中村茉貴「美術館に瑛九を観に行く」第21回
富岡市立美術博物館
平成29年度 常設展示
「昭和の前衛―日本のシュルレアリスムと作家たち―」
今回の訪問先は、富岡市立美術博物館・福沢一郎記念美術館。その名称のとおり、美術館・博物館・記念館の機能が融合した複合施設である。また、道を挟んだ斜め向かいには、県立自然史博物館もあり、まさに知の集積地となっている場所である。今回は有難いことに、肥留川裕子学芸員から画廊宛に瑛九の作品を展示しているというお知らせを受けて、取材することが叶った。
一面灰色の空から出現したかのような雲形の屋根を持つ建物。聞くところによると、富岡の山(建物のある地形)から着想を得て設計されたという。特徴的な建物であることから、建築を学ぶ学生たちが見学に訪れることもある。設計は、東京都現代美術館の設計も手掛けた建築家柳澤孝彦(1935-2017)である。
入口に続く回廊を歩いていると、来館者を観察するような視線を注ぐ女性像がある。見慣れない者を見て「あら、遠いところよく来たね」と声を掛けてきそうな表情を浮かべている。こちらは、掛井五郎《母》(1991)の作品である。
2階ロビーには、開けた休憩スペースが広がっている。天候や季節によって刻一刻と変わる空をガラス越しに望むことが出来る。ここには、コーヒーメーカーも設置されており、展示を観て疲れた身体に嬉しいセルフ式の挽きたてコーヒーを楽しめるサービスもある。この他に館内は、1階に市民ギャラリー、ミュージアムショップ、図書室を配し、2階には、郷土資料展示室、企画展示室、常設展示室、福沢展示室1~3があり、各展示物にあったスペースを備えている。
展示室入口。本展の開催動機ともいえる、郷土作家の福沢一郎(1898-1992)の存在は大きく、福沢と同世代の画家に着目し、特に1920年代後半から30年代後半にかけての作品に見受けられたシュルレアリスムの表現に注目している。
展覧会の冒頭では、以下のような紹介がなされている。「本展では、当館の収蔵作品から戦前~戦後にかけて活動し、シュルレアリスムの影響を受けた作家たちとその作品をご紹介します。彼らは昭和という激動の時代の中で、シュルレアリスムを通して何を描き出そうとしたのでしょうか。彼らの作品を通して、昭和期に花開いた日本の前衛絵画の一端に触れていただければと思います」
肥留川学芸員は、日本人画家によるシュルレアリスムの作品を積極的に公開することで、西洋の「シュルレアリスム」についての理解度ではなく、一人一人の作品の特徴を浮き彫りにしていきたいと語り、一点一点の作品について解説していただいた。
右側の120号の大きな油彩は古沢岩美(2012-2000)の作品。戦後に再制作された作品である。古沢は福沢一郎等と共に1939年に立ち上げた美術文化協会の同人である。
左側2点は築比地正司(1910-2007)の作品。彼は群馬県邑楽郡出身で、中学卒業後に上京し、川端画学校を経て1929年東京美術学校に入学した人物である。1938年から約2年間福沢絵画研究所に通っていた。展示中の戦前の作品は、アカデミックでありながらも、シュルレアリスムのような異空間を演出していることから、福沢一郎の影響が考えられる例である。戦後は、農民の生活風景を描いたことから、地元では「群馬のミレー」と称されているという。
右から早瀬龍江(1905-1991)、杉全直(1914-1994)、白木正一(1912-1995)の作品が並ぶ。彼らは福沢絵画研究所に通っていた画家として紹介している。
杉全直は、東京美術学校在学中に所属していたグループ「貌」で、福沢一郎を招いた研究会を開くほど、早くから福沢に傾倒していたようである。1942年制作の《土塊》はシュルレアリスムに興味を持っていた当時の作品である。
