芳賀言太郎のエッセイ
「El Camino(エル・カミーノ) 僕が歩いたサンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼路1600km」
第30話(最終話) 栄光の聖地
11/4(Sun) Monte del Gozo – Santiago de Compostella (5.0km)
11/5(Mon) Santiago de Compostella (0km)
11/6(Tue) Santiago de Compostella – Negreira (22.4km)
11/7(Wed) Negreira – Olveiroa (33.1km)
11/8(Thu) Olveiroa – Finisterra (31.2km)
11/9(Fri) Finisterra (0km)
7時に起床し、8時半に歩き出す。サンティアゴ・デ・コンポステーラ到着の日だからといって特に毎日のルーティーンが変わるわけではない。丘の上に立ち寄り、もう一度カテドラルの尖塔を見てから聖地に向かう。一歩一歩、道を確かめるようにして歩く。だんだんと聖地に近づいている。
「サンティアゴ巡礼案内書」によれば「コンポステーラの町は、サールおよびサレーラなる二つの川に挟まれて建設されたものである。サール川は東側、喜びの山(モンテ・デ・ゴソ)と町との間を流れ、他方サレーラはその西側を流れる。街には七つの扉ないし入り口がある。その第一はフランスの門と言われる」(柳宗玄『サンティヤーゴの巡礼路』所収)とある。いずれも現存してはいないが、地名として残る「巡礼路の門」(ポルタ・ド・カミーニョ)がこの「フランスの門」つまり「フランス人の道」への門で、石畳の旧市街地はここから始まっている。狭い道のごちゃごちゃした旧市街地を抜けてカテドラルに到着する。
モニュメント
サンティアゴ・デ・コンポステーラ。広場に着き、カテドラルを正面から見上げると充実感が込み上げてきた。ただ、涙はなかった。感動していると言うよりもやっと終わった。明日は歩かなくていいと言う安堵感の方が強いのだろう。ただ、心は満たされている。今日もこれまで過ごしてきた日々とは変わらない。ただ、今日は目的地に着いたというだけである。
カテドラル
「巡礼案内書」には「この聖堂にはひび割れがなく、欠陥がない。見事な建築で、大きく、広く、明るく、各部分の調和がよく、長さ、幅、高さの比例もよく、石組みはえもいわれぬ見事な者で、王宮のように二階建ての構造である。建物の高い部分を巡回する者は、この聖堂の完全な美しさを見たあとは、悲しい心で登って来た人でも帰るときには幸福な気分で心慰められて辞去するのである」とある。
この「巡礼案内書」の描く大聖堂は、1075年、司教ディエゴ・ペラーエスの時代にアルフォンソ6世(在位1065-1109)の命によって着工され、次の司教ヘルミーレスの時代に完成した12世紀のものである。その後増築、改築を繰り返して18世紀に現在のかたちとなるが、基本的な構造はこの時代のものが維持されており、その意味でロマネスク様式の会堂であるいといえる。特に、その平面プランは巡礼路様式の完成形と呼ばれ、その成立を巡っては美術史・建築史の上で多くの議論が重ねられてきた。
この「巡礼路様式」という概念は、E・マールが11、12世紀のフランスの大聖堂とサンティアゴ大聖堂の建築様式の類似を説明するために導入したものである 。フランス各地からサンティアゴ・デ・コンポステーラに向かう主要な4つの道において、多くの巡礼者に効率よく聖遺物を崇敬させることを可能にする平面プラン、すなわち、大身廊、周歩廊、放射状祭室、周遊側廊を持つ大聖堂が存在すること、すなわち、トゥールの道にはサン・マルタン聖堂、リモージュの道にはサン・マルシュアル大聖堂、コンクの道にはサント・フォア聖堂、トゥールーズの道にはサン・セルナン聖堂がそれぞれ位置し、サンティアゴ巡礼という共通項の上に共通の特徴を持つ諸聖堂が建てられたことを主張した。また時を同じくして、キングスレイ・ポーターも、巡礼路の建築と彫刻に注目し、「巡礼路の建築様式」があり得ることを立論、巡礼路が、遠隔地間を一つの芸術概念で結ぶことを可能にしたと考えた。
