『難波田龍起作品史 1928-1996 アトリエに遺された作品による』刊行記念展
ギャラリートーク「難波田龍起と遺された作品について」に参加して
2019年11月30日(土)16:00~
中尾美穂

展示から:同書の「解説編」
ときおり、思いもよらない幸運を引き寄せて誕生する本がある。
『難波田龍起作品史 1928-1996 アトリエに遺された作品による』もそのような本で、瀟洒な造りと200ページもの解説にまず驚いた。関係者の熱意が詰まっている。著名物故作家の140点近い小品がなぜ、長年広く知られていなかったのか。そこには微笑ましい経緯があった。
去る11月30日に刊行記念トーク「難波田龍起と遺された作品について」が開催され、同書編集者の三上豊氏を聞き手に三男の難波田武男氏が経緯と家族の思い出を語られた。目に見えないものの可視化を探求した画家、難波田龍起(1905-1997)の子は3人兄弟で、長男の紀夫が1940年、画業に進んだ次男の史男が1941年、武男氏は1943年と激動の時代に生まれた。1974年に史男、75年に紀夫が相次いで亡くなり、武男氏が作品を受け継いでいる。以下、同氏の談話をもとに一部を紹介したい。
(左)難波田武男氏 (右)三上豊氏
父・龍起の名は元気な子に育つようにと祖父が命名した。祖父の憲欽は旭川の陸軍に勤務し、日露戦争に出兵。「恩賜の包帯」を賜るほどの負傷により退役し、一家は龍起が1歳のときに東京へ移った。少年期・青年期を当時の本郷区駒込林町で過ごし、1936年、31歳のときに小田急線沿線の経堂へ転居した。以来、難波田家は経堂にある。
物心ついたころ、もう父は(勤めを辞めて)家で絵を描いていた。近所の父兄の求めで何年か子供に絵を教えたが、それも止めていた。仕事部屋は襖や障子で仕切られた程度で、入ることはなかったが、出入りを禁じられることもなかった。小学校の図画の先生に「君は難波田龍起の息子だろう?」と言われるのが嬉しくはなく、下手な絵を描けば沽券にかかわると思ったが、父の絵には親しんで育った。花や人物、自転車<移動するもの>や白熊<たたかい><不安な時代>の絵などが寝室の鴨居や床の間に掛けられていたのを覚えている。毎回ではないが個展を観る機会もあった。父は図画工作の課題を褒めて家で飾ってくれることはあっても、絵を描くよう勧めたり批評をしたりはせず、画家になった兄もごく自然に影響を受けたのだろう。母に言わせれば、
『子供の教育は君に任せる。僕は長じたら友達になって、お酒を飲みながらでも話し合うようなポジションで』
という父親であり、反対もなく理系に進んだ。就職時に言われた一言は、
『「君は定年があって気の毒だねえ」と。また「僕には定年がない』とも。』
だった。それで、定年後の生活を余程心配してか、
『家内には「アトリエにあるのは、もし食うのに困ったら売っていいよ」って言ったそうです。』
進学、就職や結婚を内心喜んでくれていたのは父の知人から聞いて知った。一方、兄は大学進学の代りにその資金で勉強させてほしいと親に交渉したらしい。軍人の祖父が画業を認めてくれて30歳過ぎまで軍の恩給や中学校教師勤めなどで生活していた父だから、自身も同じように息子への援助を考えていたのだろう。兄の史男の方では、絵描きとして独立するまでそのころ新しい職業だったイラストレーターにでもなろうかと描きだしたようだ。
父は大勢で酒を飲みながら交渉するような性格ではなかった。よく作品を発表していた日本橋の東邦画廊は「階段がキュウキュウいって」狭い空間なのに驚いたりもしたが、それも画廊主の故・中岡氏と馬が合い、気が楽だったのではないか。
龍起の穏やかで少しユーモラスな人柄がうかがえる。そして話題は難波田邸のアトリエに遺された作品に移った。
アトリエ内に物入れがあり、のちに書庫のような部屋も作った。額装作品はアトリエ内に入っていたが、今回の小品139点に額装作品はほとんどない。一か所に整理して厳重に保管していたのでなく、改築のたびに移動したりし、小さな紙包みの状態で家の各所にあった。処分したものはない。多くがありあわせの新聞紙、デパートの包装紙、絵の梱包材などにくるんで紐で十字に留めたり茶封筒に入れてあり、「ギリシャ時代 何年から何年」「重要」と書かれていたりした。父がその都度、その時に描いたものを遺していたのではと思う。ピンの跡があるのはアトリエの壁や、室内の柱にそのまま或いは自作の額に入れて飾っていた。板絵があるのは祖父に面倒をみてもらいながらの生活でキャンバスをあまり買えなかったからで、父はさらに板の裏に描いたり、塗りなおして描いている。
