土渕信彦のエッセイ「瀧口修造の本」
3.瀧口修造・阿部芳文『妖精の距離』
図1 『妖精の距離』
奥付の記載事項
妖精の距離
昭和12年10月10日 印刷 昭和12年10月15日發行
著 者 阿 部 芳 文
發行人 大 下 正 男
東京市小石川區關口駒井町3
印刷人 菅 原 駒 吉
東京市牛込区改代町23
發行所 春 鳥 會
東京市小石川區關口駒井町3
定 價 2.00
解題
本書は瀧口修造の「十二の詩」と阿部芳文の「十二の画」による詩画集です。縦30㎝×横48㎝の大判のケント紙12葉と、その半分大(30㎝×24㎝)のケント紙4葉が、綴じられずに、白厚紙の帙に包まれて収納されています。書影として有名な虫眼鏡の意匠(図1)は、この帙を撮影したものです。大判の紙は、12葉すべて中央で縦に二つ折りにされ、左頁には阿部のドローイングが(おそらくコロタイプで)印刷され、右頁には瀧口の詩が配されています。また、半分大の紙4葉は、献辞を記入する見返し(または遊び紙)、扉(図2)、目次、奥付に当てられています。
図2 『妖精の距離』扉
奥付には上記のとおり「著者 阿部芳文」とあるだけで、瀧口の名は記されていませんが、久保貞次郎による私家版『スフィンクス』(1954年。図3)を別にすれば、『瀧口修造の詩的実験 1927~1937』(思潮社、1967年)が刊行されるまで30年にわたって、瀧口唯一の詩集として知る人ぞ知る一冊でした。もともと100部しか刊行されず、海外向けの献呈や戦災による焼失なども考えると現存数はさらに少ないはずで、戦前の詩集や写真集のなかでも代表的な稀覯本として、今も珍重されています。20年ほど前に神田神保町の古書店で見かけた一冊は、美術評論家四宮潤一宛ての(ペン書き)献呈署名本でしたが、水を被った跡が明瞭に残っており、戦火を潜り抜けてきたことがありありと伝わってきました。
図3 『スフィンクス』
本書の詩12篇は、もちろん前述の『瀧口修造の詩的実験1927~1937』(図4)に収録されていますが、同書のなかでは、「仙人掌兄弟」から「絶対への接吻」や「詩と実在」にいたる、1928年~31年頃の作品の存在感が圧倒的で、それ以降の作品は、「妖精の距離」の12篇を含め、慎ましい抒情詩のように感じられます。その理由は、ひとつには、この時期の「七つの詩」「白の上の千一夜」「妖精の距離」などが、本来はイメージと組み合わされることが前提とされていたにもかかわらず、同書にはイメージが掲載されていないことにあるかもしれません。
図4 『瀧口修造の詩的実験1927~1937』と「添え書き」
例えば「七つの詩」は、ダリ、エルンスト、マグリット、ミロ、ピカソ、マン・レイ、タンギ―の7人に各1篇ずつ捧げられた詩で、山中散生編『L’ÉCHANGE SURRÉALISTE』(超現実主義の交流。ボン書店、1936年。図5)に掲載されました。初出時にこれら7人の造形作品と組み合わされていたわけではありませんが、瀧口の詩が(具体的な作品とまではいえないにしても)7人の仕事を前提としているのは、言うまでもないでしょう。
図5 『L’ÉCHANGE SURRÉALISTE』函(左)、赤版表紙(中)、青版表紙(右)
また「白の上の千一夜」は、実際に今井滋のデカルコマニーと組み合わされて発表された詩です。今井の証言によれば、今井が手掛けた130枚ほどから瀧口と二人で15枚を選び、1枚ごとに瀧口が1~5行の(全体で1篇となるような)詩を書いて、1937年3月の新造型第5回展(東京府美術館)の展示壁面に、「同じ額縁の中でデカルコマニイと詩とを同時に発表した」とされています(「デカルコマニイと其の方法」「みづゑ」1937年5月。図6)。ちなみに、「みづゑ」同号には瀧口夫妻の作例が、見開きに並べて掲載されています(図7)。
図6 今井滋「デカルコマニイと其の方法」
図7 瀧口夫妻のデカルコマニー(左:綾子夫人、右:瀧口本人)