K・コナンは、サンティアゴ大聖堂の初期建築用式から、中央フランスの教会群との類似点を指摘した。他方、S・モラレーホは、これらの教会の建築様式の類似を承認する一方、それは機能に共通性があるための類似であるとし、J・ウィリアムズは、巡礼路聖堂が、聖人に献堂されたマルティリウムの場所に再建されたことを指摘して、それらが内部に聖遺物を保持するための建築物であったとする。結論は分かれるが、「巡礼路様式」が、中世の巡礼と密接に結びつき、聖人崇拝・聖遺物崇拝という宗教現象が目に見える形となった建築であったということは間違いない。
入り口中央柱 聖ヤコブ像
内部
現在のサンティアゴ・デ・コンポステーラ大聖堂のメインビジュアルである西正面ファサードは、フェルナンド・カサス・イ・ノーボアによるバロック様式のものであるが、中世から巡礼者を迎えてきた「栄光の門」は12世紀の彫刻家マテオが20年をかけて彫りあげたロマネスク彫刻の傑作である。
三つの門の中央に位置するトリュモー(中柱)には、下から、キリストの系図を表現した「エッサイの樹」が彫られ、その上に使徒の姿の聖ヤコブ、そしてその上の大タンン中央に「栄光のキリスト像」が鎮座している。その左右には半分の大きさで足元に福音書記者マルコとルカ、肩口にマタイとヨハネが置かれ、タンパンの下半分には受難具(十字架、荊の冠、釘、酸い葡萄酒の入った水さし、海綿のついた棒)を手にした天使たち。上半分に最後の審判を聞く天国の人たちが描き出され、タンパンの周縁はぐるりと「ヨハネの黙示録」4章に登場する24人の長老が、様々な楽器を手にして取りかこんでいる。
中に入り、身廊を進むと「ガリシアバロック」とも呼ばれるチュゲリア様式で豪華絢爛に飾られた主祭壇。ここには正面に「使徒姿の聖ヤコブ」その上に「巡礼姿の聖ヤコブ」さらにその上、天使たちの運ぶ金の絨毯の上に「戦士姿の聖ヤコブ」の姿を見ることができる。それは聖ヤコブ信仰の発展の姿を示すものではあるだろうが、巡礼の意味が大きく変化し、聖遺物のご利益を求めての旅から、巡礼という行為そのものを通して、象徴的に「死と再生」を求める求道の旅の側面を強くした現代のサンチャゴ・デ・コンポステーラ巡礼においては、この大祭壇も地下のヤコブと弟子たちの墓もかつてのような威光を発揮することはできていないような気がする。
祭壇
銀細工師の門
巡礼事務所で巡礼証明書をもらい、カテドラルのお昼のミサに出席する。
「ル・ピュイから日本人」、司祭がその日に到着した巡礼者の出身国と出発地を読み上げる。その瞬間に初めて巡礼を達成した実感が湧いてきたのだった。
ボタフメイロはなかった。今日はそのための特別な寄進はなかったようだ。しかし、祝福は変わらないだろう。それが実感できる。
巡礼事務所
午後はゆっくりとホテルの部屋で休む。お世話になった人たちに無事に着いたことを知らせるメールを送る。
サン・マルティン・ピナリオ修道院
宿泊したホテル
夕食はパラドールでの巡礼者のための賄いメニュー。先着10名の特別なもの。質素であるが、自分が巡礼者であることを実感できる。素晴らしい建築、空間。歴史がこれをつくったのだ。
パラドール
巡礼者用食堂
巡礼者用賄いメニュー
フィステーラについた翌日はスカッとする朝だった。海辺のカフェに入り、海を見ながらのんびりとコーヒーを飲む。巡礼も終わり心はすっかり楽になった。
砂浜を散歩し、巡礼で使ったものを持って小さな海岸へ向かう。かつての巡礼者はすべての持ち物をフィステーラの海岸で燃やしたという。今までの自分から新しい自分に変わるため、過去を捨て去り、未来を生きるため。現代ではさすがにすべてを燃やすわけにはいかないので、Tシャツを燃やすだけにしておく。杖を砂浜に立て、燃える火を見つめていると長かった巡礼を思い出した。