こちらは、早瀬龍江と白木正一の作品である。2人は、福沢絵画研究所に通っていた当時に意気投合し、夫婦になった。1958年からはニューヨークに住み、制作活動を展開し、帰国した1989年以降は埼玉県飯能に住み、画廊や美術館で作品を発表した。彼らが夫婦になる前後や渡米する前後の表現の違いにそれぞれ注目して欲しいと肥留川学芸員は語る。特に早瀬の《戯れ》は、それ以前のヒエロニムス・ボス風の奇怪な空想上の生きものを描いていた《楽園》《水の中》の頃とは違い、自己の内面をえぐり出した「自画像」を描き、内向的な視点を外に向かわせようとする試みが見えてくる。
画像は、瑛九の作品《曲乗り》(1955-56年、油彩・カンヴァス、60.5×73.0)および《母》(1953年[1974年刷]エッチング・紙、29.3×24.0)である。《曲乗り》の大きな車輪の下には、「Q.Ei 55-6」という書込みがある。
前者のタイトルである《曲乗り》は、自転車にまたがり曲芸を披露する人物と考えられ、回転する車輪を象徴するような同心円が背景に描かれ、サーカスの高揚感が色彩で以て表現されている。多くのシュルレアリストにとって、サーカスは格好の題材として取り入れられていたが、具体的に新聞やサーカス史を調べてみると、戦前から戦後に掛けて様々なサーカス団が技を競い合っていた時期と重なっていることが分かる。ただの想像や模倣ではなく、実際に実物を見てからイメージを変容していった可能性も否定できないのである。大正2年頃には、自転車がサーカスの演目に加えられていることが、新聞などから辿ることができ、特に「日本アームストロング」という団体は、海外遠征をするほど躍進を遂げていたことが先行研究で明らかになっており、自転車5人曲乗りや一輪車の曲乗りが披露されていた(阿久根巌「木下サーカス草創期の記録を探す」『木下サーカス生誕100年史』2002年)。また、作品が制作された前年1954年については、木下サーカス団が丸テントを設置する興行スタイルをはじめた年であり、一般層も気軽にサーカスを観覧できるようになったと考えられ、新聞などではサーカスに関するニュースが度々報じられた。
参考資料:「日本アームストロング一行木下巡業隊」絵葉書より
なお、瑛九にかんしては、サーカス団員の姿を捉えようとしただけではなく、都夫人の自転車を乗る姿も重ねているともいえないだろうか。というのは、都夫人によるとさいたま市(旧浦和市)にアトリエを構えた1950年代、彼女はよく自転車に乗って野菜を買いに出かけていたのである。特に自転車に乗ることが出来なかった瑛九は、都夫人の自転車を乗りこなす姿を見るうちに、いつしかサーカス団員のイメージを思い浮かべていたとも考えられる。肥留川学芸員による解説パネルでは、「特定のジャンルや表現、イムズに囚われることなく、常に真摯に己の真実を求め続けたその制作態度は、日本のシュルレアリスムの流れの中でもとりわけ異彩を放っていると言えるでしょう」と、瑛九を評価している。確かに瑛九は当時の「イムズ」を学びながらも、自己の身の回りの物事や表現材料をよく見てから作品を制作するため、オリジナリティに溢れている。おそらく、《曲乗り》についても、どこかで見た経験がかたちとなった可能性は十分に考えられる。
画像は、2011年に行われた展覧会『生誕100年記念 瑛九展』(宮崎県立美術館、埼玉県立美術館、うらわ美術館)の図録に掲載されている自転車やサーカスに着想を得た作品群である。
※ No.6-46《自転車にのる女》、No.6-47《(題不明)》、No.6-48《自転車》、No.6-49《自転車のり》、No.6-50《サーカス》
ちなみに、福沢と瑛九の接点は認められないが、読書家である瑛九はアトリエ社発行の福沢一郎著『シュールレアリズム 超現実主義:近代美術思潮講座』(4巻)を手にとっていたはずである。また、山田光春による評伝でも触れられているように、瀧口・福沢の逮捕の一件は前衛芸術界に大きな波紋を呼んだ。当時は、美術家グループ(団体)を作って、作品展示をするのに共産主義の大会として活動をした方が、物事が上手く運んだようであり、瑛九については、1946年日本共産党に入党し、「新宮崎美術協会」を創立、展示を終えるとすぐに離党している。1936年フォト・デッサンを発表した瑛九は、いよいよ大きく羽ばたこうと空を仰いだ途端に、「戦争」という暗雲が立ち込めて視界が遮られてしまった。戦時下の瑛九は、やはり思うように活動が出来なかったようで、鬱積した気持ちを抱えたまま疎開地や友人宅を転々とし、身を隠すような生活を送っていたのである。
