中村茉貴「美術館に瑛九を観に行く」第24回

東京国立近代美術館「瀧口修造と彼が見つめた作家たち―コレクションを中心とした小企画」


取材日の当日、東京メトロ竹橋駅の階段を昇ると、ギラギラの太陽に照らされたアスファルトが白く発光し、目を刺激した。皇居周辺を走るランナーも、このときばかりは酷暑のために姿を消していた。信号待ちで立っているだけでも体力を奪われ、暑さを避けるようにして東京国立近代美術館に飛び込んだ。今回の取材は、「瀧口修造と彼が見つめた作家たち」展である。瑛九の作品が前期と後期あわせて4点が出品されていることから、当館美術課長大谷省吾学芸員による案内で展示を拝見した。

展示を企画されたきっかけは、2017年12月3日大阪大学総合学術博物館主催のシンポジウム「〈具体〉再考 第2回1930年代の前衛」に、大谷氏が加藤瑞穂准教授から誘われて発表者として参加したことによる。討論された内容は、「「デモクラート美術家協会」、「実験工房」、「具体」それぞれの中心的役割を果たした瑛九(1911-1960年)、瀧口修造(1903-1979年)、吉原治良(1905-1972年)の接点に注目し、研究者による発表・討議を通して、戦前の1930年代にまで遡る彼らの活動やその志向、戦後との連続性などについて考え」るというものであった。特色のある活動を展開した彼らの表現の中で、共通する点と異なる点は何か、実際の作品を見ながら議論を深める狙いがあったようだ。

東京国立近代美術館01東京国立近代美術館(2階)展示室前

展示室に入ると、手のひらサイズの黒い冊子が置かれている。表紙は、瀧口修造が好んだラベルのデザインで展覧会名が入っている。瀧口のスケッチブックと見紛うばかりの凝った体裁のであるが、中を開くと、解説文、図版8点、瀧口修造略歴、作品リストが収録された小冊子である。(配布終了)

東京国立近代美術館02瀧口修造と妻綾子を撮影した写真が展示されている。大辻清司の撮影による「瀧口修造ポートフォリオ」から。

山積みとなっている書物が壁一面を覆い尽くしている。瀧口の書斎写真をじっくり見ていると、ある種の趣向が分かってくるため、度々雑誌等に掲載されることがあり、後年は研究対象として扱われている。壁面と化した本の背表紙や絵をのぞき込むと、瀧口のその当時の関心事や交友関係を知る手掛かりとなるのだろう。実際に慶応義塾大学アート・センターで書斎の写真に注目した展示企画が2018年1月22日~ 3月16日 に同大学アート・スペースにて開催された。過去にも、同センターの「瀧口修造アーカイブ」から瑛九も関わっていたタケミヤ画廊の企画展も行われたことがあり、見学させていただいた。今後も大学、美術館の双方でコレクションを積極的に公開していくことで、瀧口や彼に関連する美術家の研究が進むと考えられる。

東京国立近代美術館03参考資料)写真:口絵「瀧口修造の書斎1963」(大岡信『ミクロコスモス瀧口修造』1984年)、左下図版:《作品》1959年、油彩、37.8×44.5㎝(本間正義監修『瑛九作品集』1997年)

瀧口は、作品も図書と同じく書斎に置いていた。写真図版の赤枠部分には、瑛九の作品が1点掛かっている。左下の油絵が写真と同じ作品である。瑛九の作品を瀧口がどのように入手したのか経緯は定かではないが、ひとつの可能性としていえるのは、瑛九夫人(都)が贈ったことである。大谷氏によると、瀧口は作品を購入して手元に置くというよりは、美術家が瀧口に贈るケースが多かったという。瑛九のこの作品は、現在、富山県美術館に収蔵されている。