フィステーラ
最後の儀式
夕方、灯台へと向かう。最果ての地フィステーラ、ここはヨーロッパの最西端であり、かつては世界の果てと呼ばれていた西の水平線に沈む夕日は美しく儚かった。ここには昔の自分はもういない。今までとは違った自分になるのだろう。ここではすべてが終わり、再生する。
この巡礼の旅を終えて、自分は新しい自分に生まれ変わったのだろう。実際に何かが変わったわけではない、すぐに変わるわけではないだろう。しかし、きっといつの日か、この巡礼によって私は生まれ変わったのだと言える日がくるだろう。
最終地のマーク
最果ての十字架
大西洋に沈む夕日
旅の終わり
灯台からの宿に向かう帰り道。日が沈み、闇に染まる空を見上げるとそこには満天の星が輝いていた。
歩いた総距離1576.7km
(はが げんたろう)
コラム いつか僕の愛用品にしたいもの ~巡礼編~
第2回 トレッキングシューズ CAMINO GT カミーノ ゴアテックス 39,000円
なぜ今まで、この「僕の愛用品」に靴を書かなかったのか。それは、残念ながら私が巡礼で履いた靴が足に合わなかったからである。3ヶ月を共にした靴であったが、愛用品と呼べるものにはならなかった。靴擦れを起こし、足に豆をつくり、ローカットシューズだったので足首をひねったりした。それなりのメーカーのそれなりに値段もした靴だったのだが、相性が悪かったのだろう。だからこそ、今度、巡礼路を歩く際はもっと靴選びを重視するだろう。
実際に履いたことのない靴についてかけることなどほぼない。しかしながら、カミーノと名前のつくこの靴を履いて巡礼を行うならば、多少の不都合が我慢することができ、愛着を持って歩くだろう。名前には力がある。ネーミングというのは大事なのである。
LOWA CAMINO
LOWAのHPから転載
http://www.iwatani-primus.co.jp/products/lowa/210644.html
(はが げんたろう)
■芳賀言太郎 Gentaro HAGA
1990年神奈川県川崎生まれ。芝浦工業大学工学部建築学科にて建築を学び、BAC(Barcelona Architecture Center)にてDiplomaを取得。大学を卒業後、世田谷村・スタジオGAYAに6ヶ月ほど通う。
2017年立教大学大学院キリスト教学研究科博士前期課程修了(神学修士)。
現在は立教大学大学院キリスト教学研究科研修生。
2012年に大学を休学し、フランスのル・ピュイからスペインにかけてのサンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼路1,600kmを3ヵ月かけて歩く。
2016年には再度サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼路を訪れ、フランスのヴェズレーからロードバイク(TREK1.2)にて1800kmを走破する。
立教大学大学院では巡礼の旅で訪れた数々のロマネスク教会の研究を行い、修士論文は「サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼路における聖墳墓教会」をテーマにした。
サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼路にある数多くの教会へのフィールド・ワークを重ね、スペイン・ロマネスク教会の研究を行っている。
●今日のお勧め作品は、常松大純です。
常松大純
《SUNTORY CRAFT SELECT I.P.A 限定醸造》
2015年
アルミ缶
作品サイズ:H10.0×W16.0×D6.0cm
ケースサイズ:H25.5×W25.5×D9.0cm
サインあり
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「El Camino(エル・カミーノ) 僕が歩いたサンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼路1600km」
