今年2019年は詩人フィリッポ・トンマーゾ・マリネッティが起草した「未来主義創立宣言」が発表されて110年、奇しくも最後の未来派と言われたドメニコ・ベッリの生誕110年でもあります。
ドメニコ・ベッリ 「GLI AMANTI OEL COSMO 宇宙の恋人たち」 1970年 油彩 94.0x67.0cm Signed
イタリア未来派といえば20世紀の激動の歴史の中で大きな転換点となった運動ですが、今からちょうど10年前(つまり未来派宣言100年の記念すべき年)にときの忘れものでは、「生誕100年・未来派ドミニコ・ベッリ展」を開催しました(2009年9月29日~10月17日)。
DMを送った途端に問い合わせと注文が殺到し、出品全点が完売となる盛況でしたが(といっても全部で8点の小展示でした)、「宇宙の恋人たち」はそのとき買ってくださった方から買い戻したものです。
■ドメニコ・ベッリ(Domenico Belli)
1909年ローマ生まれ。1929年ジャコモ・バッラのアトリエに入り、未来派の活動に参加。ローマの「ブロッコ・ディ・フトゥルシムルタニスティ(未来同時主義者集団)」でアウグスト・ファヴァッリ、ブルーノ・ターノらと活動する。ヴェネツィア・ビエンナーレ(1930,32,34,36)、未来派航空絵画展(1933~38)、ローマ・クアドリエンナーレ(1935,39)、ウンベルト・ボッチョーニへの未来派的オマージュ展(1933,ミラノPesaro Gallery)他に出品。1934年~42年A.G.ブラガリアがディレクターを務めたテアトロ・デッレ・アルティ(芸術座)において、広報・舞台美術を担当した。戦後もプラート・15人の未来派芸術家展(1970)など未来派展に出品を続け、1983年ローマ近郊のラヴィーノで没。
~~~~~~
2009年の展覧会のとき、売れたのはありがたいのですが、作家のことはほとんどわからず途方にくれていた私たちの前にのこのこ現れてくださったのがイタリア未来派研究者の太田岳人(当時千葉大学大学院)先生でした。急遽、三拝九拝してドメニコ・ベッリについて原稿をお願いしたのでした。
掲載されたのは、2009年10月21日、つまりもう展覧会は終了していました。
というわけで、このときの太田先生の原稿を二度目の展示に先立って再録掲載いたします。
ドメニコ・ベッリ展によせて
太田岳人(千葉大学大学院)
2009年は「未来派創立宣言」の発表から100周年にあたり、未来派の美術作品はイタリア国内で大々的に展示されるのみならず、世界各地を巡回している。アジアでもつい先ほどまで、台北の国立中正紀念堂附属ギャラリーで展覧会が開かれていた(「飆未来:未来主義百年大展」、7月15日~10月11日)。しかし、《ときの忘れもの》がドメニコ・ベッリ(1909-1983)を取り上げるという情報を聞いた時には驚かされた。私は未来派をはじめとする近現代イタリア美術史を研究しているが、ベッリは決してメジャーな名前ではない。近年出版された2巻本の分厚い『未来派辞典』(E. Godoli (a cura di), Dizionario del Futurismo, Firenze, 2001)においては、同じ未来派への参加歴がある「ベッリ」でも、現在では抽象主義の画家・理論家として知られるカルロ・ベッリ(1903-1991)の記述の方が多いくらいである。
しかし1930年代における未来派の活動を見ると、ドメニコ・ベッリの名前は頻繁に登場して来る。1929年、ローマの未来派画家の長老格であったジャコモ・バッラ(1871-1956)の知遇を得た彼は、その2年後にアウグスト・ファヴァッリ(1912-1969)やブルーノ・ターノ(1913-1942)ら、最も若い世代による「未来同時主義派ブロック」(後に人員を増やし「ローマ未来派グループ」に発展)を結成する。彼らは公衆を巻き込んだ「未来派の夕べ」をたびたび開催するとともに、先達に学びつつ自らの創作活動を模索していった。運動の指導者であるF.T.マリネッティはこの後、ベッリの表現を、エンリコ・プランポリーニ(1894-1956)の「超地上的・宇宙的・生化学的」な造形に通ずるものとして位置づけ賞賛している(シュルレアリスム的な感覚を未来派に取り入れていたプランポリー二の影響は、ベッリが1935年のローマ・クワドリエンナーレに出品した《空間への停泊》などに顕著である)。ともあれ、クワドリエンナーレやヴェネツィア・ビエンナーレといった国家規模の展覧会から、イタリア各地の画廊における未来派のグループ展、さらには劇場の舞台美術からレストランの装飾壁画の制作に至るまで、彼は幅広く活動していた。
