本日29日は「植田実のエッセイ」の掲載日ですが、今月は休載です。
先日、縁あって難波田龍起先生の120号という油彩大作を入手することができました。

一見してドリッピング時代の代表作と確信しました。
長年、難波田先生の作品を扱ってきましたが、これほどの大作は初めてです。
私たち画商は未知の作品に出会うと、まず真贋を判定し、作品のデータ(作品名、制作年、技法、出品歴、文献所収の有無)を調べます。
難波田先生はお人柄でしょう、小品から大作までほとんどに作品名、制作年を自筆で書き込まれています。この作品も裏面に几帳面な字で、一番重要な作品名、制作年を記載されており、データ調査は楽勝かと思われました。
難波田龍起
「生命体の集合」
1970年2月
油彩
130×194cm(120号)
画面左下及び裏面にサインあり
1970年2月ということはちょうど50年前、難波田先生のドリッピング時代の絶頂期であり、直ぐに第七画廊または東邦画廊の個展で発表したものではないかと見当をつけました。
ところが、これだけの大作で、しかも代表作と断言してもよい秀作にもかかわらず、我が書棚の一角を占める資料類(画集、カタログ、著作)の隅から隅まで探索しても、見当たらない。
厚さ5cm、重すぎて片手では持ち上がらない講談社の『難波田龍起画集 1927~1983』、用美社の『難波田龍起画集』はもちろん、東京国立近代美術館はじめ全国の美術館や東邦画廊などの図録類のどこにも、影も形も無い!
著名な研究者にも画像をお送りして教えを請うたのですが、どなたもご存じない。
これには参りました。
第七画廊の岡本武次郎さん、岡本謙次郎さん、東邦画廊の中岡吉典さん、皆さん既に亡く、当時を知る人もそうはいません。
難波田先生が遺された日記、スクラップブックなどほとんどの資料は既に母校である早稲田大学會津八一記念博物館はじめ美術館に収蔵されているので、これから閲覧させていただこうと考えています。
しかし何らかの手掛かりをと、ご遺族の難波田武男さんにSOSを出しました。
難波田武男さん(右)が50年ぶりに再会した「生命体の集合」
ありがたいことに武男さんは家に残る写真アルバムを調べてくださり、半世紀も前の第七画廊の個展のオープニングの写真を探し出してくれました。
この第七画廊は新橋二丁目のビルにあった細長い空間でしたが、一階だったため120号の大きさでも搬入できたようです(東邦画廊の狭い階段では大変だったでしょう)。











上に掲載した第七画廊の個展案内状にも「生命体の集合」の文字は見当たりません。
案内状以外には図録は作成されなかったようです(確定ではありません)。
120号の大作「生命体の集合」が間違いなく1970年3月6日~28日の第七画廊の個展に出品展示されたという証拠は、いまのところ上掲の写真のみです。
それから50年間、公開の展覧会に出品された形跡が見当たりません。
いったいそんなことがあるのでしょうか。
この記事をお読みの方で、「生命体の集合」の画像が掲載されている文献、または当時の展評等での記述をご存じの方がいたら、ぜひご教示ください。
1970年の第七画廊の個展当時、難波田家は5人家族でした。
ところがその数年後の1974年に次男・史男さん(32歳)を、翌1975年に長男の紀夫さん(35歳)を相次いで失い、難波田先生は失意のどん底に突き落とされます。
それからは全く絵の描けない時期がありました。
当時20代だった亭主がのこのこと出かけて行き、版画制作を依頼したのですが、今思えばあれほど銅版画に集中してくださったのは、「油彩を描けなくなった」ことの影響だったのかも知れません。
●ときの忘れものは青山から〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS に移転しました。
阿部勤設計の新しい空間はWEBマガジン<コラージ2017年12月号18~24頁>に特集されています。JR及び南北線の駒込駅南口から約8分です。
TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531
E-mail:info@tokinowasuremono.com
営業時間=火曜~土曜の平日11時~19時。*日・月・祝日は休廊。
先日、縁あって難波田龍起先生の120号という油彩大作を入手することができました。