一般に、言葉とイメージとが組み合わされる場合、小説と挿絵のように、どちらか一方が主となり、他方がそれを補うというのが一般的と思われますが、瀧口が目指していたのは、イメージと言葉とが互いに触発し合いながら、全体としても統一感を持つようなあり方だったようで、早い時期から「超現実主義を通して、詩と絵画とが握手する」(「超現実主義絵画の方向について」、「詩法」1935年8月)と述べていたとおりです。その理想的な実例は、マン・レイとエリュアールの『ファシール』(1935年。図8)だったのかもしれません。「写真と超現実主義」(「フォトタイムス」1938年2月。図9)の図版に以下のようなキャプションを付けています(新字新仮名遣いに変更)。
「外国の詩集などでイリュミネ―ション(飾画)とよばれるものを憶い起す。ブレークなどは彼自身画家であったから詩の周囲に自分で銅版画を描いた。日本では詩画一致と呼ばれるが、こうした形式はとらなかった。マン・レイの写真とエリュアールの詩の文字とは全部グラビア版であるから融け合っている。写真もこうして詩画一致を形づくるのである。」
図8 『ファシール』
図9 「フォトタイムス」(右下に『ファシール』の図版)
本書は阿部のドローイングと瀧口の詩によって「詩画一致」を実現した、記念碑的な詩画集といえるでしょう。具体的な制作過程は明らかではありませんが、「白の上の千一夜」同様、阿部のドローイングを見ながら瀧口が詩を書き下ろしたものと思われます。「みづゑ」1937年月11号に挟み込まれた刊行案内(図10)では、次のように述べています(新字新仮名遣いに変更)。
「私の内部には、永いあいだ、卵のように絶えず温められていた妙な思想があった。そう、それは全く思想というより、ほかに言いようのない、だが卵のようなものであった。ただ貝殻の中に小石が形づくられてしまったように、いま一冊の詩画集『妖精の距離』が、阿部芳文君とのあいだに作られたことはたのしい。すべて夢想というものは卵のように名状すべからざる形をしていたのである。かつては、花と鳥たちとが容易に結ばれたことを思い起すまでもない。今は詩はその余白を、絵画はその余白を、孤独なさらに巨大なブランクに曝している。
『妖精の距離』の第三の余白は読者のやさしい手の中に委ねられているばかりである。」
図10 『妖精の距離』刊行案内(「みづゑ」1937年11月号)
昨年(2017年)9月、神奈川県立近代美術館(葉山)で開催された企画展「1937-モダニズムの分岐点」(図11)では、本書と『ファシール』とが並べて展示されていました。この『妖精の距離』は山中散生宛ての瀧口・阿部両名の献呈署名本(ペン書き)で、「100部限定出版の内のNO14」でした。山中は刊行の数ヶ月前に「海外超現実主義作品展」(1939年5月)を共同で招来・開催した、いわば「盟友」といえるはずの人物ですから、もう少し番号が若くても良さそうな気もします。しかしシュルレアリスムやシュルレアリストたちに対する山中の関わり方・姿勢に、瀧口は若干の違和感を覚えていたようで、3年前の34年には以下の引用のように述べています。本書刊行の時点でも、この違和感は解消されていなかったのかもしれません。「NO14」という番号から、こうした微妙な間合いが読み取れるように思われます。
「この頃山中散生氏等のなされているシュルレアリスム紹介の仕事に対して、敬意を払いたいと思う。私は性来の無精から、氏等に対して度度例を失しているので、この誌上を通じて深く謝しておきたいと思う。ポール・エリュアール氏へのオマージュの出版や、ルイ・アラゴン氏の翻訳等の努力は注目されていい。
ただ、単なる交友的エシャンジュ[交流]に終わらしめず、このムーヴマンの正当な認識を植えつけることに、努力されたいと希望する。」「脱頁」(「詩法」第5号、紀伊國屋出版部、1934年12月。図12)
図11 「1937-モダニズムの分岐点」展 会場写真(神奈川県立近代美術館 葉山)
図12 「脱頁」
