中村惠一「新宿・落合に住んだ画家たち(中村式落合散歩)」第3回
村山知義
大正アヴァンギャルドの旗手にしてグループ・マヴォの中心メンバーである村山知義のいわゆる三角のアトリエが上落合に空襲による火災によって焼失するまでは存在していたことを引越したばかりの私は知らなかった。平成18(2006)年に森美術館で開催された「東京―ベルリン/ベルリン―東京展」に展示されていた雑誌『Mavo』の奥付をみて村山のアトリエが上落合にあったことに気付いたのだった。そこには東京市外上落合186番地と記載されていた。村山知義の自宅は同じ町内にあったのだった。古い地図で場所を確認し西武新宿線の下落合駅から歩いてみることにした。
雑誌『Mavo』創刊号
三角のアトリエの家(『朝日グラフ』大正13年3月19日号)
ルートとしてもっともわかりやすいのは、駅をおりてすぐに左に、つまり上落中通りを南に向かい、三叉路を左に八幡通りを早稲田通りに向かう道。そして早稲田通りに出る2本前の道を右に入ったところに三角のアトリエはあった。目の前は八幡公園。ここには戦前、月見岡八幡神社があったが、下水処理場建設のために現在の場所に移設された。昭和初期、この付近には「全日本無産者芸術連盟」(通称「ナップ」)本部や作家同盟の本部、東京プロレタリア印刷美術研究所などの施設がならび、「インターナショナル」の訳者である佐々木孝丸や中野重治、壺井繁治・栄夫妻、黒島伝治、武田麟太郎などが住んでいた場所で、俗に「落合ソヴィエト」とよばれたこともあったようだ。前回までの散歩では、当時のアトリエが残っていて散歩先で現物を見ることができた。しかし今回以降の散歩ではそれはかなわない。今はないアトリエや住宅を想像し、イマジネーションの散歩を行うしかないのである。
三角のアトリエの家のあとを進み、最初の交差点を右に曲がると左手に現在の月見岡八幡神社がある。この道の両側にはプロレタリア文学作家が集まり住んだ。しばらく道なりにあるくとナップ本部のあった場所が右側にある。道はそのまま上落中通りに合流、そのまま歩けば下落合駅に至る。
点線による丸印の場所が上落合186番地。三角のアトリエの場所
村山知義の母は雑誌『婦人之友』の記者であり、上屋敷(現在の南池袋)にある勤務先への通勤を考えての上落合への転居であったのではと思う。また、村山の『演劇的自叙伝2』によれば、村山の叔母が上落合に借家をもっており、その一つに尾形亀之助が住んでいたと記述していることから、親戚を頼っての転居であったのかもしれない。最初、村山知義は童画を描いていた。初期作品は『子供之友』の挿絵として掲載されている。その村山がベルリンに留学したのは大正11(1922)年のこと。哲学の勉強のためであった。村山のベルリン滞在はわずかに1年。その間に未来派の国際展に参加する、ベルリンのアヴァンギャルド芸術家たちが集まるギャラリー「シュトュルム」に出入りするなど美術分野で大活躍であった。ベルリンで制作した意識的構成主義作品を携えて帰国したのは大正12(1923)年1月のことだった。三角のアトリエは帰国後に建設している。
「コンストルクチオン」
上落合地域に当時住んでいた画家たちのなかに未来派に属するメンバーたちがいた。前述の尾形亀之助や大浦周蔵、上落合ではないが村山の自宅から徒歩で5分ほどの距離にいた柳瀬正夢といったメンバーたちであった。5月、自宅で「村山知義―意識的構成主義的小品展覧会」を開催、辻潤も見にきたようだが、近所に住む未来派のメンバーや門脇晋郎も展覧会を訪れ、意気投合した作家たちは7月に前衛美術団体「マヴォ」を結成した。その後メンバーになる岡田龍夫や雑誌『Mavo』の編集を行う詩人の萩原恭次郎なども落合の住人となったのだった。
マヴォ宣言にいわく。「私達は尖端に立つている。そして永久に尖端に立つであらう。私達は縛られてゐない。私達は過激だ。私達は革命する。私達は進む。私達は創る。私達は絶えず肯定し、否定する。私達は言葉のあらゆる意味に於て生きてゐる、比べるに物のない程。」また「講演会、劇、音楽会、雑誌の発行、その他を試みる。ポスター、ショオヰンドー、書籍の装釘、舞台装置、各種の装飾、建築設計等をも引き受ける。」としている。いわゆる絵画展を開催する団体としてマヴォは結成されず、現在でいえばマニュフェストも発表するし、パフォーマンスもするし、ジンも発行するし、いるいろやる。商業美術的にもグラフィック・デザインやブックデザイン、建築デザイン、舞台デザインなど総合的にてがける、と宣言している。あらゆる芸術の総合体として建築を考えたバウハウスやブフテマスを思い出してしまった。