東京国立近代美術館04瀧口修造のデカルコマニー4点(いずれも制作年不詳)が展示されている風景。

デカルコマニーを用いて制作された作品の多くは、浮かび上がった模様から、あるイメージを想像して、よりそれらしく見えるように加筆する。しかし、瀧口の場合は、ほとんどの作品に手を加えず、そのままの状態で留めている点が他の作家との大きな違いであると、大谷氏は説明していた。展示されているデカルコマニーは、どれも黒を基調として、淡いブルーや紫色が画面に落とし込まれている。紙上を這うように浮かび上がった模様をつぶさに観察してみると、暗闇でざわめく木々に見えたり、夕立の暗雲に見えたり、巨大な湖に見えたり、月面に見えたり、様々なイメージを膨らませることができる。見え方は、千差万別で大谷氏は「○○に見える」と〇〇と言葉を当てはめることさえ憚られるように説明していた。

東京国立近代美術館05バーント・ドローイング3点が展示されている風景。

紙を熱して浮かび上がる焦げや煤けた模様を作品とする技法である。3点をよく見ると、焦げて穴が開いた紙の下に赤い紙を重ねている作品、彩色した紙に火を入れた作品、もしくは、その逆の手順で火を入れた後に彩色している作品で、制作する度に変化を与えていることが分かる。このように実験的に制作される作品に偶然な発見があると、制作するたびにまた制作したい欲に駆られるのだろう。瀧口修造と聞くと、美術批評家・詩人というイメージが第一にわくが、晩年の瀧口は執筆活動をしないで、「美術家」のように作品制作に没頭していたようだ。大谷氏は、瀧口のバーント・ドローイングとルーチョ・フォンターナの作品をよく比較してほしいと語っていた。見比べると似て非なる作品で、フォンターナの目の覚めるような色と鋭く切り裂かれた画面と、どこか湿っぽい瀧口の作品は日本らしい味わいがある。

東京国立近代美術館06.ロト・デッサン2点。制作年不詳、紙、鉛筆

私が撮影した写真では見えづらいかもしれないが、こちらは、ただ黒くて四角い作品ではない。黒い用紙に鉛筆で同心円状の線が幾重にも重ねられた作品である。黒鉛のキラキラと輝く軌道を目で追っていると、画面に吸い込まれるような錯覚に陥る。展示室で直に見ていただきたい作品のひとつである。

東京国立近代美術館07『みづゑ』増刊「海外超現実主義作品集」1937年5月

戦前の日本で出版されたシュルレアリスム関係文献で最も充実した雑誌として有名で、美術ファンならお馴染みの資料である。なお、レクチャー(第二夜)でこの雑誌の詳細な説明を伺い、瀧口の異様な執着心が込められていたことを知った。上部の「みづゑ」と表記されている方がカバー(奥)であり、カバーを外した状態の冊子(手前)が分けて展示されている。「アルバム・シュルレアリスト」という表題の黒バックの表紙とその裏表紙を飾っているのが瀧口の作品である。作者として瀧口の銘はどこにも無いものの、海外のシュルレアリスム特集号で自身の作品を表に置く精神は、改めて考えると驚くべきことだと大谷氏は語る。

本展は、大きく三つのコーナーに分けられ、①瀧口修造のコーナー、②瀧口と交流のあった日本の美術家のコーナー、③瀧口が関心を寄せていた海外美術家のコーナーで構成されている。①の瀧口の作品は当館が所蔵する全13点が出品され、②③のその他の作品が会場の大半を占め、一巡すると実に多彩な展示空間であることを知る。見るたびに新たな発見がある奥深い作品ばかりのため、瀧口のコーナーを見て他のコーナーを鑑賞したら、また瀧口のところを見返してほしいという。

東京国立近代美術館08左からポール・セザンヌ、ウジェーヌ・アジェ、マックス・エルンストの作品がある風景。瀧口は『近代芸術』(1938年)でセザンヌの作品に精神と物質との闘いを見ている。人の意識の届かない存在としての「物質」をどう捉えるか、という瀧口にとっての重要なテーマが論じられる大事な一例として示された。


