「建築家の手の在り処」

植田実

(2000年3月31日刊行の版画掌誌『ときの忘れもの』第2号より再録)

 昨年の暮れ、磯崎新さんが一週間ほどインドに行ってきたときのスケッチブックを見せてもらった。
 シンガポールからボンベイ(ムンバイ)に入った最初のころは、スケッチも文章もほんのメモていどだが、そこからインドールを経てのウダイプールでは早くも旅の時間に身体が合ってきたみたいで、ピチョーラ湖に面したシティパレスの構成的な正面ファサードをとらえる筆致が鋭くなり、一方、湖中のレイクパレスホテルを眺める眼はすっかりくつろいでいる。
 さらにはジャイプールへ。70もの出窓が珊瑚のように密生して表通りの赤砂岩のファサードをつくりあげている「風の宮殿(ハワ・マハル)」を見ているころから、筆ペンによるスケッチに色が注がれはじめる。そのすぐ近くにある天文観測所ジャンタル・マンタルの構内に入ると、磯崎さんはもう腰を据えてしまう。石造りの建築的スケールに近い観測儀群は18世紀に建造されたが、磯崎さんの筆致はそれらをつい最近竣工した現代建築のように見せている。付けられたメモには、先のウダイプールではムガール風のデザインから英国風のコロニアル、インドールではアールデコが通過しているが、ジャイプールは、ジャンタル・マンタルを建てた「サワイ・ジャイ・シング二世にすべてもどる」と書かれている。磯崎さんの蒼古にして超現代のものとも思えてくるスケッチを見ていると、ジャイプールだけでなく世界の都市全体が、そこに戻っていく気持ちにさえなってくる。
 スケッチブックのページを追っていくと、観測儀が20以上も集まっているこの造形物の楽園から10キロほど先の、案ベール城塞の眺めをパノラマ風にスケッチしたあと、再度ジャンタル・マンタルに戻ってまた、一カットだけだが描いている。カメラを携えての足どりとはちがうのだ。建築を見る時間が変化してきている。
 翌日には、アグラへ、そこからいよいよ南西40キロにあるファテプール・シクリに向かっている。この16世紀における束の間の都市の凄さについては、磯崎さんから何度もきかされていた。メモにはこう書かれている。「ファテプール・シクリ再訪。再訪に価する唯一の場所である」。アクロポリスと桂離宮とこれがベスト・スリーと書かれてもいる。すでにただの旅のスケッチではない。建築を描いているのではない。空と広場が熱気をはらんでいる。その熱が赤い五層楼や内謁殿を蜃気楼のように現出させている。たしかに無敵の建築。再開したよろこびの吐息が伝わってくるようなどっしりとした色彩の塊と、それを建築に変えていく、じつに微妙で素早いペンの黒い描線。この地平からは磯崎新自身の建築まで次々と現れてくるかのようだ。
 数ページにわたって描かれた熱い空気は、アグラ市内に戻った翌早朝、これも再訪したタージマハールの屋根の、白い大理石の「大球面」が、ヤムブー河に立ちこめた朝もやから浮き出てくるスケッチにつなげられて、やっと冷えていく気配がある。同じ川ぞいに並ぶ、貝の形状をしたプランの、アグラ城塞の長大で分厚い壁(メモに「レッド・フォートは赤砂岩と影だけ」)を眼でたどりながら、また城内の中庭と白大理石のパラスを訪ねながら、視界は外にまで開いている。遠くには動かない支点のように、タージマハールが見えている。
 そして最終日はニューデリーからドーハへと書かれているが、そこから帰国したのか、それとも次に予定があってヨーロッパにでも飛んだのかはわからない。なにしろただ一冊のスケッチブックから磯崎さんの足どりを追っている。しかもこちらはインドに行ったことがない。もしトンチンカンな間違いがあるとしたら、それは私のせいである。
 たとえば最近の磯崎さんは、暑い国を旅するときはどんな服装をしているのだろうかと思う。そんなことさえまるで見当がつかないまま、スケッチとメモだけから一週間の旅を読みとろうと している。
 30年ほどまえに夏のヨーロッパとギリシャに御一緒したことがある。とくにギリシャでの磯崎さんが印象的だったのだが、ウィー ンからアテネに入ったころから俄然マイペースになってきた。それでもパルテノンの丘にのぼったときは青い半袖シャツにカメラバッグという、まあ普通の出で立ちだった。じつに長いあいだ、神殿の前に坐って動かなかった(翌日もまたパルテノ ンに一日行っていたらしい)。このときの記憶を、ジャンタル・マンタルやファテプール・シクリのなかに佇む建築家の姿に重ねている。
 さて、アテネからさらにエーゲ海の島々をめぐる旅がはじまると、このひとは島では上半身は裸、レンズ一本を装着したカメラを肩から吊っているだけという大軽装になってしまう。パスポートや財布は尻のポケットに入れていたのか。スケッチをしたりしていた記憶がない。磯崎さんを知ったときから写真のうまさはプロはだしという印象が強かったので、カメラを構える姿はよく目にとどめるようにしていたのだが。このときもすでに再訪の場所が多かったようで、こちらがあせ-って撮りまくるのとは別のペースだった。帰ってからそのときの写真を見せてもらった。モノクロームのちょっとシュルレアルな雰囲気で、同行していた宮脇愛子さんが画面の中央でどこか演劇的なポーズをとっている。その背後にミコノスやサントリーニの白い集落がひれ伏している。そんな印象の写真ばかりだった。どうしてあんなふしぎな写真が撮れたのか、いまでもわからないのだが、とにかくその頃は、「磯崎さんの写真」という意識の目を通して建築を見ていたような気がする。それほど強い印象を受けていた。
 アテネから西に向かう飛行機のなかで、私は磯崎さんの右隣りに腰掛けていた。ウィスキーのグラスが空になり、彼はコースターを手にとって、左隣りの宮脇さんの膝に置かれた帽子をフェルトペンで一筆描きみたいにさらさら描いた。広いプリムに縁取られた、いかにも涼し気な日除けである。ギリシャの太陽の下を歩いてきた帽子だ。とっさに私は手を出した。苦笑いしながらもすぐARATA ROMEとサインしてそのコースターを渡してくれた。そう、もうローマの上空だった。飛行機が高度を下げはじめた。