***
ちょっと寄道…
福沢一郎記念美術館は同じ建物内にあり、「特集展示 福沢一郎と『本』」と「福沢一郎 物語を描く」が開催されていた。画像は、覘きケースに福沢一郎が手掛けた装丁の図書や雑誌類が展示されている風景である。福沢一郎は富岡市出身であり、1991年93歳にして文化勲章を受章するなど、生前から評価が高かった。そのため、福沢一郎の画業を顕彰し、未来へと作品を引き継ぐ方法として、美術館博物館建設の構想中に個人記念館も設置された。このような複合施設は、今ではそれほど珍しくない空間設計ではあるが、開館した1995年においては画期的な試みであった。創立から20年以上経った今では、認知度も高まり、福沢一郎の作品に関する相談を受けるようになったという。個人の美術館として、アトリエを改装した「私立」が多い中で、「公立」の施設は、長期的な作品の維持管理を考える上では理想的といえる。
こちらは、福沢一郎のアトリエを再現した展示スペースである。戦前から使用されてたイーゼルには、あちこち油絵が付着している。後方の昇降台は、大型の作品制作の時に使用していたようだ。隣には、1992年の絶筆とされる作品が置かれている。
なお、福沢一郎が1898-1992年に使用したアトリエとして、世田谷に今も現存しており、1994年には「福沢一郎記念館」として開館している。さらに、現在は八王子市夢美術館で行われている展覧会「昭和の洋画を切り拓いた若き情熱 1930年協会から独立へ」でも福沢一郎の作品《骨董店》と《寡婦と誘惑》が展示されている。
2014年世界遺産に登録された旧富岡製糸場にも足を運んだ。こちらは、表玄関にもなっている「東置繭所」である。現在は、主に展示室として利用されているところである。富岡市では、製糸場を含む関連施設を回遊するバスが走り、観光客向けの店舗が少しずつ増えているようであった。あいにくこの日は雨であったが、赤煉瓦の建物と赤いサルビアの鮮やかさに目を見張った。
東置繭所2階の内部。この場所には、チョークで書いたような落書きがある。現地に訪れた際は探して欲しい。
製糸場の浮世絵が制作されている。20名ばかりの女性が横並びでフランス式の機械を操る様は、たいへん珍しい光景であったと思う。女性の表情や顔の向きはバラバラであることから、隣の人と会話をしたり、仕事ぶりを見に来た男性の事を噂したりしているのかもしれない。
一曜斎国輝《上州富岡製紙場之図》明治5年(1872)頃(富岡市立美術博物館編「錦絵にみる器械製糸―美術博物館の収蔵品から」より)
フランス式繰糸器(復元)の展示と実演の様子。繭をお湯で煮てほぐれた一本の糸口を見つけ出し、機械で巻き取っているところである。繊細で髪の毛よりも細い糸を扱うため、女性の小さい手の方が向いていたのだろう。
巻き取りが終わりそうな繭があると、素早く別の繭の糸を絡ませている。
グレーの巨大な円盤は、UFOではなく鉄製の水槽である。明治8年頃に設置され、その貯水量はおよそ400tにもなる。奥には長い煙突があり、これらで先に紹介したように生糸を巻き取る際のお湯を沸かすために使用されていた。
こちらは、西置繭所の保存修理を見学できる施設である。ヘルメットを借りて、内部に入ることができる。私が見学したときは、素屋根の解体中であった。修理の様子は、行く時期によって変わるようである。滅多に見ることのできない特別な瞬間をぜひとも見学していただきたい。
最後にひとこと書き添えておきたいことがある。富岡製糸場という世界遺産を抱えるようになったことで、同市内にある美術館への来場者は増加したのではないかと、私は想像していたが、どうやらあまり変化はないようであった。理由は、同市であっても製糸場からは距離があり、「車」でしか来られないのである。製糸場の見学者は、どのみち知の集積地である同館にも関心が繋がっているはずであり、製糸場の周辺を回るバスが美術館の方へも行通ってくれたら、かなり行き易くなるのではないかと思う。
