松本竣介研究ノート 第12回
調査記録~舟越保武先生を訪ねたこと 下
小松﨑拓男
さて、前回の続きである。
舟越先生の上京後(1934年(S9年)以後)
・谷中の初音町の下宿から団子坂を歩いてくると、“リリオム”の前に佐藤俊介小品展と墨書きされた看板が出ていた。リリオムは名曲喫茶で、北川実がカウンターの中にいた。舟越先生は北川氏がマスターであったと思っていた。北川実は二科展に入選している。小才の効く人物。現在は知らないとのこと。
・学内展以来の俊介の絵はがらりと画風が変わっており、ルオー風のものになっていた。
・リリオムには長谷川利行等や太平洋美術学校の連中が来ていた。平凡な写生風の絵が、俊介と同世代の画家達、麻生三郎、寺田政明等によって大きく変わったように思う。
・2度目に東京であったのは、美校の3年になり、練馬に住んでいた時、池袋の裏を一人で歩き回っていた時、偶然大きな声で二階屋の窓から俊介に呼び止められた、その時は上がらず別れた。
・その後、よく池袋のセルパンで会うようになる。
・“セルパン”は池袋の名曲喫茶で、絵描きの青柳さんがやっていた。
・“コティ”は池袋の西口にあった。茶色づくめの小さなフランス風の洋菓子店。
近藤一正 (住所略)
二人展の頃のこと
・川徳ギャラリーは川徳デパートの催事場であった。額縁などはあったが、ガラスはなく、デッサンは台紙に貼ったままの形で展示した。
・川村徳助氏の援助がある。
・当時舟越先生は盛岡に住んでいた。
・展覧会の世話役で費用などを負担したのは洋服屋の畑山昇麓氏であった。小パトロン。しかし周りには作品を持って行ってしまうなど悪い印象を与えていた。しかし世話になる。絵は全く売れない時代に洋服代の代わりとして、絵を持って行った。この時の洋服代は絵よりはるかに高かった。
・岐阜の展覧会の折、理由は不明なのだが、作品が行方不明になっている。
先生お持ちの竣介の作品
油彩1点
デッサン2枚 うち一枚は窪島誠一郎氏に譲る。
*この油彩は舟越先生の首像(ピンク色の朝鮮アラレという種類の石)と交換したもの。
竣介のアトリエ
・アトリエ内は非常にきちんと整理整頓されていた。
・買ったままのものはなく、必ず何らかの手を加えて使っていた。
・蛍光灯も竣介のアトリエで初めて見た。この蛍光灯は盛岡時代の友人の立花保夫(’84.5月死去)が当時マツダ電機に勤務しており、そのツテで手に入れたものである。・・・新しもの好き。
・天井に針金が渡してあり、照明の位置を動かすことができるようになっていた。
・舟越先生の目の前で油絵を描いたことはなかった。ただ盛岡で展覧会を開いた時に、お客の来ない暇なおり、二人で互いにデッサンし合ったことがあった。
・絵描きではなかったので割に気楽にアトリエに入れてもらえたのではないか。
絵具
・こぼれたり、変色したりしないように、大理石の板と円筒形の棒で絵具を練り直して使った。
・科学的に詳しく調べていたようだ。そういうことに関心があった。
・藤田嗣治の地塗りは乾きやすく、直ぐに描ける。藤田のモデルをしていた澤田哲郎にスパイをさせた(?)というような話をしていた位、絵具の質に関する研究には詳しかった。
・日本の油絵具の扱いは無責任であると言っていた。
・墨なども使い、道具も工夫。万年筆のペン先に針金を潰したものをつけ、インク溜まりを作ったペンでデッサンをしていた。
絵について
・フランス留学が果たされなかった故か、画面に憧れ、あるいはフランス幻想というようなものが現れているのでは・・・。
・画風の変化は、外からの刺激によって他動的に変わっていたものではなく、これらを厳しく追い詰めた結果、突き抜けて変化していくものである。自己に厳しい画家であった。
・飽きない絵。
以上が聞き書きのメモの全文である。
少し解説を加えたほうがいいように思うので、さらに次回、少し別の資料などにも目を通しつつ、舟越先生の話の内容を吟味してみたいと思う。
ところで、この頃の舟越先生は既に東京藝術大学は退官されていた。まだご病気で倒れられる前で、玄関から少し奥にあった天井の高いアトリエに通され、話を伺った記憶がある。また、玄関の脇にはご子息の舟越直木氏のアトリエがあり、作品が置かれていたのが、通りすがりに目に入ったような気がする。記憶が定かではないので何とも言えないが。