一方でベッリへの評価を難しくするのは、未来派運動とファシズム政権との関係であろう。両者の複雑な関係性についてはここでは割愛するが、1910年前後の生まれで1930年代よりキャリアを開始するベッリの世代の芸術家たちにとって、すでにこの政権が動かしがたい社会的与件として存在していたのは確かである。1936年のヴェネツィア・ビエンナーレのカタログで、マリネッティは自分を含めた38人の未来派が前年のエチオピア戦争に参加したとアピールし、そこではベッリの名前も挙げられている。ファシズム政権の社会事業や戦争からも、しばしば未来派は自身の芸術の題材を探っている。若きベッリもその例に漏れなかったが、そのファシズム政権が参戦した第二次世界大戦の状況が急速に悪化したことにより、彼の創作活動は中断を余儀なくされる。
第二次世界大戦中の1944年、マリネッティは世を去った。研究者の多くはこの年をもって未来派運動の完全な終焉としている。実際かなりのメンバーが、大戦中からその直後にかけて未来派から離れ(日本でも著名なブルーノ・ムナーリはその一人である)、アンフォルメルなど別の探求へと移行した。しかし、ベッリと同じく30年代に未来派として頭角を現した画家トゥリオ・クラーリ(1910-2000)は、晩年の回想的画文集『線で描いた未来派』(T. Crali, Futuristi in Linea, Rovereto, 1994)で、この「未来派の終焉」論に異議を唱えている。彼によれば、1950年に戦前の未来派メンバーを集めた会議が開かれ、マリネッティの死をもって未来派は終わったとする意見に抗し、なお自分たちが運動を前進させるべきだという反対が少なからず出て、自身も後者に加わったのだという。クラーリは現役の未来派であると最後まで自己を定義し続けたが、戦後は広告と展覧会設営を生業としたベッリもまた、この運動に対する情熱を失ったわけではなかった。すなわち彼は、1960年代末にかつての仲間が発した「今日の未来派」宣言に署名し、同名の芸術雑誌にも参画したのに加え、1970年代には再び未来派としての新作のグループ展を開催し続けた。
《ときの忘れもの》に展示された作品は、その晩期のベッリによるものである。これらは躍動感ある色彩のリズムによって、自然や空間、およびその中に存在する事物を構成しつつも、形態の抽象化はむしろ対象の特質を浮かび上がらせるように機能している。ここには、1910年代後半にバッラが試みを始め、後の世代の芸術家にも徐々に拡大していった「未来派的抽象」との連結を見ることができる。しばしば未来派は、その初期のスピード感や劇的表現が際立った作品へ賞賛が集まる一方、1920年代以降の多極的展開(いわゆる「第二未来派」)への評価は高くない。しかしベッリのような、大戦間期に芸術を志したイタリアの若者にとって、未来派は決して衰退しつつある集団ではなかった。そして個人によっては、ある一時期の経験(時にファシズムと結びついた)の域を超え、生涯を通じてそう名乗り続けるに足る深い内的価値すら有していた。彼らが年を重ねてなお未来派を名乗り続けたのは、単にノスタルジーに生きたのではないと私は思う。むしろ現在進行形の芸術家として、なお青春の夢に忠実だったのだと言えよう。
2009年10月18日 (おおたたけと)
◆図版1

ドメニコ・ベッリ《赤い翼(Ala Rossa)》、1933年
(板に油彩、49×35cm、個人蔵)
※Massimo Duranti (a cura di), Aeropittura e Aeroscultura Futurista, Perugia, 2005 (2nd. ed.)より
