松本竣介研究ノート 第16回
画家が影響を受けるということ 下
小松﨑拓男
藤田嗣治からの影響を松本竣介が受けていたという指摘は、朝日晃がすでにその著書『松本竣介』の中で「技法に注目し続けた日本の作家には藤田嗣治がいた」(注1)と書いており、もっぱら藤田のあの「乳白色のマティエールと、抑揚のある東洋的な黒線への魅力であり、藤田の滞欧作が見られる機会は逃さず展覧会に出掛けている」(注2)と、それが技術的な関心であったとしている。またこのブログの第12回と第13回の文章の中で紹介した舟越保武氏への聞き取り調査のメモ書きにもあったように、澤田哲郎を介した藤田へのアプローチの逸話もそのことを裏付けている。さらに佐々木一成氏が明らかにしたように、藤田作品の手などの模写の存在も明白である。
藤田嗣治がフランスでエコール・ド・パリの一人として、東洋的な墨線の表現によって画壇の寵児の一人となっていった理由には、この東洋人にしか描けない技術があったことに間違いはないだろう。またこの技術を熱心に探求していた藤田の姿は、幼少期に油絵の道具を買い与えられた松本竣介が、すぐには描き始めずに混色実験や、描いた皿を写真に撮りそれらを比較する実験を繰り返していたといった逸話に通じる。二人には絵画における技術的な問題、特にマチエールや線に対する関心といったことが共通していると言えるだろう。その意味ではこの二人は大いに似ているのだ。
そしてこの松本竣介の技法への関心は、単なる絵画技術の問題ではないということである。実は、科学的興味に通じる考え方、さまざまな技術を実験するという松本竣介の精神の在り方、思惟の在り方こそが、彼の作品の「近代性」を如実に示しているからである。
ルネサンスから近代に至る多くの人間解放の変革は、科学的かつ実証的な精神によって進展する。ガリレオ、コペルニクス、あるいはライプニッツ、スピノザなどの科学の系譜が、神の支配する世界から人間を解き放ち、天空が動く世界から、地上が宇宙の秩序に従い巡る世界へと転換していったときに、またデカルトが「明晰判明」といったように、それらを疑いなく証明していったのは、彼らの「実験」という方法論であったことは忘れてはならない。
すなわち「実験」はモダニティに結びつき、それはやがてヒューマニズムへと導く回路を示しているのだ。松本竣介におけるヒューマ二ティというのは単に個人の性格や資質ということではなく、精神の在り方の必然的な結果であって、感覚的であるより、原理的で、かつ論理的な帰結なのだ。
一方、技術に関する精神のあり方は藤田においては全くの別のベクトルである。近代人としてのあり方ではない。女たちと共に海岸を訪れ、ことさら巨大な鉛筆でドローイングをして見せ、記者にゴシップのような記事を書かせる。それと同様にヨーロッパ人の東洋趣味に合わせた墨と細い線の絵画技法は、売れるための方便である。私はこれを悪いことだとは思わない。日本人がヨーロッパで生き残るために必死で取り組んだ美術界でのサバイバル術の一つだったのだから。現に藤田は大成功したではないか。
図1
松本竣介
『街角(横浜)』
1941年
似ているが、戦中、戦後のあり方が象徴するように、全くベクトルの違う対極とも思える二人に、もう一つ似ているものがある。それは、松本竣介が戦時中に描いていた建物の小品群(図1)と藤田嗣治が渡仏後に描いていたパリの風景であり、それらはよく似ている。
ある展覧会で藤田の絵を見たときに、松本のそれとよく似ていると思ったのが最初だったが、これを指摘している人はほとんどいないように思う。(注3)
松本竣介が所有していたと思われる1943年発行の藤田嗣治の造形芸術社版の『藤田嗣治画集』の図版にある『ヱルガキネ街』(図2)は大八車、黒いシルエットの人物(ここに描かれているのは子どもで、ハンドル付きのキックボードで遊んでいるようである)のモチーフが松本竣介の風景を思い起こさせる。さらに『モンスリー附近』(図3)の構図は『Y市の橋』に酷似しているように見える。銅版画作品『煙突のある風景』(図4)も『街角(横浜)』(図1)とよく似ていて、松本の作品だと言われても納得してしまいそうである。
図2
藤田嗣治
『ヱルガキネ街』*
1920年
図3
藤田嗣治
『モンスリー附近』*
1918年
図4
藤田嗣治
『煙突のある風景』*
1920年 銅版画
この2~3点の作品を見てもその「類似」は明らかではないだろうか。いつ頃から、何をきっかけにしてなどともう少し詳しい解析は必要だとしても、藤田のこれらの風景画に大きく影響を受けたのは間違いない。松本竣介自身の文章などは残ってはいないのだろうか。
ということで、この「類似性」については修士論文を書いた頃から気になっていたことだったので、これもこれからの研究の課題の一つではあるだろうか。
注1 朝日晃『松本竣介』日動出版 1972年 p178
注2 同上 p179