なお、本書の画を担当した阿部芳文(その後「展也」と名乗る)は、1913年生まれ、37年の刊行当時24歳で、2年後には美術文化協会の結成にも参加しました。戦後は同協会を脱退して数々の国際展に参加する一方、下落合のアトリエに集った福島秀子、漆原英子、草間彌生、宮脇愛子、榎本和子など、錚々たる女流作家たちを指導しています。62年にはイタリアに渡り、71年に没するまでローマのアトリエで制作を続けました。瀧口の協力のもとに、1957年まで208回の企画展を開催したタケミヤ画廊の第1回展も、「阿部展也デッサン・油絵個人展」(1951年6月1日~6月15日)だったことを付け加えておきます。
(つちぶち のぶひこ)
■土渕信彦 Nobuhiko TSUCHIBUCHI
1954年生まれ。高校時代に瀧口修造を知り、著作を読み始める。サラリーマン生活の傍ら、初出文献やデカルコマニーなどを収集。その後、早期退職し慶應義塾大学大学院文学研究科修士課程修了(美学・美術史学)。瀧口修造研究会会報「橄欖」共同編集人。ときの忘れものの「瀧口修造展Ⅰ~Ⅳ」を監修。また自らのコレクションにより「瀧口修造の光跡」展を5回開催中。富山県立近代美術館、渋谷区立松濤美術館、世田谷美術館、市立小樽文学館・美術館などの瀧口展に協力、図録にも寄稿。主な論考に「彼岸のオブジェ―瀧口修造の絵画思考と対物質の精神の余白に」(「太陽」、1993年4月)、「『瀧口修造の詩的実験』の構造と解釈」(「洪水」、2010年7月~2011年7月)、「瀧口修造―生涯と作品」(フランスのシュルレアリスム研究誌「メリュジーヌ」、2016年)など。
◆土渕信彦のエッセイ「瀧口修造の本」は毎月23日の更新です。
●今日のお勧め作品は、瀧口修造です。
瀧口修造 Shuzo TAKIGUCHI
"Ⅲ-14"
デカルコマニー、紙
イメージサイズ:18.5×13.9cm
シートサイズ :18.5×13.9cm
こちらの作品の見積り請求、在庫確認はこちらから
※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください。
●本日23日(月)は休廊です。
3.瀧口修造・阿部芳文『妖精の距離』
図1 『妖精の距離』奥付の記載事項
妖精の距離
昭和12年10月10日 印刷 昭和12年10月15日發行
著 者 阿 部 芳 文
發行人 大 下 正 男
東京市小石川區關口駒井町3
印刷人 菅 原 駒 吉
東京市牛込区改代町23
發行所 春 鳥 會
東京市小石川區關口駒井町3
定 價 2.00
解題
本書は瀧口修造の「十二の詩」と阿部芳文の「十二の画」による詩画集です。縦30㎝×横48㎝の大判のケント紙12葉と、その半分大(30㎝×24㎝)のケント紙4葉が、綴じられずに、白厚紙の帙に包まれて収納されています。書影として有名な虫眼鏡の意匠(図1)は、この帙を撮影したものです。大判の紙は、12葉すべて中央で縦に二つ折りにされ、左頁には阿部のドローイングが(おそらくコロタイプで)印刷され、右頁には瀧口の詩が配されています。また、半分大の紙4葉は、献辞を記入する見返し(または遊び紙)、扉(図2)、目次、奥付に当てられています。
図2 『妖精の距離』扉奥付には上記のとおり「著者 阿部芳文」とあるだけで、瀧口の名は記されていませんが、久保貞次郎による私家版『スフィンクス』(1954年。図3)を別にすれば、『瀧口修造の詩的実験 1927~1937』(思潮社、1967年)が刊行されるまで30年にわたって、瀧口唯一の詩集として知る人ぞ知る一冊でした。もともと100部しか刊行されず、海外向けの献呈や戦災による焼失なども考えると現存数はさらに少ないはずで、戦前の詩集や写真集のなかでも代表的な稀覯本として、今も珍重されています。20年ほど前に神田神保町の古書店で見かけた一冊は、美術評論家四宮潤一宛ての(ペン書き)献呈署名本でしたが、水を被った跡が明瞭に残っており、戦火を潜り抜けてきたことがありありと伝わってきました。