自分も包みの中身を見て知ってはいたが、小品ゆえに人の眼に触れさせる類のものでないと思い、画商やコレクターから尋ねられても、父に譲られた数点しかないと断っていた。家族に手間をかけないよう、展覧会に出品するような大作はすでに美術館などに納めた、あるいはそのつもりと父から聞いていたのも念頭にあった。なおも作品を望まれると、
『母が「武男が持っているわよ」と言い出したりしてね。私はせっかく父がくれたのにと抵抗したんですけれども。「もっといいものを描いてもらえばいいじゃないの」って事になり』結局コレクターの手に渡ってしまった。
マネージャー代わりを務めていたのが母で、寡黙な父のかわりに折に触れて画商やコレクターとの仲介を努めた。晩年の大作では「描いてあげたら」と言う母に応じて、父が「そう言うから描いたけれど、手が痛くなった」と。制作の影響と思っていたが、結局、癌のせいだった。
両親は見合い結婚である。母は見合いの席に父が持参した作品を見て「こういう絵を描いている人ならいいかな」と結婚し、父の絵を理解していた。
作品史から結婚前の1936年、37年の図版。龍起はどんな作品を見合いの席に持参したのだろうか。
小包みの作品群をコレクターに譲ることになったのは偶然だった。挨拶がてら「ときの忘れもの」を訪れたところ、画廊の綿貫不二夫氏から難波田龍起の絵を探している人がいると言われた。小品でもいいというので綿貫氏に見てもらうと「初期から晩年まで年代順に繋がりますよ!」。これらを散逸させることなく収蔵してくれる方ならばと、自分の代でできることをしておきたい思いもあって決断した。1点だけ、日記の1ページを切り取るような形では困るが、各年代の作品が揃うなら父も納得してくれるのではないかと。それで良い本ができた。ジャバラ状の経文折りなのが、また良い。作品解説については、小林俊介先生が父の日記(早稲田大学會津八一記念博物館に寄贈)の記載を丹念に拾われ、駒込林町時代に知遇を得た彫刻家・高村光太郎からギリシャ彫刻の本を見せてもらって未知のギリシャに傾倒したことや、猿橋へのスケッチ旅行が食料の調達を兼ねていたことなど、父の行動と時代背景を作品と照合し、写生場所を探して写真を撮りながら書かれていて、感心している。父のスケッチ旅行には同行しなかった。家族5人のころは沿線の江の島の海水浴や新宿のレストランへ出かけたくらいで、後年、孫と一緒に大川美術館、池田20世紀美術館、両親の新婚旅行先である箱根などへ出かけた。
武男氏によれば、龍起は結婚や新築祝いに、あるときは花や少女のイメージが画面に浮かんでいるから娘へと作品を譲ってくれたが、夫人の懐妊の時だけは「僕の絵は胎教には良くない。僕の絵よりルノワールの方がいいんじゃないか」と言ったそうである。自身の強い内的世界をそのように考えていたのが興味深い。実はまだ飾って楽しめるだけの小作品を所有していると語る武男氏や、義父の絵が大好きでしたという夫人の言葉からも、作品が家庭をやわらかく包みこむ存在であったように思われるからだ。長年、家族とともにあった今回の小品には観るべきものが多いだろう。デビュー前後から亡くなる前年までの変遷をたどることができ、技法・モチーフ・色調も多様で、具象、抽象、油彩、水彩、コラージュ、ドローイング、エナメル、リトグラフのほか、ハンドバッグや羽織まである。多くが包まれていたということだから、他者には新しい「作品史」であり「画家の家族史」である。
ちなみにタイトルに「作品史」とつけたのは三上氏。会場では豪華な造本プランの詳細と出版業界の現状を聞いた。執筆者の小林氏は著書『難波田龍起:「抽象」の生成』(美術出版社、1998年)での研究成果を、日記の精査で再確認できたと語った。現地調査ではコラージュに使った枯葉が本当にその場所のものかまで確認したそうだ。
トークの最後に綿貫氏が明かされた同書の奇跡的な誕生秘話によると、いずれ原画が公開されるだろうとのこと。あらためて、龍起は個々の包みをどのように考えていたのだろう。ほとんどの作品に自署もしていたのだし、何らかの思いがあっただろうが、遺志を超える展開になったのは間違いない。数年後だろうか、公開が楽しみである。
