中村惠一「新宿・落合に住んだ画家たち(中村式落合散歩)」第2回

中村彜


 中村彜の絵は竹橋の国立近代美術館で「エロシェンコ氏の像」をみて学生のころから知っていた。それが重要文化財であることで驚いたこともあった。しかし、落合に越してきても、中村彜のアトリエが落合に残っているとは想像もしていなかった。それは、彜の生まれ故郷である茨城県立美術館の案内には「東京都新宿区下落合にあった中村彝のアトリエを1988年当館敷地内に新築復元。アトリエでは大正期に活躍した茨城県水戸市出身の洋画家、中村彝の遺品や資料を展示しております。」とあったから、まさかその現物が下落合に残っていようとは思ってもみなかった。

1 整備される前のアトリエの様子

 中村彜のアトリエが現存しており、消滅の危機にあることは新宿区民からではなく、豊島区民の方から聞いた。目白通りを越えてしまえば豊島区であるのだから豊島区民の方が関心が高くとも不思議はないのであるが、アトリエの敷地は新宿区内であり、何も知らなかったことが恥ずかしかったのを覚えている。すでに平成19(2007)年3月に「中村彜アトリエ保存会」がたちあがっており、保存にむけての地元からの声は次第に高まっていったのだった。私もその過程で知ったおくれた地元住民であった。

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 さっそく現地を訪ねることにした。たまたまJRの目白駅に近い場所にいたので目白駅からアトリエまでの道を歩いてみたのであった。目白駅から目白通りを西にむかう。左側に車が入ることができる最初の交差点を左に入ると、その道は旧近衛邸玄関に聳えていた欅の木、いわゆる「近衛のけやき」に通じるまっすぐな通り。先には行き止まる形で日立目白倶楽部にぶつかる。今上天皇が学習院に学んだ際の控えの間として使った建物である。けやきの手前、交番のあたりで右に曲がる必要がある。しばらく歩くと道は左側に小さな崖を抱える地形になる。以前はいくつかの桜が並木になっていたが、老いた桜が順番に切られていって今では1本の老木を残すのみとなった。彜が住んでいた時代からの生き残りだという。小さな通りの右側に屋敷林が茂った場所があり、奥に古い家が見えた。それが中村彜のアトリエであった。スペイン瓦らしい赤瓦でふかれた大きな屋根、そこに黒猫がいた。

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4「落合のアトリエ」(1916年)

 結果としてアトリエは新宿区によって保存されることに決まった。そして中村彜アトリエ記念館として大正5(1916)年、最初に建設されたときの姿を復元する形で整備された。住所は新宿区下落合3-5-7であり、オープンは平成25(2013)年である。
5整備された後の中村彜アトリエ


 中村彜といえば新宿・中村屋との関係が有名である。アトリエ記念館で配布している小冊子の略年譜をみると、明治44(1911)年には中村屋の相馬愛蔵・黒光夫妻の厚意により中村屋裏の画室に移り住んでいる。大正2(1913)年、前年から翌年にかけての期間に相馬家の長女の俊子をモデルに多数制作。大正4(1915)年夏、相馬家に俊子との結婚を申し込むも反対された。大正5(1916)年8月20日、豊多摩郡落合村下落合464番地に新築したアトリエに転居したのであった。結婚を反対された理由の一つが彜の結核にあり、大正元(1912)年には喀血が始っていた。俊子への愛は絵のモデルになってもらい描いているうちに育まれたものであったろうか。

6第8回文展で三等賞をうけた「小女」(1914年)

 中村彜のアトリエの近くには美術での友人たちが多く住んだ。曾宮一念であり、鶴田吾郎であり、鈴木良三であった。三人はともに下落合の住人であった。大正9(1920)年、目白駅で盲目のロシア詩人をみかけた鶴田吾郎が絵のモデルになってくれるよう詩人に頼んだ。詩人の名前はワシリー・エロシェンコといった。どういう経緯であったのか、鶴田はエロシェンコを中村彜アトリエに案内し、鶴田と中村の二人で描くことにしたのだった。このときに描かれた「エロシェンコ氏の像」は10月に開催された第二回帝展に出品されたのだった。

7「麦藁帽子の自画像」(1911年)

 大正12(1923)年9月、関東大震災でアトリエが傾いたが、彜自身は無事であった。しかし結核は確実に進行しており、11月には発熱して病床に就いた。大正13(1924)年12月24日突然の喀血による窒息のために37歳の生涯を閉じたのだった。12月27日に落合葬祭場で荼毘にふされたのだった。主を失ったアトリエの空間はさびしさを内包しているように今も感じる。
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9アトリエ内部の展示の様子
なかむら けいいち


中村惠一(なかむら けいいち)
北海道大学生時代に札幌NDA画廊で一原有徳に出会い美術に興味をもつ。一原のモノタイプ版画作品を購入しコレクションが始まった。元具体の嶋本昭三の著書によりメールアートというムーブメントを知り、ネットワークに参加。コラージュ作品、視覚詩作品、海外のアーティストとのコラボレーション作品を主に制作する。一方、新宿・落合地域の主に戦前の文化史に興味をもち研究を続け、それをエッセイにして発表している。また最近では新興写真や主観主義写真の研究を行っている。
・略歴
1960年 愛知県岡崎市生まれ
1978年 菱川善夫と出会い短歌雑誌『陰画誌』に創刊同人として参加
1982年 札幌ギャラリー・ユリイカで個展を開催
1994年 メールアートを開始
1997年 “Visual Poesy of Japan”展参加(ドイツ・ハンブルグほか)
1999年 「日独ビジュアルポエトリー展」参加(北上市・現代詩歌文学館)
2000年 フランスのPierre Garnierとの日仏共作詩”Hai-Kai,un cahier D’ecolier”刊行
2002年 “JAPANESE VISUAL POETRY”展に参加(オーストリア大使館)
2008年 “Mapping Correspondence”展参加(ニューヨークThe Center for Book Arts)
2009年 “5th International Artist’s Book Triennial Vilnius2009”展に参加(リトアニア)
2012年 “The Future” Mail Art展企画開催(藤沢市 アトリエ・キリギリス)


●今日のお勧め作品はエドワード・ウェストンです。
weston_01_nudeエドワード・ウェストン Edward WESTON
"Nude"
1936 (Printed later)
ゼラチンシルバープリント
24.0x19.3cm
Printed and signed by Cole Weston

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野口琢郎展_表紙600野口琢郎展カタログ
2018年
ときの忘れもの発行
24ページ
テキスト:島敦彦
デザイン:岡本一宣デザイン事務所
本体価格800円(税込) ※送料別途250円(メールにてお申し込みください)


●ときの忘れものは昨年〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS に移転しました。TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531
阿部勤設計の新しい空間についてはWEBマガジン<コラージ12月号18~24頁>に特集されています。
2018年から営業時間を19時まで延長します。
営業時間=火曜~土曜の平日11時~19時。日・月・祝日は休廊。
ただし9月20日[木]―9月29日[土]開催の野口琢郎展は特別に会期中無休です
JR及び南北線の駒込駅南口から約8分です。
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