図3 『スフィンクス』本書の詩12篇は、もちろん前述の『瀧口修造の詩的実験1927~1937』(図4)に収録されていますが、同書のなかでは、「仙人掌兄弟」から「絶対への接吻」や「詩と実在」にいたる、1928年~31年頃の作品の存在感が圧倒的で、それ以降の作品は、「妖精の距離」の12篇を含め、慎ましい抒情詩のように感じられます。その理由は、ひとつには、この時期の「七つの詩」「白の上の千一夜」「妖精の距離」などが、本来はイメージと組み合わされることが前提とされていたにもかかわらず、同書にはイメージが掲載されていないことにあるかもしれません。
図4 『瀧口修造の詩的実験1927~1937』と「添え書き」例えば「七つの詩」は、ダリ、エルンスト、マグリット、ミロ、ピカソ、マン・レイ、タンギ―の7人に各1篇ずつ捧げられた詩で、山中散生編『L’ÉCHANGE SURRÉALISTE』(超現実主義の交流。ボン書店、1936年。図5)に掲載されました。初出時にこれら7人の造形作品と組み合わされていたわけではありませんが、瀧口の詩が(具体的な作品とまではいえないにしても)7人の仕事を前提としているのは、言うまでもないでしょう。
図5 『L’ÉCHANGE SURRÉALISTE』函(左)、赤版表紙(中)、青版表紙(右)また「白の上の千一夜」は、実際に今井滋のデカルコマニーと組み合わされて発表された詩です。今井の証言によれば、今井が手掛けた130枚ほどから瀧口と二人で15枚を選び、1枚ごとに瀧口が1~5行の(全体で1篇となるような)詩を書いて、1937年3月の新造型第5回展(東京府美術館)の展示壁面に、「同じ額縁の中でデカルコマニイと詩とを同時に発表した」とされています(「デカルコマニイと其の方法」「みづゑ」1937年5月。図6)。ちなみに、「みづゑ」同号には瀧口夫妻の作例が、見開きに並べて掲載されています(図7)。
図6 今井滋「デカルコマニイと其の方法」
図7 瀧口夫妻のデカルコマニー(左:綾子夫人、右:瀧口本人)一般に、言葉とイメージとが組み合わされる場合、小説と挿絵のように、どちらか一方が主となり、他方がそれを補うというのが一般的と思われますが、瀧口が目指していたのは、イメージと言葉とが互いに触発し合いながら、全体としても統一感を持つようなあり方だったようで、早い時期から「超現実主義を通して、詩と絵画とが握手する」(「超現実主義絵画の方向について」、「詩法」1935年8月)と述べていたとおりです。その理想的な実例は、マン・レイとエリュアールの『ファシール』(1935年。図8)だったのかもしれません。「写真と超現実主義」(「フォトタイムス」1938年2月。図9)の図版に以下のようなキャプションを付けています(新字新仮名遣いに変更)。
「外国の詩集などでイリュミネ―ション(飾画)とよばれるものを憶い起す。ブレークなどは彼自身画家であったから詩の周囲に自分で銅版画を描いた。日本では詩画一致と呼ばれるが、こうした形式はとらなかった。マン・レイの写真とエリュアールの詩の文字とは全部グラビア版であるから融け合っている。写真もこうして詩画一致を形づくるのである。」
図8 『ファシール』
図9 「フォトタイムス」(右下に『ファシール』の図版)本書は阿部のドローイングと瀧口の詩によって「詩画一致」を実現した、記念碑的な詩画集といえるでしょう。具体的な制作過程は明らかではありませんが、「白の上の千一夜」同様、阿部のドローイングを見ながら瀧口が詩を書き下ろしたものと思われます。「みづゑ」1937年月11号に挟み込まれた刊行案内(図10)では、次のように述べています(新字新仮名遣いに変更)。
「私の内部には、永いあいだ、卵のように絶えず温められていた妙な思想があった。そう、それは全く思想というより、ほかに言いようのない、だが卵のようなものであった。ただ貝殻の中に小石が形づくられてしまったように、いま一冊の詩画集『妖精の距離』が、阿部芳文君とのあいだに作られたことはたのしい。すべて夢想というものは卵のように名状すべからざる形をしていたのである。かつては、花と鳥たちとが容易に結ばれたことを思い起すまでもない。今は詩はその余白を、絵画はその余白を、孤独なさらに巨大なブランクに曝している。