第30話(最終話) 栄光の聖地
11/4(Sun) Monte del Gozo – Santiago de Compostella (5.0km)
11/5(Mon) Santiago de Compostella (0km)
11/6(Tue) Santiago de Compostella – Negreira (22.4km)
11/7(Wed) Negreira – Olveiroa (33.1km)
11/8(Thu) Olveiroa – Finisterra (31.2km)
11/9(Fri) Finisterra (0km)
7時に起床し、8時半に歩き出す。サンティアゴ・デ・コンポステーラ到着の日だからといって特に毎日のルーティーンが変わるわけではない。丘の上に立ち寄り、もう一度カテドラルの尖塔を見てから聖地に向かう。一歩一歩、道を確かめるようにして歩く。だんだんと聖地に近づいている。
「サンティアゴ巡礼案内書」によれば「コンポステーラの町は、サールおよびサレーラなる二つの川に挟まれて建設されたものである。サール川は東側、喜びの山(モンテ・デ・ゴソ)と町との間を流れ、他方サレーラはその西側を流れる。街には七つの扉ないし入り口がある。その第一はフランスの門と言われる」(柳宗玄『サンティヤーゴの巡礼路』所収)とある。いずれも現存してはいないが、地名として残る「巡礼路の門」(ポルタ・ド・カミーニョ)がこの「フランスの門」つまり「フランス人の道」への門で、石畳の旧市街地はここから始まっている。狭い道のごちゃごちゃした旧市街地を抜けてカテドラルに到着する。
モニュメントサンティアゴ・デ・コンポステーラ。広場に着き、カテドラルを正面から見上げると充実感が込み上げてきた。ただ、涙はなかった。感動していると言うよりもやっと終わった。明日は歩かなくていいと言う安堵感の方が強いのだろう。ただ、心は満たされている。今日もこれまで過ごしてきた日々とは変わらない。ただ、今日は目的地に着いたというだけである。
カテドラル「巡礼案内書」には「この聖堂にはひび割れがなく、欠陥がない。見事な建築で、大きく、広く、明るく、各部分の調和がよく、長さ、幅、高さの比例もよく、石組みはえもいわれぬ見事な者で、王宮のように二階建ての構造である。建物の高い部分を巡回する者は、この聖堂の完全な美しさを見たあとは、悲しい心で登って来た人でも帰るときには幸福な気分で心慰められて辞去するのである」とある。
この「巡礼案内書」の描く大聖堂は、1075年、司教ディエゴ・ペラーエスの時代にアルフォンソ6世(在位1065-1109)の命によって着工され、次の司教ヘルミーレスの時代に完成した12世紀のものである。その後増築、改築を繰り返して18世紀に現在のかたちとなるが、基本的な構造はこの時代のものが維持されており、その意味でロマネスク様式の会堂であるいといえる。特に、その平面プランは巡礼路様式の完成形と呼ばれ、その成立を巡っては美術史・建築史の上で多くの議論が重ねられてきた。
この「巡礼路様式」という概念は、E・マールが11、12世紀のフランスの大聖堂とサンティアゴ大聖堂の建築様式の類似を説明するために導入したものである 。フランス各地からサンティアゴ・デ・コンポステーラに向かう主要な4つの道において、多くの巡礼者に効率よく聖遺物を崇敬させることを可能にする平面プラン、すなわち、大身廊、周歩廊、放射状祭室、周遊側廊を持つ大聖堂が存在すること、すなわち、トゥールの道にはサン・マルタン聖堂、リモージュの道にはサン・マルシュアル大聖堂、コンクの道にはサント・フォア聖堂、トゥールーズの道にはサン・セルナン聖堂がそれぞれ位置し、サンティアゴ巡礼という共通項の上に共通の特徴を持つ諸聖堂が建てられたことを主張した。また時を同じくして、キングスレイ・ポーターも、巡礼路の建築と彫刻に注目し、「巡礼路の建築様式」があり得ることを立論、巡礼路が、遠隔地間を一つの芸術概念で結ぶことを可能にしたと考えた。
