植田実のエッセイ「本との関係」第9回

岩波文庫ひとつ星


 岩波文庫のトオマス・マン『トニオ・クレエゲル』 を何十年ぶりかで書棚から探し出して埃をはらった。100頁そこそこ、厚さ4ミリ。背表紙に小さいタイトル文字がぎりぎりに印刷されている。定価はひとつ★。昔の岩波文庫は背表紙と奥付けに印刷された星の数が定価を表していた。いつからか奥付けには金額が書き込まれるようになるけれど背表紙の星はまだしばらくは残っていた。いや、そのことより本の薄さである。ペナペナという感じでポケットに入れておいても本の感触を忘れてしまうのがいい。しかし独立した1冊だから逆に内容が濃く思えるし、いつでも持っていられる。プラトンの『饗宴』、ベルグソンの『哲学的直観』、夏目漱石の『硝子戸の中』など、どれもひとつ星だった。
 戦後まもない頃の角川文庫や新潮文庫にも極薄の巻があったし、弘文堂のアテネ文庫などはその薄さをむしろ定型にしたみたいな感じで書店の棚にひっそり並んでいた。逆にいまは、あまり文字量の多くない小説などは活字を大きくしてそれなりの束(厚味)を出している。文庫本でどこまで厚くつくれるかを競っているような傾向さえ見られる。書店の棚では探すのに便利だろうし、定価の問題もあるのだろうが、かつて薄い文庫本に、若者たちは特別の気持を持ったのである。
 うちの書棚にあった『トニオ・クレエゲル』は、奥付けを見ると昭和42(1967)年2月10日第21刷。じつは私が持っていたつもりの本とは違うことに今さら気がついた。大学のフランス文学専攻クラスの同級だった飯村(当時は大口姓)昭子が突然、この本を私に郵便で送りつけてきたのである。入学してお互いに知り合ってまもなくのことだったし、彼女が自分で読みこんでいた本に違いないからさらに10年以上前の発行でなければならない。と考えた時、すっかり忘れていたことを今になって思い出した。
 飯村の『トニオ・クレエゲル』は、のちに彼女に返却したに違いない。
 私たちの世代はこの小説から、おそらく共通する洗礼を受けている。どういうわけだかこれに触れる機会をこの年頃にもれなく(と私は信じている)与えられて、といってもベストセラー本ではない。1903年に書かれたこの古典文学に、ひとりひとりがどこかで、いつか、ひっそりと出会っているのだ。ただ漱石のように学校の国語の時間に教わっていつかは読まなければと心に懸けている作品とも違う。だから、何かの折に、「『トニオ・クレエゲル』って読んだことある?」「えっ、君も読んでいたの!」と、トニオ・クレエゲル・ショックを語り合う仲になったりする。
 飯村昭子からこの文庫本を送られてきたとき、トオマス・マンの名を知ってはいたが、『トニオ・クレエゲル』の存在を知っていたかどうか。マンの作品はとにかく1篇も読んではいなかった。読み終えて、大袈裟にいえば私の人生は変わった。
 作品の内容をここで紹介する余裕はないが、要するに「芸術と生活、もしくは芸術家と人間という対立」(訳者・実吉捷郎のあとがきより)を扱っている。飯村は、私との会話のなかで多分、芸術家ぶった(?)私の話しぶりに、この本を読んでどう思うか聞きたかったのか、いやあからさまに痛烈な批判をこめたのか、よく分らないが、とにかく送りつけてきた。しかももっとも手痛い箇所に傍線を引いて。
 トニオはある日の午後、女友だちの画家のアトリエを訪ねて自分の芸術家論を、悩みというかたちで延々とおしゃべりする。そのあと、彼女からその悩みの「解決」としてひとこと返事される。「解決というのはね、あなたはそこに坐っていらっしゃるままで、なんの事はない、一人の俗人だというんです」と。さらにいえば「踏み迷っている俗人ね」と女画家は言葉をそえ、若者トニオは自分という「問題」を一瞬にして自覚することになる。飯村はこの箇所に鉛筆で傍線を引いていたのである。
 口頭で「俗人」といわれても簡単に言い返して終わりにできるが、なにか証明書を送られてきたみたいで、これに続くトニオの返事をそのまま引用すれば、「ありがとう、これで僕は安心して家へ帰れます。僕は片付けられてしまったのですから。」と同じような心境に私もなったのだ。だが、それが衝撃だったとしても、じつは自分が俗人であることを知る以上に、この小説が世界じゅうでただひとり、自分のために書かれたかのような、これまでに味わったことのない読書体験こそが衝撃なのであり、にもかかわらず同じ体験者に次々と出会うことになるのが、トニオ・クレエゲル・ショックの連鎖になってゆく。