東京国立近代美術館09右からイヴ・タンギー、ジョアン・ミロで、左はルーチョ・フォンターナ、ジョセフ・コーネルである。


東京国立近代美術館10左から福沢一郎、浅原清隆、浜田浜雄の作品。こちらは瀧口と交流の深かった美術家である。浅原が描いたハイヒールの立体構造と奥まったソールの部分を見ていると不思議なものに見えてくる。二次元のフラットな画面であるが、ルーチョ・フォンターナの作品を彷彿させる。


東京国立近代美術館11北脇昇《数学的スリル》とオブジェ。アトリエに残っていたという木片は、作品の中でライフル銃や逃げ惑う人物に姿を変えている。見立てに近い造形表現である。


東京国立近代美術館12大辻清司、北代省三・大辻清司、山口勝弘・大辻清司の写真。[後期展示]
撮影された対象が北代、山口によって制作されたオブジェである。彼らは、実験工房のメンバーである。


東京国立近代美術館13手前は荒川修作の《作品》があり、奥には河原温の《孕んだ女》がある。瀧口に限らず、「もの」(物質/物体/オブジェ)をどのように捉えるかは、作品制作の根底にある大きな問題であり、時代を経ても脈々と続く問題として、個々の作品を細かく見ていくと、展覧会に込められた重要なポイントになっているようだ。


次に、瑛九のコラージュ4点に注目したい。下記の作品をよくみると、1点目はまぶたからひたいにかけて切り取られた女性の顔面があり、眼球はなく、人体らしきカケラが連なるように構成されている。背景に当てられた赤い紙の効果で、バラバラの印刷物はひとつの個体となり、人ではない奇怪なイメージが形作られている。また、《作品D》は、能面のように眼球部分がくりぬかれた女性像、《笑えぬ事実》では、女性の顔が白目部分で切断され、同様に切り抜かれた別の顔と上下反転する形で接合されている。4つの瞳孔が空を仰ぎ、画面中央にぬうっと突出た腕は不気味さを増長している。

東京国立近代美術館14瑛九《無題》1937年頃、コラージュ・紙[前期展示]

東京国立近代美術館15瑛九《無題》1937年、コラージュ・紙[前期展示]、鉛筆で「Q Ei /’37」のサインあり

東京国立近代美術館16瑛九《作品D》1937年、コラージュ・紙[後期展示]

東京国立近代美術館17瑛九《笑えぬ事実》1937年、コラージュ・紙[後期展示]

これら瑛九の作品に関しては、大谷氏の論文「瑛九にとっての『現実』」で次のように解釈している。

瑛九が徹底的に拒否したのは、現実を公式化し、手垢にまみれた既成概念の枠を通して理解することであった。そうした惰性的な現実理解が、バタイユのいう「味気のない生をもたらした」とするならば、逆に瑛九が追い求めたのは、知識や概念を取り払った、むき出しの存在としての「レアル」なものということができるだろう。
(大谷省吾『激動期のアヴァンギャルド シュルレアリスムと日本の絵画1928-1953』2016年)

また、瑛九のコラージュについて、「表現者としての孤独と疎外のぎりぎりの地点からの反撃として生み出されたのだと考えられる」と大谷氏は解釈を加えている。
瑛九は幼少のころから本の虫で、国内外の美術表現は雑誌などから学んでいた。人一倍知識をため込んでいたといっても過言ではない。それは、独自の表現を模索していたからこそ、手あたり次第に目を通していたともいえる。「知識や概念」に向きあった上で目の当たりにした現実(レアル)には、ハッとさせられるくらいの空虚と確固たる魅力がそこにあることに気付いたのであろう。瑛九は「知識や概念」でがんじがらめになる予定調和的な表現ではなく、「孤独」な冒険に挑んだ。そのため、それまで積み上げてきたことを自嘲するかのように、アイロニカルと不穏に満ちた表現になった。

