中村惠一「新宿・落合に住んだ画家たち(中村式落合散歩)」第4回

柳瀬正夢
 
                              
 今回も大正アヴァンギャルドの旗手であるグループ・マヴォの中心メンバーの一人、柳瀬正夢を訪ねる。柳瀬は1900年松山生まれである。早熟だった柳瀬は移り住んだ門司で年若くして何度かの個展を開催していた。大正9(1920)年、本格的に上京し本郷に下宿、長谷川如是閑(萬次郎)の世話で雑誌『我等』の校正係となるとともに、讀賣新聞に入社し編集部に配属された。翌年には讀賣新聞紙上に政治漫画、時事漫画が掲載されるようになった。あわせて未来派美術協会に参加、第二次『種蒔く人』の同人となり、その創刊号を装丁した。『我等』を発行していた長谷川如是閑や論文執筆者である大山郁夫が住んでいた場所にほど近い東中野に下宿を見つけて、越してきたのは大正11(1922)年11月3日のことだった。市外中野町15-10青木方への転居である。青木家は運送業を営んでいた。柳瀬はのちに妻となる青木梅子とここで出会う。柳瀬にとって東中野のこの家は「出会い」の家だったのかもしれない。ここに住んだためにドイツから帰国した村山知義と出会いMAVOを結成することになったのだから。大正12(1923)年はじめの頃のことである。
           
01雑誌『我等』大正14年4月号 雑誌『我等』大正14年4月号


柳瀬の下宿の場所であるが、住所では中野であるが、北に少し歩けば上落合になる。今回も下落合駅から歩くが、東中野駅から歩いても同じくらいの距離である。村山知義の三角のアトリエまでは前回と同様。そこから南に歩き早稲田通りを越えた先が、柳瀬の下宿のあった場所である。神田川に近く、村山のアトリエが「小滝橋にほど近く」ならば柳瀬の下宿は小滝橋より一本上流にかかる亀齢橋(きれいばし)にほど近い場所である。

02地図点線による丸印の場所が村山知義の三角のアトリエの場所。実線による丸印の場所が 大正12年時点の柳瀬正夢の下宿の場所。


大正12(1923)年5月、村山知義は自宅アトリエで「村山知義、意識的構成主義的小品展覧会」を開催する。これに未来派美術協会に属していた柳瀬正夢、門脇晋郎、尾形亀之助、大浦周蔵が訪問することになるが、期せずしてみな落合またはすぐ近くに住居していた。このメンバーたちが何度か会合をかさねてグループ・マヴォ(MAVO)を結成する。7月のことである。7月末にはMAVOとしての第一回展覧会を浅草伝法院で開催する。

03柳瀬正夢の下宿のあったあたり。柳瀬正夢の下宿のあったあたり。この道路の先に神田川がある。


04門司「門司」(1920年)


05「崖と草」「崖と草」(1921年頃)



06「川と橋」「川と橋」(1921年頃)


07「底の報復」「底の報復」(1922年)


08「MV」「MV」(1923年)

門司時代からマヴォでのアヴァンギャルドな絵画作品までが柳瀬の前半のタブロー作品ということになる。未来派から構成主義という前衛的な絵画表現でタブローを描いた時期であった。大正12(1923)年9月、東京は関東大震災に襲われる。震災直後に柳瀬は下宿にほど近い、そして千葉に避暑に行っていた大山郁夫の留守宅を留守番していた。そこに憲兵が来たのだった。その時は検挙されなかったが、下宿に帰った柳瀬を憲兵は改めて検挙に来たのだった。ほかの検挙者とともに戸山ヶ原に連行され、死を覚悟した柳瀬を救ったのは皮肉にも特高警察であった。特高警察は柳瀬を憲兵から引き取り、淀橋警察署戸塚分署に留置した。現在の高田馬場駅の東側にある郵便局がある場所である。そこには作家・平林たい子も留置されていた。二人は警察で初めて知り合う。後に柳瀬の紹介によって平林は高見沢路直と見合い、婚約する。高見沢は結局平林と別れ、岡田龍夫を紹介することになる。平林の「砂漠の花」にはその経緯が描かれていて興味深い。震災後にマヴォのメンバーはバラック装飾社を結成、建築デザインや看板などを提供する。既成のタブロー表現を彼らは否定し、脱皮してゆくことになった。ポスターや挿絵、マンガ、風刺画など印刷媒体に作品を提供し、それはマルチプル作品として拡散した。柳瀬も同様で、マヴォ展までのタブロー主体の制作が次第に影をひそめ、舞台美術、ポスターデザイン、風刺漫画などが制作の中核となる。梅子と結婚した柳瀬は大正13(1924)年1月に杉並区馬橋に引越し、新婚生活をスタートさせた。落合を離れた柳瀬。妻と二人の子供に囲まれ幸せな家庭に恵まれたのだが、治安維持法違反容疑によって馬橋で再び検挙されることになる。のちに再び落合に居を定めることになるのだが、その時期は妻の梅子を失う厳しい時期でもあった。そしてタブローを再び描くことになるのだが、西落合での柳瀬については別の回で改めて紹介したい。検挙されるまでの柳瀬であるが、雑誌『文芸戦線』の同人として表紙を描く、『無産者新聞』のポスターに力強いイラストを提供する、などプロレタリア美術陣営で大活躍をする。その風刺的なマンガのスタイルはドイツのゲオルグ・グロッスの影響を感じる。前衛的なタブローも風刺的なマンガもともに柳瀬の本流をなす表現であったのだと思う。
なかむら けいいち

中村惠一(なかむら けいいち)
北海道大学生時代に札幌NDA画廊で一原有徳に出会い美術に興味をもつ。一原のモノタイプ版画作品を購入しコレクションが始まった。元具体の嶋本昭三の著書によりメールアートというムーブメントを知り、ネットワークに参加。コラージュ作品、視覚詩作品、海外のアーティストとのコラボレーション作品を主に制作する。一方、新宿・落合地域の主に戦前の文化史に興味をもち研究を続け、それをエッセイにして発表している。また最近では新興写真や主観主義写真の研究を行っている。
・略歴
1960年 愛知県岡崎市生まれ
1978年 菱川善夫と出会い短歌雑誌『陰画誌』に創刊同人として参加
1982年 札幌ギャラリー・ユリイカで個展を開催
1994年 メールアートを開始
1997年 “Visual Poesy of Japan”展参加(ドイツ・ハンブルグほか)
1999年 「日独ビジュアルポエトリー展」参加(北上市・現代詩歌文学館)
2000年 フランスのPierre Garnierとの日仏共作詩”Hai-Kai,un cahier D’ecolier”刊行
2002年 “JAPANESE VISUAL POETRY”展に参加(オーストリア大使館)
2008年 “Mapping Correspondence”展参加(ニューヨークThe Center for Book Arts)
2009年 “5th International Artist’s Book Triennial Vilnius2009”展に参加(リトアニア)
2012年 “The Future” Mail Art展企画開催(藤沢市 アトリエ・キリギリス)

中村惠一のエッセイ「新宿・落合に住んだ画家たち(中村式落合散歩)」は毎月22日更新です。

●本日のお勧め作品は北川民次です。
tamiji_03_tekagami北川民次 Tamiji KITAGAWA
《手鏡を持つ母子像》
1947年
油彩
92.0×73.0cm
サインあり
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阿部勤設計の新しい空間についてはWEBマガジン<コラージ12月号18~24頁>に特集されています。
2018年から営業時間を19時まで延長します。
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JR及び南北線の駒込駅南口から約8分です。
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