ただこれだけは確かで覚えているのは、そのアトリエに松本竣介の油彩が掛っていたことと、先生自らが湯を沸かして、淹れたてのコーヒーを出してくださったことだ。アトリエにコーヒーの香りが立ち上り、まだ大学院の学生であった自分が著名な大家からコーヒーを振舞われているという、少し気恥ずかしくもあり、何やら夢見心地の、そしてそれはあの時以外には決して得ることのできなかった貴重な時間であったように思う。
「生誕100年 松本竣介展」図録より引用

舟越(左)と竣介(右)、1941年ころ
(こまつざき たくお)
●小松﨑拓男のエッセイ「松本竣介研究ノート」は毎月3日の更新です。
■小松﨑拓男 Takuo KOMATSUZAKI
千葉県生まれ。横浜そごう美術館、郡山市美術館準備室、平塚市美術館の主任学芸員を経て、NTTインターコミュニケーション・センター[ICC]学芸課長、広島市現代美術館学芸課長、副館長を歴任後、金沢美術工芸大学教授を2019年まで務める。現在、美術評論家連盟会員、文教大学情報学部非常勤講師として「美術」「サブカルチャー論」担当。
キュレーター時代には絵画をはじめとしてメディア・アートなど先端領域を含めた幅広い分野で近現代美術の展覧会を企画。村上隆、奈良美智、会田誠などを公立美術館で初めて本格的に紹介した。
主な展覧会に「TOKYO POP」(平塚市美術館)「New Media New Face / New York」(NTTインターコミュニケーション・センター[ICC])「絵画新世紀」「サイバー・アジア」(広島市現代美術館)「エコメトロ」(光州ビエンナーレ)などがある。
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◎昨日読まれたブログ(archive)/1979年08月01日|磯崎新「内部風景シリーズについて」
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◆ときの忘れものは版画・写真のエディション作品などをアマゾンに出品しています。
●ときの忘れものは2017年6月に青山から〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS に移転しました。
阿部勤設計の新しい空間はWEBマガジン<コラージ2017年12月号18~24頁>に特集されています。JR及び南北線の駒込駅南口から約8分です。
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調査記録~舟越保武先生を訪ねたこと 下
小松﨑拓男
さて、前回の続きである。
舟越先生の上京後(1934年(S9年)以後)
・谷中の初音町の下宿から団子坂を歩いてくると、“リリオム”の前に佐藤俊介小品展と墨書きされた看板が出ていた。リリオムは名曲喫茶で、北川実がカウンターの中にいた。舟越先生は北川氏がマスターであったと思っていた。北川実は二科展に入選している。小才の効く人物。現在は知らないとのこと。
・学内展以来の俊介の絵はがらりと画風が変わっており、ルオー風のものになっていた。
・リリオムには長谷川利行等や太平洋美術学校の連中が来ていた。平凡な写生風の絵が、俊介と同世代の画家達、麻生三郎、寺田政明等によって大きく変わったように思う。
・2度目に東京であったのは、美校の3年になり、練馬に住んでいた時、池袋の裏を一人で歩き回っていた時、偶然大きな声で二階屋の窓から俊介に呼び止められた、その時は上がらず別れた。
・その後、よく池袋のセルパンで会うようになる。
・“セルパン”は池袋の名曲喫茶で、絵描きの青柳さんがやっていた。
・“コティ”は池袋の西口にあった。茶色づくめの小さなフランス風の洋菓子店。
近藤一正 (住所略)
二人展の頃のこと
・川徳ギャラリーは川徳デパートの催事場であった。額縁などはあったが、ガラスはなく、デッサンは台紙に貼ったままの形で展示した。
・川村徳助氏の援助がある。
・当時舟越先生は盛岡に住んでいた。
・展覧会の世話役で費用などを負担したのは洋服屋の畑山昇麓氏であった。小パトロン。しかし周りには作品を持って行ってしまうなど悪い印象を与えていた。しかし世話になる。絵は全く売れない時代に洋服代の代わりとして、絵を持って行った。この時の洋服代は絵よりはるかに高かった。