◆図版2

ドメニコ・ベッリ《内観の飛行(Volo Introspettivo)》、1934年
(キャンバスに油彩、120×80cm、個人蔵)
※ Massimo Duranti (a cura di), Aeropittura e Aeroscultura Futurista, Perugia, 2005 (2nd. ed.)より
◆図版3

ドメニコ・ベッリ《空間への停泊(Sosta nello Spazio)》、1935年
(板に油彩、150×100㎝、個人蔵)
1935年のローマ・クワドリエンナーレに出展
※Gino Agnese (et al.), I Futuristi e le Quadriennali, Milano, 2008より
◆図版4

ベッリ(右)のアトリエ、1930年代
※Enrico Crispolti (a cura di), Casa Balla e il Futurismo a Roma, Roma, 1989より
~~~~~~
●未来派宣言(全文 鈴木重吉訳より引用)
一 われわれは危険を愛し、エネルギッシュで勇敢であることを歌う。
二 われわれの詩の原理は、勇気、大胆、反逆をモットーとする。
三 在来の文学の栄光は謙虚な不動性、恍惚感と眠りであった。われわれは攻撃的な運動、熱に浮かされた不眠、クイック・ステップ、とんぼ返り、平手打ち、なぐり合いを讃えよう。
四 われわれは、世界の栄光は、一つの新しい美、すなわち速度の美によって豊かにされたと宣言する。爆発的な息を吐く蛇にも似た太い管で飾られた自動車……霰弾に乗って駈るかのように咆哮する自動車は《サモトラのニーケ》よりも美しい。
五 われわれは軌道の上に自らを投げた地球を貫く軸を持った舵輪を握る人を歌う。
六 詩人は熱狂と光彩と浪費に熱中すべきである。その根源的要素たる熱狂的な情熱をかきたてるために。
七 争い以上に美しいものはない。攻撃なしには傑作は生れない。詩と歌は未知の力を人間に屈服させるための、激しい突撃でなければならぬ。
八 われわれは世紀の突端をなす岬に立っている。不可能なるものの神秘の門を破らなければならぬとき、なぜ後を振り向かねばならぬか?時間と空間は昨日すでに死んだ。われわれは永遠にして普遍なる速力を創造した。故にもはやわれわれは絶対の中に生きている。
九 われわれは戦争ーそれはこの世の唯一つの健康の泉だー軍国主義、愛国心、アナーキストの破壊力、殺すことの美的傾向、女性蔑視を讃えよう。
十 われわれは博物館、図書館を破壊し、道徳主義、フェミニズム、一切の便宜的、功利的卑劣と闘おう。
十一 われわれは労働、快楽、さては反抗によって刺激された大群衆を、近代の首府における革命の多色多音な波動を、電気のどぎつい月の下にある兵器廠や造船所の振動を、煙を吐く蛇を呑み込む貪婪なる停車場を、黒鉛の束によって雲にまで連なる工場を、体操家のように日に輝く河の兇暴は刃物を飛び越えている橋梁を、水平線を嗅いで行く冒険的な郵船を、長い筒で緊められた鋼鉄製の巨大な馬に似てレールの上を跳躍する大きな胸をした機関車を、プロペラの唸りが翼のはばたき、熱狂興奮した群衆の喝采にも似て滑走飛揚する飛行機の歌を歌う。
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こちらの作品の見積り請求、在庫確認はこちらから
※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください。
◆「霜月の画廊コレクション展」
会期:2019年11月8日[金]~11月22日[金] *日・月・祝日休廊

画廊コレクションより、今まで余り展示の機会のなかった11人の作家の油彩、版画、ポスターなどをご紹介します。
出品:ドメニコ・ベッリ、ジェラール・ティトゥス=カルメル、ニキ・ド・サンファル、マノロ・バルデス、ヤコブ・アガム、ジョン・ケージ、ルイーズ・ニーヴェルスン、ソニア・ドローネ、アンディ・ウォーホル、棟方志功、杉浦康平