(なかむら まき)
●展覧会のご案内
平成29年度 常設展示
「昭和の前衛―日本のシュルレアリスムと作家たち―」
会期:2017年9月9日[土]~11月30日[木]
会場:富岡市立美術博物館・福沢一郎記念美術館
休館:月曜日(祝日・振替休日にあたる場合はその翌日)
時間:9:30~17:00(入館は16:30まで)
●中村茉貴のエッセイ「美術館に瑛九を観に行く」は随時更新します。
●今日のお勧め作品は、瑛九です。
瑛九《風景》
板に油彩
23.7×33.0cm(F4)
サインあり
こちらの作品の見積り請求、在庫確認はこちらから
※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください。
*画廊亭主敬白
11日のブログにメキシコ地震被災地支援・チャリティー頒布会出品全100点のリストを掲載した直後から多くの参加の申し込みをいただきました。皆様の暖かなお気持ちに感謝するばかりです。しかし無情にも今度はイラン・イラク国境地帯でM7.3という大地震が襲い、多くの死傷者が出ているようです。少しでも被害が食い止められることを祈らずにはおられません。
●ときの忘れものは、〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS に移転しました(詳しくは6月5日及び6月16日のブログ参照)。
電話番号と営業時間が変わりました。
TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531
営業時間=火曜~土曜の平日11時~18時。日・月・祝日は休廊。
JR及び南北線の駒込駅南口から約8分です。

富岡市立美術博物館
平成29年度 常設展示
「昭和の前衛―日本のシュルレアリスムと作家たち―」
今回の訪問先は、富岡市立美術博物館・福沢一郎記念美術館。その名称のとおり、美術館・博物館・記念館の機能が融合した複合施設である。また、道を挟んだ斜め向かいには、県立自然史博物館もあり、まさに知の集積地となっている場所である。今回は有難いことに、肥留川裕子学芸員から画廊宛に瑛九の作品を展示しているというお知らせを受けて、取材することが叶った。
一面灰色の空から出現したかのような雲形の屋根を持つ建物。聞くところによると、富岡の山(建物のある地形)から着想を得て設計されたという。特徴的な建物であることから、建築を学ぶ学生たちが見学に訪れることもある。設計は、東京都現代美術館の設計も手掛けた建築家柳澤孝彦(1935-2017)である。
入口に続く回廊を歩いていると、来館者を観察するような視線を注ぐ女性像がある。見慣れない者を見て「あら、遠いところよく来たね」と声を掛けてきそうな表情を浮かべている。こちらは、掛井五郎《母》(1991)の作品である。
2階ロビーには、開けた休憩スペースが広がっている。天候や季節によって刻一刻と変わる空をガラス越しに望むことが出来る。ここには、コーヒーメーカーも設置されており、展示を観て疲れた身体に嬉しいセルフ式の挽きたてコーヒーを楽しめるサービスもある。この他に館内は、1階に市民ギャラリー、ミュージアムショップ、図書室を配し、2階には、郷土資料展示室、企画展示室、常設展示室、福沢展示室1~3があり、各展示物にあったスペースを備えている。
展示室入口。本展の開催動機ともいえる、郷土作家の福沢一郎(1898-1992)の存在は大きく、福沢と同世代の画家に着目し、特に1920年代後半から30年代後半にかけての作品に見受けられたシュルレアリスムの表現に注目している。展覧会の冒頭では、以下のような紹介がなされている。「本展では、当館の収蔵作品から戦前~戦後にかけて活動し、シュルレアリスムの影響を受けた作家たちとその作品をご紹介します。彼らは昭和という激動の時代の中で、シュルレアリスムを通して何を描き出そうとしたのでしょうか。彼らの作品を通して、昭和期に花開いた日本の前衛絵画の一端に触れていただければと思います」
