土渕信彦のエッセイ「瀧口修造の本」
14.『シュルレアリスムのために』~前編
『シュルレアリスムのために』
せりか書房
21.3×14.3㎝(菊判。カバー、凾。初版では角背、凾帯付き。後に丸背、凾帯なしに変更)
目次4頁、本文346頁、覚え書き6頁
外凾表=疑似発狂状態のアンドレ・ブルトン(L.A.ボワファール写)
外凾裏=マルセル・デュシャン〈オブジェ〉[瓶乾燥器]
カバー=マックス・エルンスト/ポール・エリュアール〈A L’INTERIEUR DE LA VUE>より
口絵表=シュルレアリスム本部での会合(1924 マン・レイ写)
口絵裏=筆者とアンドレ・ブルトン(ブルトンの書斎で 1958 ルネ・ロラン写)
図1『シュルレアリスムのために』と凾
図2 カバー
奥付の記載事項
シュルレアリスムのために
定価/一五〇〇円
発行/一九六八年四月三〇日
著者/瀧口修造
装幀/下川敦子
発行者/菅原 敏
発行所/せりか書房
東京都千代田区麹町四ノ五 第八麹町ビル
TEL=二六五・一四〇五 振替東京一四三六〇一
本文印刷/厚徳社
装本印刷/松本印刷
製本/神田橋本製本
1968©
解題
『シュルレアリスムのために』は、1930年から1940年にかけて発表された、瀧口修造のシュルレアリスムに関する評論や解説などを再録した評論集です。この連載で見てきたように、戦後の美術評論は何冊かの単行本にまとめられていましたが、シュルレアリスムの普及・啓蒙に奮闘していたこの時期の論考は、『近代藝術』(図3)以外には単行本化されておらず、本書ならびに4か月前に刊行されていた『瀧口修造の詩的実験1927~1937』(図4)によって、初めて当時の言説や活動に触れることができるようになったわけです。刊行された1968年は日本でも学生運動や反戦運動が高揚していた時期でもあり、治安維持法によって官憲に弾圧された伝説的な詩人・美術評論家の著作として、好評を博したものと思われます。筆者(土渕)も学生時代に1974年11月15日刊の第4版を入手し、専攻していた経済学の専門書を後回しにして、読み込みました。
図3『近代芸術』初版
図4『瀧口修造の詩的実験1927~1937』
全体は5部構成で、各部の内容について、本書の「覚え書き」に次のように記されています。「第1部は主として詩または文学上の面から、第2、第3部は造形芸術の面から、第4部は日本の現実にふれて、第5部はシュルレアリスムと外部の諸問題といったように配列されている」
こうしたテーマ別の構成によって、本書が親しみやすくなっているのは確かでしょう。例えば西洋画家論が集められた第3部は、再録に当たって新たに付された下記のようなタイトルが魅力的で、誰しも読みたくなるでしょう。第1部も、文学におけるシュルレアリスムや瀧口の詩について関心を持つ読者には重宝なものです(図5)。
思春期の自由…フランシス・ピカビア
調革の論理…マルセル・デュシャン
絵画の彼岸…マックス・エルンスト
内部の額縁…ルネ・マグリット
超物質的形態学…サルバドール・ダリ
謎の創造者…サルバドール・ダリ
苦行と童心…ホアン・ミロ
夢の博物館…パウル・クレー
(本書掲載順。ダリのみ2篇収録)
図5 本書目次
その一方、日本の画壇や内外の政治情勢などとの関りにも触れている第2・4・5部は、一まとめにして年代順に配列した方が、判りやすかったかもしれません。少なくとも、第5部の末尾(すなわち全体の末尾)に置かれた「前衛芸術の諸問題」(「みづゑ」、1938年4月。図6)は、第4部に収録した方がよかったように思われます。というのもこの論考は、1937年12月から翌年2月にかけての人民戦線事件(注)の直後に発表されており、後で見るとおり、以降の評論(主に第4部に収録)の前提となる、重要な論考だからです。
(注)共産党員以外の労働組合員・農民組合員や大学教授までが治安維持法違反の疑い(ないし拡大解釈)により検挙された事件
図6「みづゑ」
「前衛芸術の諸問題」をはじめ、1930年代末頃の瀧口の言説を、政治的後退と見なす向きもあります。例えば鶴岡善久は「強迫された絶対絶命」のなかで、「前衛芸術の諸問題」の以下の一節を引用したうえで、この内容を瀧口自身は「いささかも信じていなかった」、すなわち官憲に配慮して(あるいは圧力に屈して)本意ではない内容を表明した、と述べています(「本の手帖」瀧口修造特集号、1969年8月。図7。『太平洋戦争下の詩と思想』、昭森社、1971年4月に再録)。