ドメニコ・ベッリ 「GLI AMANTI OEL COSMO 宇宙の恋人たち」 1970年 油彩 94.0x67.0cm Signedイタリア未来派といえば20世紀の激動の歴史の中で大きな転換点となった運動ですが、今からちょうど10年前(つまり未来派宣言100年の記念すべき年)にときの忘れものでは、「生誕100年・未来派ドミニコ・ベッリ展」を開催しました(2009年9月29日~10月17日)。
DMを送った途端に問い合わせと注文が殺到し、出品全点が完売となる盛況でしたが(といっても全部で8点の小展示でした)、「宇宙の恋人たち」はそのとき買ってくださった方から買い戻したものです。
■ドメニコ・ベッリ(Domenico Belli)
1909年ローマ生まれ。1929年ジャコモ・バッラのアトリエに入り、未来派の活動に参加。ローマの「ブロッコ・ディ・フトゥルシムルタニスティ(未来同時主義者集団)」でアウグスト・ファヴァッリ、ブルーノ・ターノらと活動する。ヴェネツィア・ビエンナーレ(1930,32,34,36)、未来派航空絵画展(1933~38)、ローマ・クアドリエンナーレ(1935,39)、ウンベルト・ボッチョーニへの未来派的オマージュ展(1933,ミラノPesaro Gallery)他に出品。1934年~42年A.G.ブラガリアがディレクターを務めたテアトロ・デッレ・アルティ(芸術座)において、広報・舞台美術を担当した。戦後もプラート・15人の未来派芸術家展(1970)など未来派展に出品を続け、1983年ローマ近郊のラヴィーノで没。
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2009年の展覧会のとき、売れたのはありがたいのですが、作家のことはほとんどわからず途方にくれていた私たちの前にのこのこ現れてくださったのがイタリア未来派研究者の太田岳人(当時千葉大学大学院)先生でした。急遽、三拝九拝してドメニコ・ベッリについて原稿をお願いしたのでした。
掲載されたのは、2009年10月21日、つまりもう展覧会は終了していました。
というわけで、このときの太田先生の原稿を二度目の展示に先立って再録掲載いたします。
ドメニコ・ベッリ展によせて
太田岳人(千葉大学大学院)
2009年は「未来派創立宣言」の発表から100周年にあたり、未来派の美術作品はイタリア国内で大々的に展示されるのみならず、世界各地を巡回している。アジアでもつい先ほどまで、台北の国立中正紀念堂附属ギャラリーで展覧会が開かれていた(「飆未来:未来主義百年大展」、7月15日~10月11日)。しかし、《ときの忘れもの》がドメニコ・ベッリ(1909-1983)を取り上げるという情報を聞いた時には驚かされた。私は未来派をはじめとする近現代イタリア美術史を研究しているが、ベッリは決してメジャーな名前ではない。近年出版された2巻本の分厚い『未来派辞典』(E. Godoli (a cura di), Dizionario del Futurismo, Firenze, 2001)においては、同じ未来派への参加歴がある「ベッリ」でも、現在では抽象主義の画家・理論家として知られるカルロ・ベッリ(1903-1991)の記述の方が多いくらいである。
しかし1930年代における未来派の活動を見ると、ドメニコ・ベッリの名前は頻繁に登場して来る。1929年、ローマの未来派画家の長老格であったジャコモ・バッラ(1871-1956)の知遇を得た彼は、その2年後にアウグスト・ファヴァッリ(1912-1969)やブルーノ・ターノ(1913-1942)ら、最も若い世代による「未来同時主義派ブロック」(後に人員を増やし「ローマ未来派グループ」に発展)を結成する。彼らは公衆を巻き込んだ「未来派の夕べ」をたびたび開催するとともに、先達に学びつつ自らの創作活動を模索していった。運動の指導者であるF.T.マリネッティはこの後、ベッリの表現を、エンリコ・プランポリーニ(1894-1956)の「超地上的・宇宙的・生化学的」な造形に通ずるものとして位置づけ賞賛している(シュルレアリスム的な感覚を未来派に取り入れていたプランポリー二の影響は、ベッリが1935年のローマ・クワドリエンナーレに出品した《空間への停泊》などに顕著である)。ともあれ、クワドリエンナーレやヴェネツィア・ビエンナーレといった国家規模の展覧会から、イタリア各地の画廊における未来派のグループ展、さらには劇場の舞台美術からレストランの装飾壁画の制作に至るまで、彼は幅広く活動していた。
