◆生誕100年 駒井哲郎展 Part1 若き日の作家とパトロン(Web展)
会期:2020年6月16日[火]―7月11日[土]
アポイントメント制: 12:00~18:00 日・月・祝日休廊

銅版画の詩人と謳われた駒井哲郎の生誕100年を記念して、駒井哲郎展Part 1を開催します。
駒井哲郎の若かりし頃のパトロンのひとりであるM氏旧蔵のコレクションの中から、パリのサロン・ド・メイや、オーストラリア・ニュージーランド巡回展など海外展に出品した作品、また、現代日本美術展、春陽会展、鎌倉近代美術館の企画展などに出品した作品など、1936年頃(16歳)から1960年(40歳)までの貴重な作品15点を展示します。
感染症対策のためWeb展とし、駒井哲郎の油彩1点、木版1点、カラー銅版3点、モノクロ銅版10点の展示の様子をYouTubeにてご覧いただきます。
アポイントメント制としますので、メールでご来廊の予約を承る予定ですが、変更がある場合がございますのでHPでご確認ください。
今回、M氏と駒井哲郎について、名古屋大学大学院人文学研究科教授・栗田秀法先生に論文をご執筆いただきました。
「若き日の作家とパトロン」展に寄せて(前編)
栗田秀法
芸術家にとって大切なのは、なんらかの新しい、独自の思想だと思っているけれど、詩人が言葉で思索するように、画家は描くことつまり素材の自由な駆使によって、思索の動機をとらえ、同時に創作の世界に入っていくのが本当だと思う。
それによって、油絵なら油絵、銅版画なら銅版画でなければできない独自の世界が開けていく可能性があるのだ。
はじめに
駒井哲郎は、1920年6月14日に東京日本橋で生を受けた。今年は生誕100年の記念すべき年にあたるのだが、東京芸大教授在職中に病に倒れ、亡くなられて半世紀近くが経過しようとしている。版画界の現況はその眼にどう映っているのであろうか。
戦後の版画界の境遇は、1956年にヴェネツィア・ビエンナーレの版画大賞を獲得した棟方志功の受賞の言葉に端的に表れている。「板画は、どちらかと言えば、日本では不遇な立場に置かれてありました。恩地孝四郎氏が、あれ程、身を尽くして、板画に体を割いたにもかかわらず、政府は何の沙汰も無かった程薄情でした。」しかしながら、翌年に国立近代美術館に東京国際版画ビエンナーレが開設されるなど改善の兆しが芽生え、1978年にビエンナーレが閉幕を迎えるまでの20年ほどは、「現代版画の黄金時代」と評されるほど実験的、論争的な作品に恵まれた時期でもあった。版画の世界が現代美術のなかで一定の地位を占めるようになったことは疑いない。
けれども、令和に入った現在から見ると、日本の戦後美術における版画界の位置づけが急速に見えにくくなりつつあるのも事実である。実際、新しい世代の執筆陣によるユニークな切り口の日本美術史の教科書のひとつ、山下・高岸編『日本美術史(美術出版ライブラリー 歴史編)』(美術出版社、2014年)では、戦後・現代のパートにおける版画関連の記述は高松次郎を除き皆無なのである。その前の世代の『カラー版 日本美術史』(美術出版社、1991年)では、戦後の版画家たちの海外展での活躍についての言及がなされていたのであったが。
現代版画が活況を呈していた時代が色褪せつつある中、また若き日の駒井哲郎を知る人も急速に少なくなりつつある現在、何より頼りになるのは芸術家が遺した作品自体である。駒井哲郎との親密な交流の中で形成された今回のM氏コレクションの展観が駒井哲郎の芸術に対する若い世代の関心を新たに掻き立てるきっかけのひとつになることを心から願っている。
駒井哲郎没後の評価の礎は、版画家を取り巻く文学者たちの支援が大きな役割を果たしたカタログ・レゾネというべき『駒井哲郎版画作品集』(美術出版社、1979年)の出版、400点余の作品で構成された『駒井哲郎銅版画展』(東京都美術館、1980年)によって固められた。その後、駒井に焦点を当てた展覧会がいくつも行われているが、1994年に埼玉と練馬で行われた展覧会は、それぞれ約100点の駒井作品を展示する大規模なもので、前者は寄贈された武田光司コレクションを核とするものであった。その間の1991年には、『版画作品集』の詳細な年譜作成に力を尽くした詩人の中村稔氏による『束の間の幻影 銅版画家駒井哲郎の生涯』が刊行され(翌年読売文学賞受賞)、駒井の芸術と人間についての掘り下げがなされた。
駒井哲郎の芸術を次世代に伝えるのに現在もっとも大きな役割を果たしているのが、その芸術に心酔した福原義春氏が長い年月をかけて形成したモノタイプを含む500点ものコレクションではなかろうか。世田谷美術館に寄託されていた作品群の約半数が2010年に資生堂ギャラリーと資生堂アートハウスで公開された際に刊行された展覧会図録には、福原コレクション作品目録が収録されており、その全貌をつかむことができる。その後世田谷美術館に寄贈されることとなったこの福原コレクションを広く紹介すべく2011年から翌年にかけて全国巡回した(町田、萩、伊丹、郡山、新潟、世田谷)「駒井哲郎 1920-1976」展は、駒井芸術の成立と展開の様相を具に検証できる格好の機会となった。2018年には、福原コレクションを核に駒井が影響を受けた芸術家との関係、文学者との交流等に焦点を当てた「駒井哲郎 煌めく紙上の宇宙」展が横浜美術館で開催されている。