注3 佐々木一成氏の指摘がほとんど唯一のように思う。なお論文中、佐々木氏が示した図版は、1929年に刊行された東京朝日新聞社版の『藤田嗣治画集』からのものであり、同一作品でありながら造形芸術社版の『ヱルガキネ街』(本来はエドガーキネと思われる)はタイトルが『メイヌ町』と記載されている。のちに改題されたか、画集の誤記だったのであろう。「『人物を主とせる構想画』の成立―松本竣介とゲオルグ・グロッス」『岩手県立博物館研究報告』第1号1983年3月 p108,p113
*図2~4については画集をコピー機によって複写した画像のため画質不良
(こまつざき たくお)
●小松﨑拓男のエッセイ「松本竣介研究ノート」は毎月3日の更新です。
■小松﨑拓男 Takuo KOMATSUZAKI
千葉県生まれ。横浜そごう美術館、郡山市美術館準備室、平塚市美術館の主任学芸員を経て、NTTインターコミュニケーション・センター[ICC]学芸課長、広島市現代美術館学芸課長、副館長を歴任後、金沢美術工芸大学教授を2019年まで務める。現在、美術評論家連盟会員、文教大学情報学部非常勤講師として「美術」「サブカルチャー論」担当。
キュレーター時代には絵画をはじめとしてメディア・アートなど先端領域を含めた幅広い分野で近現代美術の展覧会を企画。村上隆、奈良美智、会田誠などを公立美術館で初めて本格的に紹介した。
主な展覧会に「TOKYO POP」(平塚市美術館)「New Media New Face / New York」(NTTインターコミュニケーション・センター[ICC])「絵画新世紀」「サイバー・アジア」(広島市現代美術館)「エコメトロ」(光州ビエンナーレ)などがある。
●本日のお勧め作品は光嶋裕介です。
光嶋裕介 Yusuke KOSHIMA
"Urban Landscape Fantasia #1" (5)
2013年 カンバスにシルクスクリーン、手彩色
(刷り:石田了一)
90.0×90.0cm Ed.1 サインあり
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※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください。
●ときの忘れものは青山から〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS に移転しました。
阿部勤設計の新しい空間はWEBマガジン<コラージ2017年12月号18~24頁>に特集されています。JR及び南北線の駒込駅南口から約8分です。
TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531
E-mail:info@tokinowasuremono.com
営業時間=火曜~土曜の平日11時~19時。*日・月・祝日は休廊。
画家が影響を受けるということ 下
小松﨑拓男
藤田嗣治からの影響を松本竣介が受けていたという指摘は、朝日晃がすでにその著書『松本竣介』の中で「技法に注目し続けた日本の作家には藤田嗣治がいた」(注1)と書いており、もっぱら藤田のあの「乳白色のマティエールと、抑揚のある東洋的な黒線への魅力であり、藤田の滞欧作が見られる機会は逃さず展覧会に出掛けている」(注2)と、それが技術的な関心であったとしている。またこのブログの第12回と第13回の文章の中で紹介した舟越保武氏への聞き取り調査のメモ書きにもあったように、澤田哲郎を介した藤田へのアプローチの逸話もそのことを裏付けている。さらに佐々木一成氏が明らかにしたように、藤田作品の手などの模写の存在も明白である。
藤田嗣治がフランスでエコール・ド・パリの一人として、東洋的な墨線の表現によって画壇の寵児の一人となっていった理由には、この東洋人にしか描けない技術があったことに間違いはないだろう。またこの技術を熱心に探求していた藤田の姿は、幼少期に油絵の道具を買い与えられた松本竣介が、すぐには描き始めずに混色実験や、描いた皿を写真に撮りそれらを比較する実験を繰り返していたといった逸話に通じる。二人には絵画における技術的な問題、特にマチエールや線に対する関心といったことが共通していると言えるだろう。その意味ではこの二人は大いに似ているのだ。
そしてこの松本竣介の技法への関心は、単なる絵画技術の問題ではないということである。実は、科学的興味に通じる考え方、さまざまな技術を実験するという松本竣介の精神の在り方、思惟の在り方こそが、彼の作品の「近代性」を如実に示しているからである。
ルネサンスから近代に至る多くの人間解放の変革は、科学的かつ実証的な精神によって進展する。ガリレオ、コペルニクス、あるいはライプニッツ、スピノザなどの科学の系譜が、神の支配する世界から人間を解き放ち、天空が動く世界から、地上が宇宙の秩序に従い巡る世界へと転換していったときに、またデカルトが「明晰判明」といったように、それらを疑いなく証明していったのは、彼らの「実験」という方法論であったことは忘れてはならない。