「ヨーロッパの超現実主義の一部で、政治的左翼主義と結びつけられているばあいがあるのは事実である。しかしわたしの理解するかぎりでは、超現実主義的芸術はとうてい政治主義とは相容れないものである」
図7「本の手帖」瀧口修造特集号
この引用を瀧口が信じていなかった根拠として鶴岡は、「官憲による圧力がまだそれほどでもなかった時点」では、瀧口が次のように主張していたとして、「ダダと超現実主義」(『世界新興詩派研究』、金星堂、1930年3月。図8。本書第1部冒頭に収録)から、以下の一節を引用します。こちらの方が瀧口の本意だったとするわけです。
「アンドレ・ブルトンが、組織された体系として存在するコミュニズムを社会の因襲的な城壁を打ち破るべき機能として、また『世界を未曾有の一世界に交替するためのもっとも優れた原動力である』ことを認めたように、超現実主義はひとつの未来への問題を暗示しつつある」
図8『世界新興詩派研究』
確かにブルトンたちは1927年にフランス共産党に入党し、この「ダダと超現実主義」が発表された1930年頃には、「シュルレアリスム第二宣言」(図9)を発表しましたが、1932年のアラゴン事件以降は政治からの芸術の独立ないし芸術の自由を唱え、トロツキーと連携して、スターリンが独裁的に権力を振るっていた国際共産党と鋭く対立するようになっていました。このようにシュルレアリスムの政治的立場自体が変化していた以上、「前衛芸術の諸問題」の引用を瀧口自身が信じていなかった根拠として、以前の「ダダと超現実主義」を持ち出しても、説明にならないのは明らかでしょう。鶴岡の見解は、シュルレアリスムの政治的な立場の変遷という基本的で初歩的な事実についての理解を欠いた、皮相なものと言わざるを得ません。
図9『シュルレアリスム第二宣言』
1930年代後半の瀧口はといえば、ブルトンの「文化擁護作家大会に於ける講演」(《ÉCHANGE SURRÉALISTE》[超現実主義の交流]、ボン書店、1936年10月。図10)を訳出するなど、ブルトンの立場を実直に追い、同調していました。上の「前衛芸術の諸問題」の引用部分で瀧口が意図していたのは、当時のシュルレアリスムの立場、すなわち芸術を政治の手段にしないという(非共産主義の)立場を強調して、官憲からの弾圧を牽制するとともに、(共産主義だけでなく)戦争遂行に対しても非協力の姿勢を貫こうとすることにあったと思われます。その一方で芸術家に向けては、芸術を安易に政治活動の手段とすることに自制を促していたのではないでしょうか。つまり引用部分の内容は当時のシュルレアリスムの立場に沿ったもので、本心そのものと理解されるべきでしょう。
図10《ÉCHANGE SURRÉALISTE》
(つちぶち のぶひこ)
■土渕信彦 Nobuhiko TSUCHIBUCHI
1954年生まれ。高校時代に瀧口修造を知り、著作を読み始める。サラリーマン生活の傍ら、初出文献やデカルコマニーなどを収集。その後、早期退職し慶應義塾大学大学院文学研究科修士課程修了(美学・美術史学)。瀧口修造研究会会報「橄欖」共同編集人。ときの忘れものの「瀧口修造展Ⅰ~Ⅳ」を監修。また自らのコレクションにより「瀧口修造の光跡」展を5回開催中。富山県立近代美術館、渋谷区立松濤美術館、世田谷美術館、市立小樽文学館・美術館などの瀧口展に協力、図録にも寄稿。主な論考に「彼岸のオブジェ―瀧口修造の絵画思考と対物質の精神の余白に」(「太陽」、1993年4月)、「『瀧口修造の詩的実験』の構造と解釈」(「洪水」、2010年7月~2011年7月)、「瀧口修造―生涯と作品」(フランスのシュルレアリスム研究誌「メリュジーヌ」、2016年)など。
◆土渕信彦のエッセイ「瀧口修造の本」は毎月23日の更新です。
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◎昨日読まれたブログ(archive)/2009年02月14日|佐伯修「雲と残像――現代美術を媒介にして」~coto Vol.17より
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14.『シュルレアリスムのために』~前編