K・コナンは、サンティアゴ大聖堂の初期建築用式から、中央フランスの教会群との類似点を指摘した。他方、S・モラレーホは、これらの教会の建築様式の類似を承認する一方、それは機能に共通性があるための類似であるとし、J・ウィリアムズは、巡礼路聖堂が、聖人に献堂されたマルティリウムの場所に再建されたことを指摘して、それらが内部に聖遺物を保持するための建築物であったとする。結論は分かれるが、「巡礼路様式」が、中世の巡礼と密接に結びつき、聖人崇拝・聖遺物崇拝という宗教現象が目に見える形となった建築であったということは間違いない。
入り口中央柱 聖ヤコブ像
内部現在のサンティアゴ・デ・コンポステーラ大聖堂のメインビジュアルである西正面ファサードは、フェルナンド・カサス・イ・ノーボアによるバロック様式のものであるが、中世から巡礼者を迎えてきた「栄光の門」は12世紀の彫刻家マテオが20年をかけて彫りあげたロマネスク彫刻の傑作である。
三つの門の中央に位置するトリュモー(中柱)には、下から、キリストの系図を表現した「エッサイの樹」が彫られ、その上に使徒の姿の聖ヤコブ、そしてその上の大タンン中央に「栄光のキリスト像」が鎮座している。その左右には半分の大きさで足元に福音書記者マルコとルカ、肩口にマタイとヨハネが置かれ、タンパンの下半分には受難具(十字架、荊の冠、釘、酸い葡萄酒の入った水さし、海綿のついた棒)を手にした天使たち。上半分に最後の審判を聞く天国の人たちが描き出され、タンパンの周縁はぐるりと「ヨハネの黙示録」4章に登場する24人の長老が、様々な楽器を手にして取りかこんでいる。
中に入り、身廊を進むと「ガリシアバロック」とも呼ばれるチュゲリア様式で豪華絢爛に飾られた主祭壇。ここには正面に「使徒姿の聖ヤコブ」その上に「巡礼姿の聖ヤコブ」さらにその上、天使たちの運ぶ金の絨毯の上に「戦士姿の聖ヤコブ」の姿を見ることができる。それは聖ヤコブ信仰の発展の姿を示すものではあるだろうが、巡礼の意味が大きく変化し、聖遺物のご利益を求めての旅から、巡礼という行為そのものを通して、象徴的に「死と再生」を求める求道の旅の側面を強くした現代のサンチャゴ・デ・コンポステーラ巡礼においては、この大祭壇も地下のヤコブと弟子たちの墓もかつてのような威光を発揮することはできていないような気がする。
祭壇
銀細工師の門巡礼事務所で巡礼証明書をもらい、カテドラルのお昼のミサに出席する。
「ル・ピュイから日本人」、司祭がその日に到着した巡礼者の出身国と出発地を読み上げる。その瞬間に初めて巡礼を達成した実感が湧いてきたのだった。
ボタフメイロはなかった。今日はそのための特別な寄進はなかったようだ。しかし、祝福は変わらないだろう。それが実感できる。
巡礼事務所午後はゆっくりとホテルの部屋で休む。お世話になった人たちに無事に着いたことを知らせるメールを送る。
サン・マルティン・ピナリオ修道院
宿泊したホテル夕食はパラドールでの巡礼者のための賄いメニュー。先着10名の特別なもの。質素であるが、自分が巡礼者であることを実感できる。素晴らしい建築、空間。歴史がこれをつくったのだ。
パラドール
巡礼者用食堂
巡礼者用賄いメニューフィステーラについた翌日はスカッとする朝だった。海辺のカフェに入り、海を見ながらのんびりとコーヒーを飲む。巡礼も終わり心はすっかり楽になった。
砂浜を散歩し、巡礼で使ったものを持って小さな海岸へ向かう。かつての巡礼者はすべての持ち物をフィステーラの海岸で燃やしたという。今までの自分から新しい自分に変わるため、過去を捨て去り、未来を生きるため。現代ではさすがにすべてを燃やすわけにはいかないので、Tシャツを燃やすだけにしておく。杖を砂浜に立て、燃える火を見つめていると長かった巡礼を思い出した。
フィステーラ