 1960年代後半に、磯崎アトリエのスタッフだった六角鬼丈(現・東京芸大教授)は、磯崎さんが「直接定規を持って製図している姿を見たことがない」と最近書いた文章のなかで回想している。そのころは足繁くアトリエ通いをしていた私には初耳で、やはり内部にいた人じゃなければ知らないことがあるんだと、おもしろかった。その少し前、彼の最初期、つまり1960年から数年間に描かれた、大判のしかもばっちりと墨入れされた図面を次々と見せてもらっていたとき、ちょっときまり悪そうに、どこか他人事のように、図面さえ描いていれば満足だったのさと、彼がつぶやいていたのを覚えていたからだ。
 しかしそれは建築家の姿勢が一貫していたことを、逆に物語っているような気がする。最初期の製図といえば、計画案のものが多く、一本の巨大な円柱だけの建築だったり、あるいはその円柱が何十本もの数に増えて、丸の内や新宿の既存の建築群を踏み抜いていたりする。そこにギリシャ神殿の廃虚の写真をコラージュした、高名な「孵化過程」もこの時期のものである。
 計画案というより描かれた「命題」といったほうがいい。途方もない建築計画は19世紀から20世紀にかけてじつに数多く描かれているが、はじめから実現化とはっきり縁を切っている建築図面はそんなに多くはないはずである。現代都市とは何であるかを見てしまった、発見的命題としての建築を図面化するのは極度に私的な作業であったにちがいない。製図に熱中したのは当然と思う。
六角は同時に、たぶん先輩からきいたのだろう、大分県立図書館の実施設計では、断面詳細図を驚くべきスピードで一晩のうちに描きあげたという言い伝えも紹介している。その後は仕事が一気に増えてきている。それは建築計画が特定のものに限定され、次々と実現へ動きはじめた時期である。こうした建築の製図に手を染めることは、どれほど意識化しようと長い隧道のなかを行くように、来るべき完成された建築への同化を避けえない。それは危険すぎると、本来の価値破壊者である建築家は感じはじめた。スタッフの手の必要がそこにあった。そう思う。製図はしないが、スケッチは怠らず、模型を見ながらの手直しを命ずることは徹底していたというが、それは破壊において建築を完成させていく、際どい作業だったにちがいない。
 だれでもやっていることかも知れない。しかし「孵化過程」を描いてしまった建築家の破壊作業は筋金入りだった。その実証としての数々の建築を、現在に至るまで私たちは目にしてきた。
磯崎新の版画は1977年、まず「ヴィッラ」シリーズではじまるが、90°のアクソメトリックというやや特殊な図法ではあるものの、いってしまえば一般的な建築の製図をシルクスクリーンで刷っただけである。最初は意表をつかれた。スケッチのような描線を期待し てもいたからである。だが彼は「古典的なアウラ※1」としての手のあとを回避して、定規による製図表現に徹する。自分の手による描線をアートにしてみせるようなナルシシズムには陥らない。というより、それ以上にちゃんと先々まで戦略をたてていたというか、コレクターへのサーヴィスを考えていたというか、あるいは版画制作の技術まで見極めていたにちがいない。
 手の痕跡にとらわれない製図表現は、百里靴をはいたかのようにどんどん先に進んでいってしまう。「還元」シリーズの形態要素の分析、「MOCA」シリーズの透視図、あるいは「内部風景」シリーズでは写真まで使っている。「MOCA」の直かに色彩の地底から掘り起こしたような強烈な空と建物と影との対比、超大型の「MOCA EXTERIOR,INTERIOR」、さらには立体までからむ「空洞としての美術館」などはそれぞれ、版画技術の臨界点に立ち会っている緊迫感に満ち満ちている。このあいだに数点の、それこそ手のあとがうかがえる酒落た銅版画が幕間のように挿入されてはいるとはいえ、全体の展開は、完結した建築を切り崩していく、見えない「手」に支配されたコンセプトの明視性が決定的であるといっていい。
考えてみれば、カメラのシャッターを押すだけの行為にさえ、手の痕跡を残そうとする意識がはたらいていることを、磯崎さんは見抜いている。つまり、いわゆるフォトジェニックな構図とかシャッター・チャンスとかは彼の興味の対象ではない。いつだったか 彼が古い数寄屋建築や茶室を撮った写真は、思いがけないことに超広角レンズを使っていた。その結果、伝統的な日本の建築につきまとう情感が払拭されて、その構成要素がレントゲン写真のように剥き出しになっていた。「還元」シリーズに、それはつながっているといえる。