1 M氏コレクションの駒井作品の特徴
今回展示のM氏コレクションに由来する駒井作品は、セカンダリー・マーケットからコツコツと築き上げられた福原コレクションとは異なり、作者自筆の作品シールや展覧会シールが貼られているなど、作者から直接手に入れた状態のままのものが何点か含まれている点で貴重なものである。M氏(1917-1987)のコレクションについてはときの忘れものにおいて既に2016年に「山口長男とM氏コレクション展」が開かれており、作家たちとの交友については、三上豊氏によって図録に詳しく紹介されている。 M氏と駒井との関わりについては、妻・美子氏の回想に次のようなくだりがある。
その頃[1960年]、慶応の普通部の先輩で王様のクレヨンの社長の宮本さんは、絵が好きで旧府立高校駅の傍らでエッチング講習会を開いておられた。が、事情があってそこを閉鎖することとなって、幸運にも使われていたプレスを頂くこととなって昭和二十五年から使っていた思い出のプレスはお払い箱となった。もう一つ有り難いことは、宮本さんからこのプレスは大事なものだからと言われて、その時以来大事に持ち続けて下さった方があって、現在は町田国際版画美術館に置かれている。(『沈黙の雄弁』)
M氏の駒井哲郎コレクションは全部で27点ほどあったとされ、すでに《悪童》(1950)と《夜の中の女》(1951)は福原コレクションに入ったという。今回出品の《誕生祝い》(1960)はM氏長男のために制作されたもので、M氏と作家との親密な関係を物語っている。また、クルト・セリグマン作「ロマンチックの産業」の摸刻(1936頃)の原版を用いた1969年の年賀状も珍しいものである。
M氏コレクションには作家から入手した状態のままのものがいくつか残っており、作品情報についての貴重なドキュメントとなっているので、特記される事項について以下にまとめておきたい。
《化石》(1948)には、1952年7月に鎌倉近代美術館(神奈川県立近代美術館)で開催された「現代創作版画六人展」には自筆の出品票が貼り付けられており(写真)、「「化石」/銅版画/1952/鎌倉近代美術館/駒井哲郎作」と読み取れる。この展覧会には、恩地孝四郎、平塚運一、川西英、斎藤清、棟方志功といういずれも一世代前の木版画家が選ばれており、銅版画家として唯一、しかも30過ぎの若手で選ばれたことは、当時の新星・駒井への評価と期待の高さがうかがい知れよう。《小さな魚》(1950)にも、同じ展覧会への自筆の出品票が貼付されている(写真)。美術館名に「出品」の語がある点のみが《化石》とは異なっている。
《墓堀人》《鱶とマルドロオル》(いずれも1951年)は、ロオトレアモン(青柳瑞穂訳)『マルドロオルの歌』(限定350部、1952年)のための挿画である。挿画ではサインなしで本に閉じ込まれたが、展覧会出品等のために署名入りの別刷りが何点か制作されている。両作品には、1952年5月のサロン・ド・メイのための自筆の出品票が貼られている。『駒井哲郎 若き日の手紙』には、「来年の五月にはフランスであるサロン・ド・メイの展覧会に、招待出品を受けました。版画では棟方志功氏と僕だけです。」との一節があり、《時間の迷路》「夢」連作3点、『マルドロオルの歌』挿画5点が出品された。
《墓堀人》の出品票(写真)には次のように記されている
“Les Chants de Maldoror”
-Chant premier 12-
Gravure
1952, paris サロンドメイ出品
「墓堀人」
Tesuro-Komai -Japon
《鱶とマルドオル》の出品票(写真)は次のとおりである
“Les Chants de Maldoror”
-Chant Deuxieme-
gravure
1952, paris サロンドメイ出品
「マルドロオルとふか」
Tetsuro Komai -Japon
この両作品にはe.p.に限定部数が付されており、駒井では珍しい。
《分割された顔》(1953)は、1月に開催された資生堂ギャラリーにおける初個展に出品された色彩銅版画5点の1点である。裏面には自筆の作品票(図)が貼られており、「分割された顔/色彩銅版画/駒井哲郎/1953」と記されている。署名はあるが、エディション番号のない作品である。
《街(雑踏)》(1953)は八咫屋の額に入っており、4月の第30回春陽会展の出品票と自筆の出品票(写真)が貼られている。
街(雑踏)
色彩銅版画
春陽会㐧30回展出品
駒井哲郎作
東京都現代美術館など現存が少ない貴重な作品で、『短歌研究』1954年3月号の表紙を飾ったとされる作品でもある。