(左)小林俊介氏 (右端)難波田武男夫人
作家の変遷をたどることができる「作品編」
十和田湖畔の枯葉によるコラージュ
修復の必要な作品はほとんどなかったという
*一部敬称略
(なかお・みほ)
■中尾美穂
1965年 長野市生まれ。
1997年から2017年まで池田満寿夫美術館学芸員。
----------------------------------------------
◎昨日読まれたブログ(archive)/2011年09月17日|瑛九のフォトデッサン型紙
----------------------------------------------
◆ときの忘れものは『難波田龍起作品史 1928-1996 アトリエに遺された作品による』刊行記念展を開催しています。
会期:2019年11月29日[金]―12月28日[土] *日・月・祝日休廊
*12月18日(水)は17時半で画廊を閉めますので、ご注意ください。

・出品番号16「野の瞑想」
難波田龍起
「リトグラフィー集1987」より野の瞑想
1987年 リトグラフ
72.0x53.0cm
Ed.87 Signed
こちらの作品の見積り請求、在庫確認はこちらから
※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください。
ときの忘れものは、今までにない美術本を作りました。
書名は『難波田龍起作品史 1928-1996 アトリエに遺された作品による』。
近現代絵画史に大きな足跡を残した画家、その生涯にわたる作品139点に解説を付し、
「見て読む鑑賞」を提案します。解説文は難波田龍起研究の第一人者小林俊介氏が執筆。
画家が生前自選した作品群が初めて明らかになります。
『難波田龍起作品史 1928-1996 アトリエに遺された作品による』
四六判 上製 2巻構成 ケース入
作品篇 経文折り 作品図版カラー139面仕上げ
解説篇 総200頁 各作品解説平均400字 作品の詳細データを付す
発行 2019年9月30日
著者 小林俊介
編集 三上豊
デザイン 大串幸子
発行 綿貫令子
発行元 ときの忘れもの/(有)ワタヌキ
ギャラリートーク「難波田龍起と遺された作品について」に参加して
2019年11月30日(土)16:00~
中尾美穂

展示から:同書の「解説編」
ときおり、思いもよらない幸運を引き寄せて誕生する本がある。
『難波田龍起作品史 1928-1996 アトリエに遺された作品による』もそのような本で、瀟洒な造りと200ページもの解説にまず驚いた。関係者の熱意が詰まっている。著名物故作家の140点近い小品がなぜ、長年広く知られていなかったのか。そこには微笑ましい経緯があった。
去る11月30日に刊行記念トーク「難波田龍起と遺された作品について」が開催され、同書編集者の三上豊氏を聞き手に三男の難波田武男氏が経緯と家族の思い出を語られた。目に見えないものの可視化を探求した画家、難波田龍起(1905-1997)の子は3人兄弟で、長男の紀夫が1940年、画業に進んだ次男の史男が1941年、武男氏は1943年と激動の時代に生まれた。1974年に史男、75年に紀夫が相次いで亡くなり、武男氏が作品を受け継いでいる。以下、同氏の談話をもとに一部を紹介したい。
(左)難波田武男氏 (右)三上豊氏父・龍起の名は元気な子に育つようにと祖父が命名した。祖父の憲欽は旭川の陸軍に勤務し、日露戦争に出兵。「恩賜の包帯」を賜るほどの負傷により退役し、一家は龍起が1歳のときに東京へ移った。少年期・青年期を当時の本郷区駒込林町で過ごし、1936年、31歳のときに小田急線沿線の経堂へ転居した。以来、難波田家は経堂にある。
物心ついたころ、もう父は(勤めを辞めて)家で絵を描いていた。近所の父兄の求めで何年か子供に絵を教えたが、それも止めていた。仕事部屋は襖や障子で仕切られた程度で、入ることはなかったが、出入りを禁じられることもなかった。小学校の図画の先生に「君は難波田龍起の息子だろう?」と言われるのが嬉しくはなく、下手な絵を描けば沽券にかかわると思ったが、父の絵には親しんで育った。花や人物、自転車<移動するもの>や白熊<たたかい><不安な時代>の絵などが寝室の鴨居や床の間に掛けられていたのを覚えている。毎回ではないが個展を観る機会もあった。父は図画工作の課題を褒めて家で飾ってくれることはあっても、絵を描くよう勧めたり批評をしたりはせず、画家になった兄もごく自然に影響を受けたのだろう。母に言わせれば、