肥留川学芸員は、日本人画家によるシュルレアリスムの作品を積極的に公開することで、西洋の「シュルレアリスム」についての理解度ではなく、一人一人の作品の特徴を浮き彫りにしていきたいと語り、一点一点の作品について解説していただいた。
右側の120号の大きな油彩は古沢岩美(2012-2000)の作品。戦後に再制作された作品である。古沢は福沢一郎等と共に1939年に立ち上げた美術文化協会の同人である。左側2点は築比地正司(1910-2007)の作品。彼は群馬県邑楽郡出身で、中学卒業後に上京し、川端画学校を経て1929年東京美術学校に入学した人物である。1938年から約2年間福沢絵画研究所に通っていた。展示中の戦前の作品は、アカデミックでありながらも、シュルレアリスムのような異空間を演出していることから、福沢一郎の影響が考えられる例である。戦後は、農民の生活風景を描いたことから、地元では「群馬のミレー」と称されているという。
右から早瀬龍江(1905-1991)、杉全直(1914-1994)、白木正一(1912-1995)の作品が並ぶ。彼らは福沢絵画研究所に通っていた画家として紹介している。杉全直は、東京美術学校在学中に所属していたグループ「貌」で、福沢一郎を招いた研究会を開くほど、早くから福沢に傾倒していたようである。1942年制作の《土塊》はシュルレアリスムに興味を持っていた当時の作品である。
こちらは、早瀬龍江と白木正一の作品である。2人は、福沢絵画研究所に通っていた当時に意気投合し、夫婦になった。1958年からはニューヨークに住み、制作活動を展開し、帰国した1989年以降は埼玉県飯能に住み、画廊や美術館で作品を発表した。彼らが夫婦になる前後や渡米する前後の表現の違いにそれぞれ注目して欲しいと肥留川学芸員は語る。特に早瀬の《戯れ》は、それ以前のヒエロニムス・ボス風の奇怪な空想上の生きものを描いていた《楽園》《水の中》の頃とは違い、自己の内面をえぐり出した「自画像」を描き、内向的な視点を外に向かわせようとする試みが見えてくる。
画像は、瑛九の作品《曲乗り》(1955-56年、油彩・カンヴァス、60.5×73.0)および《母》(1953年[1974年刷]エッチング・紙、29.3×24.0)である。《曲乗り》の大きな車輪の下には、「Q.Ei 55-6」という書込みがある。前者のタイトルである《曲乗り》は、自転車にまたがり曲芸を披露する人物と考えられ、回転する車輪を象徴するような同心円が背景に描かれ、サーカスの高揚感が色彩で以て表現されている。多くのシュルレアリストにとって、サーカスは格好の題材として取り入れられていたが、具体的に新聞やサーカス史を調べてみると、戦前から戦後に掛けて様々なサーカス団が技を競い合っていた時期と重なっていることが分かる。ただの想像や模倣ではなく、実際に実物を見てからイメージを変容していった可能性も否定できないのである。大正2年頃には、自転車がサーカスの演目に加えられていることが、新聞などから辿ることができ、特に「日本アームストロング」という団体は、海外遠征をするほど躍進を遂げていたことが先行研究で明らかになっており、自転車5人曲乗りや一輪車の曲乗りが披露されていた(阿久根巌「木下サーカス草創期の記録を探す」『木下サーカス生誕100年史』2002年)。また、作品が制作された前年1954年については、木下サーカス団が丸テントを設置する興行スタイルをはじめた年であり、一般層も気軽にサーカスを観覧できるようになったと考えられ、新聞などではサーカスに関するニュースが度々報じられた。