最初、村山は左翼思想に無関心であった。柳瀬はかなりオルグしたようだが村山はダダ的なモダニスム志向であって聞く耳をもたなかったようだ。この状況が変わるのは自由学園一期生の岡内壽子とつきあってからのようだ。二人はフランク・ロイド・ライトと遠藤新が設計した自由学園で結婚した。そして空襲によって焼失するまで三角のアトリエに暮らした。妻のオルグを受けた知義は結局左翼陣営を走り続けることになるのだから不思議だ。
結婚式のときの二人
三角のアトリエでの二人
三角のアトリエの家の図面
(なかむら けいいち)
■中村惠一(なかむら けいいち)
北海道大学生時代に札幌NDA画廊で一原有徳に出会い美術に興味をもつ。一原のモノタイプ版画作品を購入しコレクションが始まった。元具体の嶋本昭三の著書によりメールアートというムーブメントを知り、ネットワークに参加。コラージュ作品、視覚詩作品、海外のアーティストとのコラボレーション作品を主に制作する。一方、新宿・落合地域の主に戦前の文化史に興味をもち研究を続け、それをエッセイにして発表している。また最近では新興写真や主観主義写真の研究を行っている。
・略歴
1960年 愛知県岡崎市生まれ
1978年 菱川善夫と出会い短歌雑誌『陰画誌』に創刊同人として参加
1982年 札幌ギャラリー・ユリイカで個展を開催
1994年 メールアートを開始
1997年 “Visual Poesy of Japan”展参加(ドイツ・ハンブルグほか)
1999年 「日独ビジュアルポエトリー展」参加(北上市・現代詩歌文学館)
2000年 フランスのPierre Garnierとの日仏共作詩”Hai-Kai,un cahier D’ecolier”刊行
2002年 “JAPANESE VISUAL POETRY”展に参加(オーストリア大使館)
2008年 “Mapping Correspondence”展参加(ニューヨークThe Center for Book Arts)
2009年 “5th International Artist’s Book Triennial Vilnius2009”展に参加(リトアニア)
2012年 “The Future” Mail Art展企画開催(藤沢市 アトリエ・キリギリス)
●本日のお勧め作品は駒井哲郎です。
駒井哲郎
《街》
1973年 銅版
23.5×21.0cm
Ed.250 Signed
※レゾネNo.298(美術出版社)
こちらの作品の見積り請求、在庫確認はこちらから
※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください。
●本日22日(月)は休廊です。
◆ときの忘れものは「Art Taipei 2018」に出展します。
会期=2018年10月26日[金]~10月29日[月]
会場:Taipei World Trade Center Hall One
ときの忘れものブース:S11
公式サイト:http://2018.art-taipei.com/
出品作家:葉栗剛、野口琢郎、木原千春、作元朋子、倉俣史朗、安藤忠雄、磯崎新、光嶋裕介、ル・コルビュジエ
●ときの忘れものは昨年〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS に移転しました。TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531
阿部勤設計の新しい空間についてはWEBマガジン<コラージ12月号18~24頁>に特集されています。
2018年から営業時間を19時まで延長します。
営業時間=火曜~土曜の平日11時~19時。日・月・祝日は休廊。
JR及び南北線の駒込駅南口から約8分です。

村山知義