一見してドリッピング時代の代表作と確信しました。
長年、難波田先生の作品を扱ってきましたが、これほどの大作は初めてです。
私たち画商は未知の作品に出会うと、まず真贋を判定し、作品のデータ(作品名、制作年、技法、出品歴、文献所収の有無)を調べます。
難波田先生はお人柄でしょう、小品から大作までほとんどに作品名、制作年を自筆で書き込まれています。この作品も裏面に几帳面な字で、一番重要な作品名、制作年を記載されており、データ調査は楽勝かと思われました。
難波田龍起「生命体の集合」
1970年2月
油彩
130×194cm(120号)
画面左下及び裏面にサインあり
1970年2月ということはちょうど50年前、難波田先生のドリッピング時代の絶頂期であり、直ぐに第七画廊または東邦画廊の個展で発表したものではないかと見当をつけました。
ところが、これだけの大作で、しかも代表作と断言してもよい秀作にもかかわらず、我が書棚の一角を占める資料類(画集、カタログ、著作)の隅から隅まで探索しても、見当たらない。
厚さ5cm、重すぎて片手では持ち上がらない講談社の『難波田龍起画集 1927~1983』、用美社の『難波田龍起画集』はもちろん、東京国立近代美術館はじめ全国の美術館や東邦画廊などの図録類のどこにも、影も形も無い!
著名な研究者にも画像をお送りして教えを請うたのですが、どなたもご存じない。
これには参りました。
第七画廊の岡本武次郎さん、岡本謙次郎さん、東邦画廊の中岡吉典さん、皆さん既に亡く、当時を知る人もそうはいません。
難波田先生が遺された日記、スクラップブックなどほとんどの資料は既に母校である早稲田大学會津八一記念博物館はじめ美術館に収蔵されているので、これから閲覧させていただこうと考えています。
しかし何らかの手掛かりをと、ご遺族の難波田武男さんにSOSを出しました。
難波田武男さん(右)が50年ぶりに再会した「生命体の集合」ありがたいことに武男さんは家に残る写真アルバムを調べてくださり、半世紀も前の第七画廊の個展のオープニングの写真を探し出してくれました。
この第七画廊は新橋二丁目のビルにあった細長い空間でしたが、一階だったため120号の大きさでも搬入できたようです(東邦画廊の狭い階段では大変だったでしょう)。











上に掲載した第七画廊の個展案内状にも「生命体の集合」の文字は見当たりません。
案内状以外には図録は作成されなかったようです(確定ではありません)。
120号の大作「生命体の集合」が間違いなく1970年3月6日~28日の第七画廊の個展に出品展示されたという証拠は、いまのところ上掲の写真のみです。
それから50年間、公開の展覧会に出品された形跡が見当たりません。
いったいそんなことがあるのでしょうか。
この記事をお読みの方で、「生命体の集合」の画像が掲載されている文献、または当時の展評等での記述をご存じの方がいたら、ぜひご教示ください。
1970年の第七画廊の個展当時、難波田家は5人家族でした。
ところがその数年後の1974年に次男・史男さん(32歳)を、翌1975年に長男の紀夫さん(35歳)を相次いで失い、難波田先生は失意のどん底に突き落とされます。
それからは全く絵の描けない時期がありました。
当時20代だった亭主がのこのこと出かけて行き、版画制作を依頼したのですが、今思えばあれほど銅版画に集中してくださったのは、「油彩を描けなくなった」ことの影響だったのかも知れません。
●ときの忘れものは青山から〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS に移転しました。
阿部勤設計の新しい空間はWEBマガジン<コラージ2017年12月号18~24頁>に特集されています。JR及び南北線の駒込駅南口から約8分です。
TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531
E-mail:info@tokinowasuremono.com
営業時間=火曜~土曜の平日11時~19時。*日・月・祝日は休廊。
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