ところで、大谷氏は、大阪大学のシンポジウムや「瑛九1935-1937 闇の中で「レアル」をさがす」展(東京国立近代美術館ギャラリー4、2016年)で、瀧口と瑛九のふたりが1930年代に映画を製作する計画があったことを書簡の中から見出している。結局、瀧口の体調の悪化で頓挫するものの、フィルム(感光材料)を用いた表現に、ふたりとも関心があったことが分かる。作品を見ても分かるように、両者が同じ方向をめざした表現とは言い難いが、同時代の前衛美術家として互いに無関心ではなかったようだ。瀧口修造が瑛九について書いている記事を一覧で見ると、決して少なくはない。

<瑛九に関係する瀧口修造の執筆文献>
〔瀧口修造「自由美術家協会第一回展」『美之國』1937年8月〕
瀧口修造「フォト・デッサンに寄せる言葉」『瑛九フォト・デッサン展』目録(宮崎商工会議所、大阪梅田画廊)1951年1月-2月
瀧口修造「瑛九のエッチング」『美術手帖』1953年10月
瀧口修造の詩による版画集『スフィンクス』1954年
瀧口修造「(展覧会に寄せて)」『瑛九フォト・デッサン展』目録(高島屋ギャラリー)1955年1月
瀧口修造「福井の瑛九遺作展のために」『瑛九遺作展』目録(福井市繊協ビル)1960年5月
瀧口修造「瑛九をいたむ」『美時術手帖』1960年5月
瀧口修造「通りすぎるもの」『眠りの理由』1966年4月

瀧口修造の詩による版画集『スフィンクス』は、デモクラート美術家協会会員(北川民次、瑛九、泉茂、加藤正、利根山光人青原(内間)俊子)によって制作された版画と瀧口修造の詩がセットになったもので、瑛九のエッチングは、「五月のスフィンクス」という詩と組まれた。本展では、この作品が当然出品されていると予想していたが、実際は展示されていなかった。改めて調べると、こちらは久保貞次郎が発案したもので、すでに発表されていた瀧口の詩選集に版画を併せたものであった。このころの瑛九は、シュルレアリスムに傾倒していた時期で、銅版に下書きをせずに、頭に思い浮かぶままイメージを刻んでいた。


この瀧口修造展は、これまで評価されてきたシュルレアリスムの紹介者や前衛美術家の支援者という外面的な「瀧口像」ではなく、彼の心を動かした美術思想・表現、さらには個人的な嗜好にまで迫ろうとする瀧口の内面を覗く展示であった。また、比較対象として展示された作品を見ると、瀧口のオリジナリティを作品に見出すこともできる。

瀧口と瑛九に見受けられる共通の特徴としては、①一定期間、同じ技法による作品を実験的に繰り返し制作している点、②作品のイメージを固定しないことを好んだ点、③写真メディアへの関心、④シュルレアリスムへの関心、⑤海外芸術家(シュルレアリスト)に臆することがない点が挙げられる。
瑛九は、瀧口の「実験工房」創立とほぼ同時期に「デモクラート美術家協会」という看板を掲げ、瑛九なりの「もの」(現実、レアル)の捉え方を実践してきた。瀧口は売れっ子の批評家でありながら、瑛九という画壇にいつかない人物を気に掛けていたのは、関心の対象や制作態度にかんして通ずるところがあったからかもしれない。

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ちょっと寄道…


東京国立近代美術館18連続ミニレクチャー第二夜8月10日「瀧口修造とデカルコマニー」にて

展覧会の関連イベントとして行われているレクチャーでは、本展の企画者大谷省吾学芸員が5つのテーマを設けて、30分じっくりと解説するものである。第一夜と第二夜に伺うと、レジュメが用意され、レクチャーで触れられた参考文献の中の一文が掲載されている。大谷氏は、最新の研究成果を報告されるため美術関係者の注目度も高く、会場には、他館の学芸員や瀧口修造の研究者・土渕信彦さん、綿貫ご夫妻もお見掛けした。