・岐阜の展覧会の折、理由は不明なのだが、作品が行方不明になっている。
先生お持ちの竣介の作品
油彩1点
デッサン2枚 うち一枚は窪島誠一郎氏に譲る。
*この油彩は舟越先生の首像(ピンク色の朝鮮アラレという種類の石)と交換したもの。
竣介のアトリエ
・アトリエ内は非常にきちんと整理整頓されていた。
・買ったままのものはなく、必ず何らかの手を加えて使っていた。
・蛍光灯も竣介のアトリエで初めて見た。この蛍光灯は盛岡時代の友人の立花保夫(’84.5月死去)が当時マツダ電機に勤務しており、そのツテで手に入れたものである。・・・新しもの好き。
・天井に針金が渡してあり、照明の位置を動かすことができるようになっていた。
・舟越先生の目の前で油絵を描いたことはなかった。ただ盛岡で展覧会を開いた時に、お客の来ない暇なおり、二人で互いにデッサンし合ったことがあった。
・絵描きではなかったので割に気楽にアトリエに入れてもらえたのではないか。
絵具
・こぼれたり、変色したりしないように、大理石の板と円筒形の棒で絵具を練り直して使った。
・科学的に詳しく調べていたようだ。そういうことに関心があった。
・藤田嗣治の地塗りは乾きやすく、直ぐに描ける。藤田のモデルをしていた澤田哲郎にスパイをさせた(?)というような話をしていた位、絵具の質に関する研究には詳しかった。
・日本の油絵具の扱いは無責任であると言っていた。
・墨なども使い、道具も工夫。万年筆のペン先に針金を潰したものをつけ、インク溜まりを作ったペンでデッサンをしていた。
絵について
・フランス留学が果たされなかった故か、画面に憧れ、あるいはフランス幻想というようなものが現れているのでは・・・。
・画風の変化は、外からの刺激によって他動的に変わっていたものではなく、これらを厳しく追い詰めた結果、突き抜けて変化していくものである。自己に厳しい画家であった。
・飽きない絵。
以上が聞き書きのメモの全文である。
少し解説を加えたほうがいいように思うので、さらに次回、少し別の資料などにも目を通しつつ、舟越先生の話の内容を吟味してみたいと思う。
ところで、この頃の舟越先生は既に東京藝術大学は退官されていた。まだご病気で倒れられる前で、玄関から少し奥にあった天井の高いアトリエに通され、話を伺った記憶がある。また、玄関の脇にはご子息の舟越直木氏のアトリエがあり、作品が置かれていたのが、通りすがりに目に入ったような気がする。記憶が定かではないので何とも言えないが。
ただこれだけは確かで覚えているのは、そのアトリエに松本竣介の油彩が掛っていたことと、先生自らが湯を沸かして、淹れたてのコーヒーを出してくださったことだ。アトリエにコーヒーの香りが立ち上り、まだ大学院の学生であった自分が著名な大家からコーヒーを振舞われているという、少し気恥ずかしくもあり、何やら夢見心地の、そしてそれはあの時以外には決して得ることのできなかった貴重な時間であったように思う。
「生誕100年 松本竣介展」図録より引用
舟越(左)と竣介(右)、1941年ころ(こまつざき たくお)
●小松﨑拓男のエッセイ「松本竣介研究ノート」は毎月3日の更新です。
■小松﨑拓男 Takuo KOMATSUZAKI
千葉県生まれ。横浜そごう美術館、郡山市美術館準備室、平塚市美術館の主任学芸員を経て、NTTインターコミュニケーション・センター[ICC]学芸課長、広島市現代美術館学芸課長、副館長を歴任後、金沢美術工芸大学教授を2019年まで務める。現在、美術評論家連盟会員、文教大学情報学部非常勤講師として「美術」「サブカルチャー論」担当。
キュレーター時代には絵画をはじめとしてメディア・アートなど先端領域を含めた幅広い分野で近現代美術の展覧会を企画。村上隆、奈良美智、会田誠などを公立美術館で初めて本格的に紹介した。
主な展覧会に「TOKYO POP」(平塚市美術館)「New Media New Face / New York」(NTTインターコミュニケーション・センター[ICC])「絵画新世紀」「サイバー・アジア」(広島市現代美術館)「エコメトロ」(光州ビエンナーレ)などがある。
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