植田実のエッセイ「本との関係」

第5回「沙漠」の50年


 第4回の続き。受験に落ちた。
 私にとってそれよりもっと大きな事件は、8年ぶりに東京に帰ってきたことである。やっと病い癒えての安らかな気持ちになった。生まれ育った下北沢に戻りたいわけではなく、遊園地や盛り場にもう一度行きたかったのでもない。東京の途方もない大きさだけが恋しかった。だったらもう高校生なんだからアルバイトで小遣い稼いで数日でも東京にいってくればよかったのに、自ら行動することは人生の出来事にはならないという理屈感覚が自分にはあり、それはいまに至るまで変わらないようである。当時「何でも見てやろう」と単身海外に出ていった小田実には感動したけれど、それは「出来事」とは正反対だと思っていたらしい。
 大学受験を機に東京行きの列車に乗った。目標は逃したけれど東京に止まった。11歳上の長兄がRIA(Research Institute of Architecture 建築綜合研究所)の創設期スタッフで、その主宰である山口文象の自邸の離れに居候しており、その居候の居候として私もその一室に転がりこんだからだ。このまま小倉に戻ったら、君は二度と東京には帰ってこれないよと、ほかならぬ山口先生に強く諭され、山口邸最寄りの池上線久が原駅から国電代々木駅前の予備校通いが始まる。授業というものがわが生涯でもっとも面白くなった1年間だった。
 この夏、姉とその知人である松本哲夫さん、佐藤恒子さんたちが鎌倉に行くときに声をかけてもらった。映画断ち読書断ち態勢になった浪人生の気晴らしを考えてくれたのだろう。古い寺社を訪ねた。2年前に竣工したばかりの広瀬 鎌二自邸「SH-1」を訪ねた。強烈な印象を受けた。その時はまるで理解できなかったので。これが私にとっては日本人建築家による戦後初期住宅を知る最初の体験で、それを読み解くための長い時間がその後にやってきた。
 ついでに思い出した。だいぶあとのことだが、思いがけない人が日常生活から私を連れ出して思いがけない場所に行った。山口先生とふたりで巨人軍の試合を見に野球場。どの球場だったか相手チームがどこだったか思い出そうとしたことがない。監督水原茂、一塁手川上哲治、三塁手長島茂雄をとにかく見た。巨人の勝敗より川上の日々の打率を新聞に読んでいたころで、それを知った先生がつい男気を出して誘ってくれてしまったのか。さいごは相手投手のボークで巨人の三塁ランナーがホームベースを踏み、おかしなサヨナラだったが「延長戦にならなくてよかったよ」と、先生の帰り支度は早かった。私のスポーツ観戦はこのとき突然頂点にあってあとは川上が監督になろうが、ほかの種目でも日本人選手が世界でどれほど活躍しようが、この日を超える事件はない。打席に入るなり不動で立つ川上の白いユニフォーム姿や、水原に軽口めいた注意とともに頭をポンとたたかれて守備位置に戻っていった長島の笑顔は、野球の最後の絵だった。体調を押して御一緒して下さった山口先生には、感謝以上に申しわけなさで今も思い出すだに身がすくむ。

 はなしを浪人生時代に戻す。
 受験が再び眼前に迫った1955年正月、福岡県行橋市に住む詩人麻生久から、久が原に居候している私に届いた5円の年賀葉書が手元にある。「高野喜久雄(荒地同人)や小田雅彦(九州作家)の賞讃があなたの背後を盛大なものとしている。決戦の今年の貴君に過分な期待の残酷なのは百も承知で沙漠の第一バイオリンを弾かれることを期待する。」
 高校文芸部発行の詩のアンソロジー『愛宕』や仲間たちと謄写版の同人誌をつくっていた同じときに、私は上の『沙漠』という詩誌にも関わっていた、そこに引っ張り込まれたきっかけは覚えていないが、実社会の職業に就いている詩人たちが出していた同人誌で、リーダー格だった麻生は当時安川電機の労組委員長でもあり、彼について小田久郎は著書『戦後詩壇私史』(1995 新潮社)のなかで「この戦前の尖鋭なモダニストは、戦後の北九州の労働運動の渦中で、こういう詩を書くコミュニスト詩人に変貌していたのだった」と書いて「弟たち」という作品を紹介し、さらに、戦前はこんな詩を書いていたと「転身前の」作品も引用している。
 『沙漠』の会合に顔を出すようになってはじめて同人のみなさんやその作品を知るようになった。麻生さんの作品にはとくに魅かれたが、詩壇における彼の位置づけに多少なりとも触れえたのは上の本を読んでだから、ずっとあとのことだ。高校生ということで会費を免除してもらい、そのくせ同誌に作品発表をさせてもらっていた(大学生もいなかった)ふしぎな一時期は、自分が東京に帰って以来次第に遠のいた。詩そのものからも自分が遠のいた。でもそれっきりで終わることなく、今から10年ほど前に小倉で麻生さんと、やはり当時同人のいちばん若手だった河野正彦さんとに再会している。とりわけ驚いたのは、『沙漠』がずっと続いて刊行されているという事実だった。そのときの写真や資料がまだ見つかっていないのだがわが家のどこかにあるはず。とりあえず『沙漠』の会の集合写真です。

ueda

1953あるいは54年。現在の北九州市小倉区内で。前列左端が麻生久、その右に河野正彦。後列左端の学生服が植田。
うえだ まこと

●今日のお勧め作品は、植田実です。
ueda_74_hashima_04植田実 Makoto UYEDA
《端島複合体》(4)

1974年撮影(2014年プリント)
ゼラチンシルバープリント
26.9×40.4cm
Ed.5
サインあり

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阿部勤設計の新しい空間についてはWEBマガジン<コラージ12月号18~24頁>に特集されています。
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