一方でベッリへの評価を難しくするのは、未来派運動とファシズム政権との関係であろう。両者の複雑な関係性についてはここでは割愛するが、1910年前後の生まれで1930年代よりキャリアを開始するベッリの世代の芸術家たちにとって、すでにこの政権が動かしがたい社会的与件として存在していたのは確かである。1936年のヴェネツィア・ビエンナーレのカタログで、マリネッティは自分を含めた38人の未来派が前年のエチオピア戦争に参加したとアピールし、そこではベッリの名前も挙げられている。ファシズム政権の社会事業や戦争からも、しばしば未来派は自身の芸術の題材を探っている。若きベッリもその例に漏れなかったが、そのファシズム政権が参戦した第二次世界大戦の状況が急速に悪化したことにより、彼の創作活動は中断を余儀なくされる。
第二次世界大戦中の1944年、マリネッティは世を去った。研究者の多くはこの年をもって未来派運動の完全な終焉としている。実際かなりのメンバーが、大戦中からその直後にかけて未来派から離れ(日本でも著名なブルーノ・ムナーリはその一人である)、アンフォルメルなど別の探求へと移行した。しかし、ベッリと同じく30年代に未来派として頭角を現した画家トゥリオ・クラーリ(1910-2000)は、晩年の回想的画文集『線で描いた未来派』(T. Crali, Futuristi in Linea, Rovereto, 1994)で、この「未来派の終焉」論に異議を唱えている。彼によれば、1950年に戦前の未来派メンバーを集めた会議が開かれ、マリネッティの死をもって未来派は終わったとする意見に抗し、なお自分たちが運動を前進させるべきだという反対が少なからず出て、自身も後者に加わったのだという。クラーリは現役の未来派であると最後まで自己を定義し続けたが、戦後は広告と展覧会設営を生業としたベッリもまた、この運動に対する情熱を失ったわけではなかった。すなわち彼は、1960年代末にかつての仲間が発した「今日の未来派」宣言に署名し、同名の芸術雑誌にも参画したのに加え、1970年代には再び未来派としての新作のグループ展を開催し続けた。
《ときの忘れもの》に展示された作品は、その晩期のベッリによるものである。これらは躍動感ある色彩のリズムによって、自然や空間、およびその中に存在する事物を構成しつつも、形態の抽象化はむしろ対象の特質を浮かび上がらせるように機能している。ここには、1910年代後半にバッラが試みを始め、後の世代の芸術家にも徐々に拡大していった「未来派的抽象」との連結を見ることができる。しばしば未来派は、その初期のスピード感や劇的表現が際立った作品へ賞賛が集まる一方、1920年代以降の多極的展開(いわゆる「第二未来派」)への評価は高くない。しかしベッリのような、大戦間期に芸術を志したイタリアの若者にとって、未来派は決して衰退しつつある集団ではなかった。そして個人によっては、ある一時期の経験(時にファシズムと結びついた)の域を超え、生涯を通じてそう名乗り続けるに足る深い内的価値すら有していた。彼らが年を重ねてなお未来派を名乗り続けたのは、単にノスタルジーに生きたのではないと私は思う。むしろ現在進行形の芸術家として、なお青春の夢に忠実だったのだと言えよう。
2009年10月18日 (おおたたけと)
◆図版1

ドメニコ・ベッリ《赤い翼(Ala Rossa)》、1933年
(板に油彩、49×35cm、個人蔵)
※Massimo Duranti (a cura di), Aeropittura e Aeroscultura Futurista, Perugia, 2005 (2nd. ed.)より
◆図版2

ドメニコ・ベッリ《内観の飛行(Volo Introspettivo)》、1934年