《樹木》(1958)には、同年5月の第3回現代日本美術展の出品票(画題は「樹木」)が貼られている。これにより、年譜等では「樹」とだけ記されていた作品がこの作品に相当することが明らかになった。《夜の森》(1958)は《樹木》とともに第3回現代日本美術展に出品されたものだが、本作品には、11月に開催された「オーストラリア・ニュージーランド巡回日本現代美術展」の出品票が貼られている。
ここで自筆の出品票を事細かく紹介したのは、駒井哲郎には限定部数の問題があるからである。
駒井哲郎の著述集『沈黙の雄弁』の編者・河口清巳氏は、そのあとがきで、1966年に起きた画料の取り分をめぐるいざこざの後始末ついて次のように記している。
駒井先生、一、二週間して、とられた分を埋めるように「束の間の幻影」を、おそらく三十枚は刷ってこられた。包装をとり、真白に光るような紙束を、はだかのままギャルソンがトレイをもつように、きれいな五本の指で支えて大事そうにエスパースに渡す。主人、二十万円です、といって払う。画家「迷惑をおかけします」という受けとり、折って内ポケットに入れる。「迷惑じゃないか」と呟く。
1枚当たり1万に満たないわけで、この年の大卒初任給が約25000円だったとはいえ、畢生の代表作の買取り価格としては随分安い印象を与えないでもない。版画界を代表する駒井のような作家さえ大学の専任教員に就く以前は経済的にあまり恵まれなかったことが知られ、数は少なくともM氏のようなパトロン的な存在がいたことはせめてもの幸いであったし、心の支えとなったことであろう。
それはともかく、注目されるのはしばしば作品の原版が廃版されず残され、《束の間の幻影》のように新たに限定部数が設けられ作家自身によって後刷りがなされたりもしたことである(駒井作品の限定部数の問題についてはすでに綿貫不二夫氏によって詳しい調査報告がときの忘れもののブログに掲載されているので参照されたい)。当初売れなかった作品が必要のたびに刷り増したものもある一方で、〈夢遊病者のフーガ〉連作のように発表時に全く売れず、のちに原版の裏が別の作品の版として使われてしまったケースも存する。
2010年の「駒井哲郎展 福原コレクション」図録の作品解説には署名についても言及が所々でなされているが、駒井の署名の筆跡は年代ごとに変遷するだけにM氏コレクションの作品は基準作となる点で貴重である。駒井の署名は大まかに言って次のように変化した。
T.Komai:戦後1948年頃まで。ハイフンがあるものもある。
Tetsuro - Komai:ハイフンがないものもある。
Tetsuro Komaï :帰国後1956年あたりから。iにトレマが付く。
Tetsuro Komaï:60年代半ば過ぎあたりからTがやや装飾的になり、e.p.版のeにアクサンがつく。
2009年のときの忘れもので開催された「S氏コレクション 駒井哲郎PART I展」にも《化石》のエディション番号1/20のものが出品されていたが(no.4)、興味深いことに、そこではT Komaiと署名がなされていることである。今回のエディション番号3/20の《化石》は先述した1952年の展覧会のために刷られたものと予想されるが、ここでは署名がTetsuro Komai となっており、その間に署名の形式が変わったものと推測できる。
また、《墓堀人》では作品の署名にはハイフンがなく、裏のラベルにはハイフンがあるのに対して、《鱶とマルドロオル》では逆に作品にはハイフンがあり、ラベルにはハイフンがないことは注目される。つまり、ハイフンのあるなしだけでは刷りが古いかどうかは判定しがたいということになる。『マルドロオルの歌』の挿絵の別刷りには、帰国後のものだけではなく、晩年のサインのものもあり、原版が残るものについて新たな刷りが行われた様子がわかる。
今回の出品作品にはヤケが強かったり状態があまり良くなかったりするものもあるが、初期の刷りの重要性はインクの拭き取りの加減による表現効果の問題とも関わっているので、今回の展示作品からうかがわれる制作当初に意図された効果の一端を味わっていただきたい。
なお、今回のM氏コレクションの展示には油彩画が1点、木版画が1点含まれている。駒井の油彩画では東京芸大蔵の自画像(1943)がよく知られているが、その他についてはほとんど情報がない。今回の出品作は署名から初期のものと判断され、綿貫氏が推測されたように、数寄屋橋周辺の風景が描かれているとみられる。駒井は1975年の岡田隆彦氏との対談で美校時代を振り返り、「油絵もずいぶん描きましたよ。やはり川岸を描いたり、それからずいぶんやはり裸婦を描きましたね。」と語っている。1941年の文展入選の《河岸》を始め、戦前の駒井の銅版画でも川岸はお気に入りの題材のひとつであった。木版は彫刻刀の彫り跡が荒々しい紅一色の抽象作品である。署名は晩年のものに思われるが、制作はずっと遡る可能性が大きい。制作年の特定は今後の研究を俟ちたい。
(つづく。続きは6月16日のブログに掲載します。)

