佐藤研吾のエッセイ「大地について―インドから建築を考える―」
第7回 インドの先住民Santal-Kleladangaの人々の家づくりについて-その2
Kheladanga村の家々の庭はどれも広く、村人らの生活に欠かせない場所になっている。ある家の庭について思い出してみる。2メートルほどの高さの土の壁で囲まれていて、村の中央を抜ける一本の道に面する扉と、村の外の森か田畑に面した勝手口の二つがついている。扉はそれぞれ木の板とトタン板でできている。トタン板でできた扉はよく見たら大きな缶詰めの一部も継ぎ接ぎされていてその造形力に思わず感服してしまう。庭に面する壁には農機具や料理道具、鏡や歯ブラシなど大小さまざまな生活の道具が吊り下がっている。村の共用井戸から汲んできた水を貯めておく甕が庭の隅に置いてあり、その横には小さな祠が祀られている。祠は植木鉢のように台座の上から細い木が植えられている。庭の地面は固く艶やかで、ゴミはほとんど落ちていない。家の人が泥や灰汁を薄く塗って丁寧に掃除しているからである(第5回投稿を参照)。庭にはしばしば藁や漆喰でできた巨大な穀物貯蔵庫がボンッと置かれている(モライと呼ばれていた)。貯蔵庫は湿気や虫から守るために足元には丸太が敷かれて浮き、上に行くほど外側に傾いた逆円錐の形をしていて、ネズミが登ってくるのを防いでいる。貯蔵庫の横には竹で編まれた、座ったり寝たりするのにちょうどよさそうな簡易なベッドが置かれており、おばあさんがゴロリとくつろいでいる。屋根は無いが、その庭は彼らの生活の中心になっているようであった。そして食事の準備も彼らは庭の中でやる。地面を掘ってできた小さな火山のようなものがある。それが炊事のための竃(かまど)である。他の家の庭では2、3個も竃が点在してあったり、庭のど真ん中にあったりもする。この竃は横穴から枯葉や木枝を焼べて上の噴火口のような穴に鍋を載せて使う。様々な大きさの鍋を使い分けているようだった。鍋は底が丸くなっており穴に載せやすくなっている。
Kheladanga村の村長の庭。大鍋用の竃と小鍋用の竃が真ん中に並んでいる。
住居において、炉や炊事場がどこに位置しているかは最も興味深く、またその住居での生活様式を如実に表現し得る本質的な主題である。残念ながら、筆者はインドの事情に首を突っ込んではいるものの、インドの住居史にあまり詳しくないので、気候と風土は違うが日本の炊事場に少し脱線してみる。
日本の民家の変遷は、古くは竪穴式住居あたりから始まる土間だけがあった室内に、床が敷かれ、空間が仕切られていく(=間取り)プロセスとして見ることができる。祭祀に関係の深い、南方由来の高床式住居の形式も村の長の住居などでは見られたようだが、気候的に火を住居内に取り込まなければならなかった日本の住居は土間を基軸に考えるべきだろう。土間は外へ出入りができる生業の作業場所であり、火や水を使う炊事場であった。床が敷かれ広間ができると、採暖や家族の団欒のための、そしてしばしば炊事にも用いられる囲炉裏が大黒柱近くの床に切られるようになり、囲炉裏は土間からも容易に使うことができる広間と土間の境界の位置にあった。
Kheladanga村が位置するインド・西ベンガルの地域は高温湿潤の気候で一年を通して火を使った採暖は必要がなく、むしろ室内の温度は常に下げておきたい。なので庭に付属してある、寝起きをするための家屋の外に炊事場があるのは当然である。けれども、庭を含めた周囲の土壁までの空間を一つの民家として眺めれば、まるで見えない大屋根が架けられたような、日本の農村民家と同じ姿が見えてくる。「庭」と今まで呼んできた外部空間はむしろ「土間」と呼び直すべきかもしれない。(逆に土間の空間を「ニワ」と呼ぶ地域も日本にある。)家の内と外という境界の概念は、気候、大地の環境によって応変させなければ、その場所固有の生活の内実を取りこぼしかねないようである。
隣の住居での調理の様子。壁には様々な道具が掛けられている。前述の通り上に屋根はない。
調理中の炊事場。真ん中にあるのは包丁で、刃物は下の板に据え付けられ、切る食材を手前から手で押しあてて刻む。横の枯葉は火元の燃料。
家族生活の分業でいえば、日本もインドも炊事は専ら主婦の仕事である。日本のある地域では、主婦でなければ鍋ぶたに手を触れることができないという慣習すらあったとされる。Kheladanga村の男性たちは昼間は町に出かけ、村には女性と子供しか残っておらず、料理を作ったり、掃除をしたりと、それぞれ家の仕事をしていた。
イヴァン・イリイチは、そうした家庭生活を支え維持するための仕事が、近代においては資本主義という生産論理に支配された社会の中で無報酬労働、”シャドーワーク”として貶められていることを嘆いた。近代以降、賃労働に対して、家事仕事は抑圧されるべきものとされ、産業が生み出した商品を貨幣で購入し、省力化することが推奨されていく。