『シュルレアリスムのために』
せりか書房
21.3×14.3㎝(菊判。カバー、凾。初版では角背、凾帯付き。後に丸背、凾帯なしに変更)
目次4頁、本文346頁、覚え書き6頁
外凾表=疑似発狂状態のアンドレ・ブルトン(L.A.ボワファール写)
外凾裏=マルセル・デュシャン〈オブジェ〉[瓶乾燥器]
カバー=マックス・エルンスト/ポール・エリュアール〈A L’INTERIEUR DE LA VUE>より
口絵表=シュルレアリスム本部での会合(1924 マン・レイ写)
口絵裏=筆者とアンドレ・ブルトン(ブルトンの書斎で 1958 ルネ・ロラン写)
図1『シュルレアリスムのために』と凾
図2 カバー奥付の記載事項
シュルレアリスムのために
定価/一五〇〇円
発行/一九六八年四月三〇日
著者/瀧口修造
装幀/下川敦子
発行者/菅原 敏
発行所/せりか書房
東京都千代田区麹町四ノ五 第八麹町ビル
TEL=二六五・一四〇五 振替東京一四三六〇一
本文印刷/厚徳社
装本印刷/松本印刷
製本/神田橋本製本
1968©
解題
『シュルレアリスムのために』は、1930年から1940年にかけて発表された、瀧口修造のシュルレアリスムに関する評論や解説などを再録した評論集です。この連載で見てきたように、戦後の美術評論は何冊かの単行本にまとめられていましたが、シュルレアリスムの普及・啓蒙に奮闘していたこの時期の論考は、『近代藝術』(図3)以外には単行本化されておらず、本書ならびに4か月前に刊行されていた『瀧口修造の詩的実験1927~1937』(図4)によって、初めて当時の言説や活動に触れることができるようになったわけです。刊行された1968年は日本でも学生運動や反戦運動が高揚していた時期でもあり、治安維持法によって官憲に弾圧された伝説的な詩人・美術評論家の著作として、好評を博したものと思われます。筆者(土渕)も学生時代に1974年11月15日刊の第4版を入手し、専攻していた経済学の専門書を後回しにして、読み込みました。
図3『近代芸術』初版
図4『瀧口修造の詩的実験1927~1937』全体は5部構成で、各部の内容について、本書の「覚え書き」に次のように記されています。「第1部は主として詩または文学上の面から、第2、第3部は造形芸術の面から、第4部は日本の現実にふれて、第5部はシュルレアリスムと外部の諸問題といったように配列されている」
こうしたテーマ別の構成によって、本書が親しみやすくなっているのは確かでしょう。例えば西洋画家論が集められた第3部は、再録に当たって新たに付された下記のようなタイトルが魅力的で、誰しも読みたくなるでしょう。第1部も、文学におけるシュルレアリスムや瀧口の詩について関心を持つ読者には重宝なものです(図5)。
思春期の自由…フランシス・ピカビア
調革の論理…マルセル・デュシャン
絵画の彼岸…マックス・エルンスト
内部の額縁…ルネ・マグリット
超物質的形態学…サルバドール・ダリ
謎の創造者…サルバドール・ダリ
苦行と童心…ホアン・ミロ
夢の博物館…パウル・クレー
(本書掲載順。ダリのみ2篇収録)
図5 本書目次その一方、日本の画壇や内外の政治情勢などとの関りにも触れている第2・4・5部は、一まとめにして年代順に配列した方が、判りやすかったかもしれません。少なくとも、第5部の末尾(すなわち全体の末尾)に置かれた「前衛芸術の諸問題」(「みづゑ」、1938年4月。図6)は、第4部に収録した方がよかったように思われます。というのもこの論考は、1937年12月から翌年2月にかけての人民戦線事件(注)の直後に発表されており、後で見るとおり、以降の評論(主に第4部に収録)の前提となる、重要な論考だからです。
(注)共産党員以外の労働組合員・農民組合員や大学教授までが治安維持法違反の疑い(ないし拡大解釈)により検挙された事件
図6「みづゑ」「前衛芸術の諸問題」をはじめ、1930年代末頃の瀧口の言説を、政治的後退と見なす向きもあります。例えば鶴岡善久は「強迫された絶対絶命」のなかで、「前衛芸術の諸問題」の以下の一節を引用したうえで、この内容を瀧口自身は「いささかも信じていなかった」、すなわち官憲に配慮して(あるいは圧力に屈して)本意ではない内容を表明した、と述べています(「本の手帖」瀧口修造特集号、1969年8月。図7。『太平洋戦争下の詩と思想』、昭森社、1971年4月に再録)。