No.1 駒井哲郎
1969年の賀状 クルト・セリグマン作「ロマンチックの産業」の模刻
都美No.3 美術出版no.4
1936年頃
銅版(エッチング)
イメージサイズ:11.5×9.7cm
紙サイズ:16.5×25.2cm
エンボスあり

No.2 駒井哲郎
木版
イメージサイズ:40.0×30.4cm
紙サイズ:49.5×44.5cm
Signed


No.3 駒井哲郎
化石
都美No.14, 美術出版no.15
※鎌倉近代美術館・現代創作版画6人展のシール付き
1948
銅版(アクアチント、ソフトグランド・エッチング)
イメージサイズ:13.7×5.5cm
紙サイズ:30.2×22.0cm" Ed.20
Signed


No.4 駒井哲郎
小さな魚
都美No.25, 美術出版no.26
※鎌倉近代美術館・現代創作版画6人展のシール付き
1950
銅版(エッチング、メゾチント(雁皮刷))
イメージサイズ:5.0×12.0cm
紙サイズ:16.5×25.5cm
Ed.20
Signed


No.5 駒井哲郎
墓堀人
都美No.48, 美術出版no.50
※1952年、パリ、サロン・ド・メイのシール付き
1951
銅版(アクアチント、ソフトグランド・エッチング)
イメージサイズ:16.2×11.3cm
紙サイズ:28.0×20.0cm
Ed.350
Signed


No.6 駒井哲郎
鱶とマルドロオル
都美No.49, 美術出版no.51
※1952年、パリ、サロン・ド・メイのシール付き
1951
銅版(アクアチント、エッチング)
イメージサイズ:16.2×11.3cm
紙サイズ:38.0×28.5cm
Ed.350 Signed


No.7 駒井哲郎
分割された顔
1953
銅版(カラー)
イメージサイズ:7.5×7.5cm
紙サイズ:18.8×17.1cm
Signed


No.8 駒井哲郎
街(雑踏)
都美No.69, 美術出版no.72
※春陽会第30回展のシール付き
1953
銅版(アクアチント、カラー)
14.0×15.5cm
紙サイズ:28.5×26.5cm
Ed.25
Signed

No.9 駒井哲郎
キャンバス・油彩
32.8×52.8cm(M10号)
Signed

No.10 駒井哲郎
仏国風景
都美No.75 美術出版no.78
1954
銅版(エングレーヴィング)
イメージサイズ:9.5×6.7cm
紙サイズ:32.6×25.0cm
Ed.50
Signed


No.11 駒井哲郎
樹木
都美No.91 美術出版no.91
※1958年現代日本美術展のシール付き
1958
銅版(アクアチント、ドライポイント)
イメージサイズ:26.0×36.5cm
紙サイズ:32.0×45.5cm
Signed


No.12 駒井哲郎
夜の森
都美No.99, 美術出版no.101
※1958年オーストラリア、ニュージーランド巡回日本現代美術展のシール付き
1958
銅版(アクアチント)
イメージサイズ:21.4×19.2cm
紙サイズ:33.0×25.5cm
Ed.25
Signed

No.13 駒井哲郎
南画廊案内状
都美No.124, 125
美術出版no.125. 126
1960
銅版二点同時刷り(エッチング)
シートサイズ:各4.0×15.0cm
紙サイズ:15.0×38.0cm
各Ed.37

No.14 駒井哲郎
青い家
都美No.141 美術出版no.141
1960
銅版(アクアチント、カラー)
イメージサイズ:13.0×18.5cm
紙サイズ:32.5×25.0cm
Ed.12
Signed