一方、建築史家・鈴木博之は現代社会で装飾が生み出される契機を紐解く中で、機能主義が貫徹する生産の論理とは異なる理屈を孕んだ、台所の近代化について興味深い言及をしている。
「農民の主婦は、野良仕事が重労働であった時代には、台所が近代化されることを嫌がって、昔ながらの台所で火吹き竹を吹いているほうを望みました。その時間、休息なるからですね。台所だけ近代化すれば、その分野良に駆り出されるわけです。野良仕事が機械化されてから、はじめて台所も近代化されました。」(*1)
この指摘は、インドのKheladanga村の中で出会った、昼間の静かに子供たちとくつろぐ女性たちの姿にも通じるものもあるのではないか。前回の投稿では、土木インフラ事業がもたらす村の風景の移り変わりについて書いたが、近い将来、炊事をはじめとする家事仕事の在り方も段々と変化していく。その変化の過程をどのように眺めるか。鈴木の指摘は、現場の生臭い理屈であるが、機械化・技術の転換を村の外から要請されつつある今のKheladangaにおいて、その変化の姿はただ一つの像に結ばれるわけではないという可能性を示唆してくれているようにも思えるのである。
(*1 鈴木博之「近代が装飾を生むとき-建築史の視点から」『建築 未来への遺産』、東京大学出版会、2017年6月。(初出:『広告』1982年11・12月号))
巨大穀物貯蔵庫モライのスケッチ(佐藤研吾)
(さとう けんご)
■佐藤研吾(さとう けんご)
1989年神奈川県横浜生まれ。2011年東京大学工学部建築学科卒業。2013年早稲田大学大学院建築学専攻修士課程(石山修武研究室)修了。同専攻嘱託研究員を経て、2014年よりスタジオGAYA。2015年よりインドのVadodara Design AcademyのAssistant Professor、および東京大学工学系研究科建築学専攻博士課程在籍。福島・大玉村で藍染の活動をする「歓藍社」所属。インドでデザインワークショップ「In-Field Studio」を主宰。
●今日のお勧め作品は、関根伸夫です。
関根伸夫
「月の雨」
1988年
金箔、キャンバス
45.5x38.0cm
裏面にサインあり
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佐藤研吾のエッセイ「大地について―インドから建築を考える―」は毎月7日の更新です。
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藤本貴子のエッセイ「建築圏外通信」は毎月22日の更新です。
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第7回 インドの先住民Santal-Kleladangaの人々の家づくりについて-その2
Kheladanga村の家々の庭はどれも広く、村人らの生活に欠かせない場所になっている。ある家の庭について思い出してみる。2メートルほどの高さの土の壁で囲まれていて、村の中央を抜ける一本の道に面する扉と、村の外の森か田畑に面した勝手口の二つがついている。扉はそれぞれ木の板とトタン板でできている。トタン板でできた扉はよく見たら大きな缶詰めの一部も継ぎ接ぎされていてその造形力に思わず感服してしまう。庭に面する壁には農機具や料理道具、鏡や歯ブラシなど大小さまざまな生活の道具が吊り下がっている。村の共用井戸から汲んできた水を貯めておく甕が庭の隅に置いてあり、その横には小さな祠が祀られている。祠は植木鉢のように台座の上から細い木が植えられている。庭の地面は固く艶やかで、ゴミはほとんど落ちていない。家の人が泥や灰汁を薄く塗って丁寧に掃除しているからである(第5回投稿を参照)。庭にはしばしば藁や漆喰でできた巨大な穀物貯蔵庫がボンッと置かれている(モライと呼ばれていた)。貯蔵庫は湿気や虫から守るために足元には丸太が敷かれて浮き、上に行くほど外側に傾いた逆円錐の形をしていて、ネズミが登ってくるのを防いでいる。貯蔵庫の横には竹で編まれた、座ったり寝たりするのにちょうどよさそうな簡易なベッドが置かれており、おばあさんがゴロリとくつろいでいる。屋根は無いが、その庭は彼らの生活の中心になっているようであった。そして食事の準備も彼らは庭の中でやる。地面を掘ってできた小さな火山のようなものがある。それが炊事のための竃(かまど)である。他の家の庭では2、3個も竃が点在してあったり、庭のど真ん中にあったりもする。この竃は横穴から枯葉や木枝を焼べて上の噴火口のような穴に鍋を載せて使う。様々な大きさの鍋を使い分けているようだった。鍋は底が丸くなっており穴に載せやすくなっている。
Kheladanga村の村長の庭。大鍋用の竃と小鍋用の竃が真ん中に並んでいる。住居において、炉や炊事場がどこに位置しているかは最も興味深く、またその住居での生活様式を如実に表現し得る本質的な主題である。残念ながら、筆者はインドの事情に首を突っ込んではいるものの、インドの住居史にあまり詳しくないので、気候と風土は違うが日本の炊事場に少し脱線してみる。