「ヨーロッパの超現実主義の一部で、政治的左翼主義と結びつけられているばあいがあるのは事実である。しかしわたしの理解するかぎりでは、超現実主義的芸術はとうてい政治主義とは相容れないものである」
図7「本の手帖」瀧口修造特集号この引用を瀧口が信じていなかった根拠として鶴岡は、「官憲による圧力がまだそれほどでもなかった時点」では、瀧口が次のように主張していたとして、「ダダと超現実主義」(『世界新興詩派研究』、金星堂、1930年3月。図8。本書第1部冒頭に収録)から、以下の一節を引用します。こちらの方が瀧口の本意だったとするわけです。
「アンドレ・ブルトンが、組織された体系として存在するコミュニズムを社会の因襲的な城壁を打ち破るべき機能として、また『世界を未曾有の一世界に交替するためのもっとも優れた原動力である』ことを認めたように、超現実主義はひとつの未来への問題を暗示しつつある」
図8『世界新興詩派研究』確かにブルトンたちは1927年にフランス共産党に入党し、この「ダダと超現実主義」が発表された1930年頃には、「シュルレアリスム第二宣言」(図9)を発表しましたが、1932年のアラゴン事件以降は政治からの芸術の独立ないし芸術の自由を唱え、トロツキーと連携して、スターリンが独裁的に権力を振るっていた国際共産党と鋭く対立するようになっていました。このようにシュルレアリスムの政治的立場自体が変化していた以上、「前衛芸術の諸問題」の引用を瀧口自身が信じていなかった根拠として、以前の「ダダと超現実主義」を持ち出しても、説明にならないのは明らかでしょう。鶴岡の見解は、シュルレアリスムの政治的な立場の変遷という基本的で初歩的な事実についての理解を欠いた、皮相なものと言わざるを得ません。
図9『シュルレアリスム第二宣言』1930年代後半の瀧口はといえば、ブルトンの「文化擁護作家大会に於ける講演」(《ÉCHANGE SURRÉALISTE》[超現実主義の交流]、ボン書店、1936年10月。図10)を訳出するなど、ブルトンの立場を実直に追い、同調していました。上の「前衛芸術の諸問題」の引用部分で瀧口が意図していたのは、当時のシュルレアリスムの立場、すなわち芸術を政治の手段にしないという(非共産主義の)立場を強調して、官憲からの弾圧を牽制するとともに、(共産主義だけでなく)戦争遂行に対しても非協力の姿勢を貫こうとすることにあったと思われます。その一方で芸術家に向けては、芸術を安易に政治活動の手段とすることに自制を促していたのではないでしょうか。つまり引用部分の内容は当時のシュルレアリスムの立場に沿ったもので、本心そのものと理解されるべきでしょう。
図10《ÉCHANGE SURRÉALISTE》(つちぶち のぶひこ)
■土渕信彦 Nobuhiko TSUCHIBUCHI
1954年生まれ。高校時代に瀧口修造を知り、著作を読み始める。サラリーマン生活の傍ら、初出文献やデカルコマニーなどを収集。その後、早期退職し慶應義塾大学大学院文学研究科修士課程修了(美学・美術史学)。瀧口修造研究会会報「橄欖」共同編集人。ときの忘れものの「瀧口修造展Ⅰ~Ⅳ」を監修。また自らのコレクションにより「瀧口修造の光跡」展を5回開催中。富山県立近代美術館、渋谷区立松濤美術館、世田谷美術館、市立小樽文学館・美術館などの瀧口展に協力、図録にも寄稿。主な論考に「彼岸のオブジェ―瀧口修造の絵画思考と対物質の精神の余白に」(「太陽」、1993年4月)、「『瀧口修造の詩的実験』の構造と解釈」(「洪水」、2010年7月~2011年7月)、「瀧口修造―生涯と作品」(フランスのシュルレアリスム研究誌「メリュジーヌ」、2016年)など。
◆土渕信彦のエッセイ「瀧口修造の本」は毎月23日の更新です。
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◎昨日読まれたブログ(archive)/2009年02月14日|佐伯修「雲と残像――現代美術を媒介にして」~coto Vol.17より
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