No.15 駒井哲郎
誕生祝い
1962
銅版
イメージサイズ:9.5×7.1cm
Ed.30
Signed
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営業時間=火曜~土曜の平日11時~19時。*日・月・祝日は休廊。
会期:2020年6月16日[火]―7月11日[土]
アポイントメント制: 12:00~18:00 日・月・祝日休廊

銅版画の詩人と謳われた駒井哲郎の生誕100年を記念して、駒井哲郎展Part 1を開催します。
駒井哲郎の若かりし頃のパトロンのひとりであるM氏旧蔵のコレクションの中から、パリのサロン・ド・メイや、オーストラリア・ニュージーランド巡回展など海外展に出品した作品、また、現代日本美術展、春陽会展、鎌倉近代美術館の企画展などに出品した作品など、1936年頃(16歳)から1960年(40歳)までの貴重な作品15点を展示します。
感染症対策のためWeb展とし、駒井哲郎の油彩1点、木版1点、カラー銅版3点、モノクロ銅版10点の展示の様子をYouTubeにてご覧いただきます。
アポイントメント制としますので、メールでご来廊の予約を承る予定ですが、変更がある場合がございますのでHPでご確認ください。
今回、M氏と駒井哲郎について、名古屋大学大学院人文学研究科教授・栗田秀法先生に論文をご執筆いただきました。
「若き日の作家とパトロン」展に寄せて(前編)
栗田秀法
芸術家にとって大切なのは、なんらかの新しい、独自の思想だと思っているけれど、詩人が言葉で思索するように、画家は描くことつまり素材の自由な駆使によって、思索の動機をとらえ、同時に創作の世界に入っていくのが本当だと思う。
それによって、油絵なら油絵、銅版画なら銅版画でなければできない独自の世界が開けていく可能性があるのだ。
駒井哲郎「冷静な眼と深い思索」(1957)
はじめに
駒井哲郎は、1920年6月14日に東京日本橋で生を受けた。今年は生誕100年の記念すべき年にあたるのだが、東京芸大教授在職中に病に倒れ、亡くなられて半世紀近くが経過しようとしている。版画界の現況はその眼にどう映っているのであろうか。
戦後の版画界の境遇は、1956年にヴェネツィア・ビエンナーレの版画大賞を獲得した棟方志功の受賞の言葉に端的に表れている。「板画は、どちらかと言えば、日本では不遇な立場に置かれてありました。恩地孝四郎氏が、あれ程、身を尽くして、板画に体を割いたにもかかわらず、政府は何の沙汰も無かった程薄情でした。」しかしながら、翌年に国立近代美術館に東京国際版画ビエンナーレが開設されるなど改善の兆しが芽生え、1978年にビエンナーレが閉幕を迎えるまでの20年ほどは、「現代版画の黄金時代」と評されるほど実験的、論争的な作品に恵まれた時期でもあった。版画の世界が現代美術のなかで一定の地位を占めるようになったことは疑いない。
けれども、令和に入った現在から見ると、日本の戦後美術における版画界の位置づけが急速に見えにくくなりつつあるのも事実である。実際、新しい世代の執筆陣によるユニークな切り口の日本美術史の教科書のひとつ、山下・高岸編『日本美術史(美術出版ライブラリー 歴史編)』(美術出版社、2014年)では、戦後・現代のパートにおける版画関連の記述は高松次郎を除き皆無なのである。その前の世代の『カラー版 日本美術史』(美術出版社、1991年)では、戦後の版画家たちの海外展での活躍についての言及がなされていたのであったが。
現代版画が活況を呈していた時代が色褪せつつある中、また若き日の駒井哲郎を知る人も急速に少なくなりつつある現在、何より頼りになるのは芸術家が遺した作品自体である。駒井哲郎との親密な交流の中で形成された今回のM氏コレクションの展観が駒井哲郎の芸術に対する若い世代の関心を新たに掻き立てるきっかけのひとつになることを心から願っている。
駒井哲郎没後の評価の礎は、版画家を取り巻く文学者たちの支援が大きな役割を果たしたカタログ・レゾネというべき『駒井哲郎版画作品集』(美術出版社、1979年)の出版、400点余の作品で構成された『駒井哲郎銅版画展』(東京都美術館、1980年)によって固められた。その後、駒井に焦点を当てた展覧会がいくつも行われているが、1994年に埼玉と練馬で行われた展覧会は、それぞれ約100点の駒井作品を展示する大規模なもので、前者は寄贈された武田光司コレクションを核とするものであった。その間の1991年には、『版画作品集』の詳細な年譜作成に力を尽くした詩人の中村稔氏による『束の間の幻影 銅版画家駒井哲郎の生涯』が刊行され(翌年読売文学賞受賞)、駒井の芸術と人間についての掘り下げがなされた。