第一夜では、「瀧口修造と“物質”」というテーマで、展覧会の開催概要や瀧口修造の関心の元となっている「物質」について掘り下げた内容であった。物質=「私」をとりまく世界、「私」という自我ではない、意識の外(無意識)にある部分を捉えたいと考えた時に、瀧口は「写真」に注目するようになった。印画紙に光が当たって制作される写真は、意識していないものも写し出すことが出来る。会場では、瀧口が関心を示していたウジェーヌ・アジェのスナップ写真が展示されている。

第二夜は、「瀧口修造とデカルコマニー」について、大谷氏は、オスカー・ドミンゲス、ジョルジュ・サンド、ロールシャハが制作したデカルコマニーの作例を挙げ、アンドレ・ブルトン『ミノートル』8号(1936年6月)にデカルコマニーが掲載されたのをきっかけに、わずか半年後に『阿々土』15号(1936年12月)で「対象の予想されないデカルコマニイ」として、作り方が紹介されたことを報告された。また、日本で開催された重要な展示としては、南画廊、新宿セバスチャンの個展の他に、東京府美術館に於いて開催された第5回新造形美術協会(1937年3月)で、瀧口が今井滋、瀧口綾子との共作(詩やデカルコマニー)を発表したことを挙げていた。また、展覧会終了後の5月には、雑誌でデカルコマニーを紹介していたことを示し、そのなかでも、特に重要なものとして、「作者が同時に熱心な鑑賞者になれるのもデカルコマニイです。」(「不思議な窓・デカルコマニイ」『アトリヱ』14巻5号、1937年)という妻綾子の一節を挙げ、デカルコマニーの本質と多様な表現性に触れていた。イメージの生成を循環してゆくことが、言葉では言い表せない何か、=「物質」を捉えることに繋がると考えらている。

瀧口のデカルコマニーについて、大谷氏は次のように解釈をしている。

近代的な表現主体としての作者の存在を相対化させるような性質が、もともとデカルコマニーにはあり、瀧口修造はその性質に身をゆだねているようにみえる。作者としての瀧口が作品の向こう側にいて、その表現意図を作品の表面から読み取らなければならない、というわけではないのだ。むしろ瀧口は作品のこちら側に私たちとともにいて、一緒に作品を見つめているのだと考えたほうがよい。
(中略)
作者と鑑賞者との境界が曖昧になるということは、「〇〇に見える」の「〇〇」が鑑賞者の数だけありうるということも意味する。

(大谷省吾「瀧口修造のデカルコマニーをめぐって」『瀧口修造展Ⅱ』2014年)

上記のように多角的なとらえ方ができるのがデカルコマニーの最大の魅力なのであろう。

東京国立近代美術館19東京国立近代美術館常設展の第9室写真・映像コーナー。

こちらには、細江英公の写真《薔薇刑》11点が展示されている。被写体となっている人物は、文筆家三島由紀夫である。元は、1962年銀座松屋で開催された「NON」展に20点組みで発表された写真である。翌年1963年には、写真集『薔薇刑』が集英社より発行された。
1968年には、《薔薇刑》の意思を引き継ぐように、澁澤龍彦編集の『血と薔薇』が創刊される。三島はここで再びモデルとなり、篠山紀信撮影《男の死》を発表することになった。

東京国立近代美術館20《薔薇刑》が展示されている風景。

細江英公は、瑛九に影響を受けた一人で、埼玉のアトリエに通い、フォト・デッサンの制作風景などを写真に収めている。細江は、瑛九の熱弁に触れて「ケロイド」ができたと比喩するほど、衝撃が走ったようだ。細江はデモクラート美術家協会にも参加している。

ちなみに、瀧口修造は下記の通り細江英公の写真集に寄稿している。
瀧口修造「鎌鼬、真空の巣へ」『鎌鼬』現代思潮社、1969年
瀧口修造「現前するガウディ」『ガウディの宇宙』集英社、1984年