『妖精の距離』の第三の余白は読者のやさしい手の中に委ねられているばかりである。」
図10 『妖精の距離』刊行案内(「みづゑ」1937年11月号)昨年(2017年)9月、神奈川県立近代美術館(葉山)で開催された企画展「1937-モダニズムの分岐点」(図11)では、本書と『ファシール』とが並べて展示されていました。この『妖精の距離』は山中散生宛ての瀧口・阿部両名の献呈署名本(ペン書き)で、「100部限定出版の内のNO14」でした。山中は刊行の数ヶ月前に「海外超現実主義作品展」(1939年5月)を共同で招来・開催した、いわば「盟友」といえるはずの人物ですから、もう少し番号が若くても良さそうな気もします。しかしシュルレアリスムやシュルレアリストたちに対する山中の関わり方・姿勢に、瀧口は若干の違和感を覚えていたようで、3年前の34年には以下の引用のように述べています。本書刊行の時点でも、この違和感は解消されていなかったのかもしれません。「NO14」という番号から、こうした微妙な間合いが読み取れるように思われます。
「この頃山中散生氏等のなされているシュルレアリスム紹介の仕事に対して、敬意を払いたいと思う。私は性来の無精から、氏等に対して度度例を失しているので、この誌上を通じて深く謝しておきたいと思う。ポール・エリュアール氏へのオマージュの出版や、ルイ・アラゴン氏の翻訳等の努力は注目されていい。
ただ、単なる交友的エシャンジュ[交流]に終わらしめず、このムーヴマンの正当な認識を植えつけることに、努力されたいと希望する。」「脱頁」(「詩法」第5号、紀伊國屋出版部、1934年12月。図12)
図11 「1937-モダニズムの分岐点」展 会場写真(神奈川県立近代美術館 葉山)
図12 「脱頁」なお、本書の画を担当した阿部芳文(その後「展也」と名乗る)は、1913年生まれ、37年の刊行当時24歳で、2年後には美術文化協会の結成にも参加しました。戦後は同協会を脱退して数々の国際展に参加する一方、下落合のアトリエに集った福島秀子、漆原英子、草間彌生、宮脇愛子、榎本和子など、錚々たる女流作家たちを指導しています。62年にはイタリアに渡り、71年に没するまでローマのアトリエで制作を続けました。瀧口の協力のもとに、1957年まで208回の企画展を開催したタケミヤ画廊の第1回展も、「阿部展也デッサン・油絵個人展」(1951年6月1日~6月15日)だったことを付け加えておきます。
(つちぶち のぶひこ)
■土渕信彦 Nobuhiko TSUCHIBUCHI
1954年生まれ。高校時代に瀧口修造を知り、著作を読み始める。サラリーマン生活の傍ら、初出文献やデカルコマニーなどを収集。その後、早期退職し慶應義塾大学大学院文学研究科修士課程修了(美学・美術史学)。瀧口修造研究会会報「橄欖」共同編集人。ときの忘れものの「瀧口修造展Ⅰ~Ⅳ」を監修。また自らのコレクションにより「瀧口修造の光跡」展を5回開催中。富山県立近代美術館、渋谷区立松濤美術館、世田谷美術館、市立小樽文学館・美術館などの瀧口展に協力、図録にも寄稿。主な論考に「彼岸のオブジェ―瀧口修造の絵画思考と対物質の精神の余白に」(「太陽」、1993年4月)、「『瀧口修造の詩的実験』の構造と解釈」(「洪水」、2010年7月~2011年7月)、「瀧口修造―生涯と作品」(フランスのシュルレアリスム研究誌「メリュジーヌ」、2016年)など。
◆土渕信彦のエッセイ「瀧口修造の本」は毎月23日の更新です。
●今日のお勧め作品は、瀧口修造です。
瀧口修造 Shuzo TAKIGUCHI"Ⅲ-14"
デカルコマニー、紙
イメージサイズ:18.5×13.9cm
シートサイズ :18.5×13.9cm
こちらの作品の見積り請求、在庫確認はこちらから
※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください。
●本日23日(月)は休廊です。
コメント