駒井哲郎の芸術を次世代に伝えるのに現在もっとも大きな役割を果たしているのが、その芸術に心酔した福原義春氏が長い年月をかけて形成したモノタイプを含む500点ものコレクションではなかろうか。世田谷美術館に寄託されていた作品群の約半数が2010年に資生堂ギャラリーと資生堂アートハウスで公開された際に刊行された展覧会図録には、福原コレクション作品目録が収録されており、その全貌をつかむことができる。その後世田谷美術館に寄贈されることとなったこの福原コレクションを広く紹介すべく2011年から翌年にかけて全国巡回した(町田、萩、伊丹、郡山、新潟、世田谷)「駒井哲郎 1920-1976」展は、駒井芸術の成立と展開の様相を具に検証できる格好の機会となった。2018年には、福原コレクションを核に駒井が影響を受けた芸術家との関係、文学者との交流等に焦点を当てた「駒井哲郎 煌めく紙上の宇宙」展が横浜美術館で開催されている。
1 M氏コレクションの駒井作品の特徴
今回展示のM氏コレクションに由来する駒井作品は、セカンダリー・マーケットからコツコツと築き上げられた福原コレクションとは異なり、作者自筆の作品シールや展覧会シールが貼られているなど、作者から直接手に入れた状態のままのものが何点か含まれている点で貴重なものである。M氏(1917-1987)のコレクションについてはときの忘れものにおいて既に2016年に「山口長男とM氏コレクション展」が開かれており、作家たちとの交友については、三上豊氏によって図録に詳しく紹介されている。 M氏と駒井との関わりについては、妻・美子氏の回想に次のようなくだりがある。
その頃[1960年]、慶応の普通部の先輩で王様のクレヨンの社長の宮本さんは、絵が好きで旧府立高校駅の傍らでエッチング講習会を開いておられた。が、事情があってそこを閉鎖することとなって、幸運にも使われていたプレスを頂くこととなって昭和二十五年から使っていた思い出のプレスはお払い箱となった。もう一つ有り難いことは、宮本さんからこのプレスは大事なものだからと言われて、その時以来大事に持ち続けて下さった方があって、現在は町田国際版画美術館に置かれている。(『沈黙の雄弁』)
M氏の駒井哲郎コレクションは全部で27点ほどあったとされ、すでに《悪童》(1950)と《夜の中の女》(1951)は福原コレクションに入ったという。今回出品の《誕生祝い》(1960)はM氏長男のために制作されたもので、M氏と作家との親密な関係を物語っている。また、クルト・セリグマン作「ロマンチックの産業」の摸刻(1936頃)の原版を用いた1969年の年賀状も珍しいものである。
M氏コレクションには作家から入手した状態のままのものがいくつか残っており、作品情報についての貴重なドキュメントとなっているので、特記される事項について以下にまとめておきたい。
《化石》(1948)には、1952年7月に鎌倉近代美術館(神奈川県立近代美術館)で開催された「現代創作版画六人展」には自筆の出品票が貼り付けられており(写真)、「「化石」/銅版画/1952/鎌倉近代美術館/駒井哲郎作」と読み取れる。この展覧会には、恩地孝四郎、平塚運一、川西英、斎藤清、棟方志功といういずれも一世代前の木版画家が選ばれており、銅版画家として唯一、しかも30過ぎの若手で選ばれたことは、当時の新星・駒井への評価と期待の高さがうかがい知れよう。《小さな魚》(1950)にも、同じ展覧会への自筆の出品票が貼付されている(写真)。美術館名に「出品」の語がある点のみが《化石》とは異なっている。
《墓堀人》《鱶とマルドロオル》(いずれも1951年)は、ロオトレアモン(青柳瑞穂訳)『マルドロオルの歌』(限定350部、1952年)のための挿画である。挿画ではサインなしで本に閉じ込まれたが、展覧会出品等のために署名入りの別刷りが何点か制作されている。両作品には、1952年5月のサロン・ド・メイのための自筆の出品票が貼られている。『駒井哲郎 若き日の手紙』には、「来年の五月にはフランスであるサロン・ド・メイの展覧会に、招待出品を受けました。版画では棟方志功氏と僕だけです。」との一節があり、《時間の迷路》「夢」連作3点、『マルドロオルの歌』挿画5点が出品された。
《墓堀人》の出品票(写真)には次のように記されている
“Les Chants de Maldoror”
-Chant premier 12-
Gravure
1952, paris サロンドメイ出品
「墓堀人」
Tesuro-Komai -Japon
《鱶とマルドオル》の出品票(写真)は次のとおりである
“Les Chants de Maldoror”
-Chant Deuxieme-
gravure
1952, paris サロンドメイ出品
「マルドロオルとふか」
Tetsuro Komai -Japon
この両作品にはe.p.に限定部数が付されており、駒井では珍しい。
《分割された顔》(1953)は、1月に開催された資生堂ギャラリーにおける初個展に出品された色彩銅版画5点の1点である。裏面には自筆の作品票(図)が貼られており、「分割された顔/色彩銅版画/駒井哲郎/1953」と記されている。署名はあるが、エディション番号のない作品である。
《街(雑踏)》(1953)は八咫屋の額に入っており、4月の第30回春陽会展の出品票と自筆の出品票(写真)が貼られている。
街(雑踏)
色彩銅版画
春陽会㐧30回展出品
駒井哲郎作