東京国立近代美術館21夜の東京国立近代美術館の外観。ライトに照らされた梁が美しい。

夜間開館の実施中で、ゴードン・マッタ=クラーク展の会期中は21時まで、それ以降は20時まで開いている。美術館の前庭には、多田美波や現在開催中のゴードン・マッタ=クラークの作品が設置され、昼間とは別の表情を浮かべている。
また、見慣れないキッチンカーは、美術館内に店舗を持つ、L’ART ET MIKUNIが出店している。現在開催中の展示にあわせた期間限定のお店で、お弁当やローストビーフのサンドイッチ、ビール、日本酒、甘酒などの飲食ができる。総括ディレクター増田禎司氏にお話を伺うと、美術館の店内で出しているメニューを半額で提供しているものもあり、たいへんお得だという。桜の時期にも出店していて、評判が良いようだ。

夜の美術館では、学芸員によるミニレクチャーやボランティアによる展示解説などのプログラムがあるため、仕事帰りに作品を鑑賞して、外でゆっくりとくつろぐ来館者が多いようである。私も帰り際に冷やし甘酒をすすりながら野外彫刻を見ていると、昼間とは違った開放的な雰囲気を味わうことができた。日中に見かけなかった皇居ランナーの姿が見えると、暑さにも負けずに日常生活を送る日本人の柔軟な精神性を垣間見たような気がして、嬉しくなった。
(なかむらまき)

「瀧口修造と彼が見つめた作家たち―コレクションを中心とした小企画」
チラシ(部分)
会期:2018年6月19日(火)~9月24日(月・祝)
会場:東京国立近代美術館 ギャラリー4(2階)
時間:10:00-17:00(金・土曜は20:00まで)
休館:月曜(7月16日、9月17日、9月24日は開館)、7月17日、9月18日
出品作家:赤瀬川原平/浅原清隆/荒川修作/アンリ・ミショー/イヴ・タンギー/ウジェーヌ・アジェ/瑛九/大辻清司/岡崎和郎/加納光於/河原温/北代省三/北脇昇/ジョアン・ミロ/ジョゼフ・コーネル/瀧口修造/ポール・セザンヌ/ルーチョ・フォンターナ/浜田浜雄/福沢一郎/マックス・エルンスト/野中ユリ/福島秀子/山口勝弘

開催概要
 美術評論家・詩人の瀧口修造(1903-1979)は日本にシュルレアリスムを紹介し、また批評活動を通して若手作家を応援し続けたことで知られています。そして彼自身もドローイングやデカルコマニーなどの造形作品を数多く残しました。この小企画では、当館コレクションより、瀧口自身の作品13点に加え、彼が関心を寄せた作家たちの作品もあわせてご紹介します。とはいえ、これはシュルレアリスム展ではありません。瀧口が関心をもって見つめた作家たちが、どのように「もの」(物質/物体/オブジェ)と向き合ったかに着目しながら、作品を集めてみました。彼らの「もの」の扱い方は実にさまざまです。日常の文脈から切り離してみたり、イマジネーションをふくらませる媒介としたり、ただ単純にその存在の不思議をあらためて見つめなおしたり……。そうした多様な作品のどのような点に瀧口は惹かれたのかを考えながら、彼の視線を追体験してみましょう。そして、瀧口自身の作品で試みられている、言葉の限界の先にあるものに思いを巡らせてみましょう。


「連続ミニレクチャー 瀧口修造をもっと知るための五夜」(入場無料)
講 師:大谷省吾(美術課長・本展企画者)
時 間:各回とも18:30-19:00
場 所:地下1階講堂
第一夜:7月27日(金)「瀧口修造と“物質”」
第二夜:8月10日(金)「瀧口修造とデカルコマニー」
第三夜:8月24日(金)「瀧口修造と瀧口綾子」
第四夜:9月 7日(金)「瀧口修造と帝国美術学校の学生たち」
第五夜:9月21日(金)「瀧口修造と福沢一郎」
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●今日のお勧め作品は、瑛九です。
おすすめqei17-024瑛九 Q Ei
『眠りの理由』(10点組)より
from "Reason of Sleep"
1936年
フォトデッサン(フォトグラム)
26.7×21.7cm
Ed.40
※9点セット

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JR及び南北線の駒込駅南口から約8分です。
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