(キャンバスに油彩、120×80cm、個人蔵)
※ Massimo Duranti (a cura di), Aeropittura e Aeroscultura Futurista, Perugia, 2005 (2nd. ed.)より
◆図版3

ドメニコ・ベッリ《空間への停泊(Sosta nello Spazio)》、1935年
(板に油彩、150×100㎝、個人蔵)
1935年のローマ・クワドリエンナーレに出展
※Gino Agnese (et al.), I Futuristi e le Quadriennali, Milano, 2008より
◆図版4

ベッリ(右)のアトリエ、1930年代
※Enrico Crispolti (a cura di), Casa Balla e il Futurismo a Roma, Roma, 1989より
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●未来派宣言(全文 鈴木重吉訳より引用)
一 われわれは危険を愛し、エネルギッシュで勇敢であることを歌う。
二 われわれの詩の原理は、勇気、大胆、反逆をモットーとする。
三 在来の文学の栄光は謙虚な不動性、恍惚感と眠りであった。われわれは攻撃的な運動、熱に浮かされた不眠、クイック・ステップ、とんぼ返り、平手打ち、なぐり合いを讃えよう。
四 われわれは、世界の栄光は、一つの新しい美、すなわち速度の美によって豊かにされたと宣言する。爆発的な息を吐く蛇にも似た太い管で飾られた自動車……霰弾に乗って駈るかのように咆哮する自動車は《サモトラのニーケ》よりも美しい。
五 われわれは軌道の上に自らを投げた地球を貫く軸を持った舵輪を握る人を歌う。
六 詩人は熱狂と光彩と浪費に熱中すべきである。その根源的要素たる熱狂的な情熱をかきたてるために。
七 争い以上に美しいものはない。攻撃なしには傑作は生れない。詩と歌は未知の力を人間に屈服させるための、激しい突撃でなければならぬ。
八 われわれは世紀の突端をなす岬に立っている。不可能なるものの神秘の門を破らなければならぬとき、なぜ後を振り向かねばならぬか?時間と空間は昨日すでに死んだ。われわれは永遠にして普遍なる速力を創造した。故にもはやわれわれは絶対の中に生きている。
九 われわれは戦争ーそれはこの世の唯一つの健康の泉だー軍国主義、愛国心、アナーキストの破壊力、殺すことの美的傾向、女性蔑視を讃えよう。
十 われわれは博物館、図書館を破壊し、道徳主義、フェミニズム、一切の便宜的、功利的卑劣と闘おう。
十一 われわれは労働、快楽、さては反抗によって刺激された大群衆を、近代の首府における革命の多色多音な波動を、電気のどぎつい月の下にある兵器廠や造船所の振動を、煙を吐く蛇を呑み込む貪婪なる停車場を、黒鉛の束によって雲にまで連なる工場を、体操家のように日に輝く河の兇暴は刃物を飛び越えている橋梁を、水平線を嗅いで行く冒険的な郵船を、長い筒で緊められた鋼鉄製の巨大な馬に似てレールの上を跳躍する大きな胸をした機関車を、プロペラの唸りが翼のはばたき、熱狂興奮した群衆の喝采にも似て滑走飛揚する飛行機の歌を歌う。
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こちらの作品の見積り請求、在庫確認はこちらから
※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください。
◆「霜月の画廊コレクション展」
会期:2019年11月8日[金]~11月22日[金] *日・月・祝日休廊

画廊コレクションより、今まで余り展示の機会のなかった11人の作家の油彩、版画、ポスターなどをご紹介します。
出品:ドメニコ・ベッリ、ジェラール・ティトゥス=カルメル、ニキ・ド・サンファル、マノロ・バルデス、ヤコブ・アガム、ジョン・ケージ、ルイーズ・ニーヴェルスン、ソニア・ドローネ、アンディ・ウォーホル、棟方志功、杉浦康平
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