大正アヴァンギャルドの旗手にしてグループ・マヴォの中心メンバーである村山知義のいわゆる三角のアトリエが上落合に空襲による火災によって焼失するまでは存在していたことを引越したばかりの私は知らなかった。平成18(2006)年に森美術館で開催された「東京―ベルリン/ベルリン―東京展」に展示されていた雑誌『Mavo』の奥付をみて村山のアトリエが上落合にあったことに気付いたのだった。そこには東京市外上落合186番地と記載されていた。村山知義の自宅は同じ町内にあったのだった。古い地図で場所を確認し西武新宿線の下落合駅から歩いてみることにした。
雑誌『Mavo』創刊号
三角のアトリエの家(『朝日グラフ』大正13年3月19日号)ルートとしてもっともわかりやすいのは、駅をおりてすぐに左に、つまり上落中通りを南に向かい、三叉路を左に八幡通りを早稲田通りに向かう道。そして早稲田通りに出る2本前の道を右に入ったところに三角のアトリエはあった。目の前は八幡公園。ここには戦前、月見岡八幡神社があったが、下水処理場建設のために現在の場所に移設された。昭和初期、この付近には「全日本無産者芸術連盟」(通称「ナップ」)本部や作家同盟の本部、東京プロレタリア印刷美術研究所などの施設がならび、「インターナショナル」の訳者である佐々木孝丸や中野重治、壺井繁治・栄夫妻、黒島伝治、武田麟太郎などが住んでいた場所で、俗に「落合ソヴィエト」とよばれたこともあったようだ。前回までの散歩では、当時のアトリエが残っていて散歩先で現物を見ることができた。しかし今回以降の散歩ではそれはかなわない。今はないアトリエや住宅を想像し、イマジネーションの散歩を行うしかないのである。
三角のアトリエの家のあとを進み、最初の交差点を右に曲がると左手に現在の月見岡八幡神社がある。この道の両側にはプロレタリア文学作家が集まり住んだ。しばらく道なりにあるくとナップ本部のあった場所が右側にある。道はそのまま上落中通りに合流、そのまま歩けば下落合駅に至る。
点線による丸印の場所が上落合186番地。三角のアトリエの場所村山知義の母は雑誌『婦人之友』の記者であり、上屋敷(現在の南池袋)にある勤務先への通勤を考えての上落合への転居であったのではと思う。また、村山の『演劇的自叙伝2』によれば、村山の叔母が上落合に借家をもっており、その一つに尾形亀之助が住んでいたと記述していることから、親戚を頼っての転居であったのかもしれない。最初、村山知義は童画を描いていた。初期作品は『子供之友』の挿絵として掲載されている。その村山がベルリンに留学したのは大正11(1922)年のこと。哲学の勉強のためであった。村山のベルリン滞在はわずかに1年。その間に未来派の国際展に参加する、ベルリンのアヴァンギャルド芸術家たちが集まるギャラリー「シュトュルム」に出入りするなど美術分野で大活躍であった。ベルリンで制作した意識的構成主義作品を携えて帰国したのは大正12(1923)年1月のことだった。三角のアトリエは帰国後に建設している。
「コンストルクチオン」上落合地域に当時住んでいた画家たちのなかに未来派に属するメンバーたちがいた。前述の尾形亀之助や大浦周蔵、上落合ではないが村山の自宅から徒歩で5分ほどの距離にいた柳瀬正夢といったメンバーたちであった。5月、自宅で「村山知義―意識的構成主義的小品展覧会」を開催、辻潤も見にきたようだが、近所に住む未来派のメンバーや門脇晋郎も展覧会を訪れ、意気投合した作家たちは7月に前衛美術団体「マヴォ」を結成した。その後メンバーになる岡田龍夫や雑誌『Mavo』の編集を行う詩人の萩原恭次郎なども落合の住人となったのだった。
マヴォ宣言にいわく。「私達は尖端に立つている。そして永久に尖端に立つであらう。私達は縛られてゐない。私達は過激だ。私達は革命する。私達は進む。私達は創る。私達は絶えず肯定し、否定する。私達は言葉のあらゆる意味に於て生きてゐる、比べるに物のない程。」また「講演会、劇、音楽会、雑誌の発行、その他を試みる。ポスター、ショオヰンドー、書籍の装釘、舞台装置、各種の装飾、建築設計等をも引き受ける。」としている。いわゆる絵画展を開催する団体としてマヴォは結成されず、現在でいえばマニュフェストも発表するし、パフォーマンスもするし、ジンも発行するし、いるいろやる。商業美術的にもグラフィック・デザインやブックデザイン、建築デザイン、舞台デザインなど総合的にてがける、と宣言している。あらゆる芸術の総合体として建築を考えたバウハウスやブフテマスを思い出してしまった。