日本の民家の変遷は、古くは竪穴式住居あたりから始まる土間だけがあった室内に、床が敷かれ、空間が仕切られていく(=間取り)プロセスとして見ることができる。祭祀に関係の深い、南方由来の高床式住居の形式も村の長の住居などでは見られたようだが、気候的に火を住居内に取り込まなければならなかった日本の住居は土間を基軸に考えるべきだろう。土間は外へ出入りができる生業の作業場所であり、火や水を使う炊事場であった。床が敷かれ広間ができると、採暖や家族の団欒のための、そしてしばしば炊事にも用いられる囲炉裏が大黒柱近くの床に切られるようになり、囲炉裏は土間からも容易に使うことができる広間と土間の境界の位置にあった。
Kheladanga村が位置するインド・西ベンガルの地域は高温湿潤の気候で一年を通して火を使った採暖は必要がなく、むしろ室内の温度は常に下げておきたい。なので庭に付属してある、寝起きをするための家屋の外に炊事場があるのは当然である。けれども、庭を含めた周囲の土壁までの空間を一つの民家として眺めれば、まるで見えない大屋根が架けられたような、日本の農村民家と同じ姿が見えてくる。「庭」と今まで呼んできた外部空間はむしろ「土間」と呼び直すべきかもしれない。(逆に土間の空間を「ニワ」と呼ぶ地域も日本にある。)家の内と外という境界の概念は、気候、大地の環境によって応変させなければ、その場所固有の生活の内実を取りこぼしかねないようである。
隣の住居での調理の様子。壁には様々な道具が掛けられている。前述の通り上に屋根はない。
調理中の炊事場。真ん中にあるのは包丁で、刃物は下の板に据え付けられ、切る食材を手前から手で押しあてて刻む。横の枯葉は火元の燃料。家族生活の分業でいえば、日本もインドも炊事は専ら主婦の仕事である。日本のある地域では、主婦でなければ鍋ぶたに手を触れることができないという慣習すらあったとされる。Kheladanga村の男性たちは昼間は町に出かけ、村には女性と子供しか残っておらず、料理を作ったり、掃除をしたりと、それぞれ家の仕事をしていた。
イヴァン・イリイチは、そうした家庭生活を支え維持するための仕事が、近代においては資本主義という生産論理に支配された社会の中で無報酬労働、”シャドーワーク”として貶められていることを嘆いた。近代以降、賃労働に対して、家事仕事は抑圧されるべきものとされ、産業が生み出した商品を貨幣で購入し、省力化することが推奨されていく。
一方、建築史家・鈴木博之は現代社会で装飾が生み出される契機を紐解く中で、機能主義が貫徹する生産の論理とは異なる理屈を孕んだ、台所の近代化について興味深い言及をしている。
「農民の主婦は、野良仕事が重労働であった時代には、台所が近代化されることを嫌がって、昔ながらの台所で火吹き竹を吹いているほうを望みました。その時間、休息なるからですね。台所だけ近代化すれば、その分野良に駆り出されるわけです。野良仕事が機械化されてから、はじめて台所も近代化されました。」(*1)
この指摘は、インドのKheladanga村の中で出会った、昼間の静かに子供たちとくつろぐ女性たちの姿にも通じるものもあるのではないか。前回の投稿では、土木インフラ事業がもたらす村の風景の移り変わりについて書いたが、近い将来、炊事をはじめとする家事仕事の在り方も段々と変化していく。その変化の過程をどのように眺めるか。鈴木の指摘は、現場の生臭い理屈であるが、機械化・技術の転換を村の外から要請されつつある今のKheladangaにおいて、その変化の姿はただ一つの像に結ばれるわけではないという可能性を示唆してくれているようにも思えるのである。
(*1 鈴木博之「近代が装飾を生むとき-建築史の視点から」『建築 未来への遺産』、東京大学出版会、2017年6月。(初出:『広告』1982年11・12月号))
巨大穀物貯蔵庫モライのスケッチ(佐藤研吾)(さとう けんご)
■佐藤研吾(さとう けんご)
1989年神奈川県横浜生まれ。2011年東京大学工学部建築学科卒業。2013年早稲田大学大学院建築学専攻修士課程(石山修武研究室)修了。同専攻嘱託研究員を経て、2014年よりスタジオGAYA。2015年よりインドのVadodara Design AcademyのAssistant Professor、および東京大学工学系研究科建築学専攻博士課程在籍。福島・大玉村で藍染の活動をする「歓藍社」所属。インドでデザインワークショップ「In-Field Studio」を主宰。
●今日のお勧め作品は、関根伸夫です。
関根伸夫「月の雨」
1988年
金箔、キャンバス
45.5x38.0cm
裏面にサインあり
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