参考資料:「日本アームストロング一行木下巡業隊」絵葉書よりなお、瑛九にかんしては、サーカス団員の姿を捉えようとしただけではなく、都夫人の自転車を乗る姿も重ねているともいえないだろうか。というのは、都夫人によるとさいたま市(旧浦和市)にアトリエを構えた1950年代、彼女はよく自転車に乗って野菜を買いに出かけていたのである。特に自転車に乗ることが出来なかった瑛九は、都夫人の自転車を乗りこなす姿を見るうちに、いつしかサーカス団員のイメージを思い浮かべていたとも考えられる。肥留川学芸員による解説パネルでは、「特定のジャンルや表現、イムズに囚われることなく、常に真摯に己の真実を求め続けたその制作態度は、日本のシュルレアリスムの流れの中でもとりわけ異彩を放っていると言えるでしょう」と、瑛九を評価している。確かに瑛九は当時の「イムズ」を学びながらも、自己の身の回りの物事や表現材料をよく見てから作品を制作するため、オリジナリティに溢れている。おそらく、《曲乗り》についても、どこかで見た経験がかたちとなった可能性は十分に考えられる。
画像は、2011年に行われた展覧会『生誕100年記念 瑛九展』(宮崎県立美術館、埼玉県立美術館、うらわ美術館)の図録に掲載されている自転車やサーカスに着想を得た作品群である。※ No.6-46《自転車にのる女》、No.6-47《(題不明)》、No.6-48《自転車》、No.6-49《自転車のり》、No.6-50《サーカス》
ちなみに、福沢と瑛九の接点は認められないが、読書家である瑛九はアトリエ社発行の福沢一郎著『シュールレアリズム 超現実主義:近代美術思潮講座』(4巻)を手にとっていたはずである。また、山田光春による評伝でも触れられているように、瀧口・福沢の逮捕の一件は前衛芸術界に大きな波紋を呼んだ。当時は、美術家グループ(団体)を作って、作品展示をするのに共産主義の大会として活動をした方が、物事が上手く運んだようであり、瑛九については、1946年日本共産党に入党し、「新宮崎美術協会」を創立、展示を終えるとすぐに離党している。1936年フォト・デッサンを発表した瑛九は、いよいよ大きく羽ばたこうと空を仰いだ途端に、「戦争」という暗雲が立ち込めて視界が遮られてしまった。戦時下の瑛九は、やはり思うように活動が出来なかったようで、鬱積した気持ちを抱えたまま疎開地や友人宅を転々とし、身を隠すような生活を送っていたのである。
***
ちょっと寄道…
福沢一郎記念美術館は同じ建物内にあり、「特集展示 福沢一郎と『本』」と「福沢一郎 物語を描く」が開催されていた。画像は、覘きケースに福沢一郎が手掛けた装丁の図書や雑誌類が展示されている風景である。福沢一郎は富岡市出身であり、1991年93歳にして文化勲章を受章するなど、生前から評価が高かった。そのため、福沢一郎の画業を顕彰し、未来へと作品を引き継ぐ方法として、美術館博物館建設の構想中に個人記念館も設置された。このような複合施設は、今ではそれほど珍しくない空間設計ではあるが、開館した1995年においては画期的な試みであった。創立から20年以上経った今では、認知度も高まり、福沢一郎の作品に関する相談を受けるようになったという。個人の美術館として、アトリエを改装した「私立」が多い中で、「公立」の施設は、長期的な作品の維持管理を考える上では理想的といえる。
こちらは、福沢一郎のアトリエを再現した展示スペースである。戦前から使用されてたイーゼルには、あちこち油絵が付着している。後方の昇降台は、大型の作品制作の時に使用していたようだ。隣には、1992年の絶筆とされる作品が置かれている。なお、福沢一郎が1898-1992年に使用したアトリエとして、世田谷に今も現存しており、1994年には「福沢一郎記念館」として開館している。さらに、現在は八王子市夢美術館で行われている展覧会「昭和の洋画を切り拓いた若き情熱 1930年協会から独立へ」でも福沢一郎の作品《骨董店》と《寡婦と誘惑》が展示されている。
2014年世界遺産に登録された旧富岡製糸場にも足を運んだ。こちらは、表玄関にもなっている「東置繭所」である。現在は、主に展示室として利用されているところである。富岡市では、製糸場を含む関連施設を回遊するバスが走り、観光客向けの店舗が少しずつ増えているようであった。あいにくこの日は雨であったが、赤煉瓦の建物と赤いサルビアの鮮やかさに目を見張った。