 しかし最近の磯崎さんはそのカメラも持たない。今度インドを旅したときもそうだし、建築の構想も同じ小さなスケッチブックに筆ペンと絵具で、スケッチ風の描写に戻っている。いや戻っているというのは不確かで、うんと先に行ってしまったという実感のほうが強い。
版画制作を始めたときからの大きな流れ、つまり製図表現を思い切りコントロールする手法は、昨年の新作「」「」「」シリーズで極限に達した。その冥さも華麗さも、あるカタストロフィに接続されているようにさえ見える。カタストロフィ、それは実現した建築さえも版画という仕掛けを通して解体されたかのように見せてしまう光景であり、同時にその解体あるいは破壊作業そのものが意味を失なってきている今の時代状況の不気味さが見えはじめた、そのカタストロフィでもあるのだ。
一方で、これも同時期につくられた「栖十二」はまったく異質のシリーズである。まず自分の手がけた建築ではない。いやひとつだけルイジ・ノーノの墓が入ってはいるが、あとはル・コルビュジェの「母の小さい家」やウィトゲンシュタインのストンボロウ邸、さらにはパッラディオ、マッキントッシュ、フランク・ロイド・ライト、ミース・ファン・デル・ローエ、小堀遠州などによる十二の家を描いている。そこに終の栖のありようを求めたと彼はいう。しかしそれらは建築家たちによる彼等自身のための終の栖ではない。磯崎新設計のノーノの墓がまさにそうであるように、最後にたどりつく栖を自分自身で間違いなくつくることは、だれにもできない。つまりどこで永い眠りについたにせよ、それはすべて本質的に野垂れ死にだというのだ。
 これらはどれも旅のスケッチブックから銅版画に起こされたものである。その一見抒情的な絵柄は、手の痕跡が甘美でさえあり、そのひとつひとつの筆致が身近かで優しく感じられるだけ、虚空のように隣り合っているものの気配が強い。その虚空とは建築そのものの本体かも知れない。荘厳であるほど絶対的な死に近づいてしまう建築を、またしても彼は命題として描き出す。しかし今度は「孵化過程」のように決定的な一枚の絵ではなく、「帰還する場所の不在※2」を物語る優しい手描きの、限りない数のスケッチである。それは自分の設計する建築において、すべてを収斂できる時代が不意に消えてしまったことを、だれよりも逸早く感じとった建築家の、限りない旅への予感の表われのようにもみえる。今回のインドへの道もそこからはじまっているにちがいない。
 磯崎さんにはすでに見えてしまっているその「場所の不在」が、自分にも否定しようもなく見えてくるのがおそろしい。しかし、そこに徐々に押しやられていく過程がじつは磯崎新の描いたものを見る、ほんとうの愉楽なのである。
うえだまこと
※1「The Prints of Arata lsozaki, 1977-1983」(現代版画センター、1983年)より
※2「栖十二」(住まいの図書館出版局、1999年)より