『子供の教育は君に任せる。僕は長じたら友達になって、お酒を飲みながらでも話し合うようなポジションで』
という父親であり、反対もなく理系に進んだ。就職時に言われた一言は、
『「君は定年があって気の毒だねえ」と。また「僕には定年がない』とも。』
だった。それで、定年後の生活を余程心配してか、
『家内には「アトリエにあるのは、もし食うのに困ったら売っていいよ」って言ったそうです。』
進学、就職や結婚を内心喜んでくれていたのは父の知人から聞いて知った。一方、兄は大学進学の代りにその資金で勉強させてほしいと親に交渉したらしい。軍人の祖父が画業を認めてくれて30歳過ぎまで軍の恩給や中学校教師勤めなどで生活していた父だから、自身も同じように息子への援助を考えていたのだろう。兄の史男の方では、絵描きとして独立するまでそのころ新しい職業だったイラストレーターにでもなろうかと描きだしたようだ。
父は大勢で酒を飲みながら交渉するような性格ではなかった。よく作品を発表していた日本橋の東邦画廊は「階段がキュウキュウいって」狭い空間なのに驚いたりもしたが、それも画廊主の故・中岡氏と馬が合い、気が楽だったのではないか。
龍起の穏やかで少しユーモラスな人柄がうかがえる。そして話題は難波田邸のアトリエに遺された作品に移った。
アトリエ内に物入れがあり、のちに書庫のような部屋も作った。額装作品はアトリエ内に入っていたが、今回の小品139点に額装作品はほとんどない。一か所に整理して厳重に保管していたのでなく、改築のたびに移動したりし、小さな紙包みの状態で家の各所にあった。処分したものはない。多くがありあわせの新聞紙、デパートの包装紙、絵の梱包材などにくるんで紐で十字に留めたり茶封筒に入れてあり、「ギリシャ時代 何年から何年」「重要」と書かれていたりした。父がその都度、その時に描いたものを遺していたのではと思う。ピンの跡があるのはアトリエの壁や、室内の柱にそのまま或いは自作の額に入れて飾っていた。板絵があるのは祖父に面倒をみてもらいながらの生活でキャンバスをあまり買えなかったからで、父はさらに板の裏に描いたり、塗りなおして描いている。
自分も包みの中身を見て知ってはいたが、小品ゆえに人の眼に触れさせる類のものでないと思い、画商やコレクターから尋ねられても、父に譲られた数点しかないと断っていた。家族に手間をかけないよう、展覧会に出品するような大作はすでに美術館などに納めた、あるいはそのつもりと父から聞いていたのも念頭にあった。なおも作品を望まれると、
『母が「武男が持っているわよ」と言い出したりしてね。私はせっかく父がくれたのにと抵抗したんですけれども。「もっといいものを描いてもらえばいいじゃないの」って事になり』結局コレクターの手に渡ってしまった。
マネージャー代わりを務めていたのが母で、寡黙な父のかわりに折に触れて画商やコレクターとの仲介を努めた。晩年の大作では「描いてあげたら」と言う母に応じて、父が「そう言うから描いたけれど、手が痛くなった」と。制作の影響と思っていたが、結局、癌のせいだった。
両親は見合い結婚である。母は見合いの席に父が持参した作品を見て「こういう絵を描いている人ならいいかな」と結婚し、父の絵を理解していた。
作品史から結婚前の1936年、37年の図版。龍起はどんな作品を見合いの席に持参したのだろうか。小包みの作品群をコレクターに譲ることになったのは偶然だった。挨拶がてら「ときの忘れもの」を訪れたところ、画廊の綿貫不二夫氏から難波田龍起の絵を探している人がいると言われた。小品でもいいというので綿貫氏に見てもらうと「初期から晩年まで年代順に繋がりますよ!」。これらを散逸させることなく収蔵してくれる方ならばと、自分の代でできることをしておきたい思いもあって決断した。1点だけ、日記の1ページを切り取るような形では困るが、各年代の作品が揃うなら父も納得してくれるのではないかと。それで良い本ができた。ジャバラ状の経文折りなのが、また良い。作品解説については、小林俊介先生が父の日記(早稲田大学會津八一記念博物館に寄贈)の記載を丹念に拾われ、駒込林町時代に知遇を得た彫刻家・高村光太郎からギリシャ彫刻の本を見せてもらって未知のギリシャに傾倒したことや、猿橋へのスケッチ旅行が食料の調達を兼ねていたことなど、父の行動と時代背景を作品と照合し、写生場所を探して写真を撮りながら書かれていて、感心している。父のスケッチ旅行には同行しなかった。家族5人のころは沿線の江の島の海水浴や新宿のレストランへ出かけたくらいで、後年、孫と一緒に大川美術館、池田20世紀美術館、両親の新婚旅行先である箱根などへ出かけた。
