「菅井汲と版画」
大内直輝
海の見える杜美術館では、7月21日(日)まで「生誕100年記念 菅井汲 —あくなき挑戦者—」展を開催しています。
本展覧会は、パリを拠点に活動した日本人画家・菅井汲の版画作品にスポットをあて、同館所蔵のコレクション約100点を展示するものです。今回の展示では、それらを4つの時期—渡仏初期の日本的主題を取り入れた繊細なタッチの作品、1960年代の明快な色彩で幾何学的な形を描いたダイナミックな抽象作品、1970年代のほぼ円と直線のみで構成される規格化されたモチーフを主体にした作品、晩年の「S」字シリーズ—に分けて章を構成しています。
《FORET AU SOLEIL》(太陽の森)
1967年
《FESTIVAL》(フェスティヴァル)
1970年
《LOVERS E》(愛人E)
1988年
《S FLECHE JAUNE》(S 黄色い矢)
1989年
菅井汲は1952年の渡仏から1996年に亡くなるまで、大型の油彩やアクリル画に制作の主体を置いていましたが、その一方で数多くの版画作品を手がけました。その数は400点以上に及び、版画は彼の画業を語る上で無視できないものとなっています。
彼と版画の出会いは1955年のことで、当時契約していたクラヴァン画廊の勧めで《DIABLE ROUGE(赤い鬼)》という作品のリトグラフを制作したのが最初といわれています。その背景には、前年(1954年)に同画廊で開かれた個展が大きな反響を呼び、彼が忽ち売れっ子の画家となったことで、彼の作品に対する需要が急速に高まって、供給が追いつかなくなったことがあったようです。
《DIABLE ROUGE》(赤い鬼)
1955年
リトグラフ
そのようなきっかけで始めた版画ですが、結果的に彼は亡くなるまでの40年以上にわたりその制作に携わることとなりました。菅井は版画について「版画の魅力はスピード感である」と語っており、タブロー(絵画)や立体作品と違って気軽に制作に取りかかれ、自分の自由で無責任な思いつきを比較的短時間で実現できるものとして、タブローと同様に版画の制作にも力を注いでいました。「版画はタブローよりも私の全人格を表現できる」、「増々版画に没頭するでしょう」という言葉通り、彼は版画の個展を頻繁に行い、国際版画展にも何度も出品していました。そして彼の版画は国際展で受賞を重ねるなど高い評価を得ていました。需要を満たすために制作を始めた版画ですが、菅井自身の考えをそのまま表現するには最も適したメディアであったのでしょう。
個人的には菅井汲の版画の一番の魅力は、色彩の鮮やかさにあると思います。特に色彩とフォルムに制限が加えられ、画面が整理された1970年代の作品は、道路標識を見たときのように、瞬時にイメージが脳裏に刻まれます。同じ色と同じ形の反復で画面を構成していくことは一見無個性であるようにも思えますが、彼が指向した表現の方向性はそこにこそあり、この時期にこそ最も菅井汲らしさがあらわれていると思います。
《AUTO-ROUTE FONT AINEBLEAU》(フォンテンブローのオートルート)
1964年
《GROUP3》(グループ3)
1980年
(おおうち なおき)
■大内直輝(おおうち なおき)
茨城県生まれ。早稲田大学文学研究科美術史学コース修了。2017年より海の見える杜美術館勤務。
「生誕100年記念 菅井汲 ‐あくなき挑戦者-」
会期:2019年5月25日(土)~7月21日(日)
会場:海の見える杜美術館
(広島県廿日市市大野亀ヶ岡10701)
菅井汲(1919-1996)は、1940年代から1990年代にかけて活動しました。戦前から戦後にかけては商業デザイナーとして活動し、その一方で日本画家中村貞以に師事して日本画を学びました。転機が訪れたのは1952年のことで、この年単身フランスに渡ります。それ以降パリを拠点に主に版画制作を中心に活躍し、数々の国際展で受賞するなど成功をおさめました。
本展覧会では、渡仏後から晩年までの約40年間に制作された当館所蔵の版画コレクションを展示し、作風の変遷を辿ります。渡仏当初の彼は大胆で力強い象形文字のような形態の作品を手がけていましたが、1960年代になると作風は一変し、明快な色彩と形態からなるダイナミックな抽象表現に転じます。さらに1970年代に入ると、ほとんど円と直線で構成される幾何学的モチーフを制作するようになり、1980年代から晩年までは自らのイニシャルである「S」の字を象った作品を描き続けました。菅井はいったん気に入ったかたちを見つけると、その図形にこだわり、組み合わせを変えつつ描き続けました。彼は同じパターンを繰り返すという行為に画家としての個性を見いだしたのです。その一方で、「新しい美術を生み出したい」という思いから、何度も作風を変えていったところに、菅井の挑戦者として顔を見ることができます。
「1億人の日本人からはみ出した存在でありたい」という強い意志のもと、その生涯を通じて、常に独創性を求め、新たな絵画に挑み続けた菅井汲の世界をご覧ください。
(同館HPより)
●ときの忘れものは青山から〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS に移転しました。
阿部勤設計の新しい空間はWEBマガジン<コラージ2017年12月号18~24頁>に特集されています。JR及び南北線の駒込駅南口から約8分です。
TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531
E-mail:info@tokinowasuremono.com
営業時間=火曜~土曜の平日11時~19時。*日・月・祝日は休廊。
大内直輝