東京都現代美術館など現存が少ない貴重な作品で、『短歌研究』1954年3月号の表紙を飾ったとされる作品でもある。
《樹木》(1958)には、同年5月の第3回現代日本美術展の出品票(画題は「樹木」)が貼られている。これにより、年譜等では「樹」とだけ記されていた作品がこの作品に相当することが明らかになった。《夜の森》(1958)は《樹木》とともに第3回現代日本美術展に出品されたものだが、本作品には、11月に開催された「オーストラリア・ニュージーランド巡回日本現代美術展」の出品票が貼られている。
ここで自筆の出品票を事細かく紹介したのは、駒井哲郎には限定部数の問題があるからである。
駒井哲郎の著述集『沈黙の雄弁』の編者・河口清巳氏は、そのあとがきで、1966年に起きた画料の取り分をめぐるいざこざの後始末ついて次のように記している。
駒井先生、一、二週間して、とられた分を埋めるように「束の間の幻影」を、おそらく三十枚は刷ってこられた。包装をとり、真白に光るような紙束を、はだかのままギャルソンがトレイをもつように、きれいな五本の指で支えて大事そうにエスパースに渡す。主人、二十万円です、といって払う。画家「迷惑をおかけします」という受けとり、折って内ポケットに入れる。「迷惑じゃないか」と呟く。
1枚当たり1万に満たないわけで、この年の大卒初任給が約25000円だったとはいえ、畢生の代表作の買取り価格としては随分安い印象を与えないでもない。版画界を代表する駒井のような作家さえ大学の専任教員に就く以前は経済的にあまり恵まれなかったことが知られ、数は少なくともM氏のようなパトロン的な存在がいたことはせめてもの幸いであったし、心の支えとなったことであろう。
それはともかく、注目されるのはしばしば作品の原版が廃版されず残され、《束の間の幻影》のように新たに限定部数が設けられ作家自身によって後刷りがなされたりもしたことである(駒井作品の限定部数の問題についてはすでに綿貫不二夫氏によって詳しい調査報告がときの忘れもののブログに掲載されているので参照されたい)。当初売れなかった作品が必要のたびに刷り増したものもある一方で、〈夢遊病者のフーガ〉連作のように発表時に全く売れず、のちに原版の裏が別の作品の版として使われてしまったケースも存する。
2010年の「駒井哲郎展 福原コレクション」図録の作品解説には署名についても言及が所々でなされているが、駒井の署名の筆跡は年代ごとに変遷するだけにM氏コレクションの作品は基準作となる点で貴重である。駒井の署名は大まかに言って次のように変化した。
T.Komai:戦後1948年頃まで。ハイフンがあるものもある。
Tetsuro - Komai:ハイフンがないものもある。
Tetsuro Komaï :帰国後1956年あたりから。iにトレマが付く。
Tetsuro Komaï:60年代半ば過ぎあたりからTがやや装飾的になり、e.p.版のeにアクサンがつく。
2009年のときの忘れもので開催された「S氏コレクション 駒井哲郎PART I展」にも《化石》のエディション番号1/20のものが出品されていたが(no.4)、興味深いことに、そこではT Komaiと署名がなされていることである。今回のエディション番号3/20の《化石》は先述した1952年の展覧会のために刷られたものと予想されるが、ここでは署名がTetsuro Komai となっており、その間に署名の形式が変わったものと推測できる。
また、《墓堀人》では作品の署名にはハイフンがなく、裏のラベルにはハイフンがあるのに対して、《鱶とマルドロオル》では逆に作品にはハイフンがあり、ラベルにはハイフンがないことは注目される。つまり、ハイフンのあるなしだけでは刷りが古いかどうかは判定しがたいということになる。『マルドロオルの歌』の挿絵の別刷りには、帰国後のものだけではなく、晩年のサインのものもあり、原版が残るものについて新たな刷りが行われた様子がわかる。
今回の出品作品にはヤケが強かったり状態があまり良くなかったりするものもあるが、初期の刷りの重要性はインクの拭き取りの加減による表現効果の問題とも関わっているので、今回の展示作品からうかがわれる制作当初に意図された効果の一端を味わっていただきたい。
なお、今回のM氏コレクションの展示には油彩画が1点、木版画が1点含まれている。駒井の油彩画では東京芸大蔵の自画像(1943)がよく知られているが、その他についてはほとんど情報がない。今回の出品作は署名から初期のものと判断され、綿貫氏が推測されたように、数寄屋橋周辺の風景が描かれているとみられる。駒井は1975年の岡田隆彦氏との対談で美校時代を振り返り、「油絵もずいぶん描きましたよ。やはり川岸を描いたり、それからずいぶんやはり裸婦を描きましたね。」と語っている。1941年の文展入選の《河岸》を始め、戦前の駒井の銅版画でも川岸はお気に入りの題材のひとつであった。木版は彫刻刀の彫り跡が荒々しい紅一色の抽象作品である。署名は晩年のものに思われるが、制作はずっと遡る可能性が大きい。制作年の特定は今後の研究を俟ちたい。
(つづく。続きは6月16日のブログに掲載します。)