最初、村山は左翼思想に無関心であった。柳瀬はかなりオルグしたようだが村山はダダ的なモダニスム志向であって聞く耳をもたなかったようだ。この状況が変わるのは自由学園一期生の岡内壽子とつきあってからのようだ。二人はフランク・ロイド・ライトと遠藤新が設計した自由学園で結婚した。そして空襲によって焼失するまで三角のアトリエに暮らした。妻のオルグを受けた知義は結局左翼陣営を走り続けることになるのだから不思議だ。
結婚式のときの二人
三角のアトリエでの二人
三角のアトリエの家の図面(なかむら けいいち)
■中村惠一(なかむら けいいち)
北海道大学生時代に札幌NDA画廊で一原有徳に出会い美術に興味をもつ。一原のモノタイプ版画作品を購入しコレクションが始まった。元具体の嶋本昭三の著書によりメールアートというムーブメントを知り、ネットワークに参加。コラージュ作品、視覚詩作品、海外のアーティストとのコラボレーション作品を主に制作する。一方、新宿・落合地域の主に戦前の文化史に興味をもち研究を続け、それをエッセイにして発表している。また最近では新興写真や主観主義写真の研究を行っている。
・略歴
1960年 愛知県岡崎市生まれ
1978年 菱川善夫と出会い短歌雑誌『陰画誌』に創刊同人として参加
1982年 札幌ギャラリー・ユリイカで個展を開催
1994年 メールアートを開始
1997年 “Visual Poesy of Japan”展参加(ドイツ・ハンブルグほか)
1999年 「日独ビジュアルポエトリー展」参加(北上市・現代詩歌文学館)
2000年 フランスのPierre Garnierとの日仏共作詩”Hai-Kai,un cahier D’ecolier”刊行
2002年 “JAPANESE VISUAL POETRY”展に参加(オーストリア大使館)
2008年 “Mapping Correspondence”展参加(ニューヨークThe Center for Book Arts)
2009年 “5th International Artist’s Book Triennial Vilnius2009”展に参加(リトアニア)
2012年 “The Future” Mail Art展企画開催(藤沢市 アトリエ・キリギリス)
●本日のお勧め作品は駒井哲郎です。
駒井哲郎《街》
1973年 銅版
23.5×21.0cm
Ed.250 Signed
※レゾネNo.298(美術出版社)
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※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください。
●本日22日(月)は休廊です。
◆ときの忘れものは「Art Taipei 2018」に出展します。
会期=2018年10月26日[金]~10月29日[月]会場:Taipei World Trade Center Hall One
ときの忘れものブース:S11
公式サイト:http://2018.art-taipei.com/
出品作家:葉栗剛、野口琢郎、木原千春、作元朋子、倉俣史朗、安藤忠雄、磯崎新、光嶋裕介、ル・コルビュジエ
●ときの忘れものは昨年〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS に移転しました。TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531
阿部勤設計の新しい空間についてはWEBマガジン<コラージ12月号18~24頁>に特集されています。
2018年から営業時間を19時まで延長します。
営業時間=火曜~土曜の平日11時~19時。日・月・祝日は休廊。
JR及び南北線の駒込駅南口から約8分です。

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