海の見える杜美術館では、7月21日(日)まで「生誕100年記念 菅井汲 —あくなき挑戦者—」展を開催しています。
本展覧会は、パリを拠点に活動した日本人画家・菅井汲の版画作品にスポットをあて、同館所蔵のコレクション約100点を展示するものです。今回の展示では、それらを4つの時期—渡仏初期の日本的主題を取り入れた繊細なタッチの作品、1960年代の明快な色彩で幾何学的な形を描いたダイナミックな抽象作品、1970年代のほぼ円と直線のみで構成される規格化されたモチーフを主体にした作品、晩年の「S」字シリーズ—に分けて章を構成しています。
《FORET AU SOLEIL》(太陽の森)1967年
《FESTIVAL》(フェスティヴァル)1970年
《LOVERS E》(愛人E)1988年
《S FLECHE JAUNE》(S 黄色い矢)1989年
菅井汲は1952年の渡仏から1996年に亡くなるまで、大型の油彩やアクリル画に制作の主体を置いていましたが、その一方で数多くの版画作品を手がけました。その数は400点以上に及び、版画は彼の画業を語る上で無視できないものとなっています。
彼と版画の出会いは1955年のことで、当時契約していたクラヴァン画廊の勧めで《DIABLE ROUGE(赤い鬼)》という作品のリトグラフを制作したのが最初といわれています。その背景には、前年(1954年)に同画廊で開かれた個展が大きな反響を呼び、彼が忽ち売れっ子の画家となったことで、彼の作品に対する需要が急速に高まって、供給が追いつかなくなったことがあったようです。
《DIABLE ROUGE》(赤い鬼)1955年
リトグラフ
そのようなきっかけで始めた版画ですが、結果的に彼は亡くなるまでの40年以上にわたりその制作に携わることとなりました。菅井は版画について「版画の魅力はスピード感である」と語っており、タブロー(絵画)や立体作品と違って気軽に制作に取りかかれ、自分の自由で無責任な思いつきを比較的短時間で実現できるものとして、タブローと同様に版画の制作にも力を注いでいました。「版画はタブローよりも私の全人格を表現できる」、「増々版画に没頭するでしょう」という言葉通り、彼は版画の個展を頻繁に行い、国際版画展にも何度も出品していました。そして彼の版画は国際展で受賞を重ねるなど高い評価を得ていました。需要を満たすために制作を始めた版画ですが、菅井自身の考えをそのまま表現するには最も適したメディアであったのでしょう。
個人的には菅井汲の版画の一番の魅力は、色彩の鮮やかさにあると思います。特に色彩とフォルムに制限が加えられ、画面が整理された1970年代の作品は、道路標識を見たときのように、瞬時にイメージが脳裏に刻まれます。同じ色と同じ形の反復で画面を構成していくことは一見無個性であるようにも思えますが、彼が指向した表現の方向性はそこにこそあり、この時期にこそ最も菅井汲らしさがあらわれていると思います。
《AUTO-ROUTE FONT AINEBLEAU》(フォンテンブローのオートルート)1964年
《GROUP3》(グループ3)1980年
(おおうち なおき)
■大内直輝(おおうち なおき)
茨城県生まれ。早稲田大学文学研究科美術史学コース修了。2017年より海の見える杜美術館勤務。
「生誕100年記念 菅井汲 ‐あくなき挑戦者-」
会期:2019年5月25日(土)~7月21日(日)
会場:海の見える杜美術館
(広島県廿日市市大野亀ヶ岡10701)
菅井汲(1919-1996)は、1940年代から1990年代にかけて活動しました。戦前から戦後にかけては商業デザイナーとして活動し、その一方で日本画家中村貞以に師事して日本画を学びました。転機が訪れたのは1952年のことで、この年単身フランスに渡ります。それ以降パリを拠点に主に版画制作を中心に活躍し、数々の国際展で受賞するなど成功をおさめました。
本展覧会では、渡仏後から晩年までの約40年間に制作された当館所蔵の版画コレクションを展示し、作風の変遷を辿ります。渡仏当初の彼は大胆で力強い象形文字のような形態の作品を手がけていましたが、1960年代になると作風は一変し、明快な色彩と形態からなるダイナミックな抽象表現に転じます。さらに1970年代に入ると、ほとんど円と直線で構成される幾何学的モチーフを制作するようになり、1980年代から晩年までは自らのイニシャルである「S」の字を象った作品を描き続けました。菅井はいったん気に入ったかたちを見つけると、その図形にこだわり、組み合わせを変えつつ描き続けました。彼は同じパターンを繰り返すという行為に画家としての個性を見いだしたのです。その一方で、「新しい美術を生み出したい」という思いから、何度も作風を変えていったところに、菅井の挑戦者として顔を見ることができます。
「1億人の日本人からはみ出した存在でありたい」という強い意志のもと、その生涯を通じて、常に独創性を求め、新たな絵画に挑み続けた菅井汲の世界をご覧ください。
(同館HPより)
●ときの忘れものは青山から〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS に移転しました。
阿部勤設計の新しい空間はWEBマガジン<コラージ2017年12月号18~24頁>に特集されています。JR及び南北線の駒込駅南口から約8分です。
TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531
E-mail:info@tokinowasuremono.com
営業時間=火曜~土曜の平日11時~19時。*日・月・祝日は休廊。
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