すなわち「実験」はモダニティに結びつき、それはやがてヒューマニズムへと導く回路を示しているのだ。松本竣介におけるヒューマ二ティというのは単に個人の性格や資質ということではなく、精神の在り方の必然的な結果であって、感覚的であるより、原理的で、かつ論理的な帰結なのだ。
一方、技術に関する精神のあり方は藤田においては全くの別のベクトルである。近代人としてのあり方ではない。女たちと共に海岸を訪れ、ことさら巨大な鉛筆でドローイングをして見せ、記者にゴシップのような記事を書かせる。それと同様にヨーロッパ人の東洋趣味に合わせた墨と細い線の絵画技法は、売れるための方便である。私はこれを悪いことだとは思わない。日本人がヨーロッパで生き残るために必死で取り組んだ美術界でのサバイバル術の一つだったのだから。現に藤田は大成功したではないか。
図1松本竣介
『街角(横浜)』
1941年
似ているが、戦中、戦後のあり方が象徴するように、全くベクトルの違う対極とも思える二人に、もう一つ似ているものがある。それは、松本竣介が戦時中に描いていた建物の小品群(図1)と藤田嗣治が渡仏後に描いていたパリの風景であり、それらはよく似ている。
ある展覧会で藤田の絵を見たときに、松本のそれとよく似ていると思ったのが最初だったが、これを指摘している人はほとんどいないように思う。(注3)
松本竣介が所有していたと思われる1943年発行の藤田嗣治の造形芸術社版の『藤田嗣治画集』の図版にある『ヱルガキネ街』(図2)は大八車、黒いシルエットの人物(ここに描かれているのは子どもで、ハンドル付きのキックボードで遊んでいるようである)のモチーフが松本竣介の風景を思い起こさせる。さらに『モンスリー附近』(図3)の構図は『Y市の橋』に酷似しているように見える。銅版画作品『煙突のある風景』(図4)も『街角(横浜)』(図1)とよく似ていて、松本の作品だと言われても納得してしまいそうである。
図2藤田嗣治
『ヱルガキネ街』*
1920年
図3藤田嗣治
『モンスリー附近』*
1918年
図4藤田嗣治
『煙突のある風景』*
1920年 銅版画
この2~3点の作品を見てもその「類似」は明らかではないだろうか。いつ頃から、何をきっかけにしてなどともう少し詳しい解析は必要だとしても、藤田のこれらの風景画に大きく影響を受けたのは間違いない。松本竣介自身の文章などは残ってはいないのだろうか。
ということで、この「類似性」については修士論文を書いた頃から気になっていたことだったので、これもこれからの研究の課題の一つではあるだろうか。
注1 朝日晃『松本竣介』日動出版 1972年 p178
注2 同上 p179
注3 佐々木一成氏の指摘がほとんど唯一のように思う。なお論文中、佐々木氏が示した図版は、1929年に刊行された東京朝日新聞社版の『藤田嗣治画集』からのものであり、同一作品でありながら造形芸術社版の『ヱルガキネ街』(本来はエドガーキネと思われる)はタイトルが『メイヌ町』と記載されている。のちに改題されたか、画集の誤記だったのであろう。「『人物を主とせる構想画』の成立―松本竣介とゲオルグ・グロッス」『岩手県立博物館研究報告』第1号1983年3月 p108,p113
*図2~4については画集をコピー機によって複写した画像のため画質不良
(こまつざき たくお)
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■小松﨑拓男 Takuo KOMATSUZAKI
千葉県生まれ。横浜そごう美術館、郡山市美術館準備室、平塚市美術館の主任学芸員を経て、NTTインターコミュニケーション・センター[ICC]学芸課長、広島市現代美術館学芸課長、副館長を歴任後、金沢美術工芸大学教授を2019年まで務める。現在、美術評論家連盟会員、文教大学情報学部非常勤講師として「美術」「サブカルチャー論」担当。
キュレーター時代には絵画をはじめとしてメディア・アートなど先端領域を含めた幅広い分野で近現代美術の展覧会を企画。村上隆、奈良美智、会田誠などを公立美術館で初めて本格的に紹介した。
主な展覧会に「TOKYO POP」(平塚市美術館)「New Media New Face / New York」(NTTインターコミュニケーション・センター[ICC])「絵画新世紀」「サイバー・アジア」(広島市現代美術館)「エコメトロ」(光州ビエンナーレ)などがある。
●本日のお勧め作品は光嶋裕介です。
光嶋裕介 Yusuke KOSHIMA"Urban Landscape Fantasia #1" (5)
2013年 カンバスにシルクスクリーン、手彩色
(刷り:石田了一)
90.0×90.0cm Ed.1 サインあり
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