武男氏によれば、龍起は結婚や新築祝いに、あるときは花や少女のイメージが画面に浮かんでいるから娘へと作品を譲ってくれたが、夫人の懐妊の時だけは「僕の絵は胎教には良くない。僕の絵よりルノワールの方がいいんじゃないか」と言ったそうである。自身の強い内的世界をそのように考えていたのが興味深い。実はまだ飾って楽しめるだけの小作品を所有していると語る武男氏や、義父の絵が大好きでしたという夫人の言葉からも、作品が家庭をやわらかく包みこむ存在であったように思われるからだ。長年、家族とともにあった今回の小品には観るべきものが多いだろう。デビュー前後から亡くなる前年までの変遷をたどることができ、技法・モチーフ・色調も多様で、具象、抽象、油彩、水彩、コラージュ、ドローイング、エナメル、リトグラフのほか、ハンドバッグや羽織まである。多くが包まれていたということだから、他者には新しい「作品史」であり「画家の家族史」である。
ちなみにタイトルに「作品史」とつけたのは三上氏。会場では豪華な造本プランの詳細と出版業界の現状を聞いた。執筆者の小林氏は著書『難波田龍起:「抽象」の生成』(美術出版社、1998年)での研究成果を、日記の精査で再確認できたと語った。現地調査ではコラージュに使った枯葉が本当にその場所のものかまで確認したそうだ。
トークの最後に綿貫氏が明かされた同書の奇跡的な誕生秘話によると、いずれ原画が公開されるだろうとのこと。あらためて、龍起は個々の包みをどのように考えていたのだろう。ほとんどの作品に自署もしていたのだし、何らかの思いがあっただろうが、遺志を超える展開になったのは間違いない。数年後だろうか、公開が楽しみである。
(左)小林俊介氏 (右端)難波田武男夫人
作家の変遷をたどることができる「作品編」
十和田湖畔の枯葉によるコラージュ修復の必要な作品はほとんどなかったという
*一部敬称略
(なかお・みほ)
■中尾美穂
1965年 長野市生まれ。
1997年から2017年まで池田満寿夫美術館学芸員。
----------------------------------------------
◎昨日読まれたブログ(archive)/2011年09月17日|瑛九のフォトデッサン型紙
----------------------------------------------
◆ときの忘れものは『難波田龍起作品史 1928-1996 アトリエに遺された作品による』刊行記念展を開催しています。
会期:2019年11月29日[金]―12月28日[土] *日・月・祝日休廊
*12月18日(水)は17時半で画廊を閉めますので、ご注意ください。

・出品番号16「野の瞑想」
難波田龍起「リトグラフィー集1987」より野の瞑想
1987年 リトグラフ
72.0x53.0cm
Ed.87 Signed
こちらの作品の見積り請求、在庫確認はこちらから
※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください。
ときの忘れものは、今までにない美術本を作りました。書名は『難波田龍起作品史 1928-1996 アトリエに遺された作品による』。
近現代絵画史に大きな足跡を残した画家、その生涯にわたる作品139点に解説を付し、
「見て読む鑑賞」を提案します。解説文は難波田龍起研究の第一人者小林俊介氏が執筆。
画家が生前自選した作品群が初めて明らかになります。
『難波田龍起作品史 1928-1996 アトリエに遺された作品による』
四六判 上製 2巻構成 ケース入
作品篇 経文折り 作品図版カラー139面仕上げ
解説篇 総200頁 各作品解説平均400字 作品の詳細データを付す
発行 2019年9月30日
著者 小林俊介
編集 三上豊
デザイン 大串幸子
発行 綿貫令子
発行元 ときの忘れもの/(有)ワタヌキ
コメント