東置繭所2階の内部。この場所には、チョークで書いたような落書きがある。現地に訪れた際は探して欲しい。
製糸場の浮世絵が制作されている。20名ばかりの女性が横並びでフランス式の機械を操る様は、たいへん珍しい光景であったと思う。女性の表情や顔の向きはバラバラであることから、隣の人と会話をしたり、仕事ぶりを見に来た男性の事を噂したりしているのかもしれない。一曜斎国輝《上州富岡製紙場之図》明治5年(1872)頃(富岡市立美術博物館編「錦絵にみる器械製糸―美術博物館の収蔵品から」より)
フランス式繰糸器(復元)の展示と実演の様子。繭をお湯で煮てほぐれた一本の糸口を見つけ出し、機械で巻き取っているところである。繊細で髪の毛よりも細い糸を扱うため、女性の小さい手の方が向いていたのだろう。
巻き取りが終わりそうな繭があると、素早く別の繭の糸を絡ませている。
グレーの巨大な円盤は、UFOではなく鉄製の水槽である。明治8年頃に設置され、その貯水量はおよそ400tにもなる。奥には長い煙突があり、これらで先に紹介したように生糸を巻き取る際のお湯を沸かすために使用されていた。
こちらは、西置繭所の保存修理を見学できる施設である。ヘルメットを借りて、内部に入ることができる。私が見学したときは、素屋根の解体中であった。修理の様子は、行く時期によって変わるようである。滅多に見ることのできない特別な瞬間をぜひとも見学していただきたい。最後にひとこと書き添えておきたいことがある。富岡製糸場という世界遺産を抱えるようになったことで、同市内にある美術館への来場者は増加したのではないかと、私は想像していたが、どうやらあまり変化はないようであった。理由は、同市であっても製糸場からは距離があり、「車」でしか来られないのである。製糸場の見学者は、どのみち知の集積地である同館にも関心が繋がっているはずであり、製糸場の周辺を回るバスが美術館の方へも行通ってくれたら、かなり行き易くなるのではないかと思う。
(なかむら まき)
●展覧会のご案内
平成29年度 常設展示
「昭和の前衛―日本のシュルレアリスムと作家たち―」
会期:2017年9月9日[土]~11月30日[木]
会場:富岡市立美術博物館・福沢一郎記念美術館
休館:月曜日(祝日・振替休日にあたる場合はその翌日)
時間:9:30~17:00(入館は16:30まで)
●中村茉貴のエッセイ「美術館に瑛九を観に行く」は随時更新します。
●今日のお勧め作品は、瑛九です。
瑛九《風景》板に油彩
23.7×33.0cm(F4)
サインあり
こちらの作品の見積り請求、在庫確認はこちらから
※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください。
*画廊亭主敬白
11日のブログにメキシコ地震被災地支援・チャリティー頒布会出品全100点のリストを掲載した直後から多くの参加の申し込みをいただきました。皆様の暖かなお気持ちに感謝するばかりです。しかし無情にも今度はイラン・イラク国境地帯でM7.3という大地震が襲い、多くの死傷者が出ているようです。少しでも被害が食い止められることを祈らずにはおられません。
●ときの忘れものは、〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS に移転しました(詳しくは6月5日及び6月16日のブログ参照)。
電話番号と営業時間が変わりました。
TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531
営業時間=火曜~土曜の平日11時~18時。日・月・祝日は休廊。
JR及び南北線の駒込駅南口から約8分です。

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