 原書は1903年に出版されたマンの短篇小説集のなかの1篇らしい。この短篇集も同じ実吉捷郎訳、2分冊で岩波文庫になっているが、『クレエゲル』だけを独立した1冊にしたのは、岩波文庫としてのこの作品の見事な位置づけといえるだろう(短編集は現在は1冊にまとめられているが、『クレエゲル』はやはり別巻)。『トニオ・クレエゲル』の読者は当然、ほかの短篇集に進み、さらには(少くとも私のばあいは)評論、講演録、書簡、日記を加えての、マンの壮大な思想世界に誘いこまれていくことになる。自分の現実に直に関わると確信できる文学にはじめて出会ったわけで、その後、手に入る本はもちろん彼の文章が載っている雑誌まで古書店などで探し出しては読みふけった。『ヴェニスに死す』は原書まで買いこんで、ドイツ語入門書片手に冒頭から暗記しはじめたのには我ながらあきれるばかりだった。マンに限らずその周辺の文学者や思想家にも関心が及んだ。多くはドイツ語圏の人々である。当然フロイトも読むようになる。高校時代からずっと集めていた現代詩人たちの詩集をまとめて渋谷・宮益坂上の古書店に売り払ったのもこの頃だろう。
 私は1年の夏から秋にかけて母の病いと死への対応でしばらく学校を休み、結局1年下のクラスでやりなおすことにしたので、もとのクラスには顔を出さなくなったが、飯村とは時々会う機会があった。
 卒業後、彼女はたしか『若い広場』という青年向け雑誌の編集部にいた時期があり、私は依頼されてモダンジャズのレコードを紹介する連載記事を書いたが、その雑誌も記事の切り抜きがあったとしても行方不明。捨てたのかもしれない。MJQとチェット・ベーカーについて書いたことだけ覚えている。さらにそのずっとあと、彼女と夫君の映像作家・飯村隆彦とのニューヨーク住まいもすっかり落ちついた頃、突然ブック・デザインの依頼があった。「ときの忘れもの」にも今は関係の深い『ヨナス・メカスの日記』。メカスの友人にして良き理解者である飯村昭子の翻訳による本だ。これについては、あらためて書くことがあるだろう。彼女は私に、思いがけない大きなチャンスを何度もくれた恩人なのである。
 マンは、『トニオ・クレエゲル』の読者を、その青春的感傷にとどめおくことを許さない作家だった。その後、代表的小説作品だけでも『ヴェニスに死す』に次いで『魔の山』『ファウスト博士』から『ヨゼフとその兄弟』まで体系的に展開されてゆき、それを読むのが必然となる。その『ヨゼフとその兄弟』のドイツ語版の本が机の上に置かれているのを見たことがある。
 鉄筋コンクリート造の、じつにシンプルな、ほぼ一室空間の住宅で、キッチンもベッドもありのままにひとめで見渡せる。私がまだ大学に入っていなかった頃、若い建築家が軽量鉄骨造の、やはり一室空間の自宅を設計した。その完成直後を、建築やデザイン関係の大人(?)たちに誘われて一緒に見に行った、その処女作を手掛けた同じ建築家の晩年の設計を訪ねたのだった。書斎コーナーに、といっても本はごくわずかで、建て主であり住まい手でもある、私よりもやや年上のKさんは、マンの本だけを「毎日、すこしずつ楽しんでいるんですよ。」読書をここまで簡素化できたひとに感嘆し、うらやましかった。
 ぜひもう一度来て下さいと渡されたKさん手書きの所番地は今もそのままだが、Joseph und seine Brüderのタイトル文字が強いハードカバーの本は、書棚に収まりきれない大きさと厚味だった。星ひとつの文庫本からはじまった書物は、年経るごとに記憶のなかで、すこしずつさらに大きく重くなってゆく。                           
(2006.7.28/2018.11.12 うえだ まこと

●今日のお勧め作品は、植田実です。
ueda_78_hashima_08植田実 Makoto UYEDA
《端島複合体》(8)
1974年撮影(2014年プリント)
ゼラチンシルバープリント
26.9×40.4cm
Ed.5
サインあり
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●ときの忘れものは〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS に移転しました。阿部勤設計の新しい空間についてはWEBマガジン<コラージ12月号18~24頁>に特集されています。
2018年から営業時間を19時まで延長します。
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