最後の儀式夕方、灯台へと向かう。最果ての地フィステーラ、ここはヨーロッパの最西端であり、かつては世界の果てと呼ばれていた西の水平線に沈む夕日は美しく儚かった。ここには昔の自分はもういない。今までとは違った自分になるのだろう。ここではすべてが終わり、再生する。
この巡礼の旅を終えて、自分は新しい自分に生まれ変わったのだろう。実際に何かが変わったわけではない、すぐに変わるわけではないだろう。しかし、きっといつの日か、この巡礼によって私は生まれ変わったのだと言える日がくるだろう。
最終地のマーク
最果ての十字架
大西洋に沈む夕日
旅の終わり灯台からの宿に向かう帰り道。日が沈み、闇に染まる空を見上げるとそこには満天の星が輝いていた。
歩いた総距離1576.7km
(はが げんたろう)
コラム いつか僕の愛用品にしたいもの ~巡礼編~
第2回 トレッキングシューズ CAMINO GT カミーノ ゴアテックス 39,000円
なぜ今まで、この「僕の愛用品」に靴を書かなかったのか。それは、残念ながら私が巡礼で履いた靴が足に合わなかったからである。3ヶ月を共にした靴であったが、愛用品と呼べるものにはならなかった。靴擦れを起こし、足に豆をつくり、ローカットシューズだったので足首をひねったりした。それなりのメーカーのそれなりに値段もした靴だったのだが、相性が悪かったのだろう。だからこそ、今度、巡礼路を歩く際はもっと靴選びを重視するだろう。
実際に履いたことのない靴についてかけることなどほぼない。しかしながら、カミーノと名前のつくこの靴を履いて巡礼を行うならば、多少の不都合が我慢することができ、愛着を持って歩くだろう。名前には力がある。ネーミングというのは大事なのである。
LOWA CAMINO LOWAのHPから転載
http://www.iwatani-primus.co.jp/products/lowa/210644.html
(はが げんたろう)
■芳賀言太郎 Gentaro HAGA
1990年神奈川県川崎生まれ。芝浦工業大学工学部建築学科にて建築を学び、BAC(Barcelona Architecture Center)にてDiplomaを取得。大学を卒業後、世田谷村・スタジオGAYAに6ヶ月ほど通う。
2017年立教大学大学院キリスト教学研究科博士前期課程修了(神学修士)。
現在は立教大学大学院キリスト教学研究科研修生。
2012年に大学を休学し、フランスのル・ピュイからスペインにかけてのサンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼路1,600kmを3ヵ月かけて歩く。
2016年には再度サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼路を訪れ、フランスのヴェズレーからロードバイク(TREK1.2)にて1800kmを走破する。
立教大学大学院では巡礼の旅で訪れた数々のロマネスク教会の研究を行い、修士論文は「サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼路における聖墳墓教会」をテーマにした。
サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼路にある数多くの教会へのフィールド・ワークを重ね、スペイン・ロマネスク教会の研究を行っている。
●今日のお勧め作品は、常松大純です。
常松大純《SUNTORY CRAFT SELECT I.P.A 限定醸造》
2015年
アルミ缶
作品サイズ:H10.0×W16.0×D6.0cm
ケースサイズ:H25.5×W25.5×D9.0cm
サインあり
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ときの忘れものの通常業務は平日の火曜~土曜日です。日曜、月曜、祝日はお問い合わせには返信できませんので、予めご了承ください。
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