版画掌誌第2号
版画掌誌第2号
オリジナル版画入り美術誌
2000年3月31日/ときの忘れもの 発行
特集1/磯崎新
特集2/山名文夫
B4判変形(32.0×26.0cm) シルクスクリーン刷り
A版:限定35部
B版:限定100部

06磯崎新のスケッチブック
版画掌誌『ときの忘れもの』第2号より

051999年のインド旅行の折のスケッチ
版画掌誌『ときの忘れもの』第2号より


版画掌誌『ときの忘れもの』第2号収録作品
01磯崎新
「ファテプール・シクリ1」
2000年  エッチング
13.5×18.0cm
Ed.35  サインあり
*A版に収録

02磯崎新
「アグラの赤い城」
2000年  エッチング
18.0×13.5cm
Ed.35  サインあり
*A版に収録

03磯崎新
「ファテプール・シクリ2」
2000年  エッチング
13.5×18.0cm
Ed.35  サインあり
*A版に収録

04磯崎新
「ファテプール・シクリ3」
2000年  エッチング
13.5×18.0cm
Ed.135  サインあり
*A版、B版に収録

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*画廊亭主敬白
 東京は大雪です。
交通機関も大混乱、スタッフの一人加畑からのメールでは乃木坂を昨夕17時に出たのに22時の時点でまだ町田の自宅に辿りつけないとか・・・
実は本日午前の便で、秋葉と新澤はシンガポールに向けて羽田を飛び立つ予定なのですが、果たしてどうなることやら。

本日のブログは植田実先生に18年前(もうそんなに経ったのか)に書いていただいた文章です。
いま埼玉県立近代美術館国立近現代建築資料館で奇しくも同じ磯崎新先生の版画「還元」シリーズが展示されており、建築家がなぜ描くか、版画を制作するのかについて論じていただいた版画掌誌の文章を再録しました。

以下は亭主の「編集後記」からの抜粋です。
 「版画は余技ではなく、自分の建築を批評すること」。優れた建築家とは優れたアーティストだと思う。建築家の磯崎新が版画制作に取り組んだのは1977年からで、当時私が主宰していた現代版画センターからの依頼がきっかけだった(その経緯は、昨年住まいの図書館出版局から刊行された磯崎新著『栖十二』巻末の栞[Appendix]17~19頁に書いてあるので参照されたい)。建築家が技術者としてみられている日本では珍しいことだった。その後、20数年たった今にいたるまで、建築家は版画から撤退することなく、制作を続けている。編集者としてそれをずっとみてきた植田実氏に建築家が描くことの意味について執筆していただいた。
 「カメラを持つと、カメラの眼を頼ってしまい、空間を身体で感じることができない」。私が磯崎アトリエに通い出した70年代後半には建築家はすでにカメラを捨てており、かわりにスケッチブックがいつも旅の同伴者だった。何十冊にもなるそれらのスケッチブックから、昨年発表した『栖十二』の40点にも及ぶ銅版画連作が生まれ、今回本誌に挿入した銅版画も昨年インド旅行したときのスケッチをもとに帰国後制作されたものである。磯崎ファンならずとも覗いてみたいそのスケッチブックを、一冊まるごと特集させて貰った。(後略)
2000年3月 綿貫不二夫
*版画掌誌『ときの忘れもの』第2号 編集後記より抜粋
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現在開催中の「Arata ISOZAKI × Shiro KURAMATA: In the ruins」の展示風景をご紹介します。
201801_磯崎倉俣展_01

201801_磯崎倉俣展_04

201801_磯崎倉俣展_06

201801_磯崎倉俣展_07

201801_磯崎倉俣展_08

201801_磯崎倉俣展_09

201801_磯崎倉俣展_10

201801_磯崎倉俣展_11
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◆埼玉県立近代美術館で「版画の景色 現代版画センターの軌跡」展が始まりました。現代版画センターと「ときの忘れもの」についてはコチラをお読みください。
会期:2018年1月16日(火)~3月25日(日)
埼玉チラシAY-O600現代版画センターは会員制による共同版元として1974年に創立、1985年までの11年間に約80作家、700点のエディションを発表し、全国各地で展覧会、頒布会、オークション、講演会等を開催しました。本展では45作家、約300点の作品と、機関誌等の資料、会場内に設置した三つのスライド画像によりその全軌跡を辿ります。同館の広報誌もお読みください。

