板が林立する様子は、迫力があって確かに面白い。しかしそれだけではコンセプトとしていささか弱いように思えた。
幾度か目にした仕事場には、そこで働く人たちは気にも留めないが、傍目には実に興味深いものがたくさんあった。例えば下地漆を塗った器を並べる板。これには長い間に垂れた漆が堆積し、高台の跡が紋様をなしていて、もとの用途を離れて漆のオブジェとなる。あるいは作業工程で使われた濾紙や密閉ラップは事後捨てられるものだが、付着した漆が乾くと、漆をまとった抽象的オブジェに変容する。そんな話を角さんとやりとりしているうちに、大へぎ板とラップの2種類で展示を構成してみようということになった。最大と最小の組み合わせである。
「黙森」と題した展覧会は2000年の掉尾(11.18~12.16)で、角さんはちょうど60歳だった。大へぎ板を立てるため固定用金物を特注し、ラップはガラス容器やこれも特注のアクリルボックスを用意して、生物標本か宝石のように展示した。会場の中央に大木が林立するようにへぎ板を配置し、周囲をその雫のようなラップで囲んだ。対照的な2種類のオブジェによるインスタレーションだが、主役はもちろん〈漆〉だった。

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C・スクエアの個展が角さんにとって劃期となったかどうかはわからない。それでも展覧会には満足したと言い、また器に戻りますと笑ったことを覚えている。たぶん、作品を売らなくてもよい展覧会というものを楽しんだことだろう。
展覧会から5年後、能登の和倉温泉に角偉三郎美術館ができ、そのひと月後に心不全で亡くなった。美術館のオープニングには招待を受けながら仕事のために出席できなかったし、葬儀も同様だった。いつか再開したいと語っていた、沈金の仕事に戻ることなく不帰となったのも残念である。
もりもと ごろう

森本悟郎 Goro MORIMOTO
1948年名古屋市生まれ。1971年武蔵野美術大学造形学部美術学科卒業。1972年同専攻科修了。小学校から大学までの教職を経て、1994年から2014年3月末日まで中京大学アートギャラリーC・スクエアキュレーター。展評、作品解説、作家論など多数。現在、表現研究と作品展示の場を準備中。

●今日のお勧め作品は、宮脇愛子です。
20170528_miyawaki_15宮脇愛子
"Work" (15)
2013年
紙に銀ペン
イメージサイズ:24.5×24.5cm
シートサイズ :42.1×29.7cm
サインと年記あり

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