No.1 駒井哲郎
1969年の賀状 クルト・セリグマン作「ロマンチックの産業」の模刻
都美No.3 美術出版no.4
1936年頃
銅版(エッチング)
イメージサイズ:11.5×9.7cm
紙サイズ:16.5×25.2cm
エンボスあり

No.2 駒井哲郎
木版
イメージサイズ:40.0×30.4cm
紙サイズ:49.5×44.5cm
Signed


No.3 駒井哲郎
化石
都美No.14, 美術出版no.15
※鎌倉近代美術館・現代創作版画6人展のシール付き
1948
銅版(アクアチント、ソフトグランド・エッチング)
イメージサイズ:13.7×5.5cm
紙サイズ:30.2×22.0cm" Ed.20
Signed


No.4 駒井哲郎
小さな魚
都美No.25, 美術出版no.26
※鎌倉近代美術館・現代創作版画6人展のシール付き
1950
銅版(エッチング、メゾチント(雁皮刷))
イメージサイズ:5.0×12.0cm
紙サイズ:16.5×25.5cm
Ed.20
Signed


No.5 駒井哲郎
墓堀人
都美No.48, 美術出版no.50
※1952年、パリ、サロン・ド・メイのシール付き
1951
銅版(アクアチント、ソフトグランド・エッチング)
イメージサイズ:16.2×11.3cm
紙サイズ:28.0×20.0cm
Ed.350
Signed


No.6 駒井哲郎
鱶とマルドロオル
都美No.49, 美術出版no.51
※1952年、パリ、サロン・ド・メイのシール付き
1951
銅版(アクアチント、エッチング)
イメージサイズ:16.2×11.3cm
紙サイズ:38.0×28.5cm
Ed.350 Signed


No.7 駒井哲郎
分割された顔
1953
銅版(カラー)
イメージサイズ:7.5×7.5cm
紙サイズ:18.8×17.1cm
Signed


No.8 駒井哲郎
街(雑踏)
都美No.69, 美術出版no.72
※春陽会第30回展のシール付き
1953
銅版(アクアチント、カラー)
14.0×15.5cm
紙サイズ:28.5×26.5cm
Ed.25
Signed

No.9 駒井哲郎
キャンバス・油彩
32.8×52.8cm(M10号)
Signed

No.10 駒井哲郎
仏国風景
都美No.75 美術出版no.78
1954
銅版(エングレーヴィング)
イメージサイズ:9.5×6.7cm
紙サイズ:32.6×25.0cm
Ed.50
Signed


No.11 駒井哲郎
樹木
都美No.91 美術出版no.91
※1958年現代日本美術展のシール付き
1958
銅版(アクアチント、ドライポイント)
イメージサイズ:26.0×36.5cm
紙サイズ:32.0×45.5cm
Signed


No.12 駒井哲郎
夜の森
都美No.99, 美術出版no.101
※1958年オーストラリア、ニュージーランド巡回日本現代美術展のシール付き
1958
銅版(アクアチント)
イメージサイズ:21.4×19.2cm
紙サイズ:33.0×25.5cm
Ed.25
Signed

No.13 駒井哲郎
南画廊案内状
都美No.124, 125
美術出版no.125. 126
1960
銅版二点同時刷り(エッチング)
シートサイズ:各4.0×15.0cm
紙サイズ:15.0×38.0cm
各Ed.37

No.14 駒井哲郎
青い家
都美No.141 美術出版no.141
1960
銅版(アクアチント、カラー)
イメージサイズ:13.0×18.5cm
紙サイズ:32.5×25.0cm
Ed.12
Signed

No.15 駒井哲郎
誕生祝い
1962
銅版
イメージサイズ:9.5×7.1cm
Ed.30
Signed
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