○<「版画の景色」@埼玉県立近代美術館。現代版画センター(1974-85)に関する予備知識ゼロだけど楽しめた。部屋に飾りたいと思うの多数。磯崎新のシルクスクリーンが超かっこよくて驚いた。
ジョナス・メカスのこれが良すぎた。ほしい。「夜の街を走る車 マンハッタン」1983
ひっそりと戸張孤雁(1882 - 1927)が展示されてたけど、あれはどういう文脈だったのかしら。この人だけ時代違う。

(20180121/KNMさんのtwitterより)>

○<埼玉近代美術館の企画展「版画の景色」を観てきました。魅力的な現代アートの数々を目にする事ができて興奮しました。ウォーホルや草間彌生の作品があったのも驚きましたが、磯崎新の建築物を描いたシルクスクリーンが特に印象に残りましたね。また観に行こうと思います。
(20180121/Takao Rival‏さんのtwitterより)>

○<本日は埼玉県立近代美術館で版画の景色展をみてまいりました
版画と言うのはどうも自分の中で整理がつかないものがあり興味深くみたのですがますます分からなくなりました(笑)
抽象表現とは相性が良いですね
MOMASコレクションで小村雪岱の青柳がみれました

(20180120/しの‏さんのtwitterより)>

現代版画センターエディションNo.42 島州一「ゲバラ」
現代版画センターのエディション作品を展覧会が終了する3月25日まで毎日ご紹介します。
042_島州一《ゲバラ》島州一《ゲバラ》
1974年 
布にシルクスクリーン(刷り:小峰プロセス)
Image size: 69.0×99.0cm
Sheet size: 103.1×125.1cm
Ed.50  サインあり

昨日に続き、島州一先生のエディションです。
版画の定義は文字通り「版の絵」であり、支持体は問わない。現代版画センターは島先生の布に刷ったこの作品をはじめ、アクリルやキャンバスに刷った版画作品をいくつもエディションしました。

パンフレット_05


◆国立近現代建築資料館で2月4日[日]まで「紙の上の建築 日本の建築ドローイング1970s-1990s」展が開催中。磯崎新、安藤忠雄らの作品が出品されています。展覧会については戸田穣さんのエッセイをお読みください。
ギャラリートーク「建築版画の世界」のご案内
植田実(住まいの図書館出版局編集長)× 石田了一(石田版画工房)× 綿貫不二夫(ときの忘れものディレクター)
司会:日埜直彦
日時:1月27日(土曜日)14時から
場所:文化庁国立近現代建築資料館

●日経アーキテクチュアから『安藤忠雄の奇跡 50の建築×50の証言』が刊行されました。
亭主もインタビューを受け、1984年の版画制作始末を語りました。日経アーキテクチュア編集長のコラム<建築家・安藤忠雄氏の言葉の力:第3回>で、出江寛先生、石山修武先生の次に紹介されていますので、お読みください。

◆ときの忘れものは「Arata ISOZAKI × Shiro KURAMATA: In the ruins」を開催しています。
会期=2018年1月9日[火]―1月27日[木] ※日・月・祝日休廊
磯崎新のポスト・モダン(モダニズム)ムーブメント最盛期の代表作「つくばセンタービル」(1983年)に焦点を当て、磯崎の版画作品〈TSUKUBA〉や旧・筑波第一ホテルで使用されていた倉俣史朗デザインの家具をご覧いただきます。他にも倉俣史朗のアクリルオブジェ、磯崎デザインの椅子なども出品します。

●ときの忘れものは昨年〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS に移転しました。TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531
新天地の駒込界隈についてはWEBマガジン<コラージ12月号>をお読みください。18~24頁にときの忘れものが特集されています。
06駒込玄関ときの忘れものの小さな庭に彫刻家の島根紹さんの作品を2018年1月末まで屋外展示しています。
2018年から営業時間を19時まで延長します。
営業時間=火曜~土曜の平日11時~19時。日・月・祝日は休廊
JR及